夏の空はどこまで澄み渡り、太陽の光を隅々まで伸ばす。腹が立つほどに白い雲が映えて美しかった。
それを避けるように窓のない暗い回廊へと、エリオットは足を向けた。
彼の胸中にあるのはエリンのこと。
嘘だと叫びたかった。出鱈目を言うなと胸ぐらを掴み、叩きつけたかった。
……だが、何もできずに終わってしまった。
学習室を一人離れて、夢遊のように城内をあてもなく彷徨う。
エリオットはエルトシャンに劣る。認めたくないが、薄々実感していた。
頭脳も剣の腕も凡夫。馬術も人馬一体というほどに優れていない。
ノディオン王は息子に執務を手伝わせていると言うのに、ボルドーは未だにエリオットを政に関わらせもしない。
本当は、誰もがエリオットを慕っていない――そんなこと、薄々気付いていた。
貴族たちの賞賛も、子息たちの羨望の眼差しも、子女たちの微笑みも……全て上辺だけだ。
さすがだと誉めそやす言葉は、どこまで心が込められているのか?
向けられた笑顔は、自然に浮かべられたものなのか?
本当はエリオットを疎んでいるのではないのか?
ノディオン王子と違い、ハイライン王子は出来損ないだ……そんな侮蔑を抱いていないのか?
智も武も人心も――エリオットは全てエルトシャンに劣っている。
だが、そんな愚図な王子でも完璧な王子に唯一勝るものがある。
それがエリンの存在だ。
彼女は違う――他の取り巻きのような、空っぽな媚びではない。黙ってエリオットを受け入れてくれるのだ。
真っ直ぐに、ありのままの彼だけを見つめてくれる存在であるはずだ。
あの時の言葉――ありがとうというエリンの声を、今でもエリオットは大切に覚えている。心からの謝辞の声を。
エルトシャンには果たしてそんな相手がいるのか? いないから、エリンに手を出したに違いない。
あの男は羨ましがっているのだ、エリオットのことを。これほどまでに慕ってくれる相手がいることに。
だから、何度も何度もエリンをノディオンへ呼び出しているのだ。あの娘の気持ちを無視して。
なのに。
エリンは、エリオットではなくエルトシャンの騎士になりたいだと?
嘘だ。嘘に決まっている。
取り巻きたちはエリンとエリオットの絆を知らないからだ。無知だから、あんなでまかせを口に出来たのだ。
しかし……しかし、どうしても彼は否定しきれない。
なぜ、エリンは突然髪を切り落とした?
なぜ、エリンは騎士を目指し始めた?
なぜ、エリンは毎回随行としてノディオンに連れて行かれる?
なぜ……エリンは、エリオットと目を合わせてくれないのか。
エリオットがどれほど横暴に振る舞っても、エリンは言い返さない。嫌なら逃げればいいのに、その場に留まる。それが愛情の証であると、彼は錯覚していた。
そのことに気付くことなく、理不尽に傷付いた素振りをする。
沈む気持ちに引きずられながら歩くと、人影が見えた。
あ、とエリオットは思わず口に出す。
エリンだ。
鍛錬の休憩中なのだろうか。座り込む彼女は簡易鎧姿だ。横には木剣を立てかけている。陽に焼けた頬には、そばかすが浮かんでいた。短くなった髪は、汗により肌に張り付いていた。彼女の首筋を伝う汗に、目が吸い寄せられた。
エリンが登城することは滅多にない。鍛錬を行うのならば、フィリップの屋敷内の鍛錬場だ。
しかし、馬術などの鍛錬の際には城内の鍛錬場へと顔を出す。勿論、フィリップが連れて来る時のみだ。でなければ、ボルドーが許さない。
声でエリオットの接近に気付いたのか、彼女は慌てて直立した。あからさまに嫌そうな顔付きで。
だが、エリオットはそれに気付かない。
気付くつもりもない。
何故なら、エリンはエリオットを好いているのだから。
――好いている、はずだ。
沈黙が続く。
エリンはエリオットに挨拶をしてくれたが、それだけだ。逃げ場を探すように視線が揺れていた。
漆黒の瞳は、暗がりでも闇に取り込まれることなく輝き放つ。
その瞳と同じ、黒曜石の髪飾り。贈ってやろうと思っていた矢先に、彼女は勝手に髪を切り落とした。
――お前は……。
自然とエリオットの心の声が、口から漏れ出ていた。
「お前も、エルトシャンがいいのか」
どうか違うと言ってくれ。
お前は俺だけだと、俺のために騎士になるのだと教えておくれ。
願うように、縋るようにエリオットは問うた。
夏の湿った空気が心地悪い。返事を待つ時間が永遠だと錯覚するぐらいに長く感じた。
流れる汗の不快よりも、痛いほどの沈黙が息苦しい。
エリンは呆気に取られたような顔をしていた。質問の意図を理解できなかったのだろう。彼女はじっと、エリオットを見つめている。
こんな時なのに、彼女の目の中に自分がいることをエリオットは小さな幸福を感じてしまった。だが、それは彼を包み込む不安を覆すほどではない。
エリンは瞬きを数回繰り返し、口を開く。
「……はい?」
それは返事ではなかった。むしろ、問い返しの響きだ。その一語の冷たさに、エリオットの足元がふらつく。
エリンが肯定した――その事実だけが、世界をぐしゃりと押し潰した。
みっともなく泣き叫びたかった。
華奢な体を抱きしめて、俺を捨てるなと縋り付きたかった。
あるいは殴りつけて、裏切り者と罵りたかった。
だけど、そのどれもがエリンにはきっと届かない。
エリオットの想いを知ってもくれない。
そして、惨めな王子は――逃げた。
◆ ◆ ◆
失望の日から、エリオットの目付きはさらに釣り上がった。
貴族らはそれを精悍になったと誉めそやすが、陰では「ますます狐めいてきた」と嘲る声も絶えない。
従順を装う取り巻きを引き連れ、城内を闊歩する。その姿は威厳よりも滑稽に映った。だが、エリオットはもはや気にしなかった。
むしろそれを利用してやろうという気概すらあった。せいぜい俺を煽てろ、褒め称えろ――それがお前たちの役割だ。
逆らう者は容赦なく迫害した。目を逸らしただけで、エリオットは罰を与えた。
横暴極まりない振る舞いを咎める臣下もいた。
どうか態度を改めてほしいと願い出た古参の臣下すら、エリオットは容赦なく牢へと送り込んだ。罪状は何だっていい。王子に刃向かったという事実さえあれば、どうとでもなる。
ボルドーは何も言わない。むしろ、息子のその采配すら評価しているようにも取れた。
元々、ボルドー自体が圧力による統治を行う人間だ。頼りない第一王子が、成長したとすら思っているのかもしれない。
そして、その矛先は当然エリンにも向けられる。厄介なことに、以前よりも暴言の質が上がっていた。
お前の髪は、枯れた麦藁だ。
お前の声は、媚を売る子猫だ。
お前の目は、穢れた泥だ。
お前の存在が、この国では不要だ。
泣きはしないが、傷付いた顔を見せるエリンが好ましい。彼女の目元が潤むたびに、エリオットは暗い悦びに打ち震える。
そんな彼へ、取り巻きが新たな情報を寄越した。
エリンはエルトシャンではなく、その妹ラケシスの騎士を目指しているという。
「……なるほど、考えたな」
エルトシャンは武勇の達人。エリンごときが、そんな彼の直属の騎士になれるはずがない。生半可な努力など無意味、むしろ足手まといだ。
しかし、妹姫の騎士であれば、体裁として抜擢されることもあろう。
エルトシャンは妹を大層可愛がっているという。その妹の覚えめでたければ、妹を通じて兄の心を虜にするのは容易いであろう。
そんな邪な企みを抱くほどに、エリンはノディオン王子に懸想しているのか。……虫唾が走る。
「おい、ノディオンの姫の情報を集めろ」
命じれば、取り巻きたちは動き出す。彼らはもう子供ではない。未来の王に仕える臣下たちだ。
エリオットの命令は、彼らの使命だ。幼き日の遊びとは違う。今やそれは、王命に等しかった。
そう時間はかからずにエリオットの元にはノディオン姫の姿絵が届けられる。取り巻きの生家にノディオン商人と繋がりがある者がおり、密かに買い取らせたものだった。
姿絵の前に立ち、エリオットは感嘆の息を漏らす。
無論、画家による美化はあるだろうが、それでも美しい姫君がそこに描かれていた。金の髪に、赤みのある黄色の瞳、肌は真珠のように真白。暖色のドレスからスラリと伸びる細腕。陶酔するように微笑む顔立ちは、見応えがある。
しばらく魅入っていたエリオットだったが、ふと妙案を思いつく。
ノディオンの姫君は彼よりもわずかに年下だ。互いに少年期を抜けつつある時期にある。
「……俺に相応しいな」
婚約話が進んでいる取り巻きも幾人か存在している。
王子であるエリオットも他人事でなく、ハイラインの貴族子女の何人かが候補として挙げられていた。外交の手段として他国の姫を迎える案も出されている。
なら、ちょうど良い。
「これを、俺の妻としよう」
憎き男の妹であるという点だけが許せないが、それを補うほどに利点がある。
容姿も身分も申し分ない。姿絵から判断するに御し易い性格と見える。
一方的にノディオンを毛嫌いしている父の顔が過ったが……問題はない。むしろ、人質としての価値を見出し、あっさりと許可するだろう。
運が良ければ、エリオットの血筋に聖痕が現れる可能性もある。そうなれば、ノディオンから魔剣ミストルティンの譲渡を引き出すことも夢ではない。
聞くところによると、エルトシャンは妹姫を大層可愛がっているようだという。兄妹の仲睦まじさが噂になるほどに。
その妹を、エリオットの妻として傅かせるのも面白いだろう。エルトシャンが嫉妬のあまりに憤怒する顔を想像するだけで溜飲が下がる。
そして、何よりエリンはこの妹姫の騎士になろうとしているのだ。
姫をハイラインへ嫁入りさせてしまえば、エリンはノディオンへ行く理由が消える。――そう、エルトシャンとの接点が潰える。
馬鹿な女だ。
騎士とは主君のために剣を捧げる存在。それなのに、くだらない私情のために忠義を偽る真似をするとは、思い上がりも腹立たしい。
しかし、所詮は女の浅知恵。
知略に関してはエリオットの方が上だ。
ノディオンの姫が輿入れしたのならば、エリンに騎士の位を絶対に許可するつもりはない。不忠者として罰を与えないだけ有難く思えばいい。
……どうせなら、姫の侍女として召し抱えてやろうか。目論見外れて落胆するエリンの顔を近くで見下ろすのも一興であろう。
当ても外れて、慕ってもいない女の側仕えを命じられるのは、さぞかし屈辱で震えることだろう。
もしもエリオットに許しを乞うてきたのなら、盛大に嘲笑ってやる。そして――代わりに妾として取り立ててやろう。
姫と違って地味なドレスを着させ、薄暗い離宮で一生飼い殺しにしてやる。その短い髪に相応しく、罪人のように足枷をつけてやるのも面白い。
エリンを庇護するフィリップにも合わせるつもりはない。顔を合わせる男はエリオット一人だけで充分だ。
そうして、膝付いて主人となった男のつま先に口付けるエリンに、あの髪飾りを贈ってやろう。
思い描いた未来は毒のように甘美で、エリオットは恍惚に震える。
ならば、行動だ。
近々、アグスティ城で諸国連合王族の集まりがある。
アグスティ王イムカ主催による、諸国の交流を深めるための会合だ。
年に幾度か催されるこの集まりに、彼は一度として心を動かされたことがなかった――これまでは。
姿絵を持ち込んだ取り巻きの報告によれば、今回はノディオンの姫も参列するという。国内ではすでにお披露目を済ませているが、今回は諸国の前で改めて社交界に立つそうだ。
ちょうど良いではないか。
エリオットは、唇の端を吊り上げた。
この集まりで、ノディオンの姫に求婚する。大勢の前で情熱的に愛を囁けば、気弱な姫など容易く頷くだろう。
いったん了承を取ってしまえば、こちらのものだ。どれほど彼女の身内が反対しようと、周囲には大勢の証人がいる。
諸国連合のまとめ役たるイムカ王の御前で宣言すれば、撤回など到底かなわぬ。
「……ああ、良いことを思いついた」
この輝かしい栄光を堪能するために、もう一つ手を回すことにした。