『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第27話

第二十七話 報せ、()

 

 

夜が更けても詰所の灯りは消せなかった。

 

先遣隊の消息が途絶え、六車隊長が自ら奥へ向かったという報せのあと、続報はない。窓の外は墨を流したような闇で、流魂街の方角には星のひとつも見えない。風が板戸を鳴らすたびに応援の誰かが顔を上げては、また俯いた。皆が同じものを待っていた。来てほしくないもの。来ると分かっているもの。

 

土間の隅では年配の隊士がひとり、湯を沸かしては冷まし、また沸かしていた。負傷者はまだ来ないのに湯気だけが絶えない。手を動かしていないと待てないのだろう。誰も口を利かなかった。

 

僕は板間で道具を並べ直していた。

 

包帯。添え木。傷薬。何度も確かめた手順をまた最初からなぞる。手が覚えている動きだから、その間だけは頭の中の時計から目を逸らせた。針がもう真夜中を越えていることから。これから起こることを僕だけが知っている重さから。膝に並べた晒しが、灯りの下で白く浮いて見えた。

 

詰所の壁際には感知の符が幾枚も貼られていた。九番隊が奥へ放った隊士の霊圧をひとつずつ拾う符で、生きていれば灯り、倒れれば(かげ)る。淡く並んだ灯の数がそのまま、奥でまだ息をしている人の数だった。

 

僕はその列を見ないようにしていた。数えたくなかった。あの灯のひとつひとつが人で、そのいくつが朝まで残らないかも僕には分かっていた。だから目は手元の布に落とした。間に合うかもしれない誰かのための布に。それでも符の灯は、ずっと視界の端で揺れていた。

 

◆ ◆ ◆

 

それは前触れもなく来た。

 

符の一枚が音を立てて砕けた。

 

乾いた音だった。紙が裂けるのではない。中に込められた霊力ごと、何かに握り潰されたような音。僕は顔を上げた。砕けた符の隣が、音もなく翳って落ちた。その隣がまた砕けた。一枚。また一枚。

 

一斉だった。

 

壁際の符が端から端まで、波のように灯を落としていく。砕ける。翳る。砕ける。乾いた音の間に、音もなく落ちる灯が挟まる。それから、途切れた。ひとつ残らず。

 

残ったのは砕け散った数枚の跡と、黒く沈んだ墨の式ばかりだった。九番隊が奥へ放った一個中隊ぶんの灯が、この一拍でまとめて消えた。

 

砕けた符は、灯が翳ったのではない。式ごと潰されていた。霊圧が根こそぎこの世から持ち去られる時、符はああ砕ける——死神が死神でなくなる時の壊れ方だ。見たことはない。見たこともないのに、この場で僕だけがそれを知っていた。

 

「なん——」

 

応援の誰かが声を漏らした。立ち尽くして符の壁を見上げている。

 

「消えた。全部」

 

「中隊が丸ごと」

 

「そんな。一度に。あり得ん」

 

「符を検めろ! 式の焼き損じかもしれん」

 

上座(かみざ)の席官が怒鳴った。応援が二人、弾かれたように壁へ走る。土間の隅で若い隊士が背を折り、戻す音がした。湯を沸かしていた年配の隊士だけが動かない。柄杓を握ったまま、湯気の向こうで真っ黒な壁を見ていた。

 

焼き損じじゃない。これは起こると決まっていたことだ。手の中から、包帯が滑り落ちていた。

 

東仙(とうせん)

 

名前がひとつ、喉の奥でひりついた。仲間を送り出した手と同じ手で、奥の扉を内側から開けた人。それ以上をなぞる前に奥歯が鳴った。歯の根が合っていなかった。

 

拳西さんが堕ちた。

 

中隊が堕ちた。

 

そして。

 

(あ)

 

久南さんが。

 

九番隊だ。久南さんは九番隊の副隊長だ。この捜索にいないはずがない。あの朝の隊列で、僕は緑の髪を探さなかった。探して、見つけてしまうのが怖かった。

 

あの庁舎裏の空き地で、字が汚いと笑っていた人。屋根の上から逆さまにのぞいて、見ーつけたと声をかけてきた人。長いからと僕の名を縮めて、シオちゃんと呼んだ人。みんな適当なのにシオちゃんだけは違うと、嬉しそうに言った人。また来てよね約束ねと、指を立てて笑った人。雨に濡れた僕の頭を勝手に乾かそうとして、やめてくださいと言っても聞かなかった人。失うのが怖いから持たないと決めていたのに、あの空き地でだけは持ってしまった温かさだった。

 

僕は膝をついたまま、絞りの内側で感覚を開いた。

 

決めていたことがある。万象保存は状態を読む力だ。読めれば整えられる。守れる。喰われる前の「久南白」という魂の芯を保存して、守り抜く。歴史の流れは折らない。その奥の、誰にも見えない一点だけを。そう決めてから、僕はこの夜を数えてきた。

 

闇の奥へ感覚を伸ばす。

 

読むためには届かなければならない。霊圧でもいい。気配のひとかけらでもいい。あの人の在りかを示す何かを。詰所の喧噪が遠のいた。夜の底を手探りで掻く。西へ。奥へ。流魂街のどこだ。どこにいる。

 

(届け。届け——)

 

何もなかった。

 

伸ばした感覚の先に、触れるものが何もない。遠い。遠すぎる。感覚は詰所の周りの闇をひと巡りして、そこで千切れた。あの人のかけらにも触れられないまま。詰所の音が戻ってきた。怒号と、湯気の音と、僕の浅い息だけが手元に残った。

 

『主様』

 

琥珀姫の念話が静かに届いた。

 

『ここからでは、届きません』

 

『……琥珀姫。何とか、ならないの』

 

『なりません。今の主様の手は、あの御方まで伸びません。……今は、まだ』

 

僕は膝の上で拳を固めた。計画はあった。力もあった。距離だけが足りなかった。

 

声を上げかけた。

 

違う。事故じゃない。裏切りだ。救援を出してはいけない。喉まで迫り上がったものを、僕は呑み込んだ。

 

言えるはずがない。なぜ知っていると問われる。問うのは応援の誰かじゃない。この事件のすべてを裏で動かしている人だ。回道しか取り柄のない平隊員が裏切りを言い当てれば、あの目が僕に向く。一度向いたら二度と逸れない目が。

 

久南さんを救いたいと叫ぶことと、自分の正体を差し出すことは同じ意味だった。叫べば僕も終わる。終われば、届く時が来ても誰も救えない。

 

だから、呑んだ。

 

言葉を呑み、叫びを呑み、久南さんの名前を呑んだ。砕けた符を見上げる応援たちの輪の中で、何も知らない回道係の顔のまま。

 

僕は予言者じゃない。前世の記憶をなぞっているだけの、無力な観客だ。誰が消えるか知っている。いつ、誰の手で消えるかも知っている。それでも何ひとつ変えられない。知っていることは、ここでは救う力にならなかった。

 

傍らで、琥珀姫が音もなく膝を折った。

 

誰の目にも映らない霊体の貴婦人が、僕の顔を下から覗き込む。その目は瞬きをしなかった。声は、どこまでも柔らかかった。

 

『お辛いですわね』

 

僕は答えられなかった。唇を動かす力も残っていなかった。

 

『どうかお心を平らに。今は、誰にも見られませんように』

 

念話がそっと続いた。

 

『主様の涙は、誰にも見せてはなりません。……わたくしのほかには、誰にも』

 

僕は言われるまま顔を伏せた。膝の包帯を拾うふりをして、床に落ちた水滴を見ないふりをして。皆が符の壁を見上げている隙に、一拍だけ、崩れることを自分に許した。

 

『まだ間に合う命も、ございます』

 

その一言が、冷えた胸に小さな灯を点した。

 

そうだ。中隊は消えた。けれど事件はこれで終わりじゃない。逃げ延びる者がいる。傷を負って運ばれてくる者がいる。手の届く場所に、回道の要る一人が来る。それから——僕の手があの人まで届く時も、来るかもしれない。

 

感覚は閉じないと決めた。届く時が来たら、一拍も遅れない。

 

◆ ◆ ◆

 

詰所の表が騒がしくなった。

 

戸が荒く開いて、泥に汚れた伝令が転がり込んだ。

 

「九番隊本隊、流魂街の縁まで後退! 負傷者多数、これより順次こちらへ送る!」

 

応援たちが一斉に立ち上がった。板間を空け、晒しの束を解いていく。年配の隊士が沸かし続けていた湯に、ようやく出番が来た。

 

「湯をこっちへ!」

 

「戸板を外せ。寝かせる場が足りん」

 

怒号が交錯して、待つだけだった詰所が音を取り戻していく。

 

続けてもう一人、別の伝令が駆け込んだ。

 

「山本総隊長が動かれた。事件の鎮圧と調査のため、特務の部隊を編まれる。編成は追って伝える」

 

特務の部隊。その名簿に誰が載るのか、僕は知っている。

 

(次は——リサさんだ)

 

久南さんはもう闇の中で、リサさんはこれから同じ闇へ向かう。まだ起きていない。それなのに、止められない。二人目だと分かっていて、僕は見送る側の顔で晒しを裂いている。

 

三人目の伝令は、息も整えずに言った。

 

「五番隊・藍染副隊長より各詰所へ達しだ。生き延びた者と、奥で何かを見た者の名を漏れなく書き出しておけとのことだ。調査で使う」

 

手の中で、包帯の結び目が一度で作れなかった。

 

藍染副隊長の達し。調査のためなら真っ当な指図だ。誰も不思議に思わないし、皆が頷いて筆記の支度を始める。誰が生き残り、誰が何を見たか。それを最初に知る場所へ、あの人は静かに手を伸ばしている。

 

筋書きのとおりなら、今夜あの人がこの後方へ来ることはない。あの人は今、もっと奥にいるはずだ。消えた中隊の、いちばん近くに。けれど僕の覚えている筋書きが、もう一行でもずれていたら。

 

(来るな。来るな、来るな——)

 

結び目を作り直す。二度目も緩んだ。三度目でようやく結べた。声をかけられたら頭を下げる。問われたら曖昧に濁す。それだけを胸の中で繰り返して、僕は自分の指先から目を離さなかった。

 

最初の負傷者が運び込まれてきた。

 

霊圧が枯れかけた九番隊の若い隊士だった。流魂街の奥から這うように逃げ延びて、仲間に担がれてきた。顔から血の気が引いて唇が白い。意識が薄い。けれど、消えていない。まだ在る。

 

符はこの人のぶんも落ちていたはずだ。

 

砕けたのではない。翳っただけの符だ。霊圧が枯れ果てれば、符は音もなく翳る。あの一斉の闇には、こうして翳って落ちただけの符も紛れていた。真っ黒に見えた壁の中に、まだ息をしている灯が残っていた。

 

「こっちへ。寝かせてください」

 

僕は手を伸ばした。

 

絞りは中の下のまま、一筋だけ霊圧を引き出す。掌に緑がかった淡い光が灯る。傷を閉じるのではなく、霊体の理を本来あるべき形へ読んで整える。砕けかけた経絡を。ほどけかけた魂の縁を。途切れかけていた呼吸が深くなり、白かった唇に色が戻った。

 

若い隊士のまぶたがわずかに開いた。焦点の合わない目が僕を探して、掠れた声が漏れた。

 

「……仲間が。仲間、が」

 

「今は喋らないでください。息だけ、していて」

 

隊士は僕の袖を掴んだ。掴んだまま、見た、とだけ繰り返してまた意識を手放した。袖に残った指の力を、僕はそっとほどいた。

 

この人は、生き延びた者で、奥で何かを見た者だ。さっきの達しの一行目に載る名前だ。助かってよかったと思う端から、その名簿の行き先を思った。僕にできるのは治すことだけで、治した先までは守れない。それでも掌の光は止めなかった。

 

次が運ばれてくる。その次も。板間が血の匂いで満ちていく。回道の使える者が足りない。僕は掌をかざし続けた。

 

年老いた隊士が運ばれてきたのは、何人目かのあとだった。

 

胸から下が冷えきっていた。読むまでもない。理がもうほどけ終わろうとしていて、整える端から流れ落ちていく。掌の光を三度かけ直して、僕は手を止めた。

 

隊士のまぶたが薄く開いた。

 

「……門は。閉めたか」

 

「閉まっています。大丈夫です」

 

何の門かは分からないまま、そう答えた。隊士は小さく頷いて、それきり動かなくなった。僕はその手を胸の上へ戻し、まぶたを閉じさせて、次の負傷者へ膝を回した。回している間だけ、何も考えずに済んだ。

 

運び込まれた時にはもう、衣しか残っていない者もいた。主のいない死覇装が、板間の隅に畳まれて重なっていく。あの晴れた朝に整然と並んで発った人たちの分だけ。

 

夜の向こうで、中隊が虚に堕ちていく。

 

そのもっと向こうで、僕をシオちゃんと呼んだ声が闇に呑まれかけている。今はまだ、届かない場所で。

 

それでも感覚は閉じなかった。掌で傷を読みながら、その裏側で夜の底へ耳を澄ませ続ける。届く時が来たら、一拍も遅れないように。

 

◆ ◆ ◆

 

詰所の符は、もう一枚も灯らない。

 

真っ黒な壁の下で、負傷者のための小さな炎だけが揺れていた。湯が沸く。晒しが裂かれる。うめく声と、それに応える声。生きている者の音だけが、灯の周りに集まっていた。夜明けはまだ遠く、運ばれてくる者は途切れない。

 

僕はその灯の下で手を動かし続けた。何も言えないまま、知っている重さを一人で抱えたまま。それでも手だけは、届く傷から離さなかった。

 

平穏は、まだ、遠い。

 

第二十七話 了

 

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