『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第5話

第五話 (ふう)じて、灯せ

 

 

夜が、変わった。

 

昼の僕はこれまでと変わらない。走って隠れ、避けて治す。教場では中の下の顔で、誰とも深くは関わらない。

変わったのは、眠ってからだ。

布団に入って目を閉じると、僕はあの夜の海辺に立っている。水面に琥珀色の灯篭がぽつぽつと揺れて、振り返れば、彼女が深々と頭を垂れて待っている。

 

「お待ちしておりました。主様」

 

毎晩それを繰り返すうちに、外の僕と内の僕の境目が少しずつ薄くなっていった。

僕はもう、彼女のいない毎日には戻れないところまで来ていた。

 

◆ ◆ ◆

 

「主様。本日は、わたくしの力のお話をいたしましょう」

 

ある夜、琥珀姫はいつもの海辺でそう切り出した。

水面の灯篭が、いつもより数を増して揺れていた。

 

「わたくしは『万象を、保つ』者でございます」

 

彼女は水面に浮かぶ花を一輪、手のひらに掬い上げた。

 

「触れたものを、その瞬間のまま琥珀に閉じ込め、時から切り離す。それが、わたくしの力です」

 

白い指が、花を軽く握り込む。

開かれた手のひらの上で、花は琥珀の結晶に変わっていた。

花弁は開いたまま。(しべ)は、震えかけた形のまま。

 

「主様」と差し出されて、僕はおそるおそる受け取った。

驚くほど、温かい。手の中で、花は止まったまま生きていた。

 

「……戻せるん、ですか」

 

「ええ。わたくしが望めば、すぐに」

 

彼女が指先を振ると、琥珀の花はふわりと光がほどけて、元の花に戻った。

僕の手のひらの上で、何事もなかったように揺れている。

 

これは、強い。

強すぎる。

前世の記憶では、藍染の力は人の認識に干渉するものだったはずだ。彼女のこれは、世界そのものから対象を切り離す力だ。作用する場所の深さが、まるで違う。

死んでいく誰かを死ぬ前のまま琥珀に閉じ込めて、手元の棚に並べる———そういうことが、僕にはできてしまう。

 

僕は手の中の花を、急いで水面に返した。

ついさっきまで、あんなに綺麗だと思っていたのに。

 

「主様」

 

琥珀姫が僕の頬に、そっと手を寄せた。

 

「この力は確かに、危うき力。けれど、わたくしと主様の絆さえあれば、決して主様を蝕みません。どうかご安心くださいませ」

 

(……絆「さえ」、あれば?)

 

聞き返しかけて、やめた。

顔を上げると、彼女は灯篭の灯と同じ温度で微笑んでいた。いつもと、何ひとつ変わらずに。

絆なら、ある。大丈夫だ。

僕はそう思うことにして、頷いた。

 

「……はい。あの」

 

僕は言葉を選びながら、続けた。

 

「この力って、誰かを倒すためじゃなく……逃げるためだけに、磨いてもいいんでしょうか」

 

浅打を受け取った日から、決めていたことだった。

 

琥珀姫は、ゆっくり微笑んだ。

 

「もちろんです。むしろ、わたくしの本性は攻めるより守ることに、ずっと近うございます」

 

「……本当ですか」

 

「ええ」

 

彼女は立ち上がり、僕から数歩離れた。

 

「ご覧に入れますわ。主様、お逃げになって」

 

「……え?」

 

言い終わるより早く、彼女の指先に琥珀色の光が点った。

(つぶて)ほどの光が、まっすぐ僕へ飛んでくる。

 

「わ……ッ」

 

僕は横っ飛びに転がった。浅い水が跳ねて、袖まで濡れる。

顔を上げると、琥珀姫は波ひとつ立てない水面の上で、にこやかに微笑んでいた。

 

(撃ってきた! 本当に撃ってきた! うちの斬魄刀、容赦がない!)

 

「次は、お逃げにならないで」

 

「え」

 

二つ目の光が、今度は顔をめがけて飛んできた。

避けられない。

目をつぶりかけた、その寸前。

 

僕の眼前で、琥珀色の大輪の花が咲いた。

 

風を裂いていた音が、花弁に触れた瞬間に消えた。

花の奥で、光の礫が止まっている。勢いも熱も、音ごと閉じ込められて。

 

封花灯(ふうかとう)と申します。主様に向かうものは炎でも雷でも斬撃でも、この花が受け止めます」

 

僕は尻餅をついたまま、しばらく動けなかった。

怖かったからじゃない。綺麗だったからだ。

咲いた花の中で、攻撃が眠っている。こんな防ぎ方を、僕は見たことがなかった。

 

「次の技は、主様の御身体でお確かめいただきましょう」

 

「……はい?」

 

彼女が、軽く指を振った。

足元の水面から琥珀色の細い糸が幾筋も立ちのぼり、僕の影を縫い止めた。

 

体が、止まった。

 

指一本、動かない。

霊圧で振りほどこうとして、気づいた。力の入れどころが、ない。「動く前の僕」のまま留められて、踏ん張るための最初の一歩が、そもそも始まらない。

瞬きはできる。息もできる。なのに首から下だけが、別の誰かの持ち物のように静かだった。

 

目の前で、琥珀姫はにこにこと微笑んでいる。

 

(怖い。これ、怖い。笑顔のまま掛けるの、いちばん怖い)

 

琥珀縫(こはくぬ)いと申します。縛るのではなく、動く前のまま留めるのです。力ずくでは、抜けません」

 

糸が、ほどけた。

僕はその場にへたり込んだ。膝から下の感覚が戻るまで、少しかかった。

 

笑顔の人の前で、指一本動かせない数秒。

あれを、いつか僕が、誰かに向けるかもしれないのだ。

「標本師」。数日前の警告の意味が、初めて肌でわかった。

 

「そして三つ目は、古樹ノ雫(こじゅのしずく)

 

琥珀姫は僕に手を貸して立たせてから、続けた。

 

「刀先から雫を落とし、触れた場所をいっとき完全に留めます。これは、外の世界で主様ご自身の手でお試しなさいませ」

 

僕は濡れた袖のまま、三つの技を胸の中で並べ直した。

どれも、敵を斬る技じゃなかった。

 

「……全部、僕が戦わなくていい技、なんですね」

 

「ええ」

 

琥珀姫は嬉しそうに頷いた。

 

「敵を斬らず、敵の動きを止め攻撃を封じ、自分が逃げる時間を作る。主様のお望み通りの技でございます」

 

僕は長く息を吐いた。

斬魄刀は本来、敵を斬るための武器だ。それなのに彼女は、「斬らない」という願いのほうを、この刀の本性だと言ってくれた。

 

「……ありがとう、ございます」

 

声が、震えた。

 

「それに、主様」

 

琥珀姫は少しだけ声を低くした。

 

「この三つは、わたくしの力のほんの入り口にございます」

 

「……入り口」

 

「ええ。その奥のことは、いずれ。主様の魂が、もっと深くへ届いた時に」

 

◆ ◆ ◆

 

「主様」

 

琥珀姫は居住まいを正し、深々と頭を垂れた。

 

「わたくしの真の名を、お聴きになりますか」

 

「……え」

 

「主様の魂は、もう、わたくしの名に届いています」

 

返事を待たずに彼女は顔を上げ、一歩、近づいた。

衣擦れの音が、水面に吸われて消える。

気づけば、水面いっぱいの灯が、ひとつ残らず揺れるのをやめていた。

 

ベール越しの吐息が、耳に触れた。

 

「わたくしの名は———」

 

一音。

また、一音。

囁きが耳から入って、もっと深いところへ落ちていく。

名前のひと文字ごとに、体の芯がその音の形に編み直されていく。心臓が一度、その名に合わせて拍を打ち直した。

 

囁きが、終わった。

彼女の唇は一拍だけ遅れて、耳元から離れた。

 

「……ようやく」

 

囁きと同じ小ささの声が、確かに聞こえた。

僕が顔を上げた時には、彼女はもう元の場所に立って、いつもの微笑みを浮かべていた。

 

(長く、待たせてしまったんだろうか)

 

胸の真ん中に、彼女の名前がある。

教わった、というのとは違う。名前で、結ばれた。そういう感触だった。

背中を、細い汗がひとすじ伝った。

名を授かるとは、こんなにも体に響くものなのか。

 

水面の灯がいっせいに大きく揺れた。その揺れはしばらく、やまなかった。

 

「これで主様は、わたくしを外の世界でも呼ぶことができます」

 

琥珀姫はもう一度、頭を垂れた。

 

「主様の声は、どこにいても、わたくしに届きます」

 

それから彼女は、ほんの一拍おいて言い直した。

 

「———わたくしだけに、届きます」

 

誰にも聞かれない声が、一つあるということだ。

それは僕には、素直に心強かった。

 

「お試しになる時は、どうか人気(ひとけ)のない場所で。ね、主様」

 

僕は深く頷いた。

言われるまでもない。

 

◆ ◆ ◆

 

朝の鐘で、目が覚めた。

 

枕元の浅打を握る。

胸の真ん中に、彼女の名前が確かにある。

 

———試したい。でも、絶対に、誰にも見られない場所で。

 

見えざる帝国が、遠くからこちらを観ているかもしれない。入学の日からずっと、僕はそう思って生きてきた。瀞霊廷の中はもちろん、この真央霊術院の敷地ですら、安全とは言い切れない。

それでも院の外に出られない以上、選べる場所は一つだった。

敷地の奥にある、生徒の立ち入りが禁じられた山林。教官すらほとんど寄り付かないと聞く。

幸い、今日は休日だ。

見回りの刻限を頭の中でなぞってから、僕は寮舎を抜け出した。

 

◆ ◆ ◆

 

歩法で足音を消し、霊圧を漏らさず、山林の奥へ。

苔むした岩の間を抜けて、鳥の声が遠くなるまで深く入った。

霊圧の流れを、何度も確かめる。感じ取れる範囲に、誰の気配もない。木々の隙間から差す光だけが、苔の上で揺れていた。

 

僕は息を吸い、腰の浅打をゆっくり抜いた。

両手で柄を握る。

刀身が、応えるようにかすかに震えた。

 

胸の中で、彼女の真の名を呼ぶ。

そして、声に出した。

 

「封じて、灯せ———」

 

「———琥珀姫・久遠灯(こはくひめ・くおんとう)

 

◆ ◆ ◆

 

刀身の内から、琥珀色の光が灯った。

光は音もなく腕を伝い、肩を越えて全身を包んだ。

熱くはない。冷たくもない。

 

閉じることばかり覚えてきた経絡が、一斉に開いた。

霊圧の流れが、根本から引き直されていく。

骨の並びが、内側から数え直されていく。

血が、逆向きに教え込まれていく。

 

僕は———

 

変わった。

 

視界が、妙に高い。

地面が、すこし遠い。

 

(え?)

 

自分の手を見下ろす。

細く白い知らない指が十本、僕の意思のとおりに動いた。

肩から、長い長い琥珀色の髪が流れ落ちている。頭には重い宝冠。顔の脇には光を孕んだ薄布が垂れて、わずかな風に揺れている。

身を包んでいるのは、白から金へ流れる、場違いに豪奢なドレスだった。胸元から裾まで、花と羽根の意匠が散っている。

足元には琥珀色の花弁が、ふわふわと舞っていた。内界で見たよりも、ずっと広く、ずっと多く。

手の中の刀は透き通った琥珀色に変わって、刀身の奥に古い花や羽根のような模様が浮かんでいた。

 

(うわ。うわ、うわ、うわ)

 

「……これは」

 

口から零れたのは、僕の声じゃなかった。

凛と澄んでいるのに、低くも高くもない、不思議な響きの女の声。

 

「これは、どうしたことでしょう」

 

僕は両手で口を押さえた。

声だけじゃない。言葉が、勝手に整っていく。です、ます。わたくし。出そうとした言葉が、口を通る間にお姫様のような物言いへ仕立て直されてしまう。

 

(僕の意思と、関係なく!?)

 

「……困りました。これは、本当に困りましたわ」

 

頬が熱い。誰も見ていないのが、せめてもの救いだった。

 

それでも、霊圧は驚くほど安定していた。

体は軽く、視界は澄み、感覚のすべてが研ぎ澄まされている。

 

これが、始解(しかい)

これが、琥珀姫を呼ぶということ。

 

僕は近くの若枝に、刀先を軽く向けた。

 

「古樹ノ雫」

 

刀先から、雫がひとつ落ちた。

枝先に触れて、琥珀色の光が水輪のように薄く広がる。

 

風が吹いた。

まわりの葉はいっせいに裏返ったのに、その一枝だけが揺れなかった。

葉脈の一本まで、さっきの形のまま。風のほうが、枝を避けて通っていく。

 

(で、できた……!)

 

これで、何に襲われても足を止められる。動きを止めて、攻撃を封じて、その隙に逃げられる。

逃げるための技の入口を、僕は確かに手に入れた。

 

その時だった。

 

ぱき、と。

遠くで、枝を踏む音がした。

 

心臓が、止まった。

 

(見られた!?)

 

体が勝手に動いた。

納刀。早く。鞘は。腰だ。あった。

刀の背が、鞘の口に二度はじかれた。手が震えて、入らない。

音は、まだ近づいてくる。下生えを分ける、確かな足音。

 

入った。

鍔が鳴って、光がほどけた。

 

視界が下がる。重い体が戻ってくる。宝冠もベールもドレスも霧散して、いつもの制服の僕に戻った。

岩の陰に転がり込み、息を殺す。

霊圧は閉じている。閉じているはずだ。確かめる余裕も、なかった。

自分の心臓の音のほうが、よほどうるさい。

 

下生えが、揺れた。

 

———鹿だった。

 

若い鹿が一頭、こちらを見もせずに、ゆっくり横切っていった。

 

(……鹿。鹿か……)

 

腰から、力が抜けた。

僕はずるずると岩にもたれて、座り込んだ。

膝が、まだ笑っている。

 

今のが鹿じゃなくて、生徒の誰かだったら。教官だったら。あるいは、姿の見えない遠くの目だったら。

あの姿を見られた瞬間、僕が始解を使えることまで知られてしまう。

女の体になったこと自体は、正直まだ現実味がない。あれは慣れるか慣れないかの話だ。怖いのは、そこじゃない。

隠したいのは姿じゃない。ずっと隠してきた、力のほうだ。

藍染にも、平子隊長にも。十二番隊長の浦原にも、二番隊長の夜一にも。卯ノ花隊長にも、山本総隊長にも。

そして、影からこちらを観ているかもしれない、見えざる帝国の誰にも。

 

絶対に、誰の前でも晒さない。

 

僕は頭を抱えた。

 

「……平穏は、まだ、遠い」

 

風が山林を、優しく吹き抜けた。

 

『主様。今のお姿、とてもお綺麗でしたわ』

 

聞こえた。聞こえてしまった。

腰の刀の中で、琥珀姫が嬉しそうに笑っている。それも、はっきり分かってしまった。

 

嬉しさより先に、げんなりした。褒められて沈む褒め言葉が、この世にはあるらしい。

これから先、何十年何百年と、僕はこの秘密を抱えて生きていく。

僕はもう一度、深く深く、頭を抱え直した。

 

第五話 了

 

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