バイトが終わり、RiNGを出て帰路に就く。
なんだかんだで一人で帰るのは久しぶりだった。
いつもならノアがパーカーのフードの中で丸くなっているか、あるいは燈と並んで歩いているかのどちらかだったからだ。
ワイヤレスイヤホンを片耳に装着し、オーディオブックの朗読を低音量で再生しながら駅へと向かって歩く。
人混みを抜ける途中、ポケットの中のスマートフォンが震えた。画面を見れば、父親からの着信。
影「はい、もしもし。」
『おう、息子よ。帰り道にケチャップととうもろこしを買ってから帰ってきてくれ』
影「分かった。」
短く返事をして通話を切る。
最寄り駅に着き、家の近くにあるスーパーマーケットに立ち寄って食材を探していると、再び携帯が振動した。
今度は着信ではなく、メッセージの通知音だ。
画面を開くと、燈からの短い文章が届いていた。
『影生くん、1日ノア預かってもいい?』
それに対し、影生は淀みなく指を動かす。
影『分かった。大丈夫か?』
『うん』
返信は至って淡白だった。余計な追及はしない。
長年共にいる幼馴染だからこそ、長々とやり取りをしなくても互いの意図は十分に伝わる。
影生は心の中で小さく呟く。
やはり猫がもたらす癒しの力というのは、バカにできないものだな、と。
無事にケチャップととうもろこし、そして追加でレモンもカゴに入れて会計を済ませ、自宅へと足を向けた。
影「ただいま〜。」
玄関を開けて家に入り、ダイニングのテーブルへ買い物袋を置くと、奥のキッチンから聞き覚えのある落ち着いた声が返ってきた。
「おかえりなさい、影生。アルバイトと買い物、ご苦労様ですわ。」
そこに立っていたのは、エプロンに身を包んだ豊川祥子だった。
影生の父親が営む洋菓子店『
の看板娘として働いている彼女だが、なにより家庭の事情により、週の半分ほどはここ群青家に寝泊まりしていた。
海外でデザイナーとして精力的に活動し、ほとんど家を空けている母親の部屋。
そこを祥子の自室としてそのまま貸し出しているのだ。
影「もう随分うちに馴染んできたな、祥子。」
影生は少しだけ嬉しそうに口元を緩める。
「もう半年程経ちますもの。」
祥子は手際よく作業を進めながら、事も無げに言った。
半年前。CRYCHICが解散して間もない頃。
祥子の現状について睦から相談を受けた影生は、いくつか話を聞くうちに、祥子がかなり切迫した状況に置かれていることを察した。
詳しく尋ねることはしなかった。
本人が語らない事情を無理に暴く趣味はない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
自身の父親の生活を祥子が一人で支えているということだ。
当時まだ中学生だった祥子に取れる選択肢はあまりに少なく、新聞配達などで必死に生活費を賄おうとしていたが、そんな自転車操業が長く続くはずもなかった。一時は他校への転校すら余儀なくされかけていた。
影生は高校入試の際――中等部から高等部への内部進学はエスカレーター式だが、形式上の試験があった――祥子の姿を見かけていた。
彼女は僅か数人しか存在しない特待生枠に選ばれ、学費全額免除の対象となっていたのだ。(影生自身も同様だった)
さすが元お嬢様学校の優秀な生徒だと感心すると同時に、影生は彼女へ接触を試みた。
自身の事情を冷徹なまでに正確に見極められながらも、決して同情で接するのではなく、自尊心を損なわない形で選択肢を提示してくれた影生に対し、祥子は困惑しつつも深く感謝した。
そうして影生は、「うちの親父の店で働かないか」と祥子を誘ったのだ。
『施しなど受けられませんわ』と最初は頑なに拒もうとした祥子だったが、『これはスカウト。優秀な人材を安く確保したいだけだし、むしろ父さんの店、人手が足りなくて助かるんだよ』という影生の徹底してビジネスライクな言い回しに毒気を抜かれ、今に至る。
今でこそ手際よく台所に立つ祥子だが、住み込みを始めた初期の箱入り娘ぶりは、なかなかにすさまじいものがあった。
まず、料理の腕前。
家庭科の授業で習った程度の知識はある。
ただし、実際に包丁を握るとなると話は別だった。
持ち方はぎこちなく、切り方もどこか危なっかしい。
トントン、と小気味よく刻む――などということはなく、ギコ、ギコ、と包丁を動かしていた。
そして火加減。
鶏肉を焼かせれば、なぜか強火一筋。
影「祥子、火を弱めろ」
「なぜですの?」
影「中まで火が通らずに生焼けになる」
「……そういうものなのですか?」
影「そういうものだ」
実際に切ってみれば、案の定、中はまだ赤かった。
それでも祥子は、失敗しながらめげずに一つずつ覚えていった。
(あの時は本気で、このお嬢様を一人で放り出したら生命の危険があると思ったもんだが……)
影生は当時の冷や汗を思い出しながら、今では手際よく包丁を扱う祥子の横顔を眺めた。人は環境でここまで変わるものらしい。
「で、父さんは?」
「仕込みが終わりましたので、奥で新しい試作品のレシピを練ると仰っていましたわ。」
「そっか。じゃあ俺たちで夕飯の準備しちゃおうか。」
「ええ。頼まれていたケチャップととうもろこし、手際よく調理しますわね。」
祥子はエプロンの袖を少しだけ捲り上げた。
「そういえば、ノアの姿が見えませんけれど……どこへ行ったかごぞんじで?」
とうもろこしの皮を剥きながら、祥子がふと思い出したように尋ねてくる。
「ああ、今日は燈のところに泊まり。なんか今日、精神的に擦り減ってたみたいだからな。ノアがセラピーキャットとして派遣された。」
「燈……。」
その名前が出た瞬間、祥子の手がわずかに止まる。
皮を剥く規則的な音が途切れ、その瞳に一瞬だけ暗い影が落ちた。影生はその変化を目ざとく察知したが、あえて触れるような真似はしない。
影生は祥子に、今日RiNGで立希と交わした会話や、これ以上燈と愛音の件を伝える気はさらさらなかった。
祥子は祥子なりに、過酷な現実を受け入れ、前を向いて必死に歩みを進めている最中なのだ。今さら余計な「過去の波風」を立てて茶々を入れる気など毛頭ない。
(立希にはハッパをかけたが……まあ、燈が本気で動き出すまでは、俺はただの傍観者で十分だ)
止まっていた時間がどう動こうと、それは彼女たち自身が選ぶことだ。自分にできるのは、必要になった時に手を伸ばせる場所にいることだけ。
自分がしゃしゃり出る幕ではないし、出ようとも思わない。
トントン、と包丁が軽快な音を刻む。
祥子は静かに視線を落としたまま、手元に集中していた。
「……影生」
「ん?」
「私……夕飯が終わりましたら、母上様のお部屋をお借りして、少し勉強を進めてもよろしいかしら。」
「ん、好きに使ってくれ。母さんも『留守の間は好きにしていい』って言ってたしな。」
「ありがとうございます。……感謝しますわ。」
かすかに、けれど確かな意志を含んだ呟き。
祥子が選んだ道がどんなに険しくても、倒れないように後ろから静かに支える。それが祥子の友人としての影生のスタンスだった。
影生は切ったレモン一部試作品改良のために保存、残りを絞り、ドレッシングとしてアレンジしながら息を吐く。
止まっていた時間がどう動こうと、自分はただ見守るだけだ。
……燈が本当に自分を必要とする、その瞬間までは。