『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第9話

第九話 (よる)現世(げんせ)にて

 

 

「最終学年に上がる前に、現世での虚討伐実習を行う」

 

朝の伝達で教官がそう告げた瞬間、教場のざわめきがいつもより大きくなった。

 

「現世だってよ」

「ついにか」

「俺、初めて行くんだよな、現世」

 

僕は席で、静かに頷いていた。

 

現世での虚討伐実習。

救護道院の見学から、季節は幾巡りもした。アカデミー五年目、最大の山場だ。

 

教官が続けた。

 

「対象はメノス未満の弱い虚。事前に十二番隊で位置を特定済みだ。十人ずつの班に分かれ、教官引率のもと順次討伐する」

 

「実技は各自一度、虚と対峙する。心配せずとも教官が必ず傍にいる」

 

弱い虚。位置は特定済み。教官が必ず傍にいる。

万全の安全策だった。

 

僕は気付かれない程度に、ほっと息を吐いた。

これなら目立たず、こなせる。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、内界の海辺で、僕は琥珀姫に話した。

 

「現世実習があるんだ」

 

「あら」

 

琥珀姫は穏やかに微笑んだ。

 

「主様、死神として現世にいらっしゃるのは初めてですわね」

 

「うん。だから、約束を確かめておきたくて」

 

僕は彼女の前で座り直した。

 

「絶対に始解は使わない。擬装術も使わない。中の下の斬撃だけで凌ぐ。それでいいよね」

 

「ええ、主様。それが最も賢明でございます」

 

琥珀姫はゆっくり頷いた。

 

「でも、主様」

 

声から、歌うような揺らぎが消えていた。

膝の上で彼女の指が止まっている。瞬きをしない。

 

「万が一の備えだけは、お忘れなく」

 

琥珀姫はわずかに、こちらへ身を寄せた。灯篭の灯で、頬の影が深くなる。

 

「何が起こるかわからないのが、現世。心の中にいつも、わたくしを置いておいてくださいませ」

 

「……それって、お守りの意味だよね?」

 

琥珀姫は、微笑んだだけだった。

 

僕が次の瞬きをするころには、いつもの柔らかい気配が戻っていた。

 

「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」

 

守られてるなあ、と思う。

僕の刀は、いつだって僕の心配をしてくれる。

 

◆ ◆ ◆

 

実習の日が来た。

 

夕方、瀞霊廷の北端にある穿界門(せんかいもん)の前に、アカデミー生たちは集合した。

 

「弱い虚なんだろ。楽勝だって」

 

誰かが笑い、その声はいつもより少し高かった。

 

教官が地獄蝶(じごくちょう)を一匹放つ。漆黒(しっこく)の小さな蝶がふわりと宙に舞い、それを目印に穿界門が開いた。

 

断界(だんがい)。現世と尸魂界の間にある、薄暗い通路。

拘流(こうりゅう)———霊体を捕らえる壁の流れが、地獄蝶の保護圏のすぐ外でゆっくりと蠢いていた。

 

地獄蝶に導かれて通路を進むと、やがて前方に出口の光が見えた。

 

◆ ◆ ◆

 

降り立ったのは、人気のない郊外の倉庫街だった。

 

街灯がぽつぽつと灯り、夜気に潮の匂いが混じる。たぶん、海が近い。

どの倉庫も外壁のトタンが薄く錆びて、街灯の光の中へ長い影を伸ばしていた。

遠くで貨物船の汽笛がひと声、低く鳴った。

 

夜空には、僕が前世で知る景色とよく似た半月。

 

———現世だ。

 

僕は静かに息を呑んだ。

 

霊圧の流れも空気の質も、尸魂界とはまるで違う。湿った夜風が頬を撫で、踏みしめた地面の硬さが足の裏に直に返ってくる。

街のあちこちで、人間の魂が小さく息づいている。その間に、わずかに混じる虚の気配。

 

(ここに、生きてる人たちがいる)

 

胸の奥が、ふとつかえた。

 

(前世の僕が、いたかもしれない場所)

 

けれど感傷は、いまは要らない。僕は心の表面に薄い膜を引き直した。

 

「諸君、班ごとに整列」

 

教官の声で、僕たちは十人ずつの班に分かれた。

僕の班の引率は、年配の男性教官。歩幅も声の大きさも一定の、静かな人だった。

 

「これから半径一キロほどの範囲をゆっくり巡回する。虚の気配を感じたら私に告げよ。順番に対処する」

 

「はい!」

 

◆ ◆ ◆

 

最初の虚は、すぐに見つかった。

 

体長二メートルほどの、四つ足の犬のような形。白い仮面に、ぎざぎざの口。霊圧は弱く、アカデミー生でも十分に倒せる程度。

 

「では、最初の者から」

 

一人目の同期が声を上げて斬りかかり、刃が仮面を捉え、虚は霊子になって散った。

 

「よし。次」

 

順番は淡々と進んだ。皆それぞれ緊張しながらも、なんとか虚を倒していく。

列の後ろで待つ間、僕は自分の呼吸を数えていた。絞りは効いている。漏れはない。

 

「では、遺玉院」

 

「はい」

 

僕の相手は、これまでで最も大きい個体だった。体長三メートル近く、牛のような体に長い角。

 

角の振りが、大きい。突進のあとに必ず隙が出る型だ。

 

(……いけない。見すぎだ)

 

僕は観察を打ち切って、中の下の生徒らしい構えに直した。

 

虚の突進を半歩横に避け、刀を振り下ろす。刃が仮面の横に入った。浅い。

咆哮。もう一度回り込んで、今度は首筋から仮面の縁へ刀を滑り込ませる。

 

虚は静かに、霊子になって散った。

 

「うむ、合格。次」

 

僕は深々と頭を下げて、列に戻った。

 

あとは、帰るだけだった。

 

◆ ◆ ◆

 

その時、夜空が歪んだ。

 

音でも光でもなく、まず重さが来た。

頭上から伸し掛かってくるそれに、僕は膝を折りかけた。倉庫のトタンが一斉にびりびりと鳴り、潮の匂いの底から、饐えた獣の臭いがせり上がってくる。

 

教官の表情が、一拍で消えた。

 

「……っ、まずい」

 

歪んだ夜空が裂けて、黒い巨体が降ってきた。

着地の震動が、足の裏から骨へ抜ける。

 

大きい。

予定にあった虚とは、桁違いに大きい。

 

体長五メートル超。人型に近く、長い両腕を地に突いている。仮面はぼろぼろに(ひび)割れ、その奥から赤い眼がぎょろりと覗いていた。

 

知っている。知識としてなら、よく知っている。

でも、この圧を肌で受けるのは、初めてだった。

 

席官クラスじゃない。副隊長級でも、一対一なら危うい相手。

 

大虚(メノス)———それも、アジューカス級か!」

 

教官が叫んだ。その声に初めて、焦りの色が混じっていた。

 

「地獄蝶! 瀞霊廷へ! 援軍要請、副隊長級以上!」

 

漆黒の蝶が一匹、夜空へ消えていく。

 

「全員、後退! 班から離れるな! 私が引きつける!」

 

虚が地を蹴った。遅れて、風圧が頬を叩いた。

教官と僕たちの間へ、割り込むように突進してくる。

 

「うわあああッ!」

 

同期の一人が突き飛ばされて転がる。別の一人が虚の爪を肩に受け、悲鳴を上げた。

 

なんで、こんな虚が、ここにいる。

 

「距離を取れ! ただし私の視界から外れるな!」

 

教官は抜刀したが、斬り合おうとはしなかった。

 

縛道(ばくどう)の詠唱が夜気を裂く。光の鎖が虚の足首に絡みつき、突進がほんの一瞬だけ止まる。その一瞬で教官は倉庫の角へ跳び、虚の視線を切った。

 

虚が鎖を引き千切る。教官は次の縛道を重ねる。千切られる。また重ねる。

倒すための戦いではなかった。生徒を逃がす時間を、稼ぎ続けるための戦いだ。

 

三度目の鎖が千切れた時、教官の左の袖が肩口から裂け、腕に赤い筋が走った。

詠唱の声が、少しずつ短くなっていく。

あと何分保つのか、僕は数えかけて、やめた。

 

どこかで誰かが泣いている。誰かが吐いている。誰かが、誰かの名前を呼んでいる。

ついさっきまで、楽勝だと笑っていた声だ。

 

その中で、僕は見た。

 

爪を受けた彼が、倉庫の壁際に倒れたまま起き上がれずにいる。

肩から血が流れている。かなり深い。意識はある。けれど、動けない。

 

その戦いの最中、虚の赤い眼がほんの一瞬、倒れた彼の方へ滑った。

 

僕は息を詰めた。

 

他の同期たちは指示を守ろうとしながらも、半ば散り散りになっていた。誰もが自分のことで精一杯で、彼を助けに行ける者はいない。

虚が教官の隙を突いてあちらへ向かえば、彼は確実に死ぬ。

 

(行くな。目立つ)

(でも、放っておけば、死ぬ)

(教官が、すぐ気付くかもしれない)

(間に合わない)

 

僕は奥歯を噛んだ。

 

戦わない。始解は使わない。擬装も使わない。

引きずって運んで、傷を回道で塞ぐ。それだけなら、誰の目にも「逃げ遅れた班員を助けた同期」にしか映らない。

 

隠す、逃げる、避ける。それだけだった手札に、表向きの札が一枚増えたはずだ。四番隊を見学した、あの日に。

 

(……目立つためじゃない。今度は、救う)

 

———救うために、出る。

 

◆ ◆ ◆

 

歩法を使った。中の下の霊圧でもできる、最低限の動き。

足音と気配は殺す。擬装術じゃない。術ではなく、修行で骨に染みた、ただの癖だ。

 

倒れている彼の元へ、一直線に走った。

 

「立てるか」

 

低く囁くと、彼は痛みで目を細めながら僕を見た。

 

「……い、遺玉院……」

 

「ごめん。担ぐよ」

 

彼の腕を自分の肩に回す。重い。絞ったままの体では、彼を担いでこの混乱を素早くは抜けられない。

 

だから、絞りを緩めた。

 

ほんのわずか。中の下より、一段だけ上。

 

緩めた瞬間、世界が変わった。

夜気が肺の奥まで届く。体の芯に火が入る。膜の内側に畳んできた力が、あっけないほど素直に手足へ流れ込む。

 

虚の赤い眼が、こちらを向いた。

 

教官に向いていたはずの首がぐるりと回り、罅割れた仮面の奥の赤が、まっすぐ僕を見た。

 

心臓が、一拍、抜けた。

 

(絞れ)

 

膜を閉じる。毛穴の先まで、一息で、元の中の下へ。

 

赤い眼が二度、明滅した。

それから興味を失ったように、教官の方へ戻っていった。

 

何秒だったんだろう。たぶん、二秒もなかった。

脇の下を冷たいものが伝うのを感じながら、僕は彼を担ぎ直して走った。

 

倉庫の影に入り、さらに奥の、虚の進路から外れた場所まで。

虚の咆哮と縛道の詠唱が、遠ざかっていった。

 

◆ ◆ ◆

 

「……痛い、痛いよ……」

 

「ごめん、いま診る」

 

彼をそっと地面に横たえ、肩の傷に手をかざした。

 

絞った霊圧から、ほんの一筋だけを引き出す。掌から緑がかった淡い光が漏れ、傷の奥へ染み込んでいく。

出血を止める。裂けた組織を、本来あるべき形に整えていく。

四番隊の隊士に「丁寧」と評された手順を、ひとつも飛ばさずに。

 

実際には一分にも満たなかったはずなのに、ひどく長く感じた。

 

傷は、ほぼ塞がった。痕は残るだろう。でも、命は繋いだ。

 

「……あ、り、がと……」

 

彼は朦朧とした目で僕を見上げて、囁いた。

 

「……きれいな、光……」

 

「回道だよ。もう喋らないで」

 

言いながら、僕は少し早口になっていた。

回道の光。それ以外に、見えたものなんてなかったはずだ。

 

「もう大丈夫。ここで休んで」

 

僕は彼の肩にそっと手を置いて、立ち上がった。

 

虚の咆哮は、まだ聞こえている。詠唱の声も、短く掠れながら、まだ続いている。

 

助けに行くべきか、一度だけ考えた。

 

行って始解を使えば、たぶん僕でも倒せる。

でも、それはできない。それをやったら、何もかも終わる。

 

教官の霊圧は削られている。それでも、まだ崩れていない。倒すためではなく凌ぐための戦いを、あの人はまだ続けられている。援軍か撤退の判断までは、保つはずだ。

 

僕の役目は、ここまで。

 

深く息を吸って、吐いた。

それから彼の傍に座り込んだ。万が一、虚がこちらへ来た時の、最後の砦として。

 

◆ ◆ ◆

 

数分後、強い霊圧が二つ、瀞霊廷の側から急速に近づいてきた。絞った膜越しにも分かる、副隊長級。

 

虚の咆哮がひときわ大きく響き、不意に途絶えた。

 

「皆、無事か! 班員、応答せよ!」

 

「教官! こっちです! 怪我人一名、止血しました!」

 

走ってきた教官は、左腕の血を拭いもせず屈み込み、彼の傷を検めた。それから、僕を見上げた。

 

「お前が運んだのか」

 

「はい。彼が動けなかったので」

 

「傷は」

 

「肩の深い切り傷でした。回道でほぼ塞ぎました。痕は残ると思います」

 

教官はしばらく黙っていた。荒い息の底から、絞り出すように言った。

 

「……お前はいま、班の中で最も冷静な判断をした。そして、最も正しい行動を取った」

 

(最も冷静)

 

喉の奥が、ひやりと狭くなった。

 

(最も正しい、って)

 

僕はただ、目立たない範囲でできることをしただけだ。それが「最も」と評されてしまう。

 

「お前、本気で四番隊志望か」

 

「はい」

 

「では、記録しておこう」

 

僕は深く頭を下げた。

 

(……また、記録された)

 

下げた頭の影で、僕は数をかぞえる。

これで、二件目。

 

◆ ◆ ◆

 

実習は、即時中止になった。

 

帰りの断界は、誰も口をきかなかった。穿界門を抜けた先で引率の教官が上席の死神に短く何かを告げ、僕たちは「今夜のことを軽々しく口にするな」とだけ言い渡された。

虚がどう討たれたのか、僕は見ていない。

 

肩を裂かれた彼は四番隊で本格的な治療を受けて、命に別状はなかった。痕は、肩に残ったらしい。

 

学院の実習記録には、僕の名前で始まる行がまた一つ増えた。おそらく四番隊にも、救命処置の報告として届く。「現世実習にて、班員の救命に貢献」という形で。

 

完璧。作戦、成功。

 

———そう、思いたかった。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、僕は藁布団の上で天井を見つめていた。

 

体も心も疲れているのに、目だけが冴えていた。

 

(なんで、計画外の虚が、いたんだろう)

 

前世の記憶を何度辿っても、答えは出なかった。

いま僕がいるこの時代のアカデミーで、現世実習にアジューカス級が現れる。そんな出来事は、僕の知る『物語』のどこにもなかった。

 

これは、前世の記憶にない出来事。

 

…………もしかして。

 

(僕、何か、未来を、変えてる?)

 

うなじの産毛が、立った。

 

———蝶の羽ばたきが、嵐を起こす。

 

前世の本にあった喩えが、ひとつだけ浮かんで消えた。

 

僕が転生してきたこと。ここで刀を抜いて修行を積み、霊圧を絞って生きていること。そのすべてが本来の流れを、ほんのわずかにずらしているのかもしれない。

 

それから、もう一つ。

 

アジューカス級の虚は、なぜあの場所に現れたんだろう。

予定の虚の位置は、十二番隊が事前に特定して監視していたはず。あの規模の虚が紛れ込むのは、自然じゃない。

 

誰かが、招き寄せたのだとしたら?

 

闇の中で、まぶたの裏に赤い眼が浮かんだ。

絞りを緩めた、あの二秒。ぐるりとこちらを向いた、罅割れた仮面の奥の赤。

 

(僕の、霊圧……?)

 

修行で増えた霊力。絞ってはいるけれど、完全にゼロにはできない。強い虚がそれを嗅ぎつけて来たのだとしたら。

 

それとも、僕の知らない、別の何かだとしたら。

 

僕は目を閉じた。

 

頭の中で灯篭の灯が、ふっとひとつ揺らぐ気配がした。

 

『主様』

 

胸の奥で、琥珀姫の声がした。

 

『お眠りくださいませ。今夜は、深く』

 

(……うん)

 

『答えの出ないことを、いま抱えこむことはございませんわ』

 

(でも僕は、もしかしたら、招き寄せてしまったのかも)

 

『たとえ、そうであっても』

 

琥珀姫の声は、静かだった。

 

『主様は目の前のお一人を、お救いになりました。それは確かなことでございます』

 

(彼、無事でよかった)

 

一拍、間があった。

 

『……ええ。主様の御手は、今宵も正しくお働きになりました』

 

(うん)

 

『わたくしは、ずっと視ておりました』

 

声は、柔らかいままだった。

 

『主様が走るところも、お救いになるところも、すべて』

 

(そっか。……うん、心強いよ)

 

『今宵はそれだけ、お持ちくださいませ』

 

僕はゆっくり、息を吐いた。

腰の刀の中で、琥珀姫が静かに寄り添う気配がした。

 

それでも、確かなことは一つ。

僕の存在は未来の流れを、わずかに変えている。

 

それがいいことなのか。

それとも、悪いことなのか。

 

———平穏は、まだ、遠い。

 

第九話 了

 

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