「来週、四番隊救護道院の見学だ」
朝の伝達で教官がそう告げた瞬間、教場のあちこちがざわめいた。
「四番隊って、あの治癒の」
「一度見てみたいよな」
「俺、戦闘部隊志望だからな。あんま興味ねぇや」
僕は机の下で、ぐっと拳を握った。
———四番隊。
僕が目指している場所。その本拠地に、いよいよ足を踏み入れる。
卯ノ花烈隊長の、お膝元に。
(落ち着け、僕)
これは危機だ。
同時に、好機でもある。
伝達はとうに次の連絡へ移っていたけれど、その先はひとことも頭に入らなかった。
その夜、僕は内界の海辺で琥珀姫に相談した。
「琥珀姫。困ったことが、また、あって」
「あら、また、ですか」
琥珀姫は穏やかに微笑んだ。
「主様、最近頻繁にお越しくださいますわね。困ったことが多くて、わたくしは嬉しゅうございますわ」
「……嬉しいんですか」
「ええ」
それきり、彼女は続けなかった。
微笑んだまま、僕を見ている。波がひとつ寄せて引くあいだ、その目は逸れず、まばたきもしなかった。
(……僕が困ると、嬉しい?)
変わった言い方をする人だ。まあ、頼られるのが嬉しいというのは、そういうものなのかもしれない。
「え、と。それで、本題なんですけど」
僕が切り出すと、足元の灯篭がひとつ、柔らかく揺れた。
「来週、四番隊の見学があるんです」
「まあ。卯ノ花烈隊長の、お膝元へいらっしゃるのですわね」
「はい」
僕は頷いた。
「あの人は前世の記憶の中でも、とりわけ油断ならない人なんです。穏やかな顔で笑いながら、こちらの隠したいものまで見抜きかねない」
僕は息を整えた。
「だから霊圧は絶対に知られちゃいけなくて、気配も消したいんです。でも———」
「同時に、僕は四番隊に入りたい。卯ノ花隊長に『この子は適性がある』と思われたいんです」
「……つまり」
琥珀姫はゆっくり首を傾けた。
「霊圧の本性は隠したまま、回道の腕前だけをお見せになりたい、と」
「はい」
「随分と欲張りなご希望ですわね、主様」
琥珀姫はくすりと笑った。
「ですが、ご無理ではありませんわ。回道は霊圧の『量』ではなく、『繊細な制御』が問われる術ですもの」
「絞りは保ったまま、必要な分だけを丁寧に引き出すこと。それで十分にお見せできましてよ」
「……できますか、本当に」
「これまで主様が積み上げてきた修練の、まさに見せどころにございます」
琥珀姫は僕の手を、両手でそっと包んだ。
温かく、揺るぎない手だった。
「わたくしも、最大限お支えいたしますわ」
「……はい。お願いします」
見学の日が来た。
四番隊救護道院は、瀞霊廷の中央近くに建つ、白く静まり返った大きな施設だった。
温かい色の灯篭が等間隔に並び、磨き抜かれた壁が午前の光を柔らかく返している。
門をくぐると、印象が変わった。
廊下に、足音が響かない。
窓の桟に、指の跡ひとつない。
すれ違う隊士の所作に、迷いがない。
優しさというより、統制だ。
汚れも無駄も、ここでは半日ともちそうになかった。
前世の記憶に残る卯ノ花隊長の印象と、この空気は、どこかで重なっていた。
「諸君、整列」
引率の教官の指示で、僕たちは列を組み直した。
見学生は五十人ほど。僕は列の真ん中より少し後ろへ、さりげなく紛れ込んだ。
目立たず、隠れすぎず。
琥珀の薄膜はいつも通り、体を覆っている。中で増えた分の霊力は、外には漏れていない。
まず通されたのは、講堂のような広い空間だった。
正面の壇上に、足音もなく人影が現れた。
長い黒髪をひとつの三つ編みに編んで、胸の前に垂らした、穏やかな顔の女性。
四番隊隊長、卯ノ花烈。
(———本物だ)
壇上までは二十メートル近くある。それでも僕は思わず、気配を探っていた。
———何も、ない。
霊圧が、まったくない。それが逆に不自然だった。
これだけの人数の真ん中に立って、何ひとつ感じさせない人がいる。
底の見えない井戸を覗いたときの感じに、よく似ていた。
深いのか、空なのか、覗いただけでは分からない。分からないまま、足だけが半歩、退きたがる。
僕は霊圧の絞りを、いつもより一段強く効かせた。
息を細くして、気配を薄くする。
「ようこそ、皆様」
卯ノ花隊長の穏やかな声が、講堂に響いた。
「ここは四番隊・救護道院。死神の中で、誰よりも死神を助ける者たちの場所です」
彼女はゆっくりと、見学生たちを見渡した。
その視線は、誰か一人に留まることはなかった。僕の前も、素通りした。
僕は気取られないよう、そっと息を逃がした。
「本日は当院のいくつかの場所をご覧いただきます。最後には皆様にも、回道の実技を試していただく時間を、ご用意しております」
実技。
回道の、実技。
唾を飲む音が、自分の喉の奥で妙に大きく聞こえた。
ここが、勝負どころだ。
施設は、
回道室。重傷の隊士を収める棟。鬼道による浄化室。薬草の調合場。
どの部屋にも、乾いた薬草の匂いが薄く満ちていた。
僕は何も質問せず、列の影に紛れて歩いた。
そして、最後の部屋に着いた。
「ここで皆様には、簡単な治癒術を体験していただきます」
案内の隊士が、部屋の奥へ手を向けた。
演習用の机が並び、それぞれの上に、小さな霊体の
脇腹に、細い切り傷。
実習のために、誰かが付けた傷ということになる。この優しい建物の中の、誰かが。
考えないことにして、僕は列の端の机についた。
「軽い切り傷ですので、出力は控えめで構いません。落ち着いて、ゆっくり、行ってください」
見学生たちが、おっかなびっくり手をかざし始める。あちこちで頼りない光が点いては、揺らいで消えた。
僕は深く息を吸った。
(絞りはそのまま。右手の一点だけ、緩める)
水晶測定のときと同じ要領で、薄膜の右手側だけをわずかに緩め、絞った霊圧から一筋を引き出した。
緑がかった淡い光が、掌から漏れる。
傷を「閉じる」のではなく、「正しい状態に、戻す」。
これは琥珀姫から学んだ「保存」の応用の、応用だ。
状態を「保存」する力は、状態を「読む」力でもある。読めれば、それを「整える」ことができる。
傷の縁が引き攣れないよう、霊圧の流れを細く整える。
霊体の理が、本来の形へ滑らかに還っていく。
そこで、気づいた。
机のあいだを巡回していた帳面持ちの隊士が、僕の机の前で足を止めている。
筆が、止まっている。
(……見られてる)
霊圧は隠した。量も出していない。
でも、手際そのものは隠しようがない。
普通の治癒は、傷を塞ぐ。
僕のやり方は、傷を戻す。
見る人が見れば、その違いは光の収まり方に出る。
霊圧のことばかり警戒して、そっちは考えていなかった。
光が収まった。
細い傷はほとんど消え、震えも止まっていた。鼠は机の上で、ふわふわの毛をゆっくり整え始めた。
「……あら」
帳面の隊士が、小さく声を上げた。
「その手順、どこで習いました?」
(きた)
「な、習ったというか……」
声が上ずらないよう、喉の奥で押さえる。
「流魂街にいた頃は、怪我をする人がいつも近くにいて。手当てのまねごとを繰り返すうちに、妙な癖がついたんだと思います。回道は好きで、入学してからもよく独習していて……」
嘘では、ない。
ただ、いちばん教わった相手のことだけ、綺麗に抜いてある。
隊士はしばらく、僕の顔と机の上の鼠を見比べた。
「君、ずいぶん丁寧ですね。傷の塞ぎ方が、新人離れしています」
(「丁寧」は嬉しい。「新人離れ」は、まずい)
「あ、ありがとうございます……」
僕は深々と頭を下げた。
出すぎないように、慎重に。
「霊圧自体は、そう大きくないようですけれど。よくここまで細やかに制御できますね」
「か、数だけは、こなしているので……」
隊士は頷きながら、帳面に何かを書き込んだ。
何を書いたのかまでは、見えなかった。
(出すぎるな。出すぎるな、僕)
僕は膝の上で、小さく拳を握った。
隊士はもう、隣の机へ移っていた。
実技が終わり、見学生は再び講堂に集められた。
整列を待つあいだ、視界の端にあの帳面の隊士が映った。
壇上の脇へ歩み寄って、控えていた席官に帳面を渡している。二言三言。席官が、壇上の方へ小さく目礼した。
ただの報告だ。今日の実技の、事務的な報告。
そうに決まっている。
「皆様、本日はご見学、ありがとうございました」
卯ノ花隊長は壇上から、穏やかに語った。
「死神の道は、戦うことだけではありません。誰かを救う、誰かを治す、誰かを見送る。それも立派な死神の道です」
救う。治す。———見送る。
三つ目の言葉だけ、ほんの少し深いところで響いた気がした。声の高さも速さも、何ひとつ変わらなかったのに。
「もし皆様の中にその道を志す方がいらっしゃれば、いつでも当院はその方を歓迎いたします」
僕に向けた言葉ではない。五十人全員に向けた、型どおりの挨拶だ。
それでも「歓迎いたします」のひとことは、胸の奥に小さく灯って、消えなかった。
卯ノ花隊長が、深々と頭を下げる。
僕たち見学生も、いっせいに頭を下げた。
頭を上げるのが、半拍遅れた。
周りに合わせようと、意識しすぎたせいだ。
上げた顔が、ふと壇上へ向いた。
その壇上から、視線がこちらへ流れてくるのを感じた。
———!
琥珀の薄膜が、内側からさざ波立った。
目は、合わなかったはずだ。
視線は僕の方向を
でも。
———あの人、こっちを、見た。
たぶん一瞬で、たぶん気のせいだ。
そう言い聞かせる声より深いところで、警報が鳴り始めていた。
入学式で背中に刺さった視線。
教場の扉越しの視線。
そして、いまの。
質が同じだということは、とっくに知っていた。
知らずに済んでいたのは、それが誰の目か、だけだ。
ずっと僕を見ていた誰かに、いま、顔と名前がつこうとしている。
僕の志望先の、隊長という名前が。
(……繋げては、駄目だ)
繋げてしまえば、僕は卯ノ花隊長を必要以上に警戒する。
警戒は態度に出る。態度に出れば、それこそ向こうに気付かれる。
僕は列の流れに合わせて、前だけを向いて歩き出した。
帰路、見学団の最後尾で、僕は今日一日を一度だけ数え直した。
四番隊の人が、僕のことを帳面に書き留めてくれた。
卯ノ花隊長は「歓迎いたします」と言ってくれた。
霊圧は、最後まで漏れていない。
それなのに、勘定が合わない。
いちばん見られたくない人に、いちばん見てほしい場所で、見られたかもしれないのだ。
(琥珀姫)
心の中で呼ぶと、腰の浅打の中で彼女が静かに応えた。
『はい、主様』
『……気のせいだと、思いますか』
琥珀姫は、しばらく黙った。
『主様の心がそう感じたのなら、無視するべきではありませんわ。けれど、いま結論を急いでもわかりません。次に同じものを感じた時に、もう一度だけ見極めましょう』
『……はい』
足取りが、少しだけ軽くなった。
同じ勘定でも、二人で数えると重さが違う。
その夜、寮の藁布団の上で、僕は天井の闇を見ていた。
今日、僕は初めて自分から「見せた」。
隠す、逃げる、避ける。それだけだった手札に、表向きの札が一枚増えた。
明日からやることも、決まっている。
回道の独習を、本物にすること。
今日口にした「よく独習していて」を、嘘でなくしておくこと。
それから———志望は、変えない。
あの「歓迎いたします」を、もう聞いてしまった。
いちばん見られたくない人のお膝元が、いちばん入りたい場所になってしまった。
それでも。
僕は枕元の浅打に、指先でそっと触れた。
鞘は冷たくて、その奥だけが、ほんのり温かい気がした。
そのまま、目を閉じた。