名も亡き少女の墓標   作:ねるねるねずみ

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幕間1-7 惨めだ、無様だ――許せない

 しん、と辺りが静まり返った。

 誰も息をすることさえ忘れたようだった。

 衣擦れの音すら止む。優雅な舞踏曲もいつの間にか止まっていた。

 静寂の中でエリオットは耳を疑う。

 今、目の前の女はなんと言ったか。

 瞬きをせずに眺めていれば、ラケシスは手首を振るう。閃光のように、真紅の扇が音を立てて開いた。

 

「あなたのような人の妻になる気は無いわ」

「なっ……何故だ!」

 

 無様にも、エリオットは喰らいつく。音響の良い大広間に、彼の叫びが響き渡った。

 先ほどまでの優越さは消え去り、いっそ滑稽な姿を周囲に晒す。

 おかしい、こんなはずはない。

 ノディオンの姫は、大人しい女のはずだ。

 姿絵のしとやかさを思い出す。あのたおやかに微笑みを浮かべる姫ならば、こんな毅然とした態度を見せるわけがない。

 混乱のあまり、足元がふらついたエリオットに、ラケシスは高らかに宣言した。

 

「私は、エルト兄様のような人でなければ、誰の妻にもなりません」

「なっ……」

 

 声を詰まらすエリオットの耳に、失笑が届く。

 嘲笑はさざなみのように大広間へと広がり、聴衆は愚かな王子を道化と見做す。

 囁きとは思えないほどの話し声で、喜劇となった求婚を愚弄する。にやついた表情を隠そうともせずに。

 はしたない発言をしたのはノディオン姫の方だ。成人近いというのに、照れもせずに兄に懸想するような言葉を口にする。

 なのに、誰もそれを咎めない。

 全員が思っているのだ。あの、エルトシャンが兄なのだから仕方ない。

 ノディオン王子よりも遥かに劣るハイライン王子が迫れば、断られるのは当たり前だろう――そんな空気が大広間を満たしている。

 凍りついたまま、エリオットは左奥に立つボルドーを見た――見てしまった。

 

 父は烈火の如くに顔を赤くさせ、憤怒のあまりに目を釣り上げている。

 

 手にしているワイングラスが、小刻みに水面を揺らす。飛沫が溢れて手を汚してることにも、彼は気付かない。

 その横ではクレメントが肩を震わせている。俯く彼の顔は、頭部を覆い尽くすローブによって隠れて見えないが、どんな表情をしてるのか分かってしまう。

 羞恥に身を焦がしながら、エリオットは縋るようにエリンを見た――そして、鳶色の目が凍りつく。

 

 エリンは微笑んでいた。

 

 エリオットを嘲笑うためでない。エリオットを慰めるためでもない。

 祈るように両手を胸の前で組み、彼女が見つめるのはエリオットではない。

 

 エルトシャンだ。

 

 妹姫の隣に立つ、完璧な王子に熱視線を送っている――エリオットはそう思い込んだ。

 柔らかな頬がほんのりと赤く染まり、エリンの想い人が誰なのかを嫌でも分かってしまう。

 ふっくらとした唇がゆるやかに弧を描く。漏れる吐息に、ときめきの熱がにじむ。

 漆黒の瞳の中に、星々が煌めくような光が宿る。甘えたがりの子猫のような、うっとりとした眼差しを愛しい相手だけに向けていた。

 ざわめきも、嘲笑も……全ての音がエリオットから途絶えた。

 

  ◆ ◆ ◆

 

 あの地獄から、どうやって生還したのか――思い出したくも無い。

 気付けば、ハイライン城の自室で、蝋燭も点さずに佇んでいた。

 窓の外は月が昇っていた。なのに、星は一つも見えない。薄い雲が夜空を覆い尽くし、薄ぼんやりとした月光だけを部屋へと届ける。

 ひんやりとした夜の空気。それよりも冷たい記憶が、エリオットの心を凍りつかす。

 アグスティ城は今も盛り上がっていることだろう――エリオットの恥を肴にして。

 あの後、ボルドーは即座にエリオットの手を引いて城を辞した。礼儀としてイムカ王に退去の挨拶は行っていたが、苛立ちが隠せないでいた。

 無理もない。己の息子があのような失態を晒したのだ。

 その場で手を上げないという、わずかな理性だけがボルドーに残っていた。それだけが、エリオットにとって唯一の幸運だろう。

 本来ならば、他の王族と同様にアグスティに三日ほどの滞在が予定していた。それを繰り上げて撤退しなければならないほどに、ハイラインの名に泥を塗ってしまった。

 ボルドーの怒りが馬にも通じたのか、馬車は凄まじい速度で帰途を果たした。その速さのおかげで、道中のボルドーの息子への罵倒が早々に打ち切られた。

 ハイラインに帰国しても父の怒りは収まらない。乱暴に馬車から降りると、不機嫌を撒き散らしながら城へと入って行った。

 頬の痛みを抑えながら、エリオットもふらつく足で自室へと帰ったのだ――そして、今に至る。

 

「……ふざけるな」

 

 ポツリと出た言葉は、か細く震えていた。

 許せなかった。

 恥をかかせたノディオンの姫――ラケシスが。

 

 あれは気高さなんかじゃない、横暴だ。

 男を立てない、恥知らずだ。

 兄を男として見てる、不埒者だ。

 

 エリオットに耐えがたい屈辱を与えた悪魔だ――決して、決して許さない。

 

「覚えてろ……絶対に俺に跪かせてやる……!」

 

 叫びと共に椅子を蹴り飛ばす。壁にぶつかり、派手な音が響き渡る。

 一度物にあたれば、もう収まらない。手当たり次第にエリオットは物を投げ、殴り、蹴り捨てた。

 机の上の書類は、エリオットを笑った他国の者だ。その顔を思い描いて破り捨てる。

 本棚の本は、エリオットを見下ろすエルトシャンだ。その顔にぶつけるように壁に投げつける。

 きっちりと閉められた机の引き出しは、エリオットを侮るフィリップだ。その顔を引き裂くように、引き出しを乱暴に引っ張り出す。

 勢いよく飛び出した引き出しから、金の光がこぼれ落ちる。小さな音立てて床に落ちたそれは――黒曜石の髪飾りだった。

 繊細な金細工の葉は、落下の衝撃で歪んでしまった。月明かりが憐れむように、それを照らす。

 静謐に煌めく黒曜石に、エリオットはエリンの瞳を連想させた。

 

 エルトシャンを見つめる、あの潤んだ瞳を。

 

  衝動に駆られ、髪飾りを掴む。憎悪に突き動かされ、壁へと投げつけ――。

 

「う……うぅ……」

 

 噛み締めた歯の間から漏れ出たのは、嗚咽だった。

 髪飾りは未だエリオットの手のひらの中にある。震える指先は、やがて力を失くして髪飾りを手放した。

 金の細工は月光を弾きながら、また床へと転がる。固い音が、虚しく部屋に鳴り響く。

 エリオットの膝が崩れ落ちた。

 いびつに歪んだ金の葉、欠け一つない黒曜石の果実。熱い雫が、ポツポツとそれを濡らす。

 腫れ上がった頬の痛みよりも、胸の奥が苦しい。

 呼吸の仕方を忘れてしまった。棘を吐き出すように、肩を震わせる。

 指先まで冷え上がっているのに、頬を伝う涙だけは熱い。

 

 惨めだ、無様だ――許せない。

 

 憎しみが膨れ上がるのに、もっと別の何かを求めている。

 その何かが分からない。分からないのが許せない。ぼんやりとした輪郭の正体が、掴めない。

 体を丸めて、エリオットは泣く。

 胸を貫く痛みは、決して癒やされることは無い。

 

  ◆ ◆ ◆

 

 剣は深々とエリオットの胸に突き立てられた。うめく様に吐息が漏れる。

 守ってくれるはずの鎧ごと、銀の剣は正確に彼を貫いたのだ。

 激痛に脂汗を浮かべながら、己と対峙する人物を垣間見る。

 グランベルのシアルフィ公子シグルド。

 精悍の偉丈夫は、汗一つも流してない。彼にとって、この一閃は渾身でも何でもないとでも言うように。

 エリオットの銀の槍は、ついぞシグルドに触れることすらなかった。わずかに鈍く光り、槍は虚しく土に転がる。

 

「なぜ……おれ、が……」

 

 血と共に唇から悪態が漏れ出た。

 何故、いつも神はエルトシャンを味方するのだ。

 何故、その慈悲をわずかにでもエリオットには向けてくれないのだ。

 

 理解などしたくない。

 受け入れられるものか。

 認められるものか。自分はどれほどに矮小な存在なのかを。

 エリオットという男は、エルトシャンという傑物を輝かすためだけの道化にしかなれないのか。

 

 剣は抜かれ、彼の血液が大地を染める。栗毛の馬は、己に降り注ぐ鮮血に驚き前脚を上げる。

 手綱を握る力はとうに消え失せ、痩躯が重力に従うように崩れ落ちた。

 落馬する刹那、鳶色の目は戦場を見渡す。――誰かを探し求めるかのように。

 しかし、見当たらない。

 ここにはいないのか。

 俺がこんなに苦しんでいるというのに、手を差し伸べにこないのか。

 

 あの甘い声で泣いてくれないのか。

 

 大地が近づく。

 落下の衝撃も、鎧の響きも、もう感じられない。

 エリオットを討ち取ったと、声高らかに宣言するシグルドの声が遠くに聞こえる。勝鬨の声が湧き上がり、反対にハイライン軍のどよめきが戦場を揺らす。

 もはや、勝敗は決していた。

 暗闇に染まりつつある視界に抵抗しながら、エリオットの眼球は痙攣するように蠢く。せめて最期に一目だけでも、そんな本能へ従うように。

 足掻いて、足掻いて――あの漆黒の瞳を探す。

 まだ、髪飾りを贈っていない。引き出しに眠ったままの、あの黒曜石の――。

 

 俺に駆け寄ってくれ、俺を抱きしめてくれ、――俺を見つめてくれ。

 

 自分には決して微笑みを向けない女だった。構ってやれば、眉を顰めて口をつぐむ女だった。それでもその女が――欲しかった。

 

「――エリン……」

 

 初めて女の名前を口にした。かすれた声は地面に吸い込まれる。

 誰にも聞かれず、誰にも届かず、それでも確かに紡がれた最期の言葉。

 

 それがエリオットという男の、全てだった。

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