1-1 どこの軍だろう?
夕暮れ前にハイライン城を立ち、目的のノディオン城に辿り着いたのは月が空の頂点に昇る頃だった。
整地された道を老馬が疾走する。その上に乗る騎手の姿は見えない。頭まで覆う灰色のマントが、その正体を隠している。ただひとつ分かるのは、その人物は小さく、ひどく焦っているということだ。
休まずに駆けてくれた老馬も、すでに限界の様子だ。吐く息の荒さがハッキリと耳に届く。老齢により騎士馬として引退したのを、無理に走らせたのだ。心苦しさに胸を締め付けられたが、老馬はそんな騎手を慮ったのか駆ける足を緩めることはない。
ノディオン城の城壁が見えたところで手綱を強く引いた。困惑するように騎手は呟いた。
「どこの軍だろう?」
放たれた声は甘さの残る少女のものだった。高めの声は、無理して背伸びをする子供のもののように夜空に響く。
訝しむその言葉には、どこか頼りなさげで、触れれば壊れてしまいそうな柔らかさがあった。
少し悩んで騎手は老馬から降りた。
「ごめんね、ここで休んでいて」
ノディオン城すぐ近くの林で老馬から降りる。本当なら水場が近い場所で休ませてあげたいが、あいにくこの近くには川辺がない。
申し訳なさに胸が締め付けられ、そっと老馬の首を撫でた。すると、老馬は気にするなとでも言うように、疲れた目を細めて小さく嘶いた。その温もりに、つられて口元にわずかな笑みを浮かべた。
老馬と別れ、足音を潜ませる。城門が見える位置まで息を押し殺して進む。門は火が灯され、見知らぬ兵たちの姿がしっかりと見えた。
やはり間違いない。彼らはノディオンの兵たちではない。鎧の造りがアグストリアの物とは違う。
見知らぬ兵たちがハイラインの者たちでないことに安堵はするが、疑念は消えない。彼らは誰なのか。
ノディオン城の城主エルトシャンは、現在囚われの身だと聞いていた。多くの兵も城主と共にいるはずなのに、城門には見知らぬ兵たちが予想以上に多い。
この光景に、思わず眉を顰める。
アグストリアは騎士の国と謳われる。加えて国に属さない傭兵も少なくはない。
城門に集う兵たちは、どう見ても傭兵ではない。鎧は揃い、どれも磨かれて手入れが行き届いている。その武具の質も高く、まるで他国の正規軍のようだ。整然とした動きと無駄のない所作が、訓練された精鋭であることを物語っていた。
だが、どこかが違う。月明かりの下、彼らの鎧は青白く光を反射し、まるで血の気のない彫像のように見える。
少女は冷たい夜風に思わず身をすくめた。肌を刺す寒さのせいではない。胸の奥に渦巻く不安が、冷たさを何倍にも感じさせていた。自然と手が羽織っているマントをかき抱くように掴んだ。
彼らが敵か味方か、現時点では判断できない。正面から堂々と近づくには、あまりに状況が見えない。交渉するにしろ、一人で飛び込むのはあまりにも無謀だ。
門番の中でも青い鎧を着た一際目立つ大柄な男がいた。整然と並ぶ兵たちの中で彼は隊長格に見える。厳つい顔立ちに鋭い目つきで周囲を見張っており、物腰からして話が通じる相手には思えない。
その傍らには、緑の鎧をまとった優しげな風貌の男が立っている。大男とは対照的に柔和な雰囲気を纏っている。ヘラヘラと軽口を発するその表情はどこか芝居がかっていて、むしろ警戒心を誘った。
ふと風に乗って届いたのは、冗談交じりの会話とそれに続く笑い声だった。まるで戦の気配など微塵もないかのような、和やかな空気。
だが、それこそが恐ろしかった。
彼らはハイラインとはまた別の侵略者なのだろうか? 守るように城門に並ぶ兵たちは油断による慢心からか、それとも実力を誇示しているからこその歓談をしているのか──。
恐れから少女の右手は無意識に左手首に触れる。細い手首には銀の腕輪が光っていた。
ブレスレットよりも少し太い程度の腕輪は、派手な装飾は刻まれていない。職人の腕が良かったのだろう、静謐に刻まれた波模様はまるで風の道筋のようだ。中央にはめ込まれた緑石の存在が、腕輪を質素な印象から遠ざけている。
この銀の腕輪は数年前に没した母の形見だ。だからなのか、窮した時は縋るように腕輪に触れる癖が出来ていた。
緑石が月光に反射して宝石のように輝く。煌めく光が、母の最期の光景を思い起こした。
痩せ細った手が虚空を切り、嘆く母な姿が脳裏によぎる。
――ごめんなさい……あなた……。
弱々しい母の言葉は掠れて今にも消えてしまいそうだった。
謝罪の意味を、少女は今も知らぬままだ。胸の空白に涙が滲む。腕輪が熱を帯び、風が囁くように妙案がひらめいた。
「……抜け道から侵入しよう」
どの城にも、緊急時の抜け道があるはずだ。
ノディオン城の隠し通路の場所は知らない。しかし、知識としておおよその場所は知っていた。
――多くの城は、門と正反対の地形を利用して隠し通路を作る。
過去にそう教えられたのだ。いつ、誰に教わったのかも忘れてしまうほどの幼い頃の記憶だと思う。
目星をつけようと城の全体を一瞥する。城門の反対側、林の窪みで草木が不自然に途切れているのに気づいた。緑石が微かに光り、風が頬を撫でる。
「あそこだ」
本能のように少女は確信した。きっと、そこが目的の場所に違いないと。
城内に入ってしまえば、あとは顔馴染みの者を頼ればいい。きっと侍従の一人か二人は城に滞在しているはずだ。すぐに行動に移ろう──膝を立てた、その時だった。
「そこにいるのは、誰だ」
緑色の鎧の男が声を発した。
彼の顔は間違いなくこちらを見ている。
(見つかった!)
身を震わせるが、すぐに息を止める。
今、彼らから見えるのは生い茂った草むらだ。灯りからは遠く、こちらは暗がりだ。しっかりと視認は出来ていないだろう。
現に大男の方から怪訝な声が上がった。
「ウサギでも跳ねたんじゃあないか?」
他の兵たちもそう思っているようだ。何人かが首を傾げている。全員がそう思うことで話を流されることを祈る。
しかし、警戒値は一気に上がったらしい。幾人かの兵士は己の得物を手に取り、こちらへと切先を向け出した。
緑の鎧の男はまっすぐにこちらへと歩き始める。
「おい、アレク!」
大男が緑の鎧の男を呼ぶ。しかし、彼は立ち止まらない。片手をヒラヒラとさせて軽く笑う。
「ウサギなら捕まえてやるよ! お姫様への土産になるさ」
軽やかな口振りだが、それに反して男の目は笑ってはいない。
(ああ、バレてる……)
アレクと呼ばれた緑の鎧の男は完全にこちらを意識している。
ウサギだと思ってもいないだろう。現に彼の右手は剣の柄を握っている。あからさまに発せられた殺気は威嚇のつもりなのだろう。
このままだと良ければ捕縛、悪ければその場で斬り捨てられる。どちらの運命も辿りたく無い。
だって、自分はまだやるべきことがあるのに。そのためにここまで来たのに。
深く息を吸い、覚悟を決めた。このまま隠れていても、逃げ道は閉ざされるだけだ。
立ち上がり、己の頭を覆っていたマントのフードを一気に剥がす。素顔を晒し、アレクと呼ばれた男を真っ直ぐに見据えた。
男は整った顔に、驚きの色を濃く浮かべていた。対峙した人物が思った以上に小柄で幼かったからだろう。
そして、何やら悩むような素ぶりを見せた。
理由は言われずとも分かる。少女の髪が短く切り取られているからだ。
この土地で年若い娘が短髪であるのは、罪人か、不当な罰を受けた場合のみ。
彼が何かを発する前に、少女は息を大きく吸う。
自ら語るのを少女は恐れていた。自分の声は、あまり好きではないからだ。
だが、そうは言ってられない。己を鼓舞し、男から目を逸らさずに口を開く。
「私はハイラインの騎士フィリップの義子、騎士見習いのエリンと申します」
少女の――エリンの名を聞いた時、彼が驚くように肩を跳ねさせた。
雲間から月が覗く。
月明かりが二人の姿を照らしているだろう。男の目には自分の顔がしっかりと映っていた。 未熟さが色濃く浮かぶ、あどけない顔立ち。小麦に似た金髪は華やかさとは程遠い。素朴な色合いかつ、首元で切り揃えられる。それが彼女の年齢よりも幼く見せていた。成人を迎えたばかりだから、まだ子供らしさが抜けきらないのだろう。
それでも侮られぬよう、挑むように少女──エリンの黒曜石に似た輝きを持つ瞳がまっすぐにアレクを見つめる。
マントが夜風により翻り、彼女の装備をさらす。傷一つない真新しい鎧。鮮やかな空色のそれは月光を静かに反射する。
腰に装着した新品の細身の剣には触れないよう、エリンは意識した。わずかでも敵意と取られてはならない。
「ノディオンのラケシス様に謁見を求めて参りました」
夜空に強く響く己の声は震えていた。
これは賭けだ。
彼らの立ち振る舞いから、蛮族や傭兵ではなく他国の騎士であるとエリンは推測した。ならば、見習いといえど騎士として名乗りを上げれば向こうも無体を働かないはずだ。
アレクはそんなエリンの思惑を読み取ったのだろう。篝火を背に、薄く笑った。
「俺はシアルフィの騎士アレク。主君シグルド様の命でラケシス姫の救援に参った」
シグルド──その名に聞き覚えがあった。
ラケシスの兄であるノディオン王エルトシャンの友人だ。ならば、彼らはラケシスの味方だ。
ようやくエリンの肩の力が抜けた。
◆ ◆ ◆
城門の守りは大男──彼はアーダンと名乗った──に任せ、アレクはエリンを城内へと案内した。石畳の廊下を進むと、兵士だけでなく職人や従者らしき見知らぬ人々が行き交っていた。彼らの立ち振る舞いは横暴さとは無縁で、ノディオン城に敬意を払っている様子が伺えた。
「一応、ハイラインの関係者であるあんたに聴取をした方がいいんだろうけどね」
先導しながらアレクは言った。特に必要はないだろうと、言葉を続ける。
「それは、私が子供だからですか?」
一応、成人として扱われる年齢ではある。が、彼から見ればエリンは子供と変わらないのだろう。成人したてとは、悪く言えば年長者からは舐められる年頃だ。
エリンの剣は城門で回収された。それ以外は特に取り上げられてはいない。通常ならば脱がされているであろう、鎧もそのままだ。隠し武器などの詮索もされてはいない。それはつまり、このような子供に何をされても対処は安易だと侮られているということだ。
ハッキリ言って気分は良くない。
そんなエリンの不服を、アレクは察したようだ。
「いいや、あんたが小さなウサギさんだからさ」
アレクは片目をつぶり、いたずらっぽく笑った。
呆れや戸惑いから、エリンは返答がすぐには浮かばない。困惑の最中、口から流れたのは「……はぁ」というため息に似た相槌だった。
「あのな、俺は可愛い子の味方って評判なんだ」
彼は肩をすくめて軽やかに付け加えた。
このやりとりで悟った。
アレクという騎士は軟派な男だ。関心を寄せてはならない人種──養父やその部下たちからは、こういう男には気をつけろとエリンは何度も釘を刺されている。
距離を取ろうとする彼女に対して、アレクは特に気にも止めていないようだ。彼は軽い口調のまま、自分たちがここに来た経緯を教えてくれた。
獅子王と謳われるエルトシャンの不在の隙にハイラインがノディオンを攻撃宣言。
窮地のラケシスは兄の盟友シグルドに救援を求めた。シグルドはそれに応え、エバンス城からすぐさまノディオンへと出軍したという。
話の途中までは、ハイラインに属するエリンもよく知っている話だ。
なるほど、おそらくアレクは彼女を捕虜のように扱うつもりなのだろう。会話の流れで敵国の情報を得ようと考えているのかもしれない。優しい態度は、エリンを懐柔させるための策というわけか。
残念ながらエリンはハイラインの仔細を知らない。アレクの思惑は的外れだ。痛めつけられても出せる情報は何もない。
でも、彼の考えも分かる。
開戦前に、こっそりと敵国の人間が現れたのだ。しかも、姫に会わせろと願い出る。不審な存在でしかない。
だが、アレクはエリンを城の中枢部──軍議室へと連れて行ってくれた。