夜が更けても、瀞霊廷は鎮まらなかった。
私はその只中を駆けていた。報せは断片のまま網を走っている。九番隊の一個中隊が消えた。死神が虚に変えられた。隠密機動の網は事件の輪郭を掴みかけて、核心の前で滑った。何かが意図して隠されている。私の勘がそう告げていた。
だが私が探しているのは、下手人ではなかった。
夜一様の気配が、どこにもない。
総司令官の執務室は空だった。修練場も空。知る限りの場所はすべて空だった。事件のさなかに隠密機動の
渡り廊下の角を曲がったところで、足が止まった。
そこに、おられた。
褐色の肌。紫の長い髪。夜の闇に溶けるその輪郭を、私は誰より早く見分けられる。瞬神。隠密機動総司令官。四楓院夜一。私が生涯を捧げると決めた背中。
「夜一様」
私は膝をつきかけた。
「お探しいたしました。事件のさなかにお姿が見えず、私はてっきり——」
「砕蜂」
夜一様が振り向いた。
その目に、言葉を失った。いつもの飄々とした光がない。面白がる気配もない。猫のように何ものにも縛られぬあの自由も、そこにはなかった。あったのは静かな決意だった。引き返さぬと決めた者の目。何かを置いていくと決めた者の目。
「儂はもう行く」
短い声だった。
「行く、とは——どちらへ。すぐにお供の支度を」
「来るな」
冷たい声ではなかった。むしろ穏やかですらあった。だからこそ、足が凍った。来るな。その二文字が何を意味するのか、私はまだ受け入れられずにいた。
「儂は瀞霊廷を出る。戻らぬ。喜助も
「な……」
声が裂けかけて、私はそれを必死に押し固めた。荒らげてはならない。乱れてはならない。隠密機動の刃が動揺を晒すことは許されない。だが固めた端から崩れていく。逃がす。出る。戻らぬ。皆連れて。その言葉のひとつひとつが、私の立つ床板を一枚ずつ外していく。
「ならば」
声を出すまでに、半呼吸を要した。その半呼吸のあいだに答えはもう見えていた。見えていて、それでも言った。
「私もお連れください。私は夜一様の刃です。十の歳から隠密機動に身を置き、あなたの影だけを追ってまいりました。夜一様が行かれる先へ、私も行きます。当然のことです。当然——」
「ならぬ」
夜一様が一歩近づいた。
私の頭に手が伸びた。褐色の掌が髪に触れる。子供の頃に幾度も受けた手だった。叱るでもなく褒めるでもない、ただ在ることを認めるように頭を撫でる手。その手が今夜も私の髪を撫でた。けれど意味が違った。これは見送る手だった。
「お前は残れ」
夜一様は静かに言った。
「儂が出れば隠密機動には頂が要る。二番隊にも隊長が要る。お前は強うなった。儂が育てた中で誰より強うなった。だからこそ残らねばならぬ。逃げる側ではのうて、守る側に。瀞霊廷を頼む」
「そのようなものは要りません」
声が震えた。
「頂など。隊長など。私は夜一様の影でいられればそれで。あなたのいらっしゃらぬ瀞霊廷を守って、何になるのです。私は」
「砕蜂」
撫でる手が止まった。
「強うなったのう」
その一言が胸を貫いた。
褒め言葉だった。紛れもない賞賛だった。私が生涯ただ一つ欲してきた言葉だった。夜一様に強いと認められること。それだけのために刃を磨いてきた。なのにその言葉は今夜、別れの形をして降ってきた。手の届かぬ場所へ去る背中が、最後に置いていく
「達者でな」
手が離れた。
「ま、待ってください、夜一様。せめて一言。なぜ私を——」
夜一様はもう背を向けていた。
その背が闇へ滑り出す。瞬神の速さで。追えぬ速さで。伸ばした手は宙を掴んだ。何もない夜の空気を。褐色の輪郭はもう廊下になかった。月のない天の下を抜けて、現世へ堕ちる仲間のもとへ消えていった。
私を置いて。
夜が薄らいでいた。
私は同じ廊下に立っていた。息は乱れていない。膝も震えていない。隠密機動の刃は乱れない。乱れないまま、ただ動けずにいた。
朝の鐘が鳴った。
いつもの刻限に、いつもの数だけ。中隊が消え、八名が虚と化し、夜一様が瀞霊廷を捨てた夜だった。その明けに、鐘は昨日と同じ音で鳴った。打ち終えて、余韻が薄れて、それきりだった。この地の朝は、あの方がいなくても正しく来る。
気づけば、手が髪に触れていた。
掌の熱はもう残っていない。夜気に冷えた髪があるだけだった。手を下ろす。下ろして、習い性のまま気配を探した。屋根の連なり。修練場。執務室。夜一様の通り道を端から端まで。ない。どこにもない。ないと知りながらなお探して、探す思考の途中に——木立で私を突き飛ばした、あの男の背が紛れ込んだ。
違う。
爪を掌に食い込ませた。今この時に思い出す顔ではない。あれは監視対象だ。それだけの男だ。
渡り廊下の向こうで、足音がした。
巡回の死神の、ただの足音だった。分かっていた。分かっていて、私の足は半歩、音のほうへ回っていた。
気づいて、止めた。
止めたまま、しばらく動けなかった。
研究室に残された時間は、あとわずかだった。
浦原喜助は装置の間を足早に抜けながら、持ち出す記録を選り分けていた。崩玉による治療は失敗した。八名の虚化は止められなかった。夜一が皆を逃がす。中央四十六室の沙汰が下りる前に、全員まとめて現世へ。段取りは組み上がっている。あとは合図を待つだけだった。
その指が、一枚の記録の上で止まった。
久南白。
虚化した八名の霊圧記録は、みな同じ崩れ方をしていた。魂魄が喰われ、人格の核が削られ、辛うじて自我を残した状態で器が組み変わる。だが久南の核だけは、削れ方が不自然なほどなだらかだった。喰われきる寸前で、何かが繰り返し繋ぎ止めている。崩れては戻り、崩れては戻り。まるで内側から守られていたかのように。
そして、残滓があった。
記録の端に、ごく細い琥珀色の輝跡が焼き付いていた。久南の魂の縁をなぞる痕。霊圧ではない。鬼道でもない。斬魄刀の理とも読み切れない。状態そのものを留める力。浦原の知るどの理とも違う何かが久南の核を守り、ひと筋だけ名残を残して消えている。
浦原は目を細めた。
何の力だ。
久南だけが偶然、人格を保ったのか。第三者の目にはそう映るだろう。だが浦原の目には、そうは見えなかった。これは偶然の崩れ方ではない。意図して守られた跡だ。誰かの力が、確かにこの魂に触れた。
「……誰だ。君は」
誰もいない研究室で呟いた。
答えはなかった。どれだけ記録を読み返しても、それを織った手の正体だけは浮かんでこなかった。瀞霊廷のどこかに、こんな力を隠し持つ者がいる。誰にも気取られず一人の魂を救い、痕だけを残して立ち去った者が。
遠くで霊圧が動いた。刻限だった。
浦原は記録をひと巻きにまとめて懐へ収めた。琥珀色の痕のことも、その奥の見えない手のことも、すべて胸の片隅へ仕舞い込む。今は問えない。だが、いつか問うために。百年先か、千年先か。その日が来るまで。
浦原喜助は研究室を後にした。
主を知らないまま。琥珀色の謎を背負ったまま。現世へ堕ちる長い夜の中へ。
五番隊の執務室には、まだ灯りがともっていた。
藍染惣右介は急いでいなかった。事件の収拾報告。被害の名簿。虚化し追われた八名の処遇。捜索の経過。すべてが整然と、温厚な副隊長の筆跡で記されていく。誰が読んでも誠実な筆だった。被害を悼み、後始末に身を尽くす人徳の筆。この夜通しの働きを、明日の瀞霊廷は労うだろう。
虚化の進行は、藍染にとって掌の上の出来事だった。
崩玉の力の流れも、八名の魂魄の崩れ方も、おおむね読み筋の内にある。ただ一点を除いて。久南白の崩れ方にだけ、計算にない揺らぎが混じっていた。喰われゆく魂が、繰り返し繋ぎ止められていた。
誰かが介入した。
始解や鬼道のような表立った力ではない。気配を残さない静かな力。状態を留める力。混乱に紛れ、人目を避け、ただ一つの魂の核だけを守って消えた者がいる。痕跡はほとんど残っていない。残っていないことそのものが、その者の技量を語っていた。
「興味深いね」
誰もいない執務室に、声が静かに落ちた。
なぜ、ひと筋だけ残ったのか。
藍染が惹かれたのはそこだった。痕跡を消しきる技量がありながら、最後の一筋だけを魂に留めてしまった者。完璧であろうとして、完璧になりきれなかった者。あるいは——力の底で、何かを手放しかねた者。
藍染は自分のためだけの覚書に、一行を加えた。
久南白の核に、微かな保存の名残。主は不明。
それから、傍らの隊士名簿へ手を伸ばした。事件に関わった者を確かめるのも、残された副隊長の務めだった。指が名をひとつずつ繰っていく。消えた者。生き延びた者。救護に駆り出された者。その中に、遺玉院詩織の名もあった。五番隊の、目立たない平隊士。指は止まらず通り過ぎた。次の名へ。またその次へ。名簿は静かに閉じられた。
「名残を残すのは」
藍染は覚書の一行を、目に焼き付けるように眺めた。
「消えたくなかった者だよ」
誰に語るでもない言葉だった。一度だけ文字に起こし、記憶へ刻み、それから紙は灯りの火で灰にする。それが藍染の、紙の仕舞い方だった。窓の外では夜が明けかけている。平子真子が消え、五番隊の隊長の席が空き、崩玉の計画は一歩進んだ。どれも読みから外れていない。
だがこの一筋の名残だけは、計算の外から滑り込んできた。
誰かが消えたくないと願った痕。あるいは、誰かを消したくないと願った痕。藍染はその一片を、長い記憶の棚へ静かに収めた。
「いずれ……分かる時が来る」
灯りが落ちた。
僕は隊舎の隅で夜明けを迎えた。
詰所の救護はようやく途切れた。事件が収まったからじゃない。手当てを待つ人が、もう残っていないからだった。間に合う人には手が届いた。間に合わなかった人は、衣だけを残して消えた。その区分けが終わっただけだった。
(数えるな。数えたら、動けなくなる)
霊圧は芯まで枯れていた。それでも絞りの膜だけは、形を覚えたまま立っている。何年も掛け続けてきた覆いは、中身が空になっても崩れなかった。
最後の包帯は、うまく巻けなかった。指が結び目を二度やり損ねて、見かねた応援の人が代わってくれた。休んでくださいと言われて、壁際に座り込んだ。指先が重い。夜通し手当てを続けた疲れとは別の、底の抜けたような重さだった。
それでも胸の奥には、小さな灯が消えずにあった。
一人だけは。あの闇の底から、あの人をあの人のまま連れ戻せた。
夜が明ければ、瀞霊廷は変わっていた。平子隊長が消えた。僕の隊長だった人。飄々とした関西弁で藍染を疑いながら、僕の擬装には気づかないままだった人。リサさんも、九番隊の人たちも、虚化して追われる側になった。そして浦原さんと夜一さんとテッサイさんが、皆を連れて現世へ落ちた。前世の記憶で知っていた流れのとおりに。歴史の柱がいくつも倒れて、僕にはその一本も支えられなかった。
止められないと知っていた。止めてはいけないとも知っていた。それでも、夜明けの隊舎の冷たさが足の裏から這い上がってきた。
『主様』
念話が届いた。
『お疲れでございましょう。少しお休みになって』
『うん』
僕は壁にもたれたまま、声に出さずに返した。
『……たくさんの人が消えた。平子隊長も、リサさんも。止められなかった。久南さんだけ。一人だけしか』
『お一人を、守り抜かれました』
琥珀姫の声は穏やかだった。
『それは誰にもできないことでございました。主様にしか。どうかその一灯を、消えた数で打ち消されませんよう』
僕は目を閉じた。
救えた一人と、救えなかった大勢が、同じ胸の中に並んでいる。救えたことも、救えなかったことも、両方が本物だった。それを抱えたまま生きていくしかない。たった一人の秘密として。誰にも語れないまま、この先も。
それから、もう一人のことを思った。
砕蜂さんだ。
薬包を届けたあの日の帰り道を思い出した。冷たく睨むばかりだった人が、暗い道を黙って送ってくれた。歩法を直してくれた午後の、砂の上の乱れひとつない足跡。怖い人だった。消すと脅されたし、馴れ合いを叱られた。それでもあの敵意の奥には、夜一さんへの一途な何かがいつも据わっていた。
その夜一さんが、今夜、砕蜂さんを置いて行った。
「砕蜂さんは」
僕は呟いた。
「大丈夫かな。夜一さんがいなくなって。あの人、夜一さんのこと、すごく」
返事が、ひと呼吸ぶん遅れた。
「……砕蜂さま、を」
同じ柔らかな言葉遣いのまま、その声から抑揚だけが消えていた。
「あのお方を、ずいぶん気にかけられるのですね」
「うん。心配なんだ。大切な人が急にいなくなるのは、きっと、すごく」
言葉はうまく続かなかった。今夜のいくつもの背中が、まだ目の裏に残っていた。
「お優しいことでございます」
琥珀姫が静かに言った。
(琥珀姫も、心配してくれてるんだな。砕蜂さんのこと)
僕はただ頷いた。
それきり念話は途切れて、刀の奥で、ベールの裾がひとつ揺れた気配がした。
窓の外が白んでいた。
瀞霊廷はいつもの朝の顔で明けようとしている。何事もなかったかのような静けさの下で、けれど何事もなくはなかった。平子隊長のいない五番隊に、僕は藍染副隊長の下で残される。前世の記憶で知る流れなら、空いた隊長の席にはやがてあの人が座る。藍染惣右介が、僕の直属の隊長になる。その日が遠くないことを、僕だけが知っていた。
(……逃げ場所なんて、最初からないんだな。この先も)
僕は重い体を起こした。
救えた一人を胸に灯したまま。救えなかった大勢の重みを背負ったまま。逃げる。隠れる。凌ぐ。治す。四つしか持たなかった手に昨夜、五つ目——守る、がひとつ加わった。その手で、この先の長い時間を渡っていく。
朝の光が板間に届いた。
現世へ堕ちた背中も、置き去りにされた背中も、その光の下にはもう見えなかった。還らぬ背だけが、いくつも遠ざかっていった。
平穏は、まだ、遠い。