『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第3話

第三話 琥珀(こはく)(こた)

 

 

修行は、続いた。

 

朝は誰よりも早く起きて、寮舎の裏で歩法(ほほう)の反復。膝が壊れる寸前まで踏む。

昼は授業の合間に隠形術(おんぎょうじゅつ)の独習。気配を消し、自分の足音まで消し去る。

夕は回道(かいどう)の練習。自分の擦り傷から始めて、迷い込んだ猫の前脚まで、治せるものは何でも治した。

夜は寮の屋根の上で霊圧制御。指先一点だけを開く。毛穴一つだけを閉じる。全身の経絡を割って、個別に開け閉めする。

 

破道は最低限で済ませた。

攻撃の技は、増やさない。

 

「逃げる」「隠れる」「凌ぐ」「治す」。

僕の修行は、その四つだけだった。

 

◆ ◆ ◆

 

入学から数ヶ月が経った。

 

同期生たちの霊圧は目に見えて鋭くなり、水晶測定器を初日の比ではない強さで光らせる者も現れ始めていた。

僕はその変化を、教場の隅から眺めていた。

 

僕の霊圧も、伸びていた。

体の中を巡る圧が、日を追うごとに密度を増している。

それを誰にも気づかせないことが、僕の最大の修行だった。

 

指先の一点を、針の穴ほど開く。

流魂街の井戸の縁で覚えたあの制御は、今ではもう無意識でできる。寝ていても起きていても、僕の経絡はぴたりと閉じている。鬼道(きどう)の授業中だけ、必要最小限の量を必要な指先から流す。

 

教官の帳面の上で、僕は今日も「中の下」だった。

 

それで、よかった。

 

回道は、特に念入りに続けた。

転んで膝を擦りむいた同期生を、人がはけた頃合いに治したこともある。

 

「お前、回道できるのか」

 

「あ、あの、はい。少しだけ、です」

 

僕は早口で答えて、すぐにその場を離れた。

それ以上、関わらない。それ以上、記憶に残らない。

回道ができること自体は、四番隊向きの特徴として悪くない。でも「親切な同期」として覚えられるのは避けたかった。

 

仲良くなった人を失うのが、いちばん怖い。

だから、そもそも仲良くなりすぎない。最初に決めた、僕の方針だ。

 

◆ ◆ ◆

 

「遺玉院は、本当に真面目だな」

 

ある日の放課後だった。

 

人のいなくなった回道室で、僕は庭で拾った羽の折れた小鳥を長椅子のそばに置き、手をかざしていた。

背後から声がして、手が止まった。

 

教官の一人が、戸口に立っていた。

 

「朝、誰よりも早くから動いているのは知っているぞ。授業の合間の独習も欠かさん。放課後は回道室で居残り。お前のような生徒は私の長い教官生活でも珍しい」

 

(見られていた)

 

朝の寮舎の裏も。

昼の独習も。

この回道室も。

 

息を吸ったまま、しばらく吐けなかった。

霊圧は隠した。完璧に隠した。でも行動は、朝から夜まで丸ごと見られていた。僕の一日は、この人の頭の中にきれいに揃っている。

 

「……そう、ですか」

 

辛うじてそれだけ言って、頭を下げた。

頭を下げたまま、必死に考えた。

 

(落ち着け。考えろ)

 

霊圧を疑われたわけじゃない。この人の目に映っていたのは「真面目な生徒」だ。それなら。

 

「霊圧量は中の下だ。しかしお前の制御は学年でも上位に入る。攻めず、守り、誰かを助ける。お前は将来、四番隊で大成するかもしれんな」

 

(来た)

 

四番隊。

僕が、目指している場所。

 

戦闘部隊ではない。前線に出る機会は少ない。藍染惣右介と顔を合わせる機会も、少しは減らせる。卯ノ花隊長の下で、ひたすら誰かを治す。それが僕の九年計画の、最も理想的な着地点だった。

 

そうか、と思った。

霊圧をどれだけ伏せても、行動はこんなふうに見られている。なら、この目立ち方は使える。「真面目で治癒寄りの、四番隊向きの生徒」。その評価が固まるなら、僕の毎日は隠すものじゃなく、見せておくものだ。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

小鳥の翼がわずかに動くのを確かめてから、僕は深々と頭を下げて、そそくさと回道室を後にした。

 

廊下を歩きながら、息を整える。

 

(順調だ。順調すぎる)

 

未来に、少しだけ希望が持てた。

ただ、胸の奥には棘が一本、刺さったままだった。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、僕はいつものように寮の屋根の上にいた。

 

月のない夜で、瓦は冷たかった。

経絡を一本ずつ開け閉めしながら、僕は昼間の教官の言葉を反芻していた。

 

霊圧を隠しても、見る者は見ている。

 

では、あの視線は。

 

入学式の、教官席のいちばん奥。

霊圧基礎学の、教場の後ろの扉。

 

あれから数ヶ月、あの視線が戻ってきたことはない。それでも僕は一日のどこかで必ず思い出した。教官に褒められた今日も、回道室を出るとき真っ先に廊下の角を確かめた。

 

不意に、下で砂利の鳴る音がした。

 

手が止まる。

息を殺し、経絡を閉じ直し、瓦に伏せた。

 

十、数えた。

誰も来ない。

そっと中庭を覗くと、夜回りの灯が遠くの渡り廊下を横切っていくところだった。

 

(……夜回りだ。ただの、夜回り)

 

詰めていた息を、少しずつ吐いた。

 

それでも、訓練はやめなかった。

見られていたのが訓練中の僕なら、いま訓練をやめることこそ「気づいた」という返事になる。だから緩めない。緩められない。

 

それに、視線の主の候補は、教官たちだけとは限らない。

前世の記憶が確かなら、瀞霊廷の影には千年も前から、見えざる帝国(ヴァンデンライヒ)という観察者たちが潜んでいる。死神の能力を奪う下準備の観察なら、この時代にもう始まっていてもおかしくない。

 

疑いだしたらきりがない。きりがないくらいで、ちょうどいい。

 

誰の前でも、霊圧の本当の姿を見せない。

誰の前でも、斬魄刀を抜かない。

 

その夜は、詰めすぎた。

屋根を降りる頃には指先が震えていて、藁布団に倒れ込むなり、僕は体の悲鳴ごと意識を手放した。

 

◆ ◆ ◆

 

そして、目を開けた。

 

———眠っているはずなのに、目を開けた。

 

そこは、見慣れない場所だった。

 

夜の海辺、のような。

 

足元には、浅く水の張った砂のような地面。

頭上には、星のない深い藍色の空。

そして地平線まで続く水面のところどころに、淡い琥珀色の灯が、ぽつぽつと灯っている。

 

灯篭(とうろう)のような。

鬼火(おにび)のような。

誰かが忘れていったものを、保存しているような。

 

風は、ない。

音も、ほとんどない。

ただ、灯篭めいた光がゆらり、ゆらりと揺れている。

息を吸うと、ひんやりとした、けれど嫌な冷たさではない空気が肺の奥へ入ってくる。

 

(……ここは?)

 

僕は裸足で立っていた。

水は冷たくも温かくもなく、ただ足首を優しく撫でていた。

足元の水面には、輪郭のぼやけた、けれど確かに僕の顔が映っていた。

 

もしかして。

 

これは、内界(ないかい)なのかもしれない。

死神が斬魄刀の精と対話する、心象の世界。前世の記憶に、何度も焼きついていた領域。

 

(でも、入学から数ヶ月だぞ。早すぎる……と、思う。たぶん)

 

だとすれば。

だとすれば、ここには。

 

僕は腰に手をやった。

寝る前に布団の脇へ置いたはずの浅打は、ない。

 

でも、近くに何かがいる。

 

ちりん、と。

 

音のほとんどないこの世界で、背後から、小さく澄んだ音がした。

 

体が固まった。

 

もう一度。

 

ちりん。

 

僕は、ゆっくり振り返った。

 

水面に、人影が立っていた。

 

長いベールが琥珀色の光を孕んで、風もないのに揺れている。その人は音もなく水面を渡り、僕の数歩先で足を止めた。それから深く、深く頭を下げた。腰から垂れた細い鎖の先で、米粒ほどの琥珀の珠が触れ合って、また小さく鳴った。

 

「———お初に、お目にかかります」

 

凛と澄んだ、それでいてどこか柔らかい、女性の声だった。

 

その人が、顔を上げる。

金と琥珀の髪が流れて、深い藍色の目が僕を見た。

金の宝冠。黒地に金の刺繍を散らした装束。

 

人の域を超えて、美しかった。

そして不思議なくらい、すっと目に馴染んだ。

恐怖はなかった。警戒はあった。けれど敵意だけは、どこからも感じなかった。

 

「わたくしの名は、琥珀姫(こはくひめ)。あなたの斬魄刀の、名でございます」

 

彼女は胸に手を当てて、静かに名乗った。

 

主様(あるじさま)。あなたとお会いできる日を、ずっと待ち焦がれておりましたわ」

 

「……主、様?」

 

間の抜けた声が漏れた。

 

主様なんて、呼ばれたことがない。

ましてや、こんな美しい人に。

 

琥珀姫は僕を見つめたまま、言葉を続けた。

 

「主様の、たゆまぬご修練。霊圧を律し技を磨き、誰かを救う術を学ぶお姿。わたくしはずっと見ておりましたわ」

 

———ずっと、見て。

 

手が、勝手に動いた。

指先まで、足先まで。開いてもいない霊圧の出口を確かめる、いつもの手順。

 

(全部、見られていた)

 

屋根の上の、夜ごとの訓練も。

教官の前の「中の下」も。

数ヶ月かけて積み上げた嘘の、その内側まで。

 

あの視線の主は、この人だったのか?

 

「……あなたは、いつから、見て」

 

声が掠れた。

 

「主様がわたくしをお腰に下げてくださった、あの日からでございます」

 

琥珀姫は静かに答えた。

 

「わたくしは、ずっとここに。主様の内に、おりました」

 

内に。

 

その言葉が、ゆっくり腑に落ちていった。

 

(違う。外からじゃ、ない)

 

入学式の視線とは、別だ。あれは確かに外からだった。扉の隙間から、教官席の奥から、僕の「外側」を測る目だった。あの目の主は、まだ外のどこかにいる。

この人は、そうじゃない。

この人は最初から、内側にいた。

入学の日から、ずっと腰に下がっていた、あの浅打の中に。

 

肩から、力が抜けた。

 

抜けたそばから、息がまた浅くなっていった。

 

外の誰にも、僕は見せなかった。本当の霊圧も、夜ごとの訓練も、嘘の「中の下」も。

この人には、その全部が、最初から見えていた。

誰にも見せたことのない僕を、この人は誰よりも近くで知っている。

 

「浅打の身でこれほど早く、主様にお目にかかれるとは思っておりませんでした」

 

琥珀姫はもう一度、深く頭を下げた。

ちりん、と珠が鳴る。

 

「ここまでわたくしを育ててくださったのは、主様のご精進です。主様の志の高さに、ただただ感じ入っております」

 

———待って。

 

僕は思わず、手を上げかけた。

 

違うんだ。そうじゃないんだ。

僕は志が高いわけじゃない。誰かを救おうとしてるわけじゃない。ただ怖いから。死にたくないから。誰にも見つかりたくないから。ひたすら逃げるための技を磨いているだけなんだ。

回道だって、自分の傷を誰の手も借りずに治せるようになるために覚えただけだ。

 

そう、言おうとした。

 

でも、顔を上げた琥珀姫の目には、まっすぐな敬意(けいい)の色があった。

 

こんな目で見られたのは、初めてだった。

本当のことを言えば、この目は曇る。その瞬間を見るのが怖かった。

それくらいなら、勘違いされたままでいさせてもらった方がいい。

 

そう、自分に言い訳した。

 

「……はい」

 

僕が言い終えるより早く、琥珀姫は微笑んでいた。

 

こんな微笑みを向けられたことは、前世でもこちらの世界でも、一度もなかった。

母と名乗ってくれた女の人ですら、こんなふうに僕を見たことはなかった。

 

「主様。またお会いできる日を、心待ちにしております」

 

そして彼女は一歩下がり、背後に浮かぶ灯篭の光へ吸い込まれるように、姿を消した。

 

水面に、もう影はなかった。

藍色の空の下で、琥珀色の灯が静かに揺れていた。

 

僕はしばらく、立ち尽くしていた。

膝を抱えて座り込みたかったが、足元の水面を乱すのは気が引けた。

足首を撫でる水の優しさだけが、確かなものとして体に残っていた。

 

頬が、なぜか熱かった。

 

———綺麗だ、と、思った。

 

そう思ってしまったことが、なんだか、すごく後ろめたかった。

 

◆ ◆ ◆

 

朝の鐘が鳴った。

 

藁布団の上で目を開けると、夢の余韻がまだ(まぶた)の裏に残っていた。

 

起き上がって、布団の脇の浅打をそっと握る。

刀身の中に、彼女の気配を確かに感じた。

 

(夢じゃ、なかった)

 

———言えなかった。

———言えなかった、けど。

 

期待されている。あの人にも、教官にも。

本当の僕は、ただ逃げたいだけなのに。

 

それでも、期待に応えるふりは、しばらく続けよう。

真面目で、治癒寄りで、四番隊を目指す生徒のふりを。

そして誰にも本当の姿を見せないまま、ひとり静かに生き延びる。

 

僕は深く息を吐いた。

 

そして、いつもの朝の修行に、出かけた。

 

逃げるための、修行に。

 

第三話 了

 

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