九番隊が発つ朝は、皮肉なくらいに晴れていた。
流魂街の住人が一帯ごと消えた事件。その捜索へ、瀞霊廷の西門の外に隊列が組まれていた。死覇装の波、風をはらむ
六車拳西。
遠かった。僕がいたのは隊列のずっと後方、救護に駆り出された応援の隊士が控える列の隅だ。顔は見えない。短い髪と肩の張った背中だけが、朝の光の中にあった。会ったことのない人。久南さんの愚痴の中にだけいた人。字が汚いと部下を叱って、使い走りに走らせて、それでも慕われている人。その人がいま、隊を率いて発とうとしている。
行かないでください。
喉まで出かかった言葉を呑んだ。言えるはずがないし、言ったところで届かない。あの人は行く。流魂街の奥へ。揺るがない任務の顔で、背筋を伸ばして。
号令がかかった。
隊列が動き出す。土を踏む足音が重なって地を鳴らした。拳西さんの背中が門の外の道へ遠ざかっていく。僕は抱えた薬包の束を胸の前で抱え直した。指に要らない力がこもって、包み紙が小さく鳴った。
『主様』
念話が静かに届いた。
『お気をしっかりと』
『……大丈夫』
唇を動かさずに返した。周りには人がいる。声には出せない。何も知らない回道係の顔で、整然と発つ調査隊を見送る平隊員の顔で、僕はただ列の隅に立っていた。足音が遠ざかりきったあとも、西門の外の道はしばらく土埃で霞んでいた。
僕の持ち場は、前線の詰所だった。
西門から流魂街寄りに少し下った場所に、応援の詰所が設けられている。負傷者が出ればここへ運び込まれ、回道の使える者が手当てをする。割り当ては平子隊長から直々に来た。「遺玉院、お前は詰所や。回道の使えるもんは後ろで構えとけ」。それだけ言って、隊長はもう次の名を呼んでいた。すれ違いざま、軽い声のまま「気ぃつけや」とだけ付け足して。五番隊の平隊員に、九番隊の調査へついていく資格はない。だから待機と、救護の応援。
ちょうどよかった、と思う。前線とは名ばかりの後方だ。戦う場所じゃなく、治す場所。僕の数少ない取り柄のうち、治す手だけで足りる場所だ。
詰所は板間と土間だけの素っ気ない小屋で、薬湯の匂いが早くも染みつき始めていた。板間で支度を整える。包帯。添え木。傷薬。鬼道の利かない時のための古い道具もひと通り。霊圧の枯れた者には、鬼道より布と薬が要る。流魂街の子供を治してきた手だ。骨の継ぎ方も血の止め方も、体が覚えている。
『ずいぶんと手慣れていらっしゃること』
傍らで琥珀姫の念話がした。霊体化した貴婦人は詰所の隅に控えて、誰の目にも映らない。
『うん。治すのは慣れてるから』
『主様の御手は、人を救う手でございます』
『治すだけだよ。救うのとは違う』
『いいえ。同じことでございますわ』
僕は答えずに、添え木の紐を結び直した。同じじゃない。治すのは目の前の傷で、救うのはもっと大きな、手の届かない流れの中にある何かだ。その違いを言葉にする前に、詰所の戸が開いた。
伝令だった。
「九番隊本隊、流魂街三十三地区を越えて奥へ。異常なし。負傷者なし」
詰所の空気がわずかに緩んで、応援の隊士たちが息をついた。
三十三地区。
数えていた包帯の束を、僕は最初から数え直した。今のいままで数えていた数字が、その地名ひとつで消えていた。お澄さんと子供たちの街だ。失踪の噂に怯えていたあの街の道を、いま調査の隊列が抜けて奥へ向かっている。
異常なし。その四文字に、僕は皆より一拍遅れて息をついた。
午後の詰所は静かだった。応援の隊士たちは湯を沸かしては冷まし、非番の賭け碁の話なんかで間を持たせていた。僕はその輪の外で布の耳を揃え続けた。三十三地区の家々の戸口を思い浮かべそうになるたび、手元の数に意識を戻しながら。
昼を過ぎても、負傷者は来なかった。何も起きないのが平穏だ。そう願いながら、僕は道具を確かめては積み直した。積み直す必要なんて、本当はどこにもなかった。
陽が落ちる少し前だった。
足音もなく、詰所の表に気配だけが立った。絞りで研いだ感覚が、戸の外の冷たい注視を拾う。覚えのある気配だった。
戸が静かに開いた。
砕蜂さんだった。
袖のない漆黒の装束。切れ長の目が詰所の中をひと巡りして、僕に据えられた。
「貴様」
低く硬い声だった。
「こんなところで何をしている」
僕は立ち上がって頭を下げた。
「砕蜂さん。お疲れさまです。救護の応援で詰めています」
眉がわずかに寄った。すぐに硬く閉じたけれど、あれは意外という顔だったと思う。隠密機動は伝令も担う。前線と本隊の間を音もなく往復して、報せを繋ぐ。率いているのは夜一さんで、砕蜂さんはその指揮の下で任を負う刃だ。まだ隊長ではない。この詰所に立ち寄ったのも、その往復の途中なんだろう。
「貴様の隊は五番隊だろう。九番隊の応援に人を回せるほど、五番隊が暇だとは聞かんが」
「平隊員なので。回道の手が足りない分の応援です。出すぎたことはしません」
「……いいだろう」
短く言って、詰所の奥に並んだ支度へ目を走らせた。道具の列を端から端まで、検分の速さで。それから卓に、伝令の
「本隊の報せだ。ここにも回しておく」
身を翻しかけた。
「あの。お気をつけて」
口が勝手に動いていた。
(な、何を言ってるんだ、僕は)
「危ないですから。その、失踪が続いていますし。お一人で奥との間を往かれるんですよね。だから——」
言いながら、背中を汗が伝った。相手は隠密機動の俊英だ。僕なんかの心配が要る人じゃない。それでも口は、もう動いてしまっていた。
砕蜂さんの足が止まった。
ゆっくりと振り返る。切れ長の目がこちらに据えられたまま、瞬きをしない。
「……何だと」
声から抑揚が消えていた。
「私が誰だか分かっているのか」
「……隠密機動の、砕蜂さんです」
「監視されている自覚はあるだろうに。その私に。心配だと?」
半歩だけ、砕蜂さんが間合いを詰めた。それだけで詰所の空気が薄くなった。
「貴様は妙な男だ。私は貴様を見張る側だ。歪みを隠した不審者を暴くために追っている。その私に、気をつけろと言うのか。気は確かか」
(た、確かに、どうかしてる。監視されてる相手の心配なんて、正気の
「す、すみません。差し出がましいことを」
僕は深く頭を下げた。頭を上げると、砕蜂さんは妙な顔をしていた。冷たい敵意の奥で、名前のつかない何かが所在をなくしている顔。それを押し込めるように口元が硬くなった。
「貴様の心配など。いらん」
低く吐き捨てた。
「私を案じる暇があるなら自分の身を案じろ。失踪は続いている。貴様のような腑抜けこそ真っ先に消える。……いいか。私の見えるところから勝手に消えるな。——対象が消えては、監視の妨げになる。それだけのことだ」
「……はい。気をつけます」
素直に頷いただけなのに、砕蜂さんはまた眉を寄せた。それから身を翻した。来た時と同じで、足音はない。
戸が閉まる間際、砕蜂さんは振り返らずに低く言った。
「貴様も。気をつけろ」
戸が閉まった。
しばらく、閉じた戸を見ていた。気をつけろ。あの人が僕にそう言った。睨むだけの人が。消すと脅す人が。
厳しいけれど、きっと律儀な人なんだろう。新人が妙なことを言ったから、釘を刺しただけだ。それ以上の意味はない。そういうことにして、僕は道具の前に戻った。戻った手が、数え終えていた包帯の束をまた最初から数え始めていた。三度目でようやく気づいて、数えかけの束を置いた。
『主様』
念話の声が、いつもより低いところから届いた。
『あの御方を。ずいぶんと気にかけておられるのですね』
『失踪が続いてるから。一人で前と後ろを往き来する人は、危ないなと思って』
『さようでございますか』
短い返事だった。
『失踪を案じるお心は、尊いものでございます。けれど、そのお心を皆さまへ等しく向けられるのならともかく——あの蜂のお嬢さんお一人に。わざわざお声をかけてまで』
言葉が、そこで切れた。
顔を上げた。琥珀姫は僕を見ていなかった。閉じた戸を見たまま、微笑んでいた。ベールの奥の目は、戸から動かない。
僕が包帯へ伸ばした指のすぐ横に、いつの間にか白い指が揃えて置かれていた。触れられるはずのない霊体の指が、置き所を測ったみたいに、きちんと。並んだ指は、僕が手を引くまで動かなかった。
首筋がふいに冷えた。夕方の隙間風だろう。
『……いいえ。なんでもございません』
その声だけが、さっきまでよりも温かかった。
琥珀姫はそれきり口を閉ざした。閉じた戸へ向いたまま、長いこと動かなかった。僕は卓の符を開いた。墨の字は短い。本隊、奥へ。異常なし。
今日二度目のその四文字を、僕は指でなぞった。なぞった指が、紙の上でしばらく動かなかった。
私は伝令の道を戻っていた。
前線と本隊を繋ぐ獣道を、音もなく駆ける。隠形。気配は絶ってある。報せを運ぶ。それだけの務めだ。詰所を出た時、首の裏がうすら寒かったのは夜気のせいだ。
報告は一行で済む。対象、前線詰所にて救護応援に従事。異状なし。それで足りる。なのに筆を待たず、要らない仔細ばかりが頭の中に並ぶ。着いた刻限。道具の検めの回数。頭の下げ方の深さ。務めに、そこまでの精度は要らない。そして足りるはずの一行の後ろに、書きようのない行が続こうとしていた。対象は、監視者の身を案じた。——書かない。務めに要らない行だ。墨で塗り潰すように消した。消した端から、耳の奥で声が戻ってくる。
お気をつけて。危ないですから。
ばかな。誰が私を案じる。皆が私を恐れて道を空ける。それでいい。刃は恐れられてこそ刃だ。あれは歪みを隠した不審者の戯言だ。戯言に意味はない。それだけのことだ。それだけの、ことだ。
消えるな、と私は言った。あれは務めの言だ。対象が消えては監視の妨げになる。口にした通りの意味だ。それ以外の続きなど、なかった。なかったと言っている。
足が、止まっていた。
獣道の半ば、誰もいない夕闇の中でだ。振り返ると、木立の切れ目の遠くに詰所の灯がまだ小さく見えた。知らぬ間に拳を固く握っていた。指の節が白くなるほど。
失踪は続いている。死覇装だけを残して人が消える。あの男は弱い。歪みを隠してはいても、中身は弱い。あの細い体で前線の詰所に詰めている。もし失踪の帯があの詰所まで届いたら、あの男も死覇装だけを残して——
そこで断った。
私は再び駆け出した。報せを運ぶ。それが務めだ。戻りの報せも私が運ぶ。明朝の分も、その次も。他の者には任せられない。伝令は精度が命だ。それだけのことだ。
夕闇が深くなる。詰所の灯は、もう振り返らなかった。
報せが詰所に届いたのは夜更けだった。
負傷者は来ないまま一日が暮れて、僕は板間の隅で仮眠を取っていた。真夜中、詰所の戸が荒く開いた。
駆け込んできた伝令は泥に汚れていた。膝から下は厚く泥をかぶって、片方の草鞋が失せている。肩が大きく上下して、握り締めた符が手の中で割れていた。
「先遣隊が——」
息が続かない。応援の隊士たちが跳ね起きた。
「九番隊の先遣隊と連絡が取れない。本隊から放った先行の組だ。流魂街の奥へ入ったきり報せが途絶えた。感知の符にも応えない」
詰所がざわついた。
「消息不明だと」
「奥で何かあったのか」
「本隊はどうしている」
伝令は荒い息のまま続けた。
「本隊は流魂街の縁で態勢を整えている。六車隊長が、先遣隊の救援へ自ら向かわれると」
僕は板間に座ったまま動けなかった。ざわめきが遠くなる。耳に残ったのはその一言だけだった。隊長が、自ら。
知っている。
その光景を僕は知っていた。前世の記憶の奥に。先に入った者が消える。仲間を案じる真っ直ぐな人ほど、誰よりも先に、誰よりも深く踏み込んでいく。そこで待っているのは救援じゃない。罠だ。九番隊の精鋭をまとめて呑み込む、虚化の闇だ。拳西さんは死神のままでは還らない。そしてこの夜の先で、夜一さんが瀞霊廷から消える。夕暮れの詰所で僕に気をつけろと言ったあの人は、崇拝するその背中に置き去りにされる。
止められない。変えてはいけない。全部、筋書きの通りだ。分かっていたはずだった。この夜のために、三年近くも顔を作る稽古をしてきたんだから。それでも膝の上の手だけが、言うことを聞かなかった。
『主様』
念話が静かに届いた。夕方の低さはもう欠片もない。気遣う声だった。
『お心を、平らに』
『……うん』
僕は膝の上で手を握り込んだ。爪が掌に食い込むまで。それから顔を上げて、何も聞かなかった平隊員の顔を作った。上手く作れているか、今夜は自信がなかった。
「負傷者が来るかもしれない」
立ち上がって言った。誰も異を唱えなかった。応援の隊士たちが支度に散り、湯が沸かされ、灯りがひとつ増やされた。救援が動けば、傷ついた者が運ばれてくる。回道の手が要る。それが僕の仕事だ。
僕は道具を引き寄せた。包帯を数える。添え木を数える。傷薬の壺を開けて、閉じる。数はずっと足りている。それでも足りない気がした。これから運ばれてくるものの大きさに。
頭の中の時計は、とうとう事件の時刻を指した。
あの晴れた朝、隊列が発った瞬間から、もう始まっていたんだ。先遣隊が消えた今この時から、誰にも止められない。歴史は流れる。それでも、その川辺で溺れかけた一人を引き上げるくらいは、この手にもできる。手の届く範囲。間に合う場所。それだけは離さないと決めて、僕は布を裂き、薬を量り直した。裂いた布の白が、灯りの下に並んでいく。
詰所の灯りが夜風に揺れた。表の闇はどこまでも深く、流魂街の奥は、もう何も語り返してこなかった。