四番隊見学から、数日が過ぎていた。
表向き、僕はいつも通りの日々を過ごしていた。
朝の鍛錬。霊圧基礎学。鬼道授業。模擬戦。回道演習。
何も変わらない、平穏なアカデミーの日々。
そのはず、だった。
———あの人、こっちを、見た。
教場の机に向かえば、ふとあの穏やかな顔が浮かぶ。
食堂で
藁布団に身を横たえれば、天井の闇の隅に、あの三つ編みの影がぼんやり浮かんで見えた。
(気のせいだ)
何度言い聞かせても、肌のある一点のざわつきだけが消えなかった。
あの一瞬、確かに僕の方へ流れていった、壇上からの視線。
たぶん気のせいだ。
たぶん偶然だ。
たぶん———本当に?
頭の奥で、細い警鐘が鳴りやまなかった。
その夜、僕は内界の海辺で琥珀姫と向き合っていた。
灯篭の灯が、いつもよりわずかに明るい。
「琥珀姫。僕、もっと擬装を強くしたいです」
僕は正面から頼んだ。
「卯ノ花隊長のこと、何度考えても油断できなくて。それに始解のあいだは、絞りが働きません。もしあの一瞬を誰かに見られたら、隠す手が一つもないんです」
琥珀姫は僕の手元へ目をやり、それから静かに頷いた。
「ええ、主様。あの御方は、何もお漏らしになりませんでした。隊を率いるほどの御方が、ただの一筋も。その『何もなさ』こそ、恐ろしいのでございますわ」
「……ですよね」
「主様の御望みは、わたくしも前々から考えておりました。お忘れかしら。以前お約束した、もう一つの覆い」
思い出した。絞りを授かった夜の、あの約束。
始解の最中のための覆いを、いずれ、と。
「あ、はい。覚えています。お願いします、教えてください」
僕は深く頭を下げた。
すると琥珀姫は、少しだけ首を傾けた。
「主様」
「はい」
「その前に、ひとつだけ。わたくしからお願いしても、よろしいかしら」
声の調子が、ほんの少し改まっていた。
「な、なんでしょうか」
「わたくしに、そんなにかしこまらないでくださいませ」
「……え?」
顔を上げた。
琥珀姫はいつもの穏やかな微笑みのまま、僕を見ていた。
「主様とわたくしの仲ですもの。もっとお気楽に、お話しになって構いません」
「……でも、僕」
「ええ。主様はお優しいから、誰に対しても礼をお尽くしになる。それは、とても素敵なことです」
琥珀姫は僕の頬に、そっと手を添えた。
掌は、いつもよりほんの少しだけあたたかかった。
「でも、ね。わたくしの前でだけは、もっと楽になさってください」
「……」
「主様の、ありのままの、声を聞きたいのですわ」
それきり、彼女は黙った。
灯篭の灯がひとつ揺れて、
頬から、掌が離れていく。
離れ際、指先が一瞬だけ強くなって、それから来た時よりもゆっくり遠ざかっていった。
(僕は、いつから敬語だったろう)
たぶん、物心ついた時から。
前世でも、敬語ばかり使っていた。
真央霊術院に入ってからも、ずっと。
口をひらく時はいつも、相手と自分のあいだに薄い壁を一枚はさんで、それから声を出していた。
その壁を取り払えと、彼女は言っている。
(怖い)
正直に言えば、怖かった。
壁のない自分の声を誰かに聞かせるのは、これまで僕がいちばん避けてきたことだ。
でも、相手は琥珀姫だ。
僕の内側にいる人。僕の声を、僕より先に聞いてきた人。
僕は震えそうな息をゆっくり吸って、口をひらいた。
「は、はい」
違う。
言い慣れた二文字の方が、先に出た。
物心ついてから今日までの、前世から数えればもっと長い、癖の二文字。
琥珀姫は何も言わなかった。
急かしもせず、笑いもせず、ただ待っていた。
僕はもう一度、息を吸った。
今度は喉の奥の、壁のさらに内側から。
「……うん」
声が、少しだけ震えた。
これが、僕のありのままの「うん」。
ほとんど誰にも見せてこなかった、僕の素の声。
口の中で、短い音節が不思議な手触りを残した。
じんわりと、こそばゆい。
「ふふ」
琥珀姫が嬉しそうに微笑んだ。
「———聞けましたわ」
「……いや、まだ慣れない、けど」
「ええ、少しずつで構いません」
「……うん。ありがとう、琥珀姫」
頬がわずかに熱かった。
それでも不思議と、悪い熱ではなかった。
「では、本題に入りましょう」
琥珀姫が裾を払って立ち上がった。
「これよりお教えするのは、わたくしの
「……卍解の」
「ええ。世界そのものを琥珀に閉ざす力を、主様お一人の周りに極小に絞って使います。完全な発動ではなく、輪郭だけをお借りするのです」
彼女は両手を胸の前で合わせた。
「主様ご自身を、世界から一時的に切り離すのですわ」
「切り離す……」
言葉を口の中で転がしてみても、実感が湧かない。
「外から、僕はどう見えるの?」
「ご覧にいれます」
琥珀姫は自分の周りに、ふわりと薄い琥珀色の膜を広げた。
ほとんど透明で、注意して見なければわからないほど薄い。
その膜の中で、彼女の姿が淡くぼやけていく。
風景がわずかに歪んで、そこに誰かがいるはずなのに、それが琥珀姫だという確かさだけが抜け落ちていった。
(いる。いるのに、誰なのか、わからない)
「この幕の中にいる間、主様は外の世界からひと呼吸分だけ遠くなります。霊圧も、お姿も、お声も」
幕越しの声は、布を一枚隔てたようにくぐもって聞こえた。
「外の者にわかるのは『そこに何かがいる』ところまで。それが誰か、どんな力かまでは届きません」
膜が解けて、琥珀姫の輪郭が戻った。
「……すごい」
完全な不可視ではない。でも、不可視に近い認識阻害。
始解の姿を晒さずに技を放ち、逃げる時間を作れる。
「主様も、お試しになりますか」
「うん」
僕は立ち上がった。
内界なら、
それでも、わずかな緊張があった。
内界で彼女と向き合って始解するのは、これが初めてだ。
(……平気だ。彼女は、僕の中の人なんだから)
そう言い聞かせても、頬の奥がすでに熱かった。
「封じて、灯せ———琥珀姫・久遠灯」
体が琥珀色の光に包まれる。
身長が少し伸び、手が細く白くなる。
頭に宝冠の重み。顔の周りにベール。身を包む白と金のドレス。
「……今日も、この声なのですね」
口から漏れるのは、いつもの女声。
口調が、勝手にお姫様になる。
内界の琥珀姫が、目を細めた。
「主様の御姿を内界で拝見するのは、初めてですわね。お美しゅうございます」
「お、おやめください……っ」
僕は両手で顔を覆った。頬が燃えるように熱い。
「ふふ。失礼いたしました。では、主様」
琥珀姫は僕の周りを、ゆっくりと一周した。
「ご自身の周りに、薄い琥珀の幕を思い描いてください。範囲は、お体からほんの数寸の先まで」
「……うん」
ぎこちなく頷く。
姿はお姫様、口調も勝手に貴婦人、それでも返事だけは「うん」。
ちぐはぐな自分が、少し滑稽だった。
目を閉じて、体の周りに薄い絹のような膜を思い描いた。
それを自分の霊圧で編み上げていく。
「そのまま、その幕を『世界の理からわずかに切り離す』とお念じください」
世界の理から、切り離す。
念じた、その途中で。
世界が、戻ってきた。
編みかけの幕が音もなく割れて、遠ざかりかけていた波の音が一斉に耳へ殴り込んできた。
灯篭の灯が眩しい。
足元が傾いで、僕は砂の上に膝をついた。
「っ……」
耳の奥がじんと鳴っている。
引いた波が一度に返ってくるような、逃すまいと世界がしがみついてくるような、そんな戻り方だった。
「お焦りにならないでくださいませ」
琥珀姫の声は静かだった。
「世界は、主様を手放したくないのでございます。この術は、卍解の力を始解の段階で無理にお借りするもの。霊圧の消耗も激しゅうございます。最初は数分が精一杯。修練を重ねて、ようやく
「……数分」
膝をついたまま、僕は考えた。
逃げるのに要るのは、いつだってほんの数分だ。
「……うん。もう一度」
立ち上がって、もう一度目を閉じる。
今度は、編む速さを欲張らなかった。
息を一つ吐くたびに、一枚。薄く、薄く重ねていく。
しがみついてくる世界を引き剥がすのではなく、そっと、ひと呼吸分の間をあける。
波の音が、わずかに遠くなった。
灯篭のゆらめきも足元の水の冷たさも、一拍だけ後ろに退いた。
目を開けると、自分の手の輪郭がわずかに淡く滲んでいた。
「……できた、の」
「ええ。掴まれましたわ」
琥珀姫は深く頷いて、それから僕の手元を見た。
「ですが、お気づきかしら。いまの一枚で、御身の霊圧は」
言われて、初めて気づいた。
胸の奥が軽い。軽すぎる。
絞りの内側で、霊圧が目に見えて減っていた。
たった、ひと呼吸分の幕で。
「今宵はここまでにいたしましょう。ここで重ねたお疲れも、主様の御身に積もりますもの」
「……うん。わかった」
刀を納めると光が解けて、僕は男の体に戻った。
波の音が、また耳元まで戻ってくる。
その近さが、少しだけうるさかった。
朝の鐘が鳴った。
僕は目を開けて、藁布団の上で息を整えた。
それからいつものように、誰にも気づかれず寮舎を抜け出した。
歩法で音もなく、霊圧も漏らさず、あの山林の奥へ。
ふた月前、初めて始解した場所。
苔むした岩。覆い被さる枝。鳥の声も虫の声も、遠い。
誰の気配も、ない。
腰の浅打を抜いて、両手で柄を握る。
「封じて、灯せ———琥珀姫・久遠灯」
刀身が光に包まれ、体が変わる。
宝冠。ベール。ドレス。
それと同時に、僕は幕を編み始めた。
昨夜、内界で一度掴んだ動作。体が覚えている。
息を一つ吐くたびに、一枚。焦らず、同じ
鳥の声が、ひとつ遠くなった。
幕がふわりと体を覆う。
薄い影を一枚、纏ったみたいに。
僕は近くの倒木に刀先を向けた。
「古樹ノ雫」
雫が刀先から落ちて、触れた場所が琥珀色に固まる。
技は、幕の中からそのまま出た。
僕は息を数えながら倒木を見ていた。
五つ数えるうちに琥珀は薄れ、倒木は元の朽ち色に戻った。
跡は、残らない。それも確かめた。
ここまでは、いい。
あとは、外の誰かの目で確かめる手がないことだけが———
足音がした。
落ち葉を踏む、確かな重さ。
一定の歩幅。大人の歩き方。
こちらへ近づいてくる。
(なんで。ここ、立入禁止区域の奥なのに)
教官すらほとんど寄り付かない場所だ。
その「ほとんど」の外側が、いま来ている。
僕は幕の中で動きを止めた。
息を殺す。
声も姿も霊圧も、幕の内側のはずだ。
はず、だ。
足音は木立の向こうで一度ゆるんで、それから、止まった。
葉擦れの音だけが残った。
(落ち着け。落ち着け、僕)
瞬きができなかった。
始解の姿のまま、白と金のドレスのまま、朝の山林の真ん中で。
幕一枚を隔てて、誰かがそこに立っている。
(あの目が———いまここにあったら)
壇上の視線が、よみがえった。
五十人の見学生をゆっくり見渡しながら、誰にも留まらなかった、あの目。
あれが、いまこの木立の前にあったら。
幕を編むのが、あと十数えるぶん遅かったら。
視線が藪を撫でた気がした。
一拍。
二拍。
足音は向きを変えて、来た時と同じ歩幅で遠ざかっていった。
僕は心の中で百を数えた。
数え終えてから、もう百を数えた。
足音は、戻ってこなかった。
幕はもう、端から薄れはじめていた。
刀を納めた。
幕が解けて、始解が解けて、僕はいつもの男の体に戻った。
そのまま、近くの岩に崩れるようにもたれた。
しばらくは、荒い息を整えるのに必死だった。
体の中の霊圧が、ごっそり減っている。
昨夜の比じゃない。
琥珀姫の言った通り、これは長くは使えない。
ここぞという時の、切り札だ。
でも。
幕は、保った。
本物の足音の前で、本物の誰かの気配の前で、僕は見つからなかった。
足音は一度止まった。何かは感じたのかもしれない。
それでも、その何かを検分しには来なかった。
それが誰か。どんな力か。始解の姿も、女の声も、全部幕の内側のままだった。
これだ。
これが、僕の欲しかったものだ。
戦える。でも、見られない。
力を使える。でも、正体は知られない。
たぶんまだ、誰も見たことのない術。
僕だけの、僕のための、擬装術。
僕は長く息を吐いて、木々の間を見上げた。
幕の中で見た世界は、いつもよりひとつ淡い色をしていた。
光がわずかに滲んで、苔の緑も樹の褐色も、薄紙を一枚かぶせたように柔らかかった。
世界の方が、僕に少しだけ気を遣って、距離を取ってくれているような。
あるいは———僕の方が、世界に置いていかれているのか。
どちらでもよかった。
いまは、まだ。
陽はまだ低い。寮に戻る時間はある。
(今日の模擬戦は、手を抜く演技すら要らなさそうだ)
ふらつく足で立ち上がって、僕は山林を後にした。
平穏へ辿り着くまでの道を守る覆いが、一つ増えた。
うん、と頷ける場所も、一つだけできた。
腰の浅打の中で、琥珀姫が満足げに微笑んだ気配がした。
その気配は、いつもより一拍だけ長く続いた。
腰のあたりが、ほのかに温かい。
朝陽はまだ、木々に遮られて届いていないのに。
(気のせいだ)