『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第33話

第三十三話 手口、(さかのぼ)

 

 

浦原さんが消えて、技術開発局は宙に浮いた。

 

創設者を失った部署は頭のない体のようなものだった。誰も全体を把握していない。誰も装置の意味を知らない。残されたのは膨大な資料と、半端に動いたままの実験器具と、説明のつかない記録の山だけだった。

 

中央はそれを放っておけなかった。事件の原因は究明されなければならない。だが原因を作った当人はもう瀞霊廷にいない。逃げた者を裁く前に、まず紙の上から逆算するしかなかった。

 

人手が要た。僕も駆り出された。救護要員として後始末に関わった流れで、そのまま資料整理の末端に組み込まれた。難しい解析は上の人がやる。僕の役目はもっと地味だ。散らばった記録を種類ごとに分け、日付順に並べ、判読できる断片に印をつけて目録に載せる。倉庫の埃を吸いながら、ただそれだけを繰り返す。

 

それだけの、はずだった。

 

◆ ◆ ◆

 

資料は崩玉に関わるものが多かった。

 

もちろん表に「崩玉」とは書かれていない。隠語と数式と、技術者にしか読めない走り書きで埋まっている。半端に焼かれた紙も、途中で破り捨てられた草稿もある。逃げる間際に処分しようとして、しきれなかったものたちだ。僕にはほとんど意味が取れなかった。取れなくていい。取ろうとすれば、知りすぎている自分が露わになる。

 

(読むな。分けろ。並べろ。それだけでいい)

 

だから僕は手だけを動かした。中の下の新人らしく、与えられた範囲だけをもくもくと。前世の知識で意味の分かる箇所も、分からないふりで通り過ぎた。

 

分けても分けても、山は減らなかった。崩玉の出力を測った数値の列。魂魄の組成をいじった実験の覚書。どれも誰かの命と引き換えに書かれた数字に見えた。感じれば手が止まる。手が止まれば見咎められる。だから息を浅くして、ただの作業として崩し続けた。

 

けれど、ある一束で手が止まった。

 

虚の誘引(ゆういん)に関する記録だった。

 

おかしい、と最初に思った。瀞霊廷の術は虚を退けるためにある。穿界門で管理し、結界で寄せつけない。それが当たり前だ。なのにその束は逆を向いていた。虚を——それも上位の虚を、意図して呼び寄せるための研究。断界の歪みを利用して、特定の場所へ計画的に引き込む。退けるのではなく招くための術式が、几帳面な手で書き連ねてあった。

 

上位虚の誘引。断界を介した誘導。実験的に成功した事例あり。

 

読むまいとしたのに、読んでしまった。日付は伏せられている。場所も伏せられている。けれど「成功した」とだけは、確かに記されていた。誰かがこれを試した。試して、できてしまった。指の先から温度が引いていった。

 

「おい。手が止まってるぞ」

 

背後から声がして、束の端が手の中で跳ねた。監督役の年配の隊士が通路の角からこちらを見ていた。巡回の刻限だった。すっかり忘れていた。

 

「何かあったか」

 

(落ち着け。落ち着け、僕)

 

束を埃の山へ戻すか。それとも。

 

隠せば楽になる。目録から消してしまえば誰の目にも触れない。でも検証資料への作為は、露見すればそれだけで罪だ。棚の抜けがひとつ見つかれば、抜いた者探しが始まる。僕が「これを隠したがった」という事実だけが形に残る。だったら答えはひとつしかない。何もしないこと。職務どおりに扱うこと。

 

「いえ。あの……判読できる束です。印を、つけます」

 

声が上ずらないよう喉の奥で押さえた。隊士が近づいてきて、僕の手の中の束へ首を伸ばす。埃と黴の匂いのする沈黙がひと呼吸。それから興味なさそうに鼻を鳴らした。

 

「数式か。わからんな。目録に載せておけ」

 

「はい」

 

手のひらの汗を死覇装で拭ってから、束の端に判読可の印を捺し、番号を振り、目録に一行を書き足す。術式研究・用途不明。

 

(震えるな。ただの検証資料だ)

 

「そうか。続けろ」

 

足音が遠ざかっていく。僕は詰めていた息を少しずつ吐いた。いちばん見つけてほしくなかったものに、僕はたったいま自分の手で番号を振り、自分の字で目録に載せた。隠すよりずっと安全で、隠すよりずっと気持ちの悪い処理だった。

 

そして束を棚へ置く時になって、ようやく気づいた。

 

この束だけ、綴じが崩れていない。

 

周りの資料は焼かれ、破られ、処分の跡だらけだ。なのにこれだけは端が揃い、綴じ紐も新しく、筆跡は最初の頁から最後まで乱れひとつない。この山のどの資料とも手が違う。処分し損ねたものではなく——最初から、処分するつもりのなかったもの。

 

(まるで、見つけられるために置かれたみたいだ)

 

見つけた者はこれをどう読むだろう。技術開発局の山から出たのだから、浦原喜助の研究として読む。上位の虚を招き寄せる研究。事件を招いた男の、罪の証として。

 

誰かが、そう読まれることを願ってここへ置いたのだとしたら。

 

◆ ◆ ◆

 

実験的に成功した事例あり。

 

その一行を目でなぞった時、体のほうが先に思い出した。

 

裂けた夜空。降ってきた黒い巨体。肩に食い込んだ、担いだ彼の重み。短くなっていく教官の詠唱。あの夜の土の匂いまで、紙の埃の向こうから立ちのぼってきた。

 

五年目の現世実習。計画外のアジューカス級の大虚。学院の歴史にも例のない出来事だった。あの時も疑いはした。僕の漏れた霊圧が招いたのか、それとも誰かが——何かが招いたのか。けれど確かめようがなくて、心の隅に置いたまま四年、忘れたふりをしてきた。

 

その「別の何か」が、いま僕の手で番号を振られて目録に載っている。

 

(……あれは、偶然じゃなかった)

 

誰かがあの場へあのメノスを招き寄せた。新人の実習という、本来ありえない場所へ。何のためか。決まっている。あの場に、見たい相手がいたからだ。上位の虚を前にして、その相手がどう動くかを見るために。逃げるのか。隠れるのか。それとも何かを露わにするのか。

 

そして、この束をここへ置けた者。浦原さんに罪を着せて得をする者。上位の虚を意図して扱う手口を、この前の事件で中隊まるごと使ってみせた者。

 

藍染惣右介。

 

五年目のメノスも、虚化の実験も、根がひとつだ。同じ一つの手のひらから伸びている。卒業の根回しで僕を五番隊へ引き入れたのも、いま隊長として直属に置いているのも、たぶん同じ線の上にある。あの混乱で副隊長級が二人も駆けつけたことまで計算の内だったのかは、分からない。そこまでは読めない。読めないことのほうが、怖かった。

 

知っているのと、手口に触れるのとは、まるで違った。知識でしかなかったものが、紙の手触りと埃の匂いを持って僕の指の下にあった。

 

◆ ◆ ◆

 

倉庫を出ると、外はもう西日の色だった。

 

技術開発局の門の前に、人が立っていた。

 

白い羽織。眼鏡の奥の、穏やかな目。

 

「やあ、遺玉院くん」

 

藍染隊長だった。検証の進み具合を見に来たらしい。隊長が顔を出しても不思議のない場所だ。何もおかしくない。おかしくないのに、僕の足は門の手前で半歩、勝手に止まった。

 

「資料の整理を手伝ってくれているんだってね。ご苦労さま」

 

「……はい。いえ、あの。分けて並べるだけの仕事ですから」

 

「うん」

 

藍染隊長は僕の顔ではなく、埃で汚れた僕の手元を見た。ひと呼吸ぶん、長く。それから目を上げて、いつもの声で訊いた。

 

「どうだった。何か面白いものはあったかい」

 

(知ってて訊いてるのか。それとも、ただの世間話か)

 

倉庫の棚の、番号を振ったばかりの束。几帳面な筆跡。実験的に成功した事例あり。

 

「いえ」

 

僕は頭を下げた。礼の角度が浅すぎた気がして、下げ直した。

 

「僕には、難しいものばかりで」

 

「そうか。読めないものを無理に読もうとしないのは、賢いことだよ」

 

藍染隊長は柔らかく言って、僕の横を通り過ぎた。すれ違う一瞬、白い羽織の裾が僕の袖に触れて、離れた。足音はそのまま倉庫のほうへ遠ざかっていく。あの束の眠る棚のほうへ。

 

(偶然だ。偶然に決まってる。……偶然なのか?)

 

僕は門を出て、来た道を戻って、角を二つ曲がってから、ようやく手のひらを開いた。印肉の朱が、指の腹にまだ薄く残っていた。

 

◆ ◆ ◆

 

僕には、何の証拠もない。

 

走り書きに藍染隊長の名はない。日付も場所も伏せられている。五年目のメノスとあの記録を結ぶ線は、僕の頭の中にしか存在しない。前世の記憶という、誰にも見せられない一本の線だ。

 

仮に声を上げたとして、誰が信じる。何を根拠に。あの誘引の手法は五年目の実習のメノスと同じ手口です——そう口にした瞬間、問いはこちらへ返ってくる。あの場にいた一人の新人が、なぜ手口の系譜を見抜けるのか。糸を一本でも引けば、僕という編み目の全部がほどけていく。神になろうとする者を告発しようとして、神になりたくない僕のほうが先に標本にされる。

 

だから、口をつぐむ。それしかない。

 

これが、先を知っているということの正体だった。倒れる柱の名前を知っているだけ。柱が倒れる前に駆けつける足も、支える腕も、僕には生えてこない。手はいつも空っぽのままだった。

 

ただひとつだけ、息のつける発見もあった。

 

資料のどこにも、久南さんのことを追った形跡がなかったのだ。

 

事件の直後からずっと怖れていた。久南さんの核を守った時、琥珀姫の力の名残がどこかに残っていたかもしれない。浦原さんはああいう人だ。微かな痕跡も見逃さない。もし拾って追われていたら、僕の秘密はいちばん危ういところから崩れる。

 

けれど資料の流れを見るかぎり、その線はなかった。あの人は事件の収拾と八人を逃がす支度に追われて、問いの続きを書き残す暇もないまま現世へ落ちた。遠い側の火は、ひとつ消えている。

 

近い側の火は消えていない。今日、倉庫の門で、あの穏やかな声に名を呼ばれたばかりだ。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、内界で、僕は資料のことを琥珀姫に話した。

 

声に出したのは初めてだった。誰にも言えないことを、ひとつだけ言える相手。夜の海は凪いで、波の音が遠かった。灯篭の灯だけが、いつもより低く揺れていた。

 

「今日、倉庫でね。虚を呼び寄せるための研究を見つけたんだ。五年目のメノスは、たぶん藍染隊長が呼び寄せたものだった。僕を試すために。前からずっと、見られてた」

 

「ええ」

 

琥珀姫は静かに答えた。驚きはなかった。

 

「あの方の手は、最初から主様に伸びておりました」

 

「……最初から?」

 

「入学のあの朝。浅打を授かった、あの時から。あの方は主様をご覧になっておりました。わたくしには、わかっておりました」

 

この前の夜に初めて聞いた言葉が、耳の奥で鳴った。獣の匂い。あの言葉はあの夜に生まれたものじゃない。入学の朝からずっと、彼女の中にあった。

 

「……なんで、言ってくれなかったの」

 

「申し上げれば、主様はあの方を恐れて不自然にお避けになります。それがかえって、あの方の興味を引くと存じておりましたから」

 

灯篭の灯がひとつ、ふっと高くなった。

 

「あの方は主様を欲しがっておられます。手のひらに乗せて、いつまでも眺めていたいと。標本のように。永遠に。わたくしには、それが我慢なりません」

 

灯は、なかなか元の高さに戻らなかった。琥珀姫はそれきり黙って、夜の海を見ていた。

 

「……うん。気をつける」

 

僕にはそれしか返せなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

部屋に戻って、僕は天井を見上げた。

 

手口が遡っていく。この前の事件から、五年目のメノスへ。メノスから、入学の朝へ。僕が逃げて隠れて目立たないつもりで生きてきた時間の全部を、あの人は静かに見ていた。手のひらに乗せた小さな虫を、眺めるように。

 

あの手口には見覚えがある。失われる前に全部を保ちたいと、事件の夜に一度だけ願って、僕が蓋をしたもの。あの人はあれに蓋をせず、最後まで走り抜けた人だ。入口の匂いだけが、同じだった。

 

正体はまだ割れていない。割れていないからこそ、あの人は僕を面白がって手元に置いている。バレないまま、ずっと観察され続ける。それがいちばん長く続く牢獄(ろうごく)だった。何も知らない顔で、手口の系譜をひとりだけ知りながら、これから百年。

 

灯りを消そうとして、手が一拍止まった。

 

窓の外、隊舎の方角に灯りがひとつだけ残っていた。隊長室の窓だ。

 

(……まだ、起きてる)

 

あの灯りの下で、あの人は今夜も何かを読んでいる。誰かの報告を。誰かの記録を。——もしかしたら、今日僕が番号を振った、目録のあの一行を。

 

僕は灯りを消した。暗がりの中からは、あの窓だけが、よく見えた。

 

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