第一話 春と転校生
豊「CRYCHICを辞めさせていただきます」
雨の降る日。
窓を叩く雨音だけが、やけに大きく聞こえていた。
キーボード担当、豊川祥子。
その口から放たれた言葉は、あまりにも唐突で、そして決定的だった。
誰もすぐには反応できない。
まるで時間そのものが止まったように、部屋の空気が凍りつく。
影「……一応、理由を聞かせてくれ。」
沈黙を破ったのは群青影生だった。
影「いきなり辞めるって言われて、“はいそうですか”で終われないのは……祥子だって分かってるだろ。」
努めて冷静に言葉を投げる。
だが祥子は視線を合わせようとしなかった。
長「そうだよ、祥子ちゃん……! 急にどうしたの? 今までみんなで楽しくやってたのに……!」
長崎そよの声は震えていた。
若「……私は。」
ぽつり、と。
若葉睦がギターを抱きしめながら口を開く。
若「……バンド、楽しいって思ったことない。」
空気が軋む。
高松燈は俯いたまま固まり、椎名立希は険しい顔で壁を睨んでいた。
そして祥子は――
豊「申し訳ありません。」
それだけを残し、部屋を出ていった。
閉じる扉の音だけが、妙に重く響く。
その瞬間。
CRYCHICという物語は終わった。
六人それぞれの胸に、深い傷を残したまま。
◇◇◇
それから数ヶ月。
春。
群青影生は高校生になっていた。
とはいえ、実感なんてほとんどない。
中学からそのままエスカレーター式。
校舎も顔ぶれも大きくは変わらない。
変わったのは教室の場所とクラス表くらいだった。
高校生活が始まって一ヶ月。
クラスでは既にグループが出来上がっている。
騒がしく談笑する連中。
放課後の予定を立てる連中。
そのどれにも属さず、影生は一人、本のページを捲っていた。
影「高校生って言っても、何かが劇的に変わる訳でもないんだよな……。」
燈「……そう、だね。」
隣で高松燈がしゃがみ込み、花壇の近くから小石を拾う。
燈「あ……この石の形、いい。」
そう言ってポケットへしまう姿は、昔から変わらない。
影生はジョウロで花壇に水をやりながら小さく笑った。
影「もうすぐゴールデンウィークだし、新しい事でも探そうかなぁ。」
燈「ねえ、影生くん……。」
燈は石を握りながらゆっくり言葉を紡ぐ。
燈「昔から……いろんなことしてきたって言ってたよね……?」
影「まあな。」
燈「……それでも、“新しいこと”って……まだ、見つかるのかな……?」
あまりにも的確な疑問だった。
影生は思わず空を仰ぐ。
影「そこなんだよなぁ……。店のこともあるから遠くにも行けないし、近場にあるもんは大抵経験済みなんだよ。」
群青家は洋菓子店を営んでいる。
父親は強面のパティシエ。
母親は海外を飛び回るデザイナー。
幼い頃から影生は好奇心のまま様々なことへ手を出してきた。
料理。工芸。スポーツ。楽器。
興味を持てば調べ、学び、体験する。
その結果出来上がったのは。
「なんでもそこそこできる器用貧乏」だった。
燈「……でも。」
燈は空を見上げる。
燈「影生くんって、“気になる”をいっぱい拾ってきたよね。」
石を拾うみたいに。
燈「だから……まだ見つけてない“新しいなにか”も……探してみるの、いいのかも……。」
春風が吹く。
その時の影生はまだ知らなかった。
数日後、一人の転校生が日常を大きく変えることを。
◇◇◇
千「千早愛音です! 親の都合で変な時期に転校してきました! よろしくお願いします!」
転校生、千早愛音。
明るい声。
よく動く表情。
クラスの中心へ自然と入り込む空気感。
いかにも“陽キャ”という印象だった。
席は影生と燈の後ろ。
すれ違いざま、愛音は軽く会釈する。
千(よろしくね)
影生も軽く手を上げて返した。
授業が終わり、昼休み。
影生と燈はいつものように天文部室へ向かう。
そこは二人にとって静かな逃げ場所だった。
古い望遠鏡。
埃っぽい匂い。
誰も来ない空間。
本を読むにはちょうどいい。
影「やっぱここが一番落ち着くな。」
燈「……うん。」
昼食を広げた直後。
ガラッ、と部室の扉が開いた。
千「えっ、なにここ!? 天文部!?」
飛び込んできたのは愛音だった。
千「隣と前の人!」
影「覚え方雑だな。」
愛音は笑いながら部室を見回す。
千「へぇ〜、秘密基地みたい!」
だが影生は少しだけ眉を寄せた。
影「穴場って、教室で他の人達と食べればいいだろ。別に部室に来なくても。」
千「え、冷たくない?」
影「静かな場所なんだよ、ここ。」
それは本心だった。
天文部室は影生にとって、本を読める静かな場所。
騒がしさを持ち込まれたくなかった。
そして影生は気づいていた。
愛音がクラスメイトに燈のことを聞いていたことを。
『羽丘の不思議ちゃん』
そんな言葉も耳に入っていた。
だから思う。
愛音は燈に興味を持ってここへ来たのだと。
ならば、自分はいない方がいい。
影「千早さん。燈に話あるんだろ?」
愛音が少しだけ目を丸くする。
影生は立ち上がった。
影「飲み物でも買ってくるよ。なんかリクエストある?」
千「え! いいの? じゃあ甘いやつ!」
燈「……私は、いつものやつ。」
影「愛音が甘いので、燈がオレンジジュースね。」
そう言い、影生は部室を後にした。
◇◇◇
自販機の前。
◇◇◇
影「えっとオレンジジュースと、コーヒー……愛音は〜カフェオレでいいか。」
自販機の前で独り言を漏らしながらボタンを押す。
ガコン、と音を立てて飲み物が落ちてくる。
三本の飲み物を抱え、部室へ戻ろうとした時だった。
見知った後ろ姿が目に入る。
長い金髪。
真っ直ぐ伸びた背筋。
見間違えるはずもない。
影「お、さ――……っと。」
危うく昔の呼び方が口から出かけて、慌てて飲み込む。
影「豊川さんじゃん。また音楽室でピアノ弾いてたのか?」
祥子はゆっくりこちらを振り返った。
豊「群青さん、ごきげんよう。」
丁寧な口調。
けれどその距離感は、どこか他人行儀だった。
豊「前にも言いましたが、あまり校内で話しかけないでくださる?」
影生は小さくため息を吐く。
影「そんなに神経質になることか?」
豊「なりますわ。」
祥子は即答した。
豊「噂がどう一人歩きするかわかった物ではありませんから。」
その言葉に、影生は何も返さない。
祥子が周囲と距離を取る理由くらい、分かっていた。
CRYCHICが壊れてから。
祥子はずっと、張り詰めている。
豊「では。」
会話を切るように祥子は踵を返す。
その背中へ、影生は気軽な調子で声を投げた。
影「まぁ、気にする理由も分かるけど、あんまり気を張りすぎんなよ。」
祥子の足が少し止まる。
影生は追加で自販機のボタンを押した。
ガコン。
落ちてきた紅茶を拾い、そのまま祥子へ差し出す。
豊「……何ですの?」
怪訝そうな顔。
影生は軽く缶を揺らした。
影「人からの善意は素直に受け取っとけ。」
豊「……。」
祥子はしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐き、紅茶を受け取る。
豊「……相変わらずですのね、あなた。」
影「褒め言葉として受け取っとく。」
祥子は呆れたように目を細める。
けれど、その表情はほんの少しだけ柔らかかった。
影生はそれ以上踏み込まない。
軽く手を振り、そのまま部室へ向かった。
春の陽射しが廊下に差し込んでいた。