夜は明けなかった。
詰所の板間には負傷者が途切れず運ばれてくる。奥の檻から逃げ延びた者、虚の爪に掠られながら生き残った者。僕は掌をかざし続けた。緑がかった淡い光で傷を整え、ほどけかけた経絡を寄せ、途切れかけた呼吸を深くする。間に合う一人へ、また一人へ。
血の匂いには慣れなかった。それでも手は止めない。止めれば数えてしまう。届かなかった人の数を、板間の隅に積まれていく死覇装の数を。だから考えるより先に手を動かした。治す手だけが、今の僕に許された場所だった。
「次の方を」
声が掠れていた。
応援の誰かが九番隊の若い死神を運んでくる。半身が黒く滲み、霊圧が枯れかけて意識がない。けれどまだ在る。僕は膝をついて掌を伸ばした。光を引き出し、読んで、整える。ひと呼吸ぶんで色が戻る。次へ。
夜の向こうでは、僕に見えないものが進んでいた。手の届かない奥で中隊が虚に堕ちていく。拳西さんが堕ちる。久南さんが——。
その名を思うたび、手元の光が揺れた。僕は背を丸め、声を低く落とし、ただ目の前の傷だけを見る顔をした。届かない人を思えば絞りが乱れる。乱れれば気取られる。今は手だ。目の前の一人だ。
手当てと手当ての合間に、それはふいに来た。
かざしていた指先に、糸のような感触が触れた。
霊圧ではない。気配でもない。もっと細く、もっと遠い。何かが僕の魂の奥から細く伸びて、闇の向こうへ続いている。手繰れば切れてしまいそうな、けれど確かに繋がっている、細い一本。
僕は手を止めた。
「主様」
念話が静かに届いた。霊体化した琥珀姫の声だ。
「お気づきになりまして?」
「……うん」
唇を動かさず返した。皆が負傷者に気を取られている。誰も僕を見ていない。
「……これは、何」
「主様が幾度も触れてこられた、縁の名残でございます」
琥珀姫の声は低く澄んでいた。
「回道で繋いだ手の縁。その御方の魂と主様の力が、まだ細く繋がっております。喰われきっていない証。あの御方は、まだ」
僕は息を呑んだ。
久南さんだ。
庁舎裏の空き地で、落ちた書類を揃えて差し出してくれた人。濡れた僕の頭をわしわし撫でて、勝手に乾かそうとした人。掠り傷を診たことがあった。肩の凝りをほぐしたこともあった。そのたびに気づかぬまま細い縁が結ばれていて、その一本が今、闇の中でまだ切れずに揺れている。握ると決めた一本が、まだそこにあった。
「届くの。ここから、あの人に」
念話で問う声が震えた。
「主様お一人では届きません」
琥珀姫の声に迷いはなかった。
「されどわたくしの霊体でこの糸を辿れば、主様の御意識をお運びできます。霊体は距離に縛られません。藍染さまほどの御方でなければ気取られもいたしません。御身体はここに残し、御意識だけをわたくしに乗せて、あの御方の魂の在りかへ」
僕は奥歯を噛んだ。
歴史は変えられない。中隊は堕ちる。久南さんも虚化して、仮面の軍勢として瀞霊廷を追われる。前世の記憶ではそう流れていた。それを止める力は僕にないし、止めてもいけない。折れば藍染に気取られ、すべてが崩れる。
けれど。
「虚化は止められない。あの人は虚化する。それは変えちゃいけない。……でも」
僕は壁際の死覇装の山を見ないようにした。
「中身まで喰われるのは。あの人があの人でなくなるのは。それは、決まってないかもしれない」
「ええ、主様。その通りでございます」
琥珀姫が静かに答えた。
「虚は止められません。されど喰われゆく魂の核を、『久南白』という一点だけを、保存で繰り返し繋ぎ止め続けることはできましてよ。あの御方の御身が虚に変わろうと、その奥の核さえ無事ならば、あの御方はあの御方のまま現世へ抜けられます」
僕は目を閉じた。
ずっと客席にいた。届かない手を握りしめて、あの衣の山を見送ってきた。流れは折らない。久南さんは虚化する。追放される。ただその奥の、誰にも見えない一点だけを守る。事件の前からずっと考え続けてきたことが、今、糸の先に現実として垂れている。
「やる。琥珀姫、やってみる」
「畏まりました」
念話の声が一拍だけ柔らかくなった。
「主様。お一人で行かれるのではございません。運ぶのも灯すのもわたくし。核を保つのは主様の御手です。どうか、握る手だけをお決めくださいませ」
僕は壁にもたれて座り込んだ。「少し休みます」と隣の応援に告げ、膝に手を置いて、疲れて目を閉じただけの形を作る。絞りはそのまま、中の下の膜は崩さない。始解はしない。ここで光をまとえば、この詰所の誰の目に映るか分からない。だから琥珀姫の霊体を介して、間接に、誰にも気づかれないように。肉体はここに残る。負傷者だらけの板間に、無防備なまま。
(……賭けだ。藍染が今夜どこを見ているか、僕には分からない。それでも——行く。あの人のところへ)
「いってらっしゃいませ」
琥珀姫の声が遠ざかった。
闇だった。
色のない場所。上も下もない。霊圧の
僕に体はなかった。琥珀姫の霊体に乗っていた。半透明の貴婦人の輪郭。長く垂れるベール。その内側に僕の意識だけがある。手も足もない。けれど琥珀姫の手が、僕の決めたほうへ、僕の手のように動いた。
「あの御方の魂の、いちばん奥でございます」
闇の底で何かが渦巻いていた。
白い破片。仮面になりかけた殻。それが渦の中心で形を成しかけている。喰らう顎だ。久南さんの魂を内から喰い破ろうとしている虚の核。その傍らで小さな光が明滅していた。今にも呑まれそうに、揺れて、細って。
「久南さん」
僕は呼んだ。声は出なかった。けれど琥珀姫を介して届いた。
明滅する光がぴくりと震えた。
『……たすけ』
か細い声だった。いつもの明るさはどこにもない。からっと笑う声も、シオちゃんと呼ぶ声も。ただ縋る小さな声が、闇の底から漏れてきた。
『たすけ……て。あたし……消えちゃう……だれか……』
あの人が。誰にでも気さくで、場を回していたあの人が、こんな声で。
『シオ……ちゃん……?』
光が僕に
『シオちゃん……なの……? なんで、ここに……だめだよ……シオちゃんも喰われちゃ……』
「動かないで。今、助けます」
僕は言った。
「あなたはあなたのまま。久南白のまま。ここから出すんです。だから、動かないで」
『でも……あたし……もう……』
光が大きく揺らいだ。
虚の核がぐにゃりと膨れ、喰らう顎が開いた。明滅する光へ。久南さんの核へ。
「琥珀姫!」
「ええ」
琥珀姫の手が動いた。僕の手のように。
顕れた刀の先から琥珀の雫が落ちる。古樹ノ雫。雫は開いた顎に落ち、その瞬間、顎が止まった。動きごと琥珀に閉じ込められて。
「今のうちに」
僕は縋りつく光を両の手で包んだ。
読む。崩れかけた縁を寄せる。ほどけかけた形を、あるべき形へ。これがあの人だ。この温かさが。空き地で笑っていた人が。シオちゃんと呼んだ人が。この一点が、久南白だ。
僕はそれを琥珀の中に保存した。
光が琥珀色に包まれる。
固定の数秒が過ぎ、虚の顎が再び動き出す。けれど核はもう僕の手の中にある。喰われる前の形のまま。時間から切り離されて。
虚が吠えた。
膨れ上がり、核を奪い返そうと膜へ喰らいつく。保存が剥がれかける。久南さんの形がまた崩れかける。
「もう一度」
掴み直し、寄せ、保存し直す。剥がれればまた。喰われかければまた。剥がれる速さより速く。
封花灯。
琥珀姫の手が花を咲かせた。喰らう波が押し寄せるたび、花が一度受け止めて閉じ込める。核の周りに琥珀の花が幾重にも咲いていく。喰われゆく魂の中で、そこだけが灯のように。
『シオ……ちゃん……あったかい……』
「喋らないで。力を保って」
『……うん』
素直な返事だった。
二度目の波は、最初より速かった。
三度目はもっと速い。顎は学んでいた。花を回り込み、膜の薄い所を選んで喰らいつく。仮面の殻は渦の中心で着々と形を整えていく。掴み直す手が、少しずつ間に合わなくなっていく。
保存を打つたび、僕の底から何かが抜けていった。息を吐ききって、なお吐かされるのに似ている。ここに肺はないのに、水の底で空気を使い果たしていく苦しさだけが本物だった。
「主様。長くは保てません。あの者はこの先も喰らい続けます」
琥珀姫の声が張り詰めていた。
僕は声を、琥珀姫にだけ届く糸へ落とした。
「止めなくていい。虚化は進ませる。守るのは中身だけだ。あの人があの人のまま抜けるまで、何度でも繋ぎ止める。それだけでいい」
その時、遠くで音がした。
詰所の音だ。糸の先の、僕の体のほうから。床板を踏む足音が近づいて、止まった。
「おい、遺玉院。次が入るぞ」
肩を掴んで揺する手。体はここにない。なのに返事をしなければ、目を覚まさない回道係として騒がれる。人が寄る。目が寄る。
(体。返事——)
僕は意識の端を糸へ割いた。戻った先の体は冷えきって、膝に置いたはずの指の感覚がない。他人の口を借りるように、遠い唇がかろうじて動く。
「……すみません。少しだけ、休ませてください……」
「……朝から出ずっぱりだったな。そこで休んでろ」
足音が離れていった。
ひと呼吸。たったそれだけの間だった。
戻した手の中で、琥珀の際から何かが零れていた。小さな欠片だ。記憶の端か、声のひと粒か、僕には分からない何か。顎がそれを呑んで消えた。取り返す術はなかった。
全部は守れない。
僕は核を握り直した。それなら、核だけは離さない。零れる端を数えない。真ん中の一点だけを、何があっても。
波が来る。受けて、咲かせて、留める。何度も。ただ、同じはずの動きが少しずつ重くなり、光を汲む手応えが薄れていく。底が、近い。
どれほどの間そうしていたか分からなかった。
やがて、闇の質が変わった。
渦が緩む。腐った気配が薄れ、喰らう波が引いていく。虚化が一つの形に落ち着いていく。仮面が完成する。魂が新しい器に収まっていく。喰われきった魂ではなく、中身を保ったまま。
腕の中の光は、もう崩れなかった。
琥珀の花に守られて、「久南白」がそこに在った。虚化した器の奥に。無事に。
「……届いた」
ずっと届かなかった手が。あの衣の山を見送るしかなかった手が。今度だけは、一人だけは。
光が僕を見上げた。
虚化した魂の奥で、久南さんの核が静かに灯っている。さっきまでの縋る震えはもうない。
『シオちゃん』
声が少し戻っていた。弱々しいけれど、いつものあの人の響きが端々に滲んでいた。
『あたし、わかるよ。シオちゃんが助けてくれたって。さっきからずっと。何回も何回も。あたしのこと繋ぎ止めてくれてたでしょ』
「……たまたま、糸が繋がってて。それで」
『うそ』
光が小さく笑った気配がした。
不思議だった。さっきまで言葉ごと溶けかけていたのに、僕に関わることを言う時だけ、あの人の声は少しも揺れなかった。気力が戻ってきたんだと、僕は思った。
『たまたまじゃこんなことできないよ。シオちゃん、すごい力を持ってるんだね。ずっと隠してたんだ。みんなにはぜんぶ中の下のふりして。あたし見ちゃった。シオちゃんの本当の。……だいじょぶ。だれにも言わないよ。これ、あたしとシオちゃんだけの秘密ね』
掌の中で、光の明滅が止まった。
(——見られた)
久南さんは見た。本来の力を。琥珀姫の灯を。何年もかけて藍染にも卯ノ花隊長にも隠し通してきたものを、この人だけが今、直に。
けれど僕には言葉が出なかった。露見の重さより先に、この人が消えずに済んだという事実のほうが大きかった。だから否定も肯定もできないまま、ただ光を包む手に力を入れた。
『シオちゃん』
光がそっと寄った。
『あたし、消えるはずだったんだ。さっき分かったの。あの白いのにぜんぶ喰われて、あたしじゃなくなるはずだった。……でもシオちゃんが、ずっと何回も、あたしを掴んでてくれた。あたしをあたしのままにしてくれた。シオちゃんだけが』
「久南さん。あなたはこれから、瀞霊廷を離れることになります」
僕は告げた。
「虚化した死神が瀞霊廷には居られない。遠くへ。長く。会えなくなる。それは……僕には変えられないんです。ごめんなさい」
『いいよ』
返事は食い気味に来た。迷いの間がなかった。
『どこに行ってもあたし、わかるもん。シオちゃんが助けてくれたこと。あたし忘れないよ。ぜったいに忘れない。何年経っても。何百年経っても』
よほど心細かったんだろう、と僕は思った。こんな闇の底で独りきり、喰われかけていたところへ、やっと届いた手だったのだから。だから僕は何も言わず、ただ頷いた。
『またね、シオちゃん』
光が遠ざかっていく。
虚化した器とともに、新しい流れのほうへ。仮面の軍勢のほうへ。久南白を奥に灯したまま。
『ぜったい、またね』
最後のひと言は、どこにも上がらず、まっすぐに落ちた。
僕は手を伸ばした。指は何も掴まなかった。それでも、渡すべきものはもう渡し終えていた。僕の意識は糸を逆に辿って引き戻されていく。闇が薄れ、渦が遠のき、久南さんの灯が小さくなる。消えるのではなく、遠ざかって。
目を開けた。
詰所の板間だった。壁にもたれ、膝に手を置いたまま。血の匂い。負傷者のうめき。応援たちの足音。何も変わっていない。誰も僕を見ていなかった。
霊圧は芯まで枯れていた。絞りは保っている。中の下の膜は崩れていない。始解もしなかった。霊体の琥珀姫を介して万象保存を繰り返した代償だけが、指の先まで重く沈んでいる。内側はからっぽで、それでも胸の奥に小さな灯がともっていた。
逃げる。隠れる。凌ぐ。治す。僕にはその四つしかなかった。今夜、五つ目を初めて選んだ。守る、という五つ目を。
「主様」
念話が返った。
「よくぞ、あの御方を守り抜かれました」
「うん。……間に合った。あの人のまま、抜けられた」
僕は目を閉じたまま返した。声には出さず、唇も動かさず。
「主様」
返事までに、呼吸ふたつぶんの間があった。
「あの御方とは。切っても切れぬ縁に。なりましたわね」
「……うん。助けられて、よかった」
僕はそう受け取った。琥珀姫も一緒に喜んでくれているのだと。
「これでもう。あの御方が何処へ行こうと。わたくしには分かります」
その声はどこにも上がらず、いつもの裾の長い言い回しも付いていなかった。
縁ができた、という意味だと思った。救った相手を、遠くからでも案じられるという意味だと。だから僕はただ頷いた。
詰所の外がまた騒がしくなった。
伝令が駆け、号令が飛ぶ。事件は終わらない。これからもっと大きなものが動く。浦原さんが追われ、夜一さんが消える。前世の記憶のとおりに、一つずつ。僕の手の届かない奥で。
それでも僕は重い腕を持ち上げて、次の負傷者へ掌をかざした。緑がかった淡い光をまた引き出す。読んで、整えて、間に合う一人へ。
掌を動かすうち、一度だけ手が迷った。あたしとシオちゃんだけの秘密ね。あの声が耳の奥で鳴った。救えた。それは本当だ。あの人は、見た。それも本当だった。二つは同じ夜の中に並んだまま、どちらも消えなかった。僕は答えを出さないまま、次の傷へ掌を伸ばした。
夜はまだ明けない。事件はまだ続く。失われるものを止める力は僕にない。それでも今夜、僕の手は一人のところまで届いた。その小さな事実だけを胸に灯して、僕は掌を動かし続けた。
——その傍らで。闇の彼方へ消えていく見えない一筋の、その根元だけが、まだ琥珀色にほのかに灯っていた。