その夜から、僕は毎晩、彼女に会いに行くようになった。
正確に言えば、会いに「行く」のではない。
眠れば、彼女がいた。
藁布団に入って目を閉じる。意識が沈む。気がつくとあの夜の海辺に立っていて、振り返れば、琥珀姫が深々と頭を下げている。金と琥珀の髪、長く垂れるベール。礼のたびに、腰の鎖の先で琥珀の珠がちりんと鳴る。
「お待ちしておりました。主様」
毎晩、同じ言葉だった。
それも、ただ意味が同じというのではない。声の高さも頭を下げる深さも、珠の鳴る拍まで、一晩も違わなかった。
(……録音、みたいだ)
前世の言葉が浮かんだ。浮かんでから、続きを考えてしまった。僕が来ない夜、この人はこの海辺で、ずっとあの姿勢のまま待っているんだろうか。
訊けなかった。
訊けば、「はい」と返ってきそうだったからだ。
礼を尽くされるたびに、足の裏が水面から浮き上がっていくようで、座りが悪かった。僕にできるのは、同じ深さで頭を下げ返すことだけだった。
不思議なことに、内界の時間は外の時間と揃っていなかった。
数日ここで過ごしたつもりでも、目を開ければ夜明け前の寮の薄暗がりにいる。現実では、ほんの数刻。
「琥珀姫。ここでは、時の流れが外と違うのですか」
「ええ、その通りです」
琥珀姫はゆっくり頷いた。
「斬魄刀の内界は、主様の魂の奥にある場所。外の
それなら、と思った。寝ている間に、何日分も鍛えられる。九年しかない僕には、これ以上ない修行場だ。
そう考えた顔を、読まれたらしい。
「ただし、主様」
彼女は僕の頬に、手の甲をそっと寄せた。冷たくも温かくもない、ただ確かな感触だった。
「ここで重ねた疲労は、主様のお身体に蓄積されます。長く励まれることは、お控えくださいませ」
「……はい」
返事だけは、素直にした。
半分は、聞き流していた。眠りながら鍛えられるなら、それに勝る近道はないのだから。
修行の最初は、霊圧の接続練習だった。
「まずは、わたくしと主様の繋がりを深めましょう」
琥珀姫が先に腰を下ろし、向かいに座った僕へ両手を差し出した。
「主様の霊圧を、わたくしへゆっくりと流していただけますか」
「……どうやって、ですか」
「呼吸を整え、御心を澄ませて。あとは、ただ『繋がる』とお念じになるだけです」
言われた通りにした。深く吸ってゆっくり吐き、繋がる、と念じる。
何も起きなかった。
指先は、閉じたままだった。それどころか、念じた瞬間に経絡がいっそう固く締まるのが分かった。長年そう躾けてきた体だ。外へ向けて開けという命令のほうを、体が疑っている。
「……すみません。出し方が、分からないです」
本当は、出し方なら知っていた。霊圧測定の時、計算した量だけを漏らす操作は何度もした。でもあれは、偽るための放出だ。量を測って、嘘の数字を作るための。
誰かに預けるために開くやり方を、僕は知らなかった。
衣擦れの音がした。
顔を上げると、琥珀姫が膝の触れそうな近さまで、すっと寄っていた。
近い、と思う間もなく、彼女は僕の両手を下から包むように支えた。
「わたくしは、外の方ではありません。お測りにならないで。ただ、お預けくださいませ」
預ける。
その一語で、指先の強張りがわずかにほどけた。
もう一度、息を吸って、吐く。今度は、数字を考えなかった。
僕の指先から、琥珀色の光が糸のように、ふわりと彼女の指先へ渡った。
「……ッ」
息を止めた僕の前で、琥珀姫はその糸を両手で受け取り、胸元へ引き寄せた。
「お見事です。主様の霊圧は、温かくて、優しゅうございます」
頬が熱くなった。
照れ、というのとは少し違う。流魂街では、霊圧は隠すものだった。老人たちは「気をつけて生きるんだぞ」と言い、母と名乗ってくれた女の人は、ただ案じる目をした。温かい、と評されたのは生まれて初めてだった。
僕は言葉が出ないまま、自分の指先から伸びる琥珀色の糸を、ただ眺めていた。
ツケは、幾日もしないうちに回ってきた。
昼の鬼道の教場で、立ったまま視界が白くなった。
詠唱の順番を待つ列の中で、膝が抜けかける。隣に並んでいた同期が肘を掴んでくれて、どうにか立て直した。
「おい、遺玉院。顔色が悪いぞ」
「……すみません。少し、寝不足で」
詠唱を見ていた教官が、列のこちらへ目を留めた。
(まずい。目立った)
頭を下げて列に戻り、奥歯を噛んだ。
霊圧はずっと「中の下」を守っている。それなのに顔色で名前を覚えられたら、何の意味もない。
寝不足、という言い訳は、嘘のようで嘘ではなかった。体は毎晩眠っている。ただ、眠ったまま、内界で何日分も修行している。琥珀姫の警告は、言葉どおりの意味だったのだ。
平穏のために積んでいる修行が、先に僕を削っていた。
その夜から、内界に通う刻限を半分に減らした。
琥珀姫は何も言わず、一語も違わない言葉で僕を迎え続けた。
通いを減らして、しばらく経った夜だった。
「主様。今宵は、わたくしの力の片鱗をお見せいたしますわ」
琥珀姫は傍らの灯篭の一つに、手をかざした。
灯篭の中の琥珀色の灯がふわりと浮かび上がり、彼女の手のひらの上で、小さな水滴の形に変わった。
「これは、ある日の、雨の記憶です」
「……雨の、記憶?」
「ええ。記憶も霊圧も、傷も想いも。形あるものも、形なきものも。わたくしは、すべてを『標本』として保つことができるのです」
彼女が息を吹きかけると、水滴はほどけて散り、灯篭の中の灯に戻った。
「これを応用すれば、傷を『負う前の状態』として保ち、後で復元することもできます。命を、ある瞬間で『止める』ことも」
僕は息を呑んだ。
回道とは、まるで原理が違う。
傷を「治す」のではなく、「負う前」に戻す。
命を「救う」のではなく、「保存」する。
頭の中で、応用が勝手に組み上がっていった。
斬られる直前の自分を保存しておけば、致命傷ごと巻き戻せる。誰の回道にも頼らず、誰にも借りを作らず、僕は死なずに済む。
それから。
(待て。それ……それ、原作ごと、書き換えられるんじゃ———)
前世の記憶が確かなら、九年後の夜に、
もう起きると決まっている出来事に、手が届いてしまう力。たぶん、この世でただ一つの。
そこから先を、考えるのをやめた。
やめたはずなのに、気づけば膝の上で、指を一本ずつ折っていた。数えていたのだ。保存できるものを。命。記憶。あの夜。それから。
僕は手のひらを固く握って、数を消した。
「———主様」
声が、半音低くなった。
顔を上げて、気づいた。
地平線まで続く水面の灯が、ひとつ残らず、揺れるのをやめていた。
琥珀姫は微笑みの形のまま、瞬きをしていなかった。
「この力は奥深く、扱いを誤れば主様の御心を
標本師。
ついさっきまで、指を折って数えていたのは誰だ。
世のすべてを、自分の手元に。その望みの行き着く先を、僕は前世の記憶で知っている。あの男の末路と、同じ形だ。力を持つ者が、世界を自分のものにしたいと願ってしまう病。
最初は誰かの命。次は誰かの記憶。そのうち、世界の「失われた瞬間」を全部、手元の棚に並べたくなる。気づいた時には、僕は世界を標本箱にしている。
「けれど、主様」
水面の灯が、ひとつ、またひとつと揺れ始めた。
琥珀姫の声に、いつもの温度が戻っていた。
「主様の御心には清らかなところがございます。誰かを傷つけまいとする———その恐れごと、この力を授かるに
清らか。
警告よりも、その一語のほうが深く刺さった。
違う。
僕は清らかなんかじゃない。誰かを救うためにこの力が欲しいんじゃない。自分を保存したいだけだ。傷からも目からも時間からも自分だけを切り離して、誰にも見つからない場所に、閉じこもっていたいだけだ。
口には、出せなかった。
拳を握り込んだまま俯いているうちに、その夜の内界は終わった。
その夜を境に、内界での僕は口数が減った。
彼女は変わらず、寸分違わぬ礼で僕を迎えた。「主様」と呼び、僕の修練を信じ、惜しみなく力を貸してくれた。
そのたびに、胸の重りがひとつ増えた。
このまま勘違いされ続けたら、僕は嘘をついたまま、この人の力を借り続けることになる。
警告から数日が過ぎた夜、僕は海辺に立ったまま、口の中で言葉を組み立てた。壊して、組み直して、また壊した。丁寧に言おうとするほど、言葉は遠のいた。
結局、組み立てた言葉を全部捨てて、ただ正直に言うことにした。
「琥珀姫」
「……はい、主様」
「あの……実は、僕は」
深く息を吸った。
「立派な、者じゃ、ないんです」
灯篭の灯が、わずかに揺れた。
「はい」
琥珀姫は、静かにそう答えた。
まるで、続きまで聞き終えたあとのような返事だった。
「……え」
「主様の魂とわたくしの魂は、深く結ばれているのです。隠そうとなさったことも、その奥にある恐れも———初めから、存じておりました」
初めから。
一瞬、息の仕方を忘れた。
初めから、ということは。
井戸の縁で覚えた制御も。教官の帳面の「中の下」も。九年後から逆算した計画も。指を折って数えた、あの暗い
(じゃあ、全部———全部、視えてたのか)
僕は、隠すことだけで生き延びてきた。霊圧を隠し、計画を隠し、怖さを隠した。外の誰にも、ほころび一つ見せなかった。
その僕の内側に、最初から、隠しようのない相手が住んでいた。
毎晩の出迎えが、耳の奥でよみがえった。
一語も違わない、「お待ちしておりました」。
いつもの癖で、逃げ場を数えた。一つも、見つからなかった。ここは僕の魂の奥で、僕は眠るたびに、ここへ帰ってくるのだから。
足元の水面が、急に深く感じられた。
腹は、そこで決まった。
どうせ視えているのなら、僕の口から言うしかない。勝手に知られているのと、自分の口で打ち明けるのとでは、違う。それくらいしか、この人に返せる誠意が残っていない。
浅くなった息のまま、続けた。
「僕は……誰かを救おうとして、修行してるんじゃないんです。誰かを助けるために、回道を覚えたんでもないんです」
声が震えた。構わず続けた。
「ただ、怖いから。死にたくないから。誰にも見つかりたくないから。ひたすら逃げるための技を、磨いているだけ、なんです」
「だから、あなたが僕に向けてくれている敬意は、間違っています。僕はそんな立派な主じゃ、ありません。ごめんなさい」
頭を下げた。
長い沈黙が流れた。
沈黙の長さのぶんだけ、最悪の続きを想像した。失望されて、敬意の色が消えて、距離を置かれる。それでも仕方ない。本当のことを、言ったのだから。
「———主様」
おそるおそる、顔を上げた。
彼女は変わらず、優しく微笑んでいた。
「お打ち明けくださり、ありがとうございます」
「……え?」
「主様のお口から伺える日を、お待ちしておりました」
聞き慣れた、はずの言葉だった。
「けれど、主様」
彼女は僕の目を、まっすぐ見た。
「『怖い』『死にたくない』『誰にも見つかりたくない』———それは、立派でないこと、なのでしょうか」
答えられなかった。
「死を恐れない者など、おりません。誰かに見つかりたくないと願うのは、誰かを傷つけたくないからではありませんか。ひたすら逃げる技を磨くのは、奪う技を磨くより、よほど難しいのですよ」
「主様。わたくしが敬うのは、立派な志ではありません。主様の、そのひたむきさです」
僕は何も言えなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
ただ、目の奥がじわりと熱くなった。
「主様が逃げ続けたいと願うなら。わたくしは、主様が誰よりも巧みに逃げおおせるよう、お支えいたします。それで、よろしゅうございますか」
「……はい」
零れた声は、震えていた。
「はい。お願い、します」
琥珀姫は深く、頭を垂れた。
ちりん、と琥珀の珠が鳴った。
「かしこまりました。主様」
地平線まで続く水面の灯が、彼女の言葉に応えるように、一斉に大きく揺らいだ。
それから、ゆっくり、いつもの静かな光に戻った。
朝の鐘が鳴った。
目を開けると、頬が濡れていた。指で拭うと、ほんのり温かい。内界で、自分が泣いていたのだと知った。
枕元の浅打を握る。
鞘越しに伝わる気配が、昨日までより、ほんのわずかに柔らかい。
僕は息を深く吸って、ゆっくり吐いた。
胸の奥で、長く塞いでいた栓がほんの少しだけ緩んでいた。
「立派じゃない」と認めたら、その瞬間に世界が崩れると思っていた。
でも、世界は崩れなかった。
ただ、僕のそばに灯がひとつ増えた。
それだけのことだった。
それだけのことが、僕には、とても大きかった。
そして、いつもの修行に、出かけた。
逃げるための、修行に。
今度は、独りではなく。