『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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虚化実験事件・余波編
第31話


第三十一話 灰の朝

 

 

夜が明けると、瀞霊廷はもとの顔に戻っていた。

 

掃き清められた石畳。磨かれた渡り廊下。朝の鐘がいつもの刻に、いつもの数だけ鳴る。九番隊の一個中隊が消えた夜から二日が過ぎて、通りにはもう血の匂いも焦げた布の匂いも残っていない。

 

何事もなくは、なかったのに。

 

僕は四番隊の差配で駆り出された救護要員の列に混じっていた。手当ての仕事はもう残っていない。残っているのは後始末だけだった。

 

中庭の隅で炉が焚かれていた。

 

主の還らない死覇装を焼く炉だ。僕は回収された衣を炉へ運ぶ役を振られた。両腕に抱えた衣は思ったより軽くて、人ひとりぶんの重さはどこにも残っていなかった。一枚ずつ火にくべていく。布の燃える匂いが立ちのぼって、朝の空に溶けていく。燃えかすの灰が風に零れて石畳に落ち、誰かがそれを箒で静かに掃き寄せていく。小さな灰の山が、いくつもできていった。

 

何枚目かで、手が止まった。

 

袖口に繕い痕があった。細かい針目で丁寧に当てられて、糸の色だけが僅かに違う。破れて、繕って、まだ着るつもりだった誰かの衣だ。名前は知らない。顔も知らない。それでも二日前までこの袖に腕を通して、同じ瀞霊廷の空気を吸っていた人がいた。食堂ですれ違ったことくらいは、あったのかもしれない。

 

(……直して、まだ着るつもりだったんだ)

 

僕はその一枚を、火に渡した。渡すしかなかった。火が袖口の針目を舐めて、ほどいて、なかったことにしていく。

 

あの夜に何が起きるかを、僕は前世の記憶で誰よりも先に知っていた。それでも誰一人救えなかった。僕にできたのは、残された衣を火に送ることだけだった。

 

灰の朝だ。

 

◆ ◆ ◆

 

差配が変わって、昼前から僕は書庫の隅に回された。

 

机には隊士名簿の束と通達の下書きが積まれている。消えた者の欄に判を押し、遺族あての通達を清書する。それが僕の後始末だった。

 

処理の要領は紙で回ってきた。四番隊の席官は回覧を机に置いて、目を合わせずに言った。

 

「書いてある通りに書け。問われても答えるな。以上だ」

 

回覧は短かった。九番隊先遣の隊士は全員、任務中の殉職として遺族に通達する。死因は虚との交戦。墓を建て、法要を営む。隊長格については別紙の通り——そして別紙は、どこにも回ってこなかった。

 

(……そうか。そこから先は、紙にもしないんだ)

 

僕は知っている。隊長格の八人は殉職にすらならない。処分の対象であり逃亡者。仮面を宿した身のまま沙汰の下る前に現世へ落ちて、記録の外へ出された。墓を持つ者と、名前ごと伏せられる者。同じ夜に同じ事件で消えた人たちが、机の上で二つに分けられていく。その線引きを、僕は名簿の上で手伝っていた。

 

通達の下書きを引き寄せて、一枚ずつ清書する。在りし日の御活躍は隊の誇りでありました。任務の途上にて名誉の殉職を遂げられました。心よりお悔やみ申し上げます。嘘ではない。嘘ではないけれど、本当のことは一文字も書いていない。その文面を僕は自分の字で、誰かの母に届く形へ書き写していった。

 

宛先の一枚に、流魂街三十三地区とあった。

 

筆が止まった。僕の育った地区だ。水汲みの道も、夕方の煮炊きの匂いも知っている。あの通りのどこかの家にこの紙が届いて、誰かが名誉という言葉を握りしめたまま、それきり何も知らされない。

 

僕は筆を進めた。進めるしかなかった。書き終えた紙を重ねて、名簿に判を押す。一人ぶん、また一人ぶん。墨の匂いがやけに濃かった。同じ文言を何十枚も書くうちに、手が勝手に運びを覚えていった。名誉の殉職、の五文字だけが上手くなっていく。上手くなりたくなかった。

 

浦原さんも夜一さんも、罪を着せられて追われた。歴史の柱が何本もまとめて倒れて、僕はその一本も支えられなかった。知っていることは何の力にもならない。知っているぶんだけ、倒れる柱の名前が先に分かる。ただそれだけのことだった。

 

昼の鐘が鳴って、腹が小さく鳴った。

 

(……こんな日でも、お腹は空くんだ)

 

墨で汚れた指を眺めながら、僕はその場違いさに少しだけ救われた。

 

◆ ◆ ◆

 

昼過ぎに、藍染副隊長が書庫へ来た。

 

「みんな、よくやってくれているね」

 

穏やかな声だった。書庫にいた誰もが手を止めて、背筋を伸ばした。藍染副隊長は机のあいだをゆっくり歩き、若い隊士の前で足を止めて「君は東の詰所にいた子だね。あの夜はよく走ってくれた」と労った。名前も持ち場も覚えている。隊を預かる人の、どこにも隙のない優しさだった。

 

平子隊長の席は空いたままだ。今はこの人が隊を仮に束ねている。けれど記憶の筋書きには、その先があった。あの空いた席に、いずれこの人が座る。その仮初めが長く続かないことを、僕だけが知っていた。

 

「遺玉院くんも。慣れない仕事で疲れただろう」

 

「……いえ。ありがとうございます」

 

声がうわずらないように、絞りを確かめる。中の下の膜を、皺ひとつ乱さないように。

 

僕の机の上で、名簿は九番隊の頁を開いたままだった。

 

藍染副隊長の目が、そこへ落ちた。

 

視線が名の並びを滑って、一つの行で止まる。久南白。その三文字の上で、一拍。ほんの一拍。僕にだけ長く感じられる一拍だった。

 

(見ないで。お願いだから——見ないで)

 

「九番隊のぶんも、君が?」

 

「あ、はい。照合を、仰せつかって」

 

「そう。……丁寧な仕事だ」

 

藍染副隊長は微笑んで、名簿から目を離した。

 

「では、あとは頼むよ」

 

衣擦れの音が遠ざかって、書庫の空気がゆっくりほどけた。

 

結局、名簿そのものには何も言わなかった。労いの言葉と、丁寧な仕事だという一言だけ。それだけなのに、背中の汗が冷たかった。あの夜、僕が余計なことをした痕がどこかに残っていたら。確かめる術は、僕にはなかった。

 

(何も言われてない。何も、言われてないんだ)

 

仕事に戻って、次の一人ぶんに判を押した。判は僅かに傾いて紙に降りた。朝から何十と押してきて、傾いたのはそれが初めてだった。

 

『主様』

 

胸の奥で琥珀姫の声がした。ひと呼吸ぶん、遅れて。

 

『——お気づきでは、ございません』

 

『……うん』

 

聞き慣れた労りの声だった。ただ、いつもより少しだけ硬かった。

 

◆ ◆ ◆

 

午後、書庫に一人になった。

 

判を押し終えた名簿の九番隊の頁を、もう一度だけ開く。久南白。印は他の誰とも同じ形で、その名の横に収まっていた。書類の上では、あの人ももう消えた者の一人だった。

 

僕は久南さんに、会えなかった。

 

あの夜のうちに八人はみな現世へ落ちた。中央の沙汰が下る前に、夜のうちに。だから僕をシオちゃんと呼んだあの声も、肩を抱いて髪を撫でてゴーグルまで掛けてくれたあの手も、僕の知らないあいだに瀞霊廷を出ていった。救えたのに、見送れなかった。今どこにいるのかも、元気にしているのかどうかも分からない。せめて一度だけ、無事だと顔を見て確かめたかった。

 

たぶん、百年は会えない。

 

百年。声に出さずに繰り返すと、急に長さが実感になった。僕が生きてきた時間の何倍もの朝が、あの人のいない鐘の音で明けていく。

 

そこまで数えた時だった。

 

(……あと、七人)

 

久南さんを救えたなら。平子隊長も、他の六人も。間に合わなかった中隊の人たちも。一人ずつでも。崩れる前に。喰われる前に。もっと早く動いていたら。失われるものを全部、まとめて琥珀の中に——

 

『主様』

 

琥珀姫が、言葉の先を塞いだ。

 

この人に言葉を遮られたのは、初めてだった。

 

『そこまでに、なさいませ』

 

僕は息を止めた。

 

あの警告なら覚えている。世のすべてを保ちたいと願えば、いつか標本師となり命を弄ぶ者となる。琥珀姫がそう言ったのは、まだ始解も知らなかった頃の夜だ。灯篭の下で聞いた時は、遠い戒めでしかなかった。

 

今は違う。僕はいま、確かに願いかけた。

 

(——違う。今のは、そういうんじゃ……)

 

そういうものだった。言い逃れようもなく。失われた瞬間をまとめて手元に置きたいという、あの一瞬の願いは救いの形をしていない。命を時間から切り離して永遠に眺める願い。世界をまるごと標本箱に変える願いだ。神になろうとするあの人の望みと、根のところで同じ形をしていた。救えなかった痛みの裏側に、それはぴたりと貼りついていた。

 

『主様はお優しいから、救えなかった者を数えて、ご自分を責めてしまわれる』

 

琥珀姫の声は、もういつもの静けさに戻っていた。

 

『けれど、すべてを保とうと願われることだけは。どうか。それだけは』

 

『……うん。分かってる』

 

分かっていた。だから怖かった。分かっていてなお、胸のどこかでまだ囁きが続いているのが。僕はその囁きに蓋をした。今はまだ、蓋ができる。その下で囁きが消えていないことも、分かっていた。

 

◆ ◆ ◆

 

夕刻、後始末の書類を五番隊舎へ戻しに行った僕を、門前で小さな影が待っていた。

 

小柄な体に、おかっぱの黒髪。袖のない漆黒の装束。砕蜂さんだった。

 

「遺品目録の写しを受け取りに来た。五番隊ぶんの照合が済んだものだ。隠密機動で再点検する。出せ」

 

「あ、はい。今お持ちします」

 

僕は詰所から目録の写しを取って戻り、差し出した。砕蜂さんは受け取ると、その場で中をあらため始めた。指先が紙をめくる。一枚、また一枚。いつもの硬く正確な手つきだった。

 

けれど、何かが違った。

 

絞りで研いだ感覚が、いつもと違う気配を拾っていた。冷たくて鋭い、隠密機動の刃そのものの霊圧。それはいつも通りなのに、芯のところがすっぽりと抜け落ちている。張り詰めていた(つる)が一本だけ切れたまま、放られているような。

 

頁をめくる指が、同じ頁を二度めくって戻った。

 

僕はその抜けた場所の名前を、知っている気がした。修練場でも流魂街の街道でも、この人の目はいつも同じ背中を追っていた。その背中が皆を連れて現世へ落ちて、この人だけがここに残された。

 

「何だ」

 

砕蜂さんが顔を上げた。目がまっすぐ僕を捉えて、逸れない。

 

「貴様、何を見ている」

 

「あ、いえ。その」

 

見ていたのに気づかれた。僕は目を伏せた。伏せながら、どうしても一言だけ言いたくなった。

 

「……砕蜂さんは、大丈夫ですか。夜一さんが、いなくなって。その、お疲れではないかと。差し出がましいことを、すみません」

 

「黙れ」

 

声は荒れなかった。逆だった。温度が一段だけ下がって、平らになる。目録を持つ指の節が白くなり、瞬きが止まっていた。

 

「貴様に案じられる筋合いはない。私は隠密機動の任を果たしている。それだけだ。よけいな口を利くな」

 

「……すみません」

 

「目録は受け取った。下がれ」

 

砕蜂さんは目録の束の角を几帳面に揃えて、小脇に収めた。それから背を向けた。漆黒の装束が夕日の中を遠ざかっていく。小さな背中だった。置いていかれた者の背中だった。僕はそれを、見送ることしかできなかった。

 

置いていかれる痛みなら、僕も流魂街の昔に少しだけ知っている。だから胸の奥がしくりと疼いた。怖い人だ。僕を消すと言った人だ。それでもあの空洞を見てしまった後では、放っておけない気がした。

 

『主様』

 

念話の声は、いつもより甘かった。

 

『あのお方を、ずいぶん案じられるのですね』

 

『うん。心配なんだ。あんなに慕ってた人がいなくなって、平気なはずがないよ』

 

『……お優しいことでございます』

 

琥珀姫はそれきり、何も言わなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

夜になって、眠れないまま隊舎の廊下へ出た。

 

中庭の炉はもう火を落とされていた。月明かりの下に、掃き寄せられた灰の山がいくつも白く並んでいる。炉の跡からは薄い煙が、まだ一筋だけ細く立ちのぼっていた。

 

袖口を繕ったあの針目も、あの山のどれかに混ざっている。どの山かは、もう分からない。

 

明日にはあの山も片付けられる。通達は流魂街へ発ち、墓が建って、線香が上がる。そうして瀞霊廷は、完全にもとの顔に戻る。名前ごと伏せられた八人のことは、誰も口にしないまま。

 

僕の手に、救えた灯はひとつ残った。けれどその手でも、灰を人に戻すことだけはできない。

 

明日の朝も、鐘はいつもの刻に、いつもの数だけ鳴る。

 

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