「最終学年に上がる前に、現世での虚討伐実習を行う」
朝の伝達で教官がそう告げた瞬間、教場のざわめきがいつもより大きくなった。
「現世だってよ」
「ついにか」
「俺、初めて行くんだよな、現世」
僕は席で、静かに頷いていた。
現世での虚討伐実習。
救護道院の見学から、季節は幾巡りもした。アカデミー五年目、最大の山場だ。
教官が続けた。
「対象はメノス未満の弱い虚。事前に十二番隊で位置を特定済みだ。十人ずつの班に分かれ、教官引率のもと順次討伐する」
「実技は各自一度、虚と対峙する。心配せずとも教官が必ず傍にいる」
弱い虚。位置は特定済み。教官が必ず傍にいる。
万全の安全策だった。
僕は気付かれない程度に、ほっと息を吐いた。
これなら目立たず、こなせる。
その夜、内界の海辺で、僕は琥珀姫に話した。
「現世実習があるんだ」
「あら」
琥珀姫は穏やかに微笑んだ。
「主様、死神として現世にいらっしゃるのは初めてですわね」
「うん。だから、約束を確かめておきたくて」
僕は彼女の前で座り直した。
「絶対に始解は使わない。擬装術も使わない。中の下の斬撃だけで凌ぐ。それでいいよね」
「ええ、主様。それが最も賢明でございます」
琥珀姫はゆっくり頷いた。
「でも、主様」
声から、歌うような揺らぎが消えていた。
膝の上で彼女の指が止まっている。瞬きをしない。
「万が一の備えだけは、お忘れなく」
琥珀姫はわずかに、こちらへ身を寄せた。灯篭の灯で、頬の影が深くなる。
「何が起こるかわからないのが、現世。心の中にいつも、わたくしを置いておいてくださいませ」
「……それって、お守りの意味だよね?」
琥珀姫は、微笑んだだけだった。
僕が次の瞬きをするころには、いつもの柔らかい気配が戻っていた。
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
守られてるなあ、と思う。
僕の刀は、いつだって僕の心配をしてくれる。
実習の日が来た。
夕方、瀞霊廷の北端にある
「弱い虚なんだろ。楽勝だって」
誰かが笑い、その声はいつもより少し高かった。
教官が
地獄蝶に導かれて通路を進むと、やがて前方に出口の光が見えた。
降り立ったのは、人気のない郊外の倉庫街だった。
街灯がぽつぽつと灯り、夜気に潮の匂いが混じる。たぶん、海が近い。
どの倉庫も外壁のトタンが薄く錆びて、街灯の光の中へ長い影を伸ばしていた。
遠くで貨物船の汽笛がひと声、低く鳴った。
夜空には、僕が前世で知る景色とよく似た半月。
———現世だ。
僕は静かに息を呑んだ。
霊圧の流れも空気の質も、尸魂界とはまるで違う。湿った夜風が頬を撫で、踏みしめた地面の硬さが足の裏に直に返ってくる。
街のあちこちで、人間の魂が小さく息づいている。その間に、わずかに混じる虚の気配。
(ここに、生きてる人たちがいる)
胸の奥が、ふとつかえた。
(前世の僕が、いたかもしれない場所)
けれど感傷は、いまは要らない。僕は心の表面に薄い膜を引き直した。
「諸君、班ごとに整列」
教官の声で、僕たちは十人ずつの班に分かれた。
僕の班の引率は、年配の男性教官。歩幅も声の大きさも一定の、静かな人だった。
「これから半径一キロほどの範囲をゆっくり巡回する。虚の気配を感じたら私に告げよ。順番に対処する」
「はい!」
最初の虚は、すぐに見つかった。
体長二メートルほどの、四つ足の犬のような形。白い仮面に、ぎざぎざの口。霊圧は弱く、アカデミー生でも十分に倒せる程度。
「では、最初の者から」
一人目の同期が声を上げて斬りかかり、刃が仮面を捉え、虚は霊子になって散った。
「よし。次」
順番は淡々と進んだ。皆それぞれ緊張しながらも、なんとか虚を倒していく。
列の後ろで待つ間、僕は自分の呼吸を数えていた。絞りは効いている。漏れはない。
「では、遺玉院」
「はい」
僕の相手は、これまでで最も大きい個体だった。体長三メートル近く、牛のような体に長い角。
角の振りが、大きい。突進のあとに必ず隙が出る型だ。
(……いけない。見すぎだ)
僕は観察を打ち切って、中の下の生徒らしい構えに直した。
虚の突進を半歩横に避け、刀を振り下ろす。刃が仮面の横に入った。浅い。
咆哮。もう一度回り込んで、今度は首筋から仮面の縁へ刀を滑り込ませる。
虚は静かに、霊子になって散った。
「うむ、合格。次」
僕は深々と頭を下げて、列に戻った。
あとは、帰るだけだった。
その時、夜空が歪んだ。
音でも光でもなく、まず重さが来た。
頭上から伸し掛かってくるそれに、僕は膝を折りかけた。倉庫のトタンが一斉にびりびりと鳴り、潮の匂いの底から、饐えた獣の臭いがせり上がってくる。
教官の表情が、一拍で消えた。
「……っ、まずい」
歪んだ夜空が裂けて、黒い巨体が降ってきた。
着地の震動が、足の裏から骨へ抜ける。
大きい。
予定にあった虚とは、桁違いに大きい。
体長五メートル超。人型に近く、長い両腕を地に突いている。仮面はぼろぼろに
知っている。知識としてなら、よく知っている。
でも、この圧を肌で受けるのは、初めてだった。
席官クラスじゃない。副隊長級でも、一対一なら危うい相手。
「
教官が叫んだ。その声に初めて、焦りの色が混じっていた。
「地獄蝶! 瀞霊廷へ! 援軍要請、副隊長級以上!」
漆黒の蝶が一匹、夜空へ消えていく。
「全員、後退! 班から離れるな! 私が引きつける!」
虚が地を蹴った。遅れて、風圧が頬を叩いた。
教官と僕たちの間へ、割り込むように突進してくる。
「うわあああッ!」
同期の一人が突き飛ばされて転がる。別の一人が虚の爪を肩に受け、悲鳴を上げた。
なんで、こんな虚が、ここにいる。
「距離を取れ! ただし私の視界から外れるな!」
教官は抜刀したが、斬り合おうとはしなかった。
虚が鎖を引き千切る。教官は次の縛道を重ねる。千切られる。また重ねる。
倒すための戦いではなかった。生徒を逃がす時間を、稼ぎ続けるための戦いだ。
三度目の鎖が千切れた時、教官の左の袖が肩口から裂け、腕に赤い筋が走った。
詠唱の声が、少しずつ短くなっていく。
あと何分保つのか、僕は数えかけて、やめた。
どこかで誰かが泣いている。誰かが吐いている。誰かが、誰かの名前を呼んでいる。
ついさっきまで、楽勝だと笑っていた声だ。
その中で、僕は見た。
爪を受けた彼が、倉庫の壁際に倒れたまま起き上がれずにいる。
肩から血が流れている。かなり深い。意識はある。けれど、動けない。
その戦いの最中、虚の赤い眼がほんの一瞬、倒れた彼の方へ滑った。
僕は息を詰めた。
他の同期たちは指示を守ろうとしながらも、半ば散り散りになっていた。誰もが自分のことで精一杯で、彼を助けに行ける者はいない。
虚が教官の隙を突いてあちらへ向かえば、彼は確実に死ぬ。
(行くな。目立つ)
(でも、放っておけば、死ぬ)
(教官が、すぐ気付くかもしれない)
(間に合わない)
僕は奥歯を噛んだ。
戦わない。始解は使わない。擬装も使わない。
引きずって運んで、傷を回道で塞ぐ。それだけなら、誰の目にも「逃げ遅れた班員を助けた同期」にしか映らない。
隠す、逃げる、避ける。それだけだった手札に、表向きの札が一枚増えたはずだ。四番隊を見学した、あの日に。
(……目立つためじゃない。今度は、救う)
———救うために、出る。
歩法を使った。中の下の霊圧でもできる、最低限の動き。
足音と気配は殺す。擬装術じゃない。術ではなく、修行で骨に染みた、ただの癖だ。
倒れている彼の元へ、一直線に走った。
「立てるか」
低く囁くと、彼は痛みで目を細めながら僕を見た。
「……い、遺玉院……」
「ごめん。担ぐよ」
彼の腕を自分の肩に回す。重い。絞ったままの体では、彼を担いでこの混乱を素早くは抜けられない。
だから、絞りを緩めた。
ほんのわずか。中の下より、一段だけ上。
緩めた瞬間、世界が変わった。
夜気が肺の奥まで届く。体の芯に火が入る。膜の内側に畳んできた力が、あっけないほど素直に手足へ流れ込む。
虚の赤い眼が、こちらを向いた。
教官に向いていたはずの首がぐるりと回り、罅割れた仮面の奥の赤が、まっすぐ僕を見た。
心臓が、一拍、抜けた。
(絞れ)
膜を閉じる。毛穴の先まで、一息で、元の中の下へ。
赤い眼が二度、明滅した。
それから興味を失ったように、教官の方へ戻っていった。
何秒だったんだろう。たぶん、二秒もなかった。
脇の下を冷たいものが伝うのを感じながら、僕は彼を担ぎ直して走った。
倉庫の影に入り、さらに奥の、虚の進路から外れた場所まで。
虚の咆哮と縛道の詠唱が、遠ざかっていった。
「……痛い、痛いよ……」
「ごめん、いま診る」
彼をそっと地面に横たえ、肩の傷に手をかざした。
絞った霊圧から、ほんの一筋だけを引き出す。掌から緑がかった淡い光が漏れ、傷の奥へ染み込んでいく。
出血を止める。裂けた組織を、本来あるべき形に整えていく。
四番隊の隊士に「丁寧」と評された手順を、ひとつも飛ばさずに。
実際には一分にも満たなかったはずなのに、ひどく長く感じた。
傷は、ほぼ塞がった。痕は残るだろう。でも、命は繋いだ。
「……あ、り、がと……」
彼は朦朧とした目で僕を見上げて、囁いた。
「……きれいな、光……」
「回道だよ。もう喋らないで」
言いながら、僕は少し早口になっていた。
回道の光。それ以外に、見えたものなんてなかったはずだ。
「もう大丈夫。ここで休んで」
僕は彼の肩にそっと手を置いて、立ち上がった。
虚の咆哮は、まだ聞こえている。詠唱の声も、短く掠れながら、まだ続いている。
助けに行くべきか、一度だけ考えた。
行って始解を使えば、たぶん僕でも倒せる。
でも、それはできない。それをやったら、何もかも終わる。
教官の霊圧は削られている。それでも、まだ崩れていない。倒すためではなく凌ぐための戦いを、あの人はまだ続けられている。援軍か撤退の判断までは、保つはずだ。
僕の役目は、ここまで。
深く息を吸って、吐いた。
それから彼の傍に座り込んだ。万が一、虚がこちらへ来た時の、最後の砦として。
数分後、強い霊圧が二つ、瀞霊廷の側から急速に近づいてきた。絞った膜越しにも分かる、副隊長級。
虚の咆哮がひときわ大きく響き、不意に途絶えた。
「皆、無事か! 班員、応答せよ!」
「教官! こっちです! 怪我人一名、止血しました!」
走ってきた教官は、左腕の血を拭いもせず屈み込み、彼の傷を検めた。それから、僕を見上げた。
「お前が運んだのか」
「はい。彼が動けなかったので」
「傷は」
「肩の深い切り傷でした。回道でほぼ塞ぎました。痕は残ると思います」
教官はしばらく黙っていた。荒い息の底から、絞り出すように言った。
「……お前はいま、班の中で最も冷静な判断をした。そして、最も正しい行動を取った」
(最も冷静)
喉の奥が、ひやりと狭くなった。
(最も正しい、って)
僕はただ、目立たない範囲でできることをしただけだ。それが「最も」と評されてしまう。
「お前、本気で四番隊志望か」
「はい」
「では、記録しておこう」
僕は深く頭を下げた。
(……また、記録された)
下げた頭の影で、僕は数をかぞえる。
これで、二件目。
実習は、即時中止になった。
帰りの断界は、誰も口をきかなかった。穿界門を抜けた先で引率の教官が上席の死神に短く何かを告げ、僕たちは「今夜のことを軽々しく口にするな」とだけ言い渡された。
虚がどう討たれたのか、僕は見ていない。
肩を裂かれた彼は四番隊で本格的な治療を受けて、命に別状はなかった。痕は、肩に残ったらしい。
学院の実習記録には、僕の名前で始まる行がまた一つ増えた。おそらく四番隊にも、救命処置の報告として届く。「現世実習にて、班員の救命に貢献」という形で。
完璧。作戦、成功。
———そう、思いたかった。
その夜、僕は藁布団の上で天井を見つめていた。
体も心も疲れているのに、目だけが冴えていた。
(なんで、計画外の虚が、いたんだろう)
前世の記憶を何度辿っても、答えは出なかった。
いま僕がいるこの時代のアカデミーで、現世実習にアジューカス級が現れる。そんな出来事は、僕の知る『物語』のどこにもなかった。
これは、前世の記憶にない出来事。
…………もしかして。
(僕、何か、未来を、変えてる?)
うなじの産毛が、立った。
———蝶の羽ばたきが、嵐を起こす。
前世の本にあった喩えが、ひとつだけ浮かんで消えた。
僕が転生してきたこと。ここで刀を抜いて修行を積み、霊圧を絞って生きていること。そのすべてが本来の流れを、ほんのわずかにずらしているのかもしれない。
それから、もう一つ。
アジューカス級の虚は、なぜあの場所に現れたんだろう。
予定の虚の位置は、十二番隊が事前に特定して監視していたはず。あの規模の虚が紛れ込むのは、自然じゃない。
誰かが、招き寄せたのだとしたら?
闇の中で、まぶたの裏に赤い眼が浮かんだ。
絞りを緩めた、あの二秒。ぐるりとこちらを向いた、罅割れた仮面の奥の赤。
(僕の、霊圧……?)
修行で増えた霊力。絞ってはいるけれど、完全にゼロにはできない。強い虚がそれを嗅ぎつけて来たのだとしたら。
それとも、僕の知らない、別の何かだとしたら。
僕は目を閉じた。
頭の中で灯篭の灯が、ふっとひとつ揺らぐ気配がした。
『主様』
胸の奥で、琥珀姫の声がした。
『お眠りくださいませ。今夜は、深く』
(……うん)
『答えの出ないことを、いま抱えこむことはございませんわ』
(でも僕は、もしかしたら、招き寄せてしまったのかも)
『たとえ、そうであっても』
琥珀姫の声は、静かだった。
『主様は目の前のお一人を、お救いになりました。それは確かなことでございます』
(彼、無事でよかった)
一拍、間があった。
『……ええ。主様の御手は、今宵も正しくお働きになりました』
(うん)
『わたくしは、ずっと視ておりました』
声は、柔らかいままだった。
『主様が走るところも、お救いになるところも、すべて』
(そっか。……うん、心強いよ)
『今宵はそれだけ、お持ちくださいませ』
僕はゆっくり、息を吐いた。
腰の刀の中で、琥珀姫が静かに寄り添う気配がした。
それでも、確かなことは一つ。
僕の存在は未来の流れを、わずかに変えている。
それがいいことなのか。
それとも、悪いことなのか。
———平穏は、まだ、遠い。