始解を成して、ひと月が過ぎた。
僕は何食わぬ顔で、アカデミーの日々を過ごしていた。
朝の鍛錬。霊圧基礎学。鬼道授業。模擬戦。回道演習。
どれにも目立たない程度に参加して、目立たない成績で終える。挨拶は短く、昼餉は隅で。終業の鐘が鳴れば、誰より静かに教場を出る。
腰の刀は、もうただの浅打ではない。中には琥珀姫がいて、僕は彼女の真の名を知っている。
それでも人前では、これまで通り浅打として差し、浅打として扱う。名を得たことさえ、誰にも悟らせない。
それを知っているのは、世界で僕と琥珀姫の二人だけ。
———そう、思いたかった。
入学式の日、教官席のいちばん奥にいた、あの人物。あの視線のことだけが、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
ある日、霊圧基礎学の終わりに教官が告げた。
「十日後、定期測定を行う。各自、体調を整えておくように」
教場が薄くざわめいた。僕は帳面の隅に、十日後、とだけ書いた。
(いつも通り、中の下を出すだけだ)
その夜、いつもの内界で、琥珀姫が静かに切り出した。
足元の灯篭が、今夜はやけに明るい。ベールの裾が水面に触れて、薄い波紋を広げていた。
「主様。次なる修練へ、進みましょう」
「次、というと」
「主様の魂は、わたくしを真の名で呼べるところまで磨かれました。けれど魂と
琥珀姫は、自分の腹と胸を順に指し示した。
「腹に在る
———!
息を呑んだ。
その二つの名前で、思い出した。前世の記憶の中で、黒衣の少年が死神の力を失ったとき、ためらいなく貫かれたのがその二箇所だった。
死神の体の、いわば骨髄と心臓。潰せば力ごと奪える急所を、これから鍛える。
「この二つを、ですか」
「はい。わたくしの保存を使えば、ただ鍛えるよりずっと深く底上げできましてよ」
僕はひそかに唾を飲んだ。
また、彼女の力の使い道が増える。
その晩のうちに、修練は始まった。
内界の砂浜で足を組み、目を閉じる。腹の奥に、普段はほとんど意識しない温かい源がある。
「そこから、霊力を限界まで引き出してくださいませ」
「……はい」
ゆっくりと、源に力を込めた。
温かさが熱に変わる。熱が、痛みに変わる。体の芯が
「……ッ、はあッ……」
歯を食いしばって、なお奥へ手を伸ばす。もうもたない、と腹の奥が音を上げる寸前。
琥珀姫の手が、僕の腹にそっと触れた。
「保存いたします」
琥珀色の光が腹を包み、琥珀姫が僕の限界を、軋みごと結晶に閉じ込めた。
そしてその結晶を、僕の腹へ静かに押し戻す。
「これを少しずつ、主様の常態へ馴染ませますわ」
腹の奥が一度ひやりと固まり、それからゆっくり、新しい形に馴染んでいく。さっきまで「限界」だった出力へ、体が半歩、確かに近づいている。
「……すごい」
声が震えて、続く言葉が出てこなかった。
「これを、何度も繰り返しますわ。限界を出し、保存し、常態を書き換える。少しずつ、魄睡の出力そのものを上げていきましょう」
そこからの修練は、同じことの繰り返しだった。内界で数日、現実では数刻。
限界を出す。保存する。常態が書き換わる。
軋みは毎回、紛れもなく痛い。それでも壊れる寸前には必ず、温かい掌が腹に触れる。それだけで、次の限界へ手を伸ばせた。
三巡目あたりから、軋む場所が変わってきた。底が、広がっている。
魄睡が一段落すると、琥珀姫は手を僕の胸へ移した。鎖結の中の霊力の通り道をいっとき固定する。狭い所を広げ、漏れる所を塞ぎ、淀む所を整える。絹を繕うような手つきで、数日かけてひとつずつ。
固定を解かれた流れは、もう別物だった。滑らかで、無駄がない。さっきまでの詰まりを、体がもう思い出せない。
数日後の朝、寮の階段を二段飛ばしで駆け下りて、息がまるで乱れていないことに気づいた。
体が軽い。呼吸のたびに巡る霊力の量が、目に見えて増えている。
その日は、鬼道授業だった。
中庭の演習場に的が並び、生徒が順に詠唱しては火球を放っていく。やがて僕の番が来た。
詠唱の一句目で、気づいた。
霊力が、おかしいほど素直に集まる。以前は底を掻くようにして集めていたものが、いまは汲んでも汲んでも溢れてくる。
強くなっている。この数日で、確かに。
つい、口元が緩んだ———その瞬間。
毛穴という毛穴から、内側で増えた分がじわりと滲み出た。
量にすれば、ほんのわずか。けれど「中の下」の生徒から、出てはいけない量。
隣の列の生徒が、ふっと顔を上げた。帳面をつけていた教官の筆が、止まった。
(閉じろ。息は止めるな。詠唱も止めるな)
全身の経絡を、上から順にひとつずつ閉じる。声の調子は変えない。目は的から動かさない。詠唱の続きを、いつもの平坦さで言い切る。
放った火球は、計算した通りの頼りない弧を描いて、的の手前の砂を浅く焼いた。
「……次」
教官の筆が、また動き出した。隣の生徒は首をかしげて、自分の掌を眺めている。誰かが「いまの、何だ」と呟いて、それきりになった。
(やばい。やばかった)
列に戻ってからは、息の数をかぞえて午後をやり過ごした。
帰り道、ひとりになってから、ようやく順序立てて考えられた。
止められた。でも、それだけだ。
意識すれば、止められる。裏返せば、意識しているあいだしか止められない。
気が緩めば漏れる。不意を突かれれば漏れる。
なら、眠っているあいだは?
眠っている僕の毛穴を、誰が見張る?
血の気が引いた。
何のための修行だったのか。逃げるため、隠れるため、平穏に生きるため。なのに修行を続ければ続けるほど、かえって目立ってしまう。
———本末転倒だ。
その夜、僕は内界に潜るなり口を開いた。
「琥珀姫。困ったことが、あって」
「いかがなさいました?」
「今日、授業中に霊圧が漏れました。すぐに閉じましたが、強くなった分を隠す技術が追いついていません。意識していれば、閉じられます。でも、眠っているあいだは閉じられません。このまま続けたら、いつか必ず誰かに気付かれます」
琥珀姫は、慌てなかった。頷きさえ、静かだった。
「お気づきになりましたね。そこまで含めて、次の修練にございますわ」
「……え?」
(……この人は、僕が今日ああなることを、知っていたんだろうか)
知っていたなら、先に教えてくれてもよかった。そう思いかけて、やめた。きっと、一度体で知らないと身につかない類のことなのだ。それだけ僕のことを考えてくれている。そのはずだ。
「主様のお望みは強くなることではなく、『気付かれず生き残ること』でございましょう? ならば、強さと一緒にそれを覆い隠す術をお授けしますわ」
僕が腰を下ろすと、琥珀姫は正面に座り直した。
「これより、魄睡と鎖結の出口を絞ります」
「絞る……」
「水路の栓を、思い浮かべてくださいませ。生まれた霊力は全身を巡り、最後は毛穴や経絡の末端から外へ滲みます。その出口のすべてを、わたくしの琥珀で薄く覆うのです」
白い指先が、宙に細い水路の形を描いてみせた。
「源がどれほど育っても、出口が同じなら漏れる量は変わりません」
「……それ、できるんですか」
返事は、僕が言い終わるより早く来た。
「できます」
いつもの柔らかな語尾が、その一言にだけなかった。琥珀姫の目は瞬きを忘れたように、僕から離れない。彼女はもう、両の掌を僕の胸と腹の前へ差し出していた。
「主様の御身体は、すでに琥珀の
縁。
聞き返そうとして、訊き方がわからなかった。いつ。どこで。どんな。どれを選んでも、返ってくる答えを受け止められる気がしない。
琥珀姫は、当たり前のことを口にした顔で微笑んでいる。灯篭の灯が、彼女の背後でひとつ、ゆっくり明るさを増した。
「目を、お閉じくださいませ」
言われた通り、目を閉じた。琥珀姫の両の掌が、胸と腹へ静かに触れる。
(自分の腹を、女の人の手に任せている。その事実からは目を逸らすことにする)
薄い琥珀の膜が、足の先から覆っていく。膝から腰へ、胸から指先へ。まぶたの裏まで。
痛みはなかった。それどころか、心地よかった。湯に首まで浸かったときの、体の輪郭が湯に溶けていく、あの感じに似ている。
膜と肌の境目を探したけれど、見つからなかった。どこまでが僕で、どこからが彼女なのか。
(……これ、もう、外せないんじゃないか)
外す理由なんて、いまの僕にはひとつもない。ないなら、いい。いいはずだ。
「これで内側がどれほど育っても、外に出るのはいつもの量だけにございます」
琥珀姫は掌を離さないまま続けた。
「外へ出ようとする余りは、わたくしの琥珀が残らず受け止めます」
(受け止めて……その先は?)
水路の先を思い浮かべかけて、やめた。彼女が受け止めてくれる。いまは、それで足りる。
「絞りは、主様のお気持ちひとつで緩められます。
それから彼女は、僕の右手を取った。
「この膜は、滲み出る漏れだけでなく主様が御自ら注がれる力も絞ります。お測りの折はこの掌の一点だけ膜を緩めて、いつものひと筋をお通しくださいませ」
僕は目を開けた。
昼間あれほど必死で閉じていた毛穴が、僕が何もしなくても覆われている。意識して閉じる必要が、もうない。
ずっと、覆われている。
眠っているあいだ、僕の毛穴を誰が見張るのか。あの問いの答えなら、もう肌の上にある。彼女が、ずっと。
「これは、常時発動なんですか」
「ええ。基本は、常時ですわ。されど、主様がお疲れの極みにあれば緩みますし、強い衝撃を受ければ乱れます。普段は強く絞り、いざという折に緩める。あるいは、解く」
「……ありがとう、ございます。これで僕は、修行を続けられます」
深く頭を下げた。
「いえ、主様。これは、まだ半分にございます」
僕は頭を上げた。
「今お授けしたのは、未始解の御身に合わせた覆い。主様が始解を発動すれば、霊圧の流れがまるごと変わります。その折には、また別の覆いが要りますわ」
「それも、教えてくれますか」
「もちろん。ただ、それはもう少し先にいたしましょう。一つひとつ、確実に参りましょうね。主様」
琥珀姫は微笑んだ。
その微笑みは、消え際だけがいつもより一拍遅かった。ベールの陰で指先がひとつ、所在なく動いて、止まった。
きっと気のせいだろう、と僕は思うことにした。
測定の日が来た。
「次、遺玉院」
呼ばれて立ち上がる。水晶までの数歩を、前回と同じ歩幅で歩く。
(落ち着け。前回と同じ数字だ。それだけでいい)
水晶に右手を添える。体の中では、ひと月前とは別物の霊力が巡っている。僕は右の掌の一点だけ薄膜を緩めて、いつものひと筋を通した。
水晶の光が、ゆるゆると灯る。灯って、止まった。
中の下、くらいの明るさで。
「ふむ。前回と変わらずだな」
教官は淡々と帳面に記して、それから顔も上げずに付け加えた。
「気にするな。霊圧の伸びは、人それぞれだ」
(はい。まったく気にしていません)
深々と頭を下げて、席に戻った。
体の中身と、外から見える僕が、今日はっきりと切り離された。中で何が育っても、水晶はもう、それを映さない。
(ありがとうございます、琥珀姫)
———その時。
背後で、空気がわずかに動いた。
振り返らずとも分かった。教場の後ろの扉が、また音もなく開いている。
霊圧の気配は、どこにもない。なのに項の毛が、確かに逆立った。
誰も顔を上げない。筆の音は続いている。窓の外では雀が鳴いている。
この教場で、僕の首筋だけが冬になっていた。
入学式の日、教官席のいちばん奥から注がれた、あの視線。質が、よく似ている。
(……まだ、見ている)
僕は気付かないふりをして、前を向き続けた。筆を持ち直し、手元の文字を一字ずつなぞる。
視線は背中から、なかなか離れなかった。
やがて、扉の気配は静かに消えた。
僕は詰めていた息を、少しずつ吐いた。
漏れていない、はずだ。膜はいまこの瞬間も僕を覆っている、はずだ。
それを確かめる手立ては、僕の側にない。
ふいに、薄膜がふわりと温かくなった。肌を撫でられたような、温かさだった。
彼女は、機嫌がいい。
僕はいつの間にか、彼女の機嫌を皮膚で読めるようになっている。
守られている。確かに、守られている。
ただ、その温かさと自分の体温の境目は、もうどこを探しても見つからなかった。