『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第6話

第六話 (しぼ)り、(たも)

 

 

始解を成して、ひと月が過ぎた。

 

僕は何食わぬ顔で、アカデミーの日々を過ごしていた。

 

朝の鍛錬。霊圧基礎学。鬼道授業。模擬戦。回道演習。

どれにも目立たない程度に参加して、目立たない成績で終える。挨拶は短く、昼餉は隅で。終業の鐘が鳴れば、誰より静かに教場を出る。

 

腰の刀は、もうただの浅打ではない。中には琥珀姫がいて、僕は彼女の真の名を知っている。

それでも人前では、これまで通り浅打として差し、浅打として扱う。名を得たことさえ、誰にも悟らせない。

 

それを知っているのは、世界で僕と琥珀姫の二人だけ。

 

———そう、思いたかった。

 

入学式の日、教官席のいちばん奥にいた、あの人物。あの視線のことだけが、ずっと胸の奥に引っかかっていた。

 

ある日、霊圧基礎学の終わりに教官が告げた。

 

「十日後、定期測定を行う。各自、体調を整えておくように」

 

教場が薄くざわめいた。僕は帳面の隅に、十日後、とだけ書いた。

 

(いつも通り、中の下を出すだけだ)

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、いつもの内界で、琥珀姫が静かに切り出した。

 

足元の灯篭が、今夜はやけに明るい。ベールの裾が水面に触れて、薄い波紋を広げていた。

 

「主様。次なる修練へ、進みましょう」

 

「次、というと」

 

「主様の魂は、わたくしを真の名で呼べるところまで磨かれました。けれど魂と霊力(れいりょく)は別のもの。霊力そのものを底上げするには、別の道筋がございます」

 

琥珀姫は、自分の腹と胸を順に指し示した。

 

「腹に在る魄睡(はくすい)。霊力の発生の源にございます。そして胸に在る鎖結(さけつ)。生まれた霊力を増幅し、全身へ送り出す要にございます」

 

———!

 

息を呑んだ。

 

その二つの名前で、思い出した。前世の記憶の中で、黒衣の少年が死神の力を失ったとき、ためらいなく貫かれたのがその二箇所だった。

死神の体の、いわば骨髄と心臓。潰せば力ごと奪える急所を、これから鍛える。

 

「この二つを、ですか」

 

「はい。わたくしの保存を使えば、ただ鍛えるよりずっと深く底上げできましてよ」

 

僕はひそかに唾を飲んだ。

 

また、彼女の力の使い道が増える。

 

◆ ◆ ◆

 

その晩のうちに、修練は始まった。

 

内界の砂浜で足を組み、目を閉じる。腹の奥に、普段はほとんど意識しない温かい源がある。

 

「そこから、霊力を限界まで引き出してくださいませ」

 

「……はい」

 

ゆっくりと、源に力を込めた。

 

温かさが熱に変わる。熱が、痛みに変わる。体の芯が(きし)んで、内界の水面が僕を中心にぐらりと揺れた。

 

「……ッ、はあッ……」

 

歯を食いしばって、なお奥へ手を伸ばす。もうもたない、と腹の奥が音を上げる寸前。

 

琥珀姫の手が、僕の腹にそっと触れた。

 

「保存いたします」

 

琥珀色の光が腹を包み、琥珀姫が僕の限界を、軋みごと結晶に閉じ込めた。

そしてその結晶を、僕の腹へ静かに押し戻す。

 

「これを少しずつ、主様の常態へ馴染ませますわ」

 

腹の奥が一度ひやりと固まり、それからゆっくり、新しい形に馴染んでいく。さっきまで「限界」だった出力へ、体が半歩、確かに近づいている。

 

「……すごい」

 

声が震えて、続く言葉が出てこなかった。

 

「これを、何度も繰り返しますわ。限界を出し、保存し、常態を書き換える。少しずつ、魄睡の出力そのものを上げていきましょう」

 

◆ ◆ ◆

 

そこからの修練は、同じことの繰り返しだった。内界で数日、現実では数刻。

 

限界を出す。保存する。常態が書き換わる。

軋みは毎回、紛れもなく痛い。それでも壊れる寸前には必ず、温かい掌が腹に触れる。それだけで、次の限界へ手を伸ばせた。

三巡目あたりから、軋む場所が変わってきた。底が、広がっている。

 

魄睡が一段落すると、琥珀姫は手を僕の胸へ移した。鎖結の中の霊力の通り道をいっとき固定する。狭い所を広げ、漏れる所を塞ぎ、淀む所を整える。絹を繕うような手つきで、数日かけてひとつずつ。

固定を解かれた流れは、もう別物だった。滑らかで、無駄がない。さっきまでの詰まりを、体がもう思い出せない。

 

◆ ◆ ◆

 

数日後の朝、寮の階段を二段飛ばしで駆け下りて、息がまるで乱れていないことに気づいた。

 

体が軽い。呼吸のたびに巡る霊力の量が、目に見えて増えている。

 

その日は、鬼道授業だった。

 

中庭の演習場に的が並び、生徒が順に詠唱しては火球を放っていく。やがて僕の番が来た。

 

詠唱の一句目で、気づいた。

 

霊力が、おかしいほど素直に集まる。以前は底を掻くようにして集めていたものが、いまは汲んでも汲んでも溢れてくる。

 

強くなっている。この数日で、確かに。

 

つい、口元が緩んだ———その瞬間。

 

毛穴という毛穴から、内側で増えた分がじわりと滲み出た。

 

量にすれば、ほんのわずか。けれど「中の下」の生徒から、出てはいけない量。

 

隣の列の生徒が、ふっと顔を上げた。帳面をつけていた教官の筆が、止まった。

 

(閉じろ。息は止めるな。詠唱も止めるな)

 

全身の経絡を、上から順にひとつずつ閉じる。声の調子は変えない。目は的から動かさない。詠唱の続きを、いつもの平坦さで言い切る。

 

放った火球は、計算した通りの頼りない弧を描いて、的の手前の砂を浅く焼いた。

 

「……次」

 

教官の筆が、また動き出した。隣の生徒は首をかしげて、自分の掌を眺めている。誰かが「いまの、何だ」と呟いて、それきりになった。

 

(やばい。やばかった)

 

列に戻ってからは、息の数をかぞえて午後をやり過ごした。

 

帰り道、ひとりになってから、ようやく順序立てて考えられた。

 

止められた。でも、それだけだ。

意識すれば、止められる。裏返せば、意識しているあいだしか止められない。

気が緩めば漏れる。不意を突かれれば漏れる。

なら、眠っているあいだは?

眠っている僕の毛穴を、誰が見張る?

 

血の気が引いた。

 

何のための修行だったのか。逃げるため、隠れるため、平穏に生きるため。なのに修行を続ければ続けるほど、かえって目立ってしまう。

 

———本末転倒だ。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、僕は内界に潜るなり口を開いた。

 

「琥珀姫。困ったことが、あって」

 

「いかがなさいました?」

 

「今日、授業中に霊圧が漏れました。すぐに閉じましたが、強くなった分を隠す技術が追いついていません。意識していれば、閉じられます。でも、眠っているあいだは閉じられません。このまま続けたら、いつか必ず誰かに気付かれます」

 

琥珀姫は、慌てなかった。頷きさえ、静かだった。

 

「お気づきになりましたね。そこまで含めて、次の修練にございますわ」

 

「……え?」

 

(……この人は、僕が今日ああなることを、知っていたんだろうか)

 

知っていたなら、先に教えてくれてもよかった。そう思いかけて、やめた。きっと、一度体で知らないと身につかない類のことなのだ。それだけ僕のことを考えてくれている。そのはずだ。

 

「主様のお望みは強くなることではなく、『気付かれず生き残ること』でございましょう? ならば、強さと一緒にそれを覆い隠す術をお授けしますわ」

 

僕が腰を下ろすと、琥珀姫は正面に座り直した。

 

「これより、魄睡と鎖結の出口を絞ります」

 

「絞る……」

 

「水路の栓を、思い浮かべてくださいませ。生まれた霊力は全身を巡り、最後は毛穴や経絡の末端から外へ滲みます。その出口のすべてを、わたくしの琥珀で薄く覆うのです」

 

白い指先が、宙に細い水路の形を描いてみせた。

 

「源がどれほど育っても、出口が同じなら漏れる量は変わりません」

 

「……それ、できるんですか」

 

返事は、僕が言い終わるより早く来た。

 

「できます」

 

いつもの柔らかな語尾が、その一言にだけなかった。琥珀姫の目は瞬きを忘れたように、僕から離れない。彼女はもう、両の掌を僕の胸と腹の前へ差し出していた。

 

「主様の御身体は、すでに琥珀の(えにし)を結んでおります」

 

縁。

 

聞き返そうとして、訊き方がわからなかった。いつ。どこで。どんな。どれを選んでも、返ってくる答えを受け止められる気がしない。

琥珀姫は、当たり前のことを口にした顔で微笑んでいる。灯篭の灯が、彼女の背後でひとつ、ゆっくり明るさを増した。

 

「目を、お閉じくださいませ」

 

言われた通り、目を閉じた。琥珀姫の両の掌が、胸と腹へ静かに触れる。

 

(自分の腹を、女の人の手に任せている。その事実からは目を逸らすことにする)

 

薄い琥珀の膜が、足の先から覆っていく。膝から腰へ、胸から指先へ。まぶたの裏まで。

 

痛みはなかった。それどころか、心地よかった。湯に首まで浸かったときの、体の輪郭が湯に溶けていく、あの感じに似ている。

 

膜と肌の境目を探したけれど、見つからなかった。どこまでが僕で、どこからが彼女なのか。

 

(……これ、もう、外せないんじゃないか)

 

外す理由なんて、いまの僕にはひとつもない。ないなら、いい。いいはずだ。

 

「これで内側がどれほど育っても、外に出るのはいつもの量だけにございます」

 

琥珀姫は掌を離さないまま続けた。

 

「外へ出ようとする余りは、わたくしの琥珀が残らず受け止めます」

 

(受け止めて……その先は?)

 

水路の先を思い浮かべかけて、やめた。彼女が受け止めてくれる。いまは、それで足りる。

 

「絞りは、主様のお気持ちひとつで緩められます。(ほど)くことも。危急の折は、瞬時に」

 

それから彼女は、僕の右手を取った。

 

「この膜は、滲み出る漏れだけでなく主様が御自ら注がれる力も絞ります。お測りの折はこの掌の一点だけ膜を緩めて、いつものひと筋をお通しくださいませ」

 

僕は目を開けた。

 

昼間あれほど必死で閉じていた毛穴が、僕が何もしなくても覆われている。意識して閉じる必要が、もうない。

 

ずっと、覆われている。

 

眠っているあいだ、僕の毛穴を誰が見張るのか。あの問いの答えなら、もう肌の上にある。彼女が、ずっと。

 

「これは、常時発動なんですか」

 

「ええ。基本は、常時ですわ。されど、主様がお疲れの極みにあれば緩みますし、強い衝撃を受ければ乱れます。普段は強く絞り、いざという折に緩める。あるいは、解く」

 

「……ありがとう、ございます。これで僕は、修行を続けられます」

 

深く頭を下げた。

 

「いえ、主様。これは、まだ半分にございます」

 

僕は頭を上げた。

 

「今お授けしたのは、未始解の御身に合わせた覆い。主様が始解を発動すれば、霊圧の流れがまるごと変わります。その折には、また別の覆いが要りますわ」

 

「それも、教えてくれますか」

 

「もちろん。ただ、それはもう少し先にいたしましょう。一つひとつ、確実に参りましょうね。主様」

 

琥珀姫は微笑んだ。

その微笑みは、消え際だけがいつもより一拍遅かった。ベールの陰で指先がひとつ、所在なく動いて、止まった。

 

きっと気のせいだろう、と僕は思うことにした。

 

◆ ◆ ◆

 

測定の日が来た。

 

「次、遺玉院」

 

呼ばれて立ち上がる。水晶までの数歩を、前回と同じ歩幅で歩く。

 

(落ち着け。前回と同じ数字だ。それだけでいい)

 

水晶に右手を添える。体の中では、ひと月前とは別物の霊力が巡っている。僕は右の掌の一点だけ薄膜を緩めて、いつものひと筋を通した。

 

水晶の光が、ゆるゆると灯る。灯って、止まった。

 

中の下、くらいの明るさで。

 

「ふむ。前回と変わらずだな」

 

教官は淡々と帳面に記して、それから顔も上げずに付け加えた。

 

「気にするな。霊圧の伸びは、人それぞれだ」

 

(はい。まったく気にしていません)

 

深々と頭を下げて、席に戻った。

 

擬装(ぎそう)は、機能した。

体の中身と、外から見える僕が、今日はっきりと切り離された。中で何が育っても、水晶はもう、それを映さない。

 

(ありがとうございます、琥珀姫)

 

———その時。

 

背後で、空気がわずかに動いた。

 

振り返らずとも分かった。教場の後ろの扉が、また音もなく開いている。

 

霊圧の気配は、どこにもない。なのに項の毛が、確かに逆立った。

 

誰も顔を上げない。筆の音は続いている。窓の外では雀が鳴いている。

この教場で、僕の首筋だけが冬になっていた。

 

入学式の日、教官席のいちばん奥から注がれた、あの視線。質が、よく似ている。

 

(……まだ、見ている)

 

僕は気付かないふりをして、前を向き続けた。筆を持ち直し、手元の文字を一字ずつなぞる。

視線は背中から、なかなか離れなかった。

 

やがて、扉の気配は静かに消えた。

 

僕は詰めていた息を、少しずつ吐いた。

 

漏れていない、はずだ。膜はいまこの瞬間も僕を覆っている、はずだ。

それを確かめる手立ては、僕の側にない。

 

ふいに、薄膜がふわりと温かくなった。肌を撫でられたような、温かさだった。

 

彼女は、機嫌がいい。

僕はいつの間にか、彼女の機嫌を皮膚で読めるようになっている。

 

守られている。確かに、守られている。

ただ、その温かさと自分の体温の境目は、もうどこを探しても見つからなかった。

 

第六話 了

 

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