夜が、変わった。
昼の僕はこれまでと変わらない。走って隠れ、避けて治す。教場では中の下の顔で、誰とも深くは関わらない。
変わったのは、眠ってからだ。
布団に入って目を閉じると、僕はあの夜の海辺に立っている。水面に琥珀色の灯篭がぽつぽつと揺れて、振り返れば、彼女が深々と頭を垂れて待っている。
「お待ちしておりました。主様」
毎晩それを繰り返すうちに、外の僕と内の僕の境目が少しずつ薄くなっていった。
僕はもう、彼女のいない毎日には戻れないところまで来ていた。
「主様。本日は、わたくしの力のお話をいたしましょう」
ある夜、琥珀姫はいつもの海辺でそう切り出した。
水面の灯篭が、いつもより数を増して揺れていた。
「わたくしは『万象を、保つ』者でございます」
彼女は水面に浮かぶ花を一輪、手のひらに掬い上げた。
「触れたものを、その瞬間のまま琥珀に閉じ込め、時から切り離す。それが、わたくしの力です」
白い指が、花を軽く握り込む。
開かれた手のひらの上で、花は琥珀の結晶に変わっていた。
花弁は開いたまま。
「主様」と差し出されて、僕はおそるおそる受け取った。
驚くほど、温かい。手の中で、花は止まったまま生きていた。
「……戻せるん、ですか」
「ええ。わたくしが望めば、すぐに」
彼女が指先を振ると、琥珀の花はふわりと光がほどけて、元の花に戻った。
僕の手のひらの上で、何事もなかったように揺れている。
これは、強い。
強すぎる。
前世の記憶では、藍染の力は人の認識に干渉するものだったはずだ。彼女のこれは、世界そのものから対象を切り離す力だ。作用する場所の深さが、まるで違う。
死んでいく誰かを死ぬ前のまま琥珀に閉じ込めて、手元の棚に並べる———そういうことが、僕にはできてしまう。
僕は手の中の花を、急いで水面に返した。
ついさっきまで、あんなに綺麗だと思っていたのに。
「主様」
琥珀姫が僕の頬に、そっと手を寄せた。
「この力は確かに、危うき力。けれど、わたくしと主様の絆さえあれば、決して主様を蝕みません。どうかご安心くださいませ」
(……絆「さえ」、あれば?)
聞き返しかけて、やめた。
顔を上げると、彼女は灯篭の灯と同じ温度で微笑んでいた。いつもと、何ひとつ変わらずに。
絆なら、ある。大丈夫だ。
僕はそう思うことにして、頷いた。
「……はい。あの」
僕は言葉を選びながら、続けた。
「この力って、誰かを倒すためじゃなく……逃げるためだけに、磨いてもいいんでしょうか」
浅打を受け取った日から、決めていたことだった。
琥珀姫は、ゆっくり微笑んだ。
「もちろんです。むしろ、わたくしの本性は攻めるより守ることに、ずっと近うございます」
「……本当ですか」
「ええ」
彼女は立ち上がり、僕から数歩離れた。
「ご覧に入れますわ。主様、お逃げになって」
「……え?」
言い終わるより早く、彼女の指先に琥珀色の光が点った。
「わ……ッ」
僕は横っ飛びに転がった。浅い水が跳ねて、袖まで濡れる。
顔を上げると、琥珀姫は波ひとつ立てない水面の上で、にこやかに微笑んでいた。
(撃ってきた! 本当に撃ってきた! うちの斬魄刀、容赦がない!)
「次は、お逃げにならないで」
「え」
二つ目の光が、今度は顔をめがけて飛んできた。
避けられない。
目をつぶりかけた、その寸前。
僕の眼前で、琥珀色の大輪の花が咲いた。
風を裂いていた音が、花弁に触れた瞬間に消えた。
花の奥で、光の礫が止まっている。勢いも熱も、音ごと閉じ込められて。
「
僕は尻餅をついたまま、しばらく動けなかった。
怖かったからじゃない。綺麗だったからだ。
咲いた花の中で、攻撃が眠っている。こんな防ぎ方を、僕は見たことがなかった。
「次の技は、主様の御身体でお確かめいただきましょう」
「……はい?」
彼女が、軽く指を振った。
足元の水面から琥珀色の細い糸が幾筋も立ちのぼり、僕の影を縫い止めた。
体が、止まった。
指一本、動かない。
霊圧で振りほどこうとして、気づいた。力の入れどころが、ない。「動く前の僕」のまま留められて、踏ん張るための最初の一歩が、そもそも始まらない。
瞬きはできる。息もできる。なのに首から下だけが、別の誰かの持ち物のように静かだった。
目の前で、琥珀姫はにこにこと微笑んでいる。
(怖い。これ、怖い。笑顔のまま掛けるの、いちばん怖い)
「
糸が、ほどけた。
僕はその場にへたり込んだ。膝から下の感覚が戻るまで、少しかかった。
笑顔の人の前で、指一本動かせない数秒。
あれを、いつか僕が、誰かに向けるかもしれないのだ。
「標本師」。数日前の警告の意味が、初めて肌でわかった。
「そして三つ目は、
琥珀姫は僕に手を貸して立たせてから、続けた。
「刀先から雫を落とし、触れた場所をいっとき完全に留めます。これは、外の世界で主様ご自身の手でお試しなさいませ」
僕は濡れた袖のまま、三つの技を胸の中で並べ直した。
どれも、敵を斬る技じゃなかった。
「……全部、僕が戦わなくていい技、なんですね」
「ええ」
琥珀姫は嬉しそうに頷いた。
「敵を斬らず、敵の動きを止め攻撃を封じ、自分が逃げる時間を作る。主様のお望み通りの技でございます」
僕は長く息を吐いた。
斬魄刀は本来、敵を斬るための武器だ。それなのに彼女は、「斬らない」という願いのほうを、この刀の本性だと言ってくれた。
「……ありがとう、ございます」
声が、震えた。
「それに、主様」
琥珀姫は少しだけ声を低くした。
「この三つは、わたくしの力のほんの入り口にございます」
「……入り口」
「ええ。その奥のことは、いずれ。主様の魂が、もっと深くへ届いた時に」
「主様」
琥珀姫は居住まいを正し、深々と頭を垂れた。
「わたくしの真の名を、お聴きになりますか」
「……え」
「主様の魂は、もう、わたくしの名に届いています」
返事を待たずに彼女は顔を上げ、一歩、近づいた。
衣擦れの音が、水面に吸われて消える。
気づけば、水面いっぱいの灯が、ひとつ残らず揺れるのをやめていた。
ベール越しの吐息が、耳に触れた。
「わたくしの名は———」
一音。
また、一音。
囁きが耳から入って、もっと深いところへ落ちていく。
名前のひと文字ごとに、体の芯がその音の形に編み直されていく。心臓が一度、その名に合わせて拍を打ち直した。
囁きが、終わった。
彼女の唇は一拍だけ遅れて、耳元から離れた。
「……ようやく」
囁きと同じ小ささの声が、確かに聞こえた。
僕が顔を上げた時には、彼女はもう元の場所に立って、いつもの微笑みを浮かべていた。
(長く、待たせてしまったんだろうか)
胸の真ん中に、彼女の名前がある。
教わった、というのとは違う。名前で、結ばれた。そういう感触だった。
背中を、細い汗がひとすじ伝った。
名を授かるとは、こんなにも体に響くものなのか。
水面の灯がいっせいに大きく揺れた。その揺れはしばらく、やまなかった。
「これで主様は、わたくしを外の世界でも呼ぶことができます」
琥珀姫はもう一度、頭を垂れた。
「主様の声は、どこにいても、わたくしに届きます」
それから彼女は、ほんの一拍おいて言い直した。
「———わたくしだけに、届きます」
誰にも聞かれない声が、一つあるということだ。
それは僕には、素直に心強かった。
「お試しになる時は、どうか
僕は深く頷いた。
言われるまでもない。
朝の鐘で、目が覚めた。
枕元の浅打を握る。
胸の真ん中に、彼女の名前が確かにある。
———試したい。でも、絶対に、誰にも見られない場所で。
見えざる帝国が、遠くからこちらを観ているかもしれない。入学の日からずっと、僕はそう思って生きてきた。瀞霊廷の中はもちろん、この真央霊術院の敷地ですら、安全とは言い切れない。
それでも院の外に出られない以上、選べる場所は一つだった。
敷地の奥にある、生徒の立ち入りが禁じられた山林。教官すらほとんど寄り付かないと聞く。
幸い、今日は休日だ。
見回りの刻限を頭の中でなぞってから、僕は寮舎を抜け出した。
歩法で足音を消し、霊圧を漏らさず、山林の奥へ。
苔むした岩の間を抜けて、鳥の声が遠くなるまで深く入った。
霊圧の流れを、何度も確かめる。感じ取れる範囲に、誰の気配もない。木々の隙間から差す光だけが、苔の上で揺れていた。
僕は息を吸い、腰の浅打をゆっくり抜いた。
両手で柄を握る。
刀身が、応えるようにかすかに震えた。
胸の中で、彼女の真の名を呼ぶ。
そして、声に出した。
「封じて、灯せ———」
「———
刀身の内から、琥珀色の光が灯った。
光は音もなく腕を伝い、肩を越えて全身を包んだ。
熱くはない。冷たくもない。
閉じることばかり覚えてきた経絡が、一斉に開いた。
霊圧の流れが、根本から引き直されていく。
骨の並びが、内側から数え直されていく。
血が、逆向きに教え込まれていく。
僕は———
変わった。
視界が、妙に高い。
地面が、すこし遠い。
(え?)
自分の手を見下ろす。
細く白い知らない指が十本、僕の意思のとおりに動いた。
肩から、長い長い琥珀色の髪が流れ落ちている。頭には重い宝冠。顔の脇には光を孕んだ薄布が垂れて、わずかな風に揺れている。
身を包んでいるのは、白から金へ流れる、場違いに豪奢なドレスだった。胸元から裾まで、花と羽根の意匠が散っている。
足元には琥珀色の花弁が、ふわふわと舞っていた。内界で見たよりも、ずっと広く、ずっと多く。
手の中の刀は透き通った琥珀色に変わって、刀身の奥に古い花や羽根のような模様が浮かんでいた。
(うわ。うわ、うわ、うわ)
「……これは」
口から零れたのは、僕の声じゃなかった。
凛と澄んでいるのに、低くも高くもない、不思議な響きの女の声。
「これは、どうしたことでしょう」
僕は両手で口を押さえた。
声だけじゃない。言葉が、勝手に整っていく。です、ます。わたくし。出そうとした言葉が、口を通る間にお姫様のような物言いへ仕立て直されてしまう。
(僕の意思と、関係なく!?)
「……困りました。これは、本当に困りましたわ」
頬が熱い。誰も見ていないのが、せめてもの救いだった。
それでも、霊圧は驚くほど安定していた。
体は軽く、視界は澄み、感覚のすべてが研ぎ澄まされている。
これが、
これが、琥珀姫を呼ぶということ。
僕は近くの若枝に、刀先を軽く向けた。
「古樹ノ雫」
刀先から、雫がひとつ落ちた。
枝先に触れて、琥珀色の光が水輪のように薄く広がる。
風が吹いた。
まわりの葉はいっせいに裏返ったのに、その一枝だけが揺れなかった。
葉脈の一本まで、さっきの形のまま。風のほうが、枝を避けて通っていく。
(で、できた……!)
これで、何に襲われても足を止められる。動きを止めて、攻撃を封じて、その隙に逃げられる。
逃げるための技の入口を、僕は確かに手に入れた。
その時だった。
ぱき、と。
遠くで、枝を踏む音がした。
心臓が、止まった。
(見られた!?)
体が勝手に動いた。
納刀。早く。鞘は。腰だ。あった。
刀の背が、鞘の口に二度はじかれた。手が震えて、入らない。
音は、まだ近づいてくる。下生えを分ける、確かな足音。
入った。
鍔が鳴って、光がほどけた。
視界が下がる。重い体が戻ってくる。宝冠もベールもドレスも霧散して、いつもの制服の僕に戻った。
岩の陰に転がり込み、息を殺す。
霊圧は閉じている。閉じているはずだ。確かめる余裕も、なかった。
自分の心臓の音のほうが、よほどうるさい。
下生えが、揺れた。
———鹿だった。
若い鹿が一頭、こちらを見もせずに、ゆっくり横切っていった。
(……鹿。鹿か……)
腰から、力が抜けた。
僕はずるずると岩にもたれて、座り込んだ。
膝が、まだ笑っている。
今のが鹿じゃなくて、生徒の誰かだったら。教官だったら。あるいは、姿の見えない遠くの目だったら。
あの姿を見られた瞬間、僕が始解を使えることまで知られてしまう。
女の体になったこと自体は、正直まだ現実味がない。あれは慣れるか慣れないかの話だ。怖いのは、そこじゃない。
隠したいのは姿じゃない。ずっと隠してきた、力のほうだ。
藍染にも、平子隊長にも。十二番隊長の浦原にも、二番隊長の夜一にも。卯ノ花隊長にも、山本総隊長にも。
そして、影からこちらを観ているかもしれない、見えざる帝国の誰にも。
絶対に、誰の前でも晒さない。
僕は頭を抱えた。
「……平穏は、まだ、遠い」
風が山林を、優しく吹き抜けた。
『主様。今のお姿、とてもお綺麗でしたわ』
聞こえた。聞こえてしまった。
腰の刀の中で、琥珀姫が嬉しそうに笑っている。それも、はっきり分かってしまった。
嬉しさより先に、げんなりした。褒められて沈む褒め言葉が、この世にはあるらしい。
これから先、何十年何百年と、僕はこの秘密を抱えて生きていく。
僕はもう一度、深く深く、頭を抱え直した。