『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第4話

第四話 灯篭、()らぐ

 

 

その夜から、僕は毎晩、彼女に会いに行くようになった。

 

正確に言えば、会いに「行く」のではない。

眠れば、彼女がいた。

 

藁布団に入って目を閉じる。意識が沈む。気がつくとあの夜の海辺に立っていて、振り返れば、琥珀姫が深々と頭を下げている。金と琥珀の髪、長く垂れるベール。礼のたびに、腰の鎖の先で琥珀の珠がちりんと鳴る。

 

「お待ちしておりました。主様」

 

毎晩、同じ言葉だった。

 

それも、ただ意味が同じというのではない。声の高さも頭を下げる深さも、珠の鳴る拍まで、一晩も違わなかった。

 

(……録音、みたいだ)

 

前世の言葉が浮かんだ。浮かんでから、続きを考えてしまった。僕が来ない夜、この人はこの海辺で、ずっとあの姿勢のまま待っているんだろうか。

 

訊けなかった。

訊けば、「はい」と返ってきそうだったからだ。

 

礼を尽くされるたびに、足の裏が水面から浮き上がっていくようで、座りが悪かった。僕にできるのは、同じ深さで頭を下げ返すことだけだった。

 

◆ ◆ ◆

 

不思議なことに、内界の時間は外の時間と揃っていなかった。

 

数日ここで過ごしたつもりでも、目を開ければ夜明け前の寮の薄暗がりにいる。現実では、ほんの数刻。

 

「琥珀姫。ここでは、時の流れが外と違うのですか」

 

「ええ、その通りです」

 

琥珀姫はゆっくり頷いた。

 

「斬魄刀の内界は、主様の魂の奥にある場所。外の(ことわり)には縛られません」

 

それなら、と思った。寝ている間に、何日分も鍛えられる。九年しかない僕には、これ以上ない修行場だ。

 

そう考えた顔を、読まれたらしい。

 

「ただし、主様」

 

彼女は僕の頬に、手の甲をそっと寄せた。冷たくも温かくもない、ただ確かな感触だった。

 

「ここで重ねた疲労は、主様のお身体に蓄積されます。長く励まれることは、お控えくださいませ」

 

「……はい」

 

返事だけは、素直にした。

半分は、聞き流していた。眠りながら鍛えられるなら、それに勝る近道はないのだから。

 

修行の最初は、霊圧の接続練習だった。

 

「まずは、わたくしと主様の繋がりを深めましょう」

 

琥珀姫が先に腰を下ろし、向かいに座った僕へ両手を差し出した。

 

「主様の霊圧を、わたくしへゆっくりと流していただけますか」

 

「……どうやって、ですか」

 

「呼吸を整え、御心を澄ませて。あとは、ただ『繋がる』とお念じになるだけです」

 

言われた通りにした。深く吸ってゆっくり吐き、繋がる、と念じる。

 

何も起きなかった。

 

指先は、閉じたままだった。それどころか、念じた瞬間に経絡がいっそう固く締まるのが分かった。長年そう躾けてきた体だ。外へ向けて開けという命令のほうを、体が疑っている。

 

「……すみません。出し方が、分からないです」

 

本当は、出し方なら知っていた。霊圧測定の時、計算した量だけを漏らす操作は何度もした。でもあれは、偽るための放出だ。量を測って、嘘の数字を作るための。

誰かに預けるために開くやり方を、僕は知らなかった。

 

衣擦れの音がした。

顔を上げると、琥珀姫が膝の触れそうな近さまで、すっと寄っていた。

 

近い、と思う間もなく、彼女は僕の両手を下から包むように支えた。

 

「わたくしは、外の方ではありません。お測りにならないで。ただ、お預けくださいませ」

 

預ける。

 

その一語で、指先の強張りがわずかにほどけた。

もう一度、息を吸って、吐く。今度は、数字を考えなかった。

 

僕の指先から、琥珀色の光が糸のように、ふわりと彼女の指先へ渡った。

 

「……ッ」

 

息を止めた僕の前で、琥珀姫はその糸を両手で受け取り、胸元へ引き寄せた。

 

「お見事です。主様の霊圧は、温かくて、優しゅうございます」

 

頬が熱くなった。

 

照れ、というのとは少し違う。流魂街では、霊圧は隠すものだった。老人たちは「気をつけて生きるんだぞ」と言い、母と名乗ってくれた女の人は、ただ案じる目をした。温かい、と評されたのは生まれて初めてだった。

 

僕は言葉が出ないまま、自分の指先から伸びる琥珀色の糸を、ただ眺めていた。

 

◆ ◆ ◆

 

ツケは、幾日もしないうちに回ってきた。

 

昼の鬼道の教場で、立ったまま視界が白くなった。

詠唱の順番を待つ列の中で、膝が抜けかける。隣に並んでいた同期が肘を掴んでくれて、どうにか立て直した。

 

「おい、遺玉院。顔色が悪いぞ」

 

「……すみません。少し、寝不足で」

 

詠唱を見ていた教官が、列のこちらへ目を留めた。

 

(まずい。目立った)

 

頭を下げて列に戻り、奥歯を噛んだ。

霊圧はずっと「中の下」を守っている。それなのに顔色で名前を覚えられたら、何の意味もない。

 

寝不足、という言い訳は、嘘のようで嘘ではなかった。体は毎晩眠っている。ただ、眠ったまま、内界で何日分も修行している。琥珀姫の警告は、言葉どおりの意味だったのだ。

平穏のために積んでいる修行が、先に僕を削っていた。

 

その夜から、内界に通う刻限を半分に減らした。

琥珀姫は何も言わず、一語も違わない言葉で僕を迎え続けた。

 

◆ ◆ ◆

 

通いを減らして、しばらく経った夜だった。

 

「主様。今宵は、わたくしの力の片鱗をお見せいたしますわ」

 

琥珀姫は傍らの灯篭の一つに、手をかざした。

 

灯篭の中の琥珀色の灯がふわりと浮かび上がり、彼女の手のひらの上で、小さな水滴の形に変わった。

 

「これは、ある日の、雨の記憶です」

 

「……雨の、記憶?」

 

「ええ。記憶も霊圧も、傷も想いも。形あるものも、形なきものも。わたくしは、すべてを『標本』として保つことができるのです」

 

彼女が息を吹きかけると、水滴はほどけて散り、灯篭の中の灯に戻った。

 

「これを応用すれば、傷を『負う前の状態』として保ち、後で復元することもできます。命を、ある瞬間で『止める』ことも」

 

僕は息を呑んだ。

 

回道とは、まるで原理が違う。

傷を「治す」のではなく、「負う前」に戻す。

命を「救う」のではなく、「保存」する。

 

頭の中で、応用が勝手に組み上がっていった。

 

斬られる直前の自分を保存しておけば、致命傷ごと巻き戻せる。誰の回道にも頼らず、誰にも借りを作らず、僕は死なずに済む。

 

それから。

 

(待て。それ……それ、原作ごと、書き換えられるんじゃ———)

 

前世の記憶が確かなら、九年後の夜に、仮面(かめん)を被らされる八人がいる。居場所を失う浦原と夜一がいる。あの夜が来る前の彼らを保存しておけば、起きてしまうはずのことを、なかったことにできるかもしれない。

 

もう起きると決まっている出来事に、手が届いてしまう力。たぶん、この世でただ一つの。

 

そこから先を、考えるのをやめた。

 

やめたはずなのに、気づけば膝の上で、指を一本ずつ折っていた。数えていたのだ。保存できるものを。命。記憶。あの夜。それから。

 

僕は手のひらを固く握って、数を消した。

 

「———主様」

 

声が、半音低くなった。

 

顔を上げて、気づいた。

地平線まで続く水面の灯が、ひとつ残らず、揺れるのをやめていた。

 

琥珀姫は微笑みの形のまま、瞬きをしていなかった。

 

「この力は奥深く、扱いを誤れば主様の御心を(むしば)みます。世のすべてを保ちたいと願えば、主様は『標本師』となり命を弄ぶ者となるでしょう」

 

標本師。

 

ついさっきまで、指を折って数えていたのは誰だ。

 

世のすべてを、自分の手元に。その望みの行き着く先を、僕は前世の記憶で知っている。あの男の末路と、同じ形だ。力を持つ者が、世界を自分のものにしたいと願ってしまう病。

 

最初は誰かの命。次は誰かの記憶。そのうち、世界の「失われた瞬間」を全部、手元の棚に並べたくなる。気づいた時には、僕は世界を標本箱にしている。

 

「けれど、主様」

 

水面の灯が、ひとつ、またひとつと揺れ始めた。

琥珀姫の声に、いつもの温度が戻っていた。

 

「主様の御心には清らかなところがございます。誰かを傷つけまいとする———その恐れごと、この力を授かるに相応(ふさわ)しいお方です」

 

清らか。

 

警告よりも、その一語のほうが深く刺さった。

 

違う。

僕は清らかなんかじゃない。誰かを救うためにこの力が欲しいんじゃない。自分を保存したいだけだ。傷からも目からも時間からも自分だけを切り離して、誰にも見つからない場所に、閉じこもっていたいだけだ。

 

口には、出せなかった。

拳を握り込んだまま俯いているうちに、その夜の内界は終わった。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜を境に、内界での僕は口数が減った。

 

彼女は変わらず、寸分違わぬ礼で僕を迎えた。「主様」と呼び、僕の修練を信じ、惜しみなく力を貸してくれた。

そのたびに、胸の重りがひとつ増えた。

このまま勘違いされ続けたら、僕は嘘をついたまま、この人の力を借り続けることになる。

 

警告から数日が過ぎた夜、僕は海辺に立ったまま、口の中で言葉を組み立てた。壊して、組み直して、また壊した。丁寧に言おうとするほど、言葉は遠のいた。

 

結局、組み立てた言葉を全部捨てて、ただ正直に言うことにした。

 

「琥珀姫」

 

「……はい、主様」

 

「あの……実は、僕は」

 

深く息を吸った。

 

「立派な、者じゃ、ないんです」

 

灯篭の灯が、わずかに揺れた。

 

「はい」

 

琥珀姫は、静かにそう答えた。

まるで、続きまで聞き終えたあとのような返事だった。

 

「……え」

 

「主様の魂とわたくしの魂は、深く結ばれているのです。隠そうとなさったことも、その奥にある恐れも———初めから、存じておりました」

 

初めから。

 

一瞬、息の仕方を忘れた。

 

初めから、ということは。

井戸の縁で覚えた制御も。教官の帳面の「中の下」も。九年後から逆算した計画も。指を折って数えた、あの暗い算段(さんだん)も。今この瞬間の、この動揺も。

 

(じゃあ、全部———全部、視えてたのか)

 

僕は、隠すことだけで生き延びてきた。霊圧を隠し、計画を隠し、怖さを隠した。外の誰にも、ほころび一つ見せなかった。

その僕の内側に、最初から、隠しようのない相手が住んでいた。

 

毎晩の出迎えが、耳の奥でよみがえった。

一語も違わない、「お待ちしておりました」。

 

いつもの癖で、逃げ場を数えた。一つも、見つからなかった。ここは僕の魂の奥で、僕は眠るたびに、ここへ帰ってくるのだから。

 

足元の水面が、急に深く感じられた。

 

腹は、そこで決まった。

どうせ視えているのなら、僕の口から言うしかない。勝手に知られているのと、自分の口で打ち明けるのとでは、違う。それくらいしか、この人に返せる誠意が残っていない。

 

浅くなった息のまま、続けた。

 

「僕は……誰かを救おうとして、修行してるんじゃないんです。誰かを助けるために、回道を覚えたんでもないんです」

 

声が震えた。構わず続けた。

 

「ただ、怖いから。死にたくないから。誰にも見つかりたくないから。ひたすら逃げるための技を、磨いているだけ、なんです」

 

「だから、あなたが僕に向けてくれている敬意は、間違っています。僕はそんな立派な主じゃ、ありません。ごめんなさい」

 

頭を下げた。

 

長い沈黙が流れた。

 

沈黙の長さのぶんだけ、最悪の続きを想像した。失望されて、敬意の色が消えて、距離を置かれる。それでも仕方ない。本当のことを、言ったのだから。

 

「———主様」

 

おそるおそる、顔を上げた。

 

彼女は変わらず、優しく微笑んでいた。

 

「お打ち明けくださり、ありがとうございます」

 

「……え?」

 

「主様のお口から伺える日を、お待ちしておりました」

 

聞き慣れた、はずの言葉だった。

 

「けれど、主様」

 

彼女は僕の目を、まっすぐ見た。

 

「『怖い』『死にたくない』『誰にも見つかりたくない』———それは、立派でないこと、なのでしょうか」

 

答えられなかった。

 

「死を恐れない者など、おりません。誰かに見つかりたくないと願うのは、誰かを傷つけたくないからではありませんか。ひたすら逃げる技を磨くのは、奪う技を磨くより、よほど難しいのですよ」

 

「主様。わたくしが敬うのは、立派な志ではありません。主様の、そのひたむきさです」

 

僕は何も言えなかった。

何を言えばいいのか、分からなかった。

ただ、目の奥がじわりと熱くなった。

 

「主様が逃げ続けたいと願うなら。わたくしは、主様が誰よりも巧みに逃げおおせるよう、お支えいたします。それで、よろしゅうございますか」

 

「……はい」

 

零れた声は、震えていた。

 

「はい。お願い、します」

 

琥珀姫は深く、頭を垂れた。

ちりん、と琥珀の珠が鳴った。

 

「かしこまりました。主様」

 

地平線まで続く水面の灯が、彼女の言葉に応えるように、一斉に大きく揺らいだ。

それから、ゆっくり、いつもの静かな光に戻った。

 

◆ ◆ ◆

 

朝の鐘が鳴った。

 

目を開けると、頬が濡れていた。指で拭うと、ほんのり温かい。内界で、自分が泣いていたのだと知った。

 

枕元の浅打を握る。

鞘越しに伝わる気配が、昨日までより、ほんのわずかに柔らかい。

 

僕は息を深く吸って、ゆっくり吐いた。

胸の奥で、長く塞いでいた栓がほんの少しだけ緩んでいた。

 

「立派じゃない」と認めたら、その瞬間に世界が崩れると思っていた。

でも、世界は崩れなかった。

ただ、僕のそばに灯がひとつ増えた。

 

それだけのことだった。

それだけのことが、僕には、とても大きかった。

 

そして、いつもの修行に、出かけた。

 

逃げるための、修行に。

 

今度は、独りではなく。

 

第四話 了

 

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