幕間1-1 漆黒の宝石だ
「エリンのやつ、ノディオンの騎士になりたいそうですよ」
取り巻きの一人である貴族子息の言葉。それに、エリオットは反応できなかった。
昼下がりの学習室。王族や貴族の子供たちが机を並べ、家庭教師に付き添われて勉学に励む場所だ。午前の日程が終わると、自由時間となり、子供たちの社交ごっこが始まる。
情報収集と模って、彼らの話題に上がったのは騎士フィリップの養女だった。
この養女は、その母と共にハイラインでは厄介者として扱われていた。母娘を庇護するのが、ハイライン国守りの要であるフィリップでなければ王命により追い出されていたはずだろう。
親たちの侮蔑は、子どもたちにそのまま伝染する。誰も意識しないまま、娘は笑いの種にされていく。
攻撃の指揮を執るのは、ハイライン王子エリオットだ。彼が率先して、フィリップの養女エリンを揶揄う。
その容姿を、その声を、その仕草を。その全てがいかがわしいと難癖付けるのだ。
それが日常になりつつある日の話題だった。普段のエリオットなら、貴族子息の言葉に傲慢な笑みを浮かべたはずだ。ここにいないエリンへ嫌味を吐き付けながら。
沈黙する王子の代わりに、取り巻きたちが次々と罵りの言葉を放つ。
「所詮、アイツも他の女と同じですね」
「エルトシャン目当てでしょう。さすが、淫売の娘。母親と同じ血が騒いでいる」
揶揄うように笑う取り巻き達の笑い声が、エリオットには煩く聞こえた。
そんなはずはない。
何故なら、エリンはエリオットのために騎士を志したのだ。彼はそう信じ込んでいた。
それなのに、否定のための声が出ない。机の上に置かれた拳が、小さく震える。
窓から差し込む日差しに、エリオットはエリンの髪色を連想する。
艶やかな蜂蜜色の長い髪。それを切り落としてまで、エリンはエリオットに忠誠を誓ったのだ。
養女とはいえ、貴族の娘にとって長い髪は誇りの一つだ。その美しさを保つために幼い頃から侍女たちの手で手入れをされる。
エリンが髪を短くした時も、大いに話題となった。取り巻きが猿のようだと嘲笑う中で、エリオットは内心、誇らしげに胸を張っていたのは記憶に新しい。
エリオットの沈黙を別の意味合いに取ったのだろう。子息達はすでに別の話に移っている。彼らにとってエリンとは所詮そんな存在であった。
しかし、エリオットだけは一人、会話に混じることなく取り残されていた。
◆ ◆ ◆
ハイライン騎士フィリップが妻を娶ったというのは、社交の場で大いに話題になった。少年のエリオットの耳に届くほどに。
フィリップは、代々のハイライン王の覚えめでたい家名出身の騎士である。そして、その血筋に相応しく重々しい鎧を着こなし、身長の倍もある長槍を軽々と振り回す。
顔立ちも悪くなく、性格も実直で僻んだところはない。
さぞかし浮き名を流すであろうと噂された男だが、適齢期を過ぎてなお浮いた話の一つも無い。
エリオットの父王ボルドーが散々催促しても、フィリップはそれを拒否し続ける。王の願いならば、何であろうと果たそうとする忠義の男が伴侶を持つことだけは拒み続けていた。
名のある騎士の家系が途絶えてしまうことを、王のみならず臣下たちも憂いた。
諦めさえ漂い始めた時、フィリップは女を身請けた。
その相手は美貌こそあれど、病に侵された流浪の女であった。しかも、子連れだ。
これにはボルドーが激怒した。すぐにでも女と子を追い出せと命じたが、フィリップは頷かない。彼女こそが我が最愛と堂々と宣言したのだ。
フィリップがただの騎士ならば、ボルドーはすぐさまに彼を罰したであろう。だが、フィリップを失えばハイラインの守備は裸同然となる。
アグストリア諸国はアグスティのイムカ王によって平穏を保たれていた。この均衡が崩れた時、真っ先にハイラインは近隣の獲物となるであろう。だからこそ、王たちはフィリップを害さない。
結果、貴族社会の陰湿さは下賤の母娘へと向けられる。
嘲笑、蔑み、罵倒――物理的な攻撃が行われなかったのは、貴族としての矜持か驕りか……。フィリップが母娘を庇えば庇うほどに、彼らは悪辣に振る舞った。
エリオットが娘の方に興味を抱いたのは、その頃だった。
あの堅物のフィリップを虜にしたのだ。母親となる女は、よほど手だれだろう。病に侵されても尚、男を誑かす才能は衰えないらしい。
そんな美貌を持つ女を母とする娘だ。どんな顔をしてるのか拝んでやろうと企む。
残念なことに、母娘は登城することなく、フィリップの私邸で過ごしている。
だから、エリオットは無遠慮に屋敷を訪ねることにした。
「どうせ大したことないですよ」
「フィリップ様の趣味が悪い可能性だってありますしね」
好き勝手に言う子息たちを従えて、エリオットは屋敷の敷地内に足を踏み入れる。
無骨な武人を主人とする質素な屋敷。華やかさのかけらもないその建物から、楽しげな歌声が聴こえた。
声は甘く、幼く――心をくすぐる。寵を求める子猫の鳴き声に似ていた。
あれほどまでに騒いでいた取り巻きの口が塞がっていた。誰もが歌の出所を探るように辺りを見渡している。
歌声は屋敷内ではなく、中庭の方から響いてきた。誘われるように、少年たちはそちらへと向かう。
歩きながらエリオットは気付く。
かつてよりも、この屋敷に彩が増えていた。小さく芽吹いた蕾が、殺風景だった庭の面影を消し去る。さらに、あちらこちらに、小動物を模した小さな飾りが並んでいた。
やがて開けた場所へと辿り着く。
噴水や彫刻品など豪華さの足りない小さな中庭。ハイライン城内とは比べ物にならないほどに見窄らしい。しかし、それを覆すほどの幻想的な光景が広がっていた。
中庭の長椅子に、薄衣を羽織った女が座っている。女の黒髪は、夜闇を思わせるほどに艶やかだった。痩せた輪郭が、かえって彼女の妖艶さを際立たせていた。
すぐ傍らには侍女が控え、女のために日傘を差していた。
彼女たちの視線の先に、幼い少女がいた。くるりと回るたびに、柔らかなスカートがふわりと翻る。楽しげに、跳ねるように、少女は舞う。
滑らかな金髪は、とろりと流れる蜂蜜のようでエリオットの目を奪う。
歌声は少女のものだった。伸びやかに、軽やかに――可憐な声は青空へと吸い込まれる。
穏やかな午後の陽光の中、世界は彼女らのためにだけ存在しているように見えた。
エリオットは、ただ見惚れるほかになかった。呼吸すら忘れ、目の前の幻想に酔う。
それを壊すように、彼の背後から枝が折れる音がした。取り巻きの一人が足元の小枝を踏み割ったのだ。
瞬間、歌声が止まる。
少女がこちらを見た。
目が、合う。
漆黒の宝石だ。
手入れされてない眉の下、大きな瞳が不思議そうにこちらを見つめていた。その煌めく黒色に、エリオットの鼓動が大きく脈打つ。
小さな少女は、その年齢相応に幼い顔立ちだ。柔らかそうな頬は薄紅色、ほんの少し高い鼻。唇はふっくらとしており、色づく花弁のようだ。
少女の唇が動く。
「だぁれ?」
甘ったるい声――まるで砂糖菓子で作られたようだ。蕩ける声音が、エリオットの背筋をなぞった。
知らず知らずに息が荒くなる。胸の鼓動が、己のものではないように早まる。
なんだ、これは。
混乱する彼の背後から、怒号が飛び出た。
「無礼者! エリオット様の御前だぞ!」
取り巻きの声に、エリオットは我に帰る。
今、自分は情けない顔を晒していなかったか? なんという辱め。下賎な娘なんかに、無防備な表情を見せてしまった。
そう思えば、目の前の少女が途端に憎らしく見えた。頬を焼くような羞恥と、言い知れぬ苛立ちが同時に胸を満たした。
エリオットは胸を張り、威圧する。
「お前たち……何故、表に出ている?」
吐き捨てるように言い放てば、少女の体がビクリと震えた。後ずさる彼女を引き止めるように、さらに強くエリオットは睨む。
「穢らわしい。この俺の前に立つのも、おこがましい身分のくせに生意気な……」
怯む少女の目にみるみると涙が溜まる。潤いが瞳の輝きを増させ、夜空の星のように煌めく。
その様に、エリオットの中で愉悦に似た激情が湧き上がる。怒りに似たそれは決して不快ではなく、むしろ興奮に近い衝動だった。
よくよく見やれば、少女の様相は見窄らしい。養女とはいえ、王室付き騎士の娘なのに華美な装束を纏っていない。
彩色の薄いドレス、軽く束ねただけの髪型。装飾品などは皆無だ。靴だって高さもなく、まるで平民の物だ。それらが、清らかさを気取るつもりに見えてエリオットの怒りを煽った。
顔立ちだって美しくない。母親の美貌を全く引き継いでいない。
こんな子供に一瞬でも惑わされたという事実が、エリオットの苛立ちを引き起こす。
「エリン……こっちへ、おいで……」
硬直する少女を、母親が呼ぶ。あからさまに弱った声は、か細く頼りない。それなのに妙な艶めきがあり、少年らの背筋に甘い痺れを走らせた。
手招く指先に、憂いを帯びた色香がある。その妖しげな仕草に、無骨なフィリップが絡め取られる幻を見て、エリオットの頬は熱を帯びた。
母の声に縋るように、少女は彼女の元へと駆けてゆく。エリオットに一瞥もせずに。
それが腹立たしくて、彼は呼び止めようとした――が、その前に侍女が頭を下げた。
「申し訳ございません!」
恐れるような声に合わせて、少女を抱きしめる母親も頭を下げた。
震える少女は母親の腕の中に隠される。もうこちらを見ようともしない。それが許せない。
少女を抱きしめる母親の左手首――そこに通された銀の腕輪。装飾された緑色の宝石が、太陽に照らされて険しく輝く。まるでエリオットらを警戒するかのように。
胸の奥で渦巻く屈辱を言葉に変えるように、八つ当たりの罵声を浴びせかけ、屋敷を後にした。
くだらない、時間を無駄にした――悪態を吐きながらエリオットは城へと戻る。後ろを歩く取り巻きも王子に同調するように声を上げる。
「可愛げもない子供でしたね」
「しかも礼儀も知らない……あんなのが、城の近くに住んでいることがおぞましい!」
「歌声だけは褒めてやってもいいですけどね」
「おい」
エリオットは立ち止まり、背後を睨みつける。即座に子息たちの足が静止した。得意げだった彼らは、エリオットの機嫌を損ねたことに青ざめる。
その中から、少女の歌声を言及した子息へとエリオットは詰め寄った。
「お前の耳は節穴か? あんな舌足らずな声が、歌などと呼べると思ったのか?」
「い、いえ……わ、私は、その」
もごもごと口籠る子息の襟首を掴む。小さな悲鳴を掻き消すほどの声量で、エリオットは怒鳴った。
「なら、口を噤め! あのような薄汚い子供ごときに惑わされたのか!」
「も、申し訳ございません……!」
少年の悲鳴は、恐れと涙が絡んだ情けない音だった。それが不愉快で、エリオットは乱暴に彼を突き飛ばす。
暴君の機嫌を損ねた彼は、他の取り巻きたちから一斉に冷たい目を向けられる。子供たちの中で、彼の地位はこの瞬間から失墜したことであろう。
しかし、エリオットはそんなことには関心がない。今、彼の脳裏を満たしているのはエリンと呼ばれた少女のこと。
甘やかな歌声は、振り払ってもまとわりついて離れない。それを心地良いと思えてしまう自分を、エリオットは嫌悪した。