『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第8話

第八話 (かげ)(まと)

 

 

四番隊見学から、数日が過ぎていた。

 

表向き、僕はいつも通りの日々を過ごしていた。

 

朝の鍛錬。霊圧基礎学。鬼道授業。模擬戦。回道演習。

何も変わらない、平穏なアカデミーの日々。

 

そのはず、だった。

 

———あの人、こっちを、見た。

 

教場の机に向かえば、ふとあの穏やかな顔が浮かぶ。

食堂で(わん)を傾ければ、その底にあの目の色が滲んで消える気がした。

藁布団に身を横たえれば、天井の闇の隅に、あの三つ編みの影がぼんやり浮かんで見えた。

 

(気のせいだ)

 

何度言い聞かせても、肌のある一点のざわつきだけが消えなかった。

あの一瞬、確かに僕の方へ流れていった、壇上からの視線。

 

たぶん気のせいだ。

たぶん偶然だ。

たぶん———本当に?

 

頭の奥で、細い警鐘が鳴りやまなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、僕は内界の海辺で琥珀姫と向き合っていた。

 

灯篭の灯が、いつもよりわずかに明るい。

 

「琥珀姫。僕、もっと擬装を強くしたいです」

 

僕は正面から頼んだ。

 

「卯ノ花隊長のこと、何度考えても油断できなくて。それに始解のあいだは、絞りが働きません。もしあの一瞬を誰かに見られたら、隠す手が一つもないんです」

 

琥珀姫は僕の手元へ目をやり、それから静かに頷いた。

 

「ええ、主様。あの御方は、何もお漏らしになりませんでした。隊を率いるほどの御方が、ただの一筋も。その『何もなさ』こそ、恐ろしいのでございますわ」

 

「……ですよね」

 

「主様の御望みは、わたくしも前々から考えておりました。お忘れかしら。以前お約束した、もう一つの覆い」

 

思い出した。絞りを授かった夜の、あの約束。

始解の最中のための覆いを、いずれ、と。

 

「あ、はい。覚えています。お願いします、教えてください」

 

僕は深く頭を下げた。

 

すると琥珀姫は、少しだけ首を傾けた。

 

「主様」

 

「はい」

 

「その前に、ひとつだけ。わたくしからお願いしても、よろしいかしら」

 

声の調子が、ほんの少し改まっていた。

 

「な、なんでしょうか」

 

「わたくしに、そんなにかしこまらないでくださいませ」

 

「……え?」

 

顔を上げた。

 

琥珀姫はいつもの穏やかな微笑みのまま、僕を見ていた。

 

「主様とわたくしの仲ですもの。もっとお気楽に、お話しになって構いません」

 

「……でも、僕」

 

「ええ。主様はお優しいから、誰に対しても礼をお尽くしになる。それは、とても素敵なことです」

 

琥珀姫は僕の頬に、そっと手を添えた。

 

掌は、いつもよりほんの少しだけあたたかかった。

 

「でも、ね。わたくしの前でだけは、もっと楽になさってください」

 

「……」

 

「主様の、ありのままの、声を聞きたいのですわ」

 

それきり、彼女は黙った。

灯篭の灯がひとつ揺れて、睫毛(まつげ)の影は揺れなかった。

 

頬から、掌が離れていく。

離れ際、指先が一瞬だけ強くなって、それから来た時よりもゆっくり遠ざかっていった。

 

(僕は、いつから敬語だったろう)

 

たぶん、物心ついた時から。

 

前世でも、敬語ばかり使っていた。

真央霊術院に入ってからも、ずっと。

口をひらく時はいつも、相手と自分のあいだに薄い壁を一枚はさんで、それから声を出していた。

 

その壁を取り払えと、彼女は言っている。

 

(怖い)

 

正直に言えば、怖かった。

壁のない自分の声を誰かに聞かせるのは、これまで僕がいちばん避けてきたことだ。

 

でも、相手は琥珀姫だ。

僕の内側にいる人。僕の声を、僕より先に聞いてきた人。

 

僕は震えそうな息をゆっくり吸って、口をひらいた。

 

「は、はい」

 

違う。

 

言い慣れた二文字の方が、先に出た。

物心ついてから今日までの、前世から数えればもっと長い、癖の二文字。

 

琥珀姫は何も言わなかった。

急かしもせず、笑いもせず、ただ待っていた。

 

僕はもう一度、息を吸った。

今度は喉の奥の、壁のさらに内側から。

 

「……うん」

 

声が、少しだけ震えた。

 

これが、僕のありのままの「うん」。

ほとんど誰にも見せてこなかった、僕の素の声。

 

口の中で、短い音節が不思議な手触りを残した。

じんわりと、こそばゆい。

 

「ふふ」

 

琥珀姫が嬉しそうに微笑んだ。

 

「———聞けましたわ」

 

「……いや、まだ慣れない、けど」

 

「ええ、少しずつで構いません」

 

「……うん。ありがとう、琥珀姫」

 

頬がわずかに熱かった。

それでも不思議と、悪い熱ではなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

「では、本題に入りましょう」

 

琥珀姫が裾を払って立ち上がった。

 

「これよりお教えするのは、わたくしの卍解(ばんかい)の能力『世界保存』のほんの一片を借りる術でございます」

 

「……卍解の」

 

「ええ。世界そのものを琥珀に閉ざす力を、主様お一人の周りに極小に絞って使います。完全な発動ではなく、輪郭だけをお借りするのです」

 

彼女は両手を胸の前で合わせた。

 

「主様ご自身を、世界から一時的に切り離すのですわ」

 

「切り離す……」

 

言葉を口の中で転がしてみても、実感が湧かない。

 

「外から、僕はどう見えるの?」

 

「ご覧にいれます」

 

琥珀姫は自分の周りに、ふわりと薄い琥珀色の膜を広げた。

ほとんど透明で、注意して見なければわからないほど薄い。

 

その膜の中で、彼女の姿が淡くぼやけていく。

風景がわずかに歪んで、そこに誰かがいるはずなのに、それが琥珀姫だという確かさだけが抜け落ちていった。

 

(いる。いるのに、誰なのか、わからない)

 

「この幕の中にいる間、主様は外の世界からひと呼吸分だけ遠くなります。霊圧も、お姿も、お声も」

 

幕越しの声は、布を一枚隔てたようにくぐもって聞こえた。

 

「外の者にわかるのは『そこに何かがいる』ところまで。それが誰か、どんな力かまでは届きません」

 

膜が解けて、琥珀姫の輪郭が戻った。

 

「……すごい」

 

完全な不可視ではない。でも、不可視に近い認識阻害。

始解の姿を晒さずに技を放ち、逃げる時間を作れる。

 

「主様も、お試しになりますか」

 

「うん」

 

◆ ◆ ◆

 

僕は立ち上がった。

 

内界なら、女体化(じょたいか)しても外の誰にも見られない。ここには琥珀姫しかいない。

それでも、わずかな緊張があった。

内界で彼女と向き合って始解するのは、これが初めてだ。

 

(……平気だ。彼女は、僕の中の人なんだから)

 

そう言い聞かせても、頬の奥がすでに熱かった。

 

「封じて、灯せ———琥珀姫・久遠灯」

 

体が琥珀色の光に包まれる。

身長が少し伸び、手が細く白くなる。

頭に宝冠の重み。顔の周りにベール。身を包む白と金のドレス。

 

「……今日も、この声なのですね」

 

口から漏れるのは、いつもの女声。

口調が、勝手にお姫様になる。

 

内界の琥珀姫が、目を細めた。

 

「主様の御姿を内界で拝見するのは、初めてですわね。お美しゅうございます」

 

「お、おやめください……っ」

 

僕は両手で顔を覆った。頬が燃えるように熱い。

 

「ふふ。失礼いたしました。では、主様」

 

琥珀姫は僕の周りを、ゆっくりと一周した。

 

「ご自身の周りに、薄い琥珀の幕を思い描いてください。範囲は、お体からほんの数寸の先まで」

 

「……うん」

 

ぎこちなく頷く。

姿はお姫様、口調も勝手に貴婦人、それでも返事だけは「うん」。

ちぐはぐな自分が、少し滑稽だった。

 

目を閉じて、体の周りに薄い絹のような膜を思い描いた。

それを自分の霊圧で編み上げていく。

 

「そのまま、その幕を『世界の理からわずかに切り離す』とお念じください」

 

世界の理から、切り離す。

 

念じた、その途中で。

 

世界が、戻ってきた。

 

編みかけの幕が音もなく割れて、遠ざかりかけていた波の音が一斉に耳へ殴り込んできた。

灯篭の灯が眩しい。

足元が傾いで、僕は砂の上に膝をついた。

 

「っ……」

 

耳の奥がじんと鳴っている。

引いた波が一度に返ってくるような、逃すまいと世界がしがみついてくるような、そんな戻り方だった。

 

「お焦りにならないでくださいませ」

 

琥珀姫の声は静かだった。

 

「世界は、主様を手放したくないのでございます。この術は、卍解の力を始解の段階で無理にお借りするもの。霊圧の消耗も激しゅうございます。最初は数分が精一杯。修練を重ねて、ようやく半刻(はんとき)ですわ」

 

「……数分」

 

膝をついたまま、僕は考えた。

逃げるのに要るのは、いつだってほんの数分だ。

 

「……うん。もう一度」

 

立ち上がって、もう一度目を閉じる。

 

今度は、編む速さを欲張らなかった。

息を一つ吐くたびに、一枚。薄く、薄く重ねていく。

しがみついてくる世界を引き剥がすのではなく、そっと、ひと呼吸分の間をあける。

 

波の音が、わずかに遠くなった。

 

灯篭のゆらめきも足元の水の冷たさも、一拍だけ後ろに退いた。

 

目を開けると、自分の手の輪郭がわずかに淡く滲んでいた。

 

「……できた、の」

 

「ええ。掴まれましたわ」

 

琥珀姫は深く頷いて、それから僕の手元を見た。

 

「ですが、お気づきかしら。いまの一枚で、御身の霊圧は」

 

言われて、初めて気づいた。

胸の奥が軽い。軽すぎる。

絞りの内側で、霊圧が目に見えて減っていた。

たった、ひと呼吸分の幕で。

 

「今宵はここまでにいたしましょう。ここで重ねたお疲れも、主様の御身に積もりますもの」

 

「……うん。わかった」

 

刀を納めると光が解けて、僕は男の体に戻った。

波の音が、また耳元まで戻ってくる。

 

その近さが、少しだけうるさかった。

 

◆ ◆ ◆

 

朝の鐘が鳴った。

 

僕は目を開けて、藁布団の上で息を整えた。

それからいつものように、誰にも気づかれず寮舎を抜け出した。

歩法で音もなく、霊圧も漏らさず、あの山林の奥へ。

 

ふた月前、初めて始解した場所。

苔むした岩。覆い被さる枝。鳥の声も虫の声も、遠い。

誰の気配も、ない。

 

腰の浅打を抜いて、両手で柄を握る。

 

「封じて、灯せ———琥珀姫・久遠灯」

 

刀身が光に包まれ、体が変わる。

宝冠。ベール。ドレス。

 

それと同時に、僕は幕を編み始めた。

昨夜、内界で一度掴んだ動作。体が覚えている。

息を一つ吐くたびに、一枚。焦らず、同じ()をあけて。

 

鳥の声が、ひとつ遠くなった。

 

幕がふわりと体を覆う。

薄い影を一枚、纏ったみたいに。

 

僕は近くの倒木に刀先を向けた。

 

「古樹ノ雫」

 

雫が刀先から落ちて、触れた場所が琥珀色に固まる。

技は、幕の中からそのまま出た。

 

僕は息を数えながら倒木を見ていた。

五つ数えるうちに琥珀は薄れ、倒木は元の朽ち色に戻った。

跡は、残らない。それも確かめた。

 

ここまでは、いい。

あとは、外の誰かの目で確かめる手がないことだけが———

 

足音がした。

 

落ち葉を踏む、確かな重さ。

一定の歩幅。大人の歩き方。

こちらへ近づいてくる。

 

(なんで。ここ、立入禁止区域の奥なのに)

 

教官すらほとんど寄り付かない場所だ。

その「ほとんど」の外側が、いま来ている。

 

僕は幕の中で動きを止めた。

息を殺す。

声も姿も霊圧も、幕の内側のはずだ。

 

はず、だ。

 

足音は木立の向こうで一度ゆるんで、それから、止まった。

 

葉擦れの音だけが残った。

 

(落ち着け。落ち着け、僕)

 

瞬きができなかった。

始解の姿のまま、白と金のドレスのまま、朝の山林の真ん中で。

幕一枚を隔てて、誰かがそこに立っている。

 

(あの目が———いまここにあったら)

 

壇上の視線が、よみがえった。

五十人の見学生をゆっくり見渡しながら、誰にも留まらなかった、あの目。

あれが、いまこの木立の前にあったら。

幕を編むのが、あと十数えるぶん遅かったら。

 

視線が藪を撫でた気がした。

 

一拍。

二拍。

 

足音は向きを変えて、来た時と同じ歩幅で遠ざかっていった。

 

僕は心の中で百を数えた。

数え終えてから、もう百を数えた。

 

足音は、戻ってこなかった。

幕はもう、端から薄れはじめていた。

 

◆ ◆ ◆

 

刀を納めた。

 

幕が解けて、始解が解けて、僕はいつもの男の体に戻った。

そのまま、近くの岩に崩れるようにもたれた。

 

しばらくは、荒い息を整えるのに必死だった。

体の中の霊圧が、ごっそり減っている。

昨夜の比じゃない。

琥珀姫の言った通り、これは長くは使えない。

ここぞという時の、切り札だ。

 

でも。

 

幕は、保った。

 

本物の足音の前で、本物の誰かの気配の前で、僕は見つからなかった。

足音は一度止まった。何かは感じたのかもしれない。

それでも、その何かを検分しには来なかった。

それが誰か。どんな力か。始解の姿も、女の声も、全部幕の内側のままだった。

 

これだ。

これが、僕の欲しかったものだ。

 

戦える。でも、見られない。

力を使える。でも、正体は知られない。

 

たぶんまだ、誰も見たことのない術。

僕だけの、僕のための、擬装術。

 

僕は長く息を吐いて、木々の間を見上げた。

 

幕の中で見た世界は、いつもよりひとつ淡い色をしていた。

光がわずかに滲んで、苔の緑も樹の褐色も、薄紙を一枚かぶせたように柔らかかった。

 

世界の方が、僕に少しだけ気を遣って、距離を取ってくれているような。

 

あるいは———僕の方が、世界に置いていかれているのか。

 

どちらでもよかった。

いまは、まだ。

 

陽はまだ低い。寮に戻る時間はある。

 

(今日の模擬戦は、手を抜く演技すら要らなさそうだ)

 

ふらつく足で立ち上がって、僕は山林を後にした。

 

平穏へ辿り着くまでの道を守る覆いが、一つ増えた。

うん、と頷ける場所も、一つだけできた。

 

腰の浅打の中で、琥珀姫が満足げに微笑んだ気配がした。

 

その気配は、いつもより一拍だけ長く続いた。

腰のあたりが、ほのかに温かい。

朝陽はまだ、木々に遮られて届いていないのに。

 

(気のせいだ)

 

第八話 了

 

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