3-1 もう心配はない
ハイライン陥落という報せが、アグストリア全土に広がる。
グランベルのシアルフィ公子シグルドにより、たった一日での制圧。国土の反応はまさに騒然の一言だ。対し、領民は大手を振るって歓喜した。
アグストリア諸侯連合の長、アグスティ王シャガールの憮然たる振る舞い。彼を諌めた獅子王エルトシャンの投獄。元々それらが民衆の反感を買っていた。
そしてハイライン王族によるノディオン城への義無き侵攻。ハイラインの王たちがエルトシャンを疎んでいたのは皆が知ることであった。しかし、ここまで露骨に動くとは誰も予想していなかった。
この騒動の裏には、シャガール王の企みがあった。
彼はなんと、エルトシャンの不在を即座にハイライン側へ報せたという。証拠の書状がハイライン王ボルドーの執務室より発見された。
自分に逆らう者への見せしめのつもりでもあったのだろう。この暗躍が表沙汰となり、ますます民の怒りを注いだ。
以上の要因もあり、シグルド軍の登場は民衆に概ね歓迎をされた。一見すれば、グランベルからアグストリアの侵略行為とも受け取られかねない。様々な背景が重なった結果、逆に救世主と崇められるに至った。
こうして、ノディオン城に当面の危機は去った。
だが、ラケシスはシグルド軍に身を寄せることに決まった。兵力の少ないノディオンで過ごさせるよりも、共に連れて匿う方が安全であろうという判断だ。
ノディオンへ手出しをすれば、シグルド軍が動く。そう知らしめるために。
かくして、アグストリア諸国連合に仮初の平和が訪れる――ことは無かった。
わずかな休息も与えられぬまま、シグルド軍は再び戦の最中にいた。
アグストリア中央部に位置する森林地帯。そこには、いくつかの開拓村が点在している。戦闘の混乱に乗じて、盗賊が現在も村を襲っているという。
シグルドはそれを良しとせず、討伐に打って出たのだ。己がアグストリア民の味方であるという宣伝を行い、地盤を強化するという打算もある。――シグルド自身にはそのような考えは無いだろうと、彼を知る人々は推測したが。いずれにせよ、シグルド軍は、虐げられる人々のために剣を振るい続けることを選んだ。
「あれは、アンフォニーのマクベスが関係してるに違いねぇ」
副隊長が厳つい顔を歪ませて、苦々しく吐き捨てる。
「傭兵時代に、まだ若造だった頃のマクベスに雇われたことがあったが……あの野郎、金に汚ねぇわ、俺たちに汚れ仕事を平気で回してくるわ、ひっでぇもんだった。ボルドー王よりも胸糞悪りぃ奴だ」
副隊長の個人的な恨みも入っているが、世間の評判とも重ね重ねズレてはいない。
アンフォニー領主の評価はすこぶるに悪い。特に開拓村に身を置く者たちからだ。
配置的に開拓村はアンフォニー城に近い。地図上ではハイライン城の方が近いように見える。しかし、実際には開拓村は森林に囲まれた小高い丘の上にあり、崖を避けるために大きく迂回する必要がある。村の治安を見守るならば、アンフォニー城の兵たちが一番に動けるはずなのだ。
幼少の頃、開拓村で過ごしていたエリンも身をもって知っている。アンフォニーの兵たちは動かない。盗賊の襲撃後、ようやっと少数が訪れるだけだ。恐らくはアグスティ王へのご機嫌伺いもあるのだろう。自分たちは村の復興を手伝いました、そういう既成事実を作りたいだけだ。
アグスティの先代――賢王イムカの時代は大人しくしていたが、シャガールに代替わるやいなやその本性を露わにした。傭兵を雇うように堂々と盗賊と取引し、その金品を己の肥やしとして蓄える。
さすがにこれらを見逃すほど、ハイライン王ボルドーは非情ではなかったようだ。己の配下を開拓村へと時折視察させていた。――こちらもこちらでイムカ王への恩顧を乞うつもりであったのかも知れないが。この時、開拓村へ訪れたフィリップが、エリンの母ドナと出会うきっかけとなった。が、それはまた別の話である。
現在もまた、開拓村は盗賊により窮地に陥っている。これを副隊長は陰謀によるものだと断言した。
「間違いなくマクベスの仕業だ。アイツが裏にいる」
情報によると、開拓村にアンフォニー兵の姿は無いらしい。マクベスは村の救援を無視して、シグルドに対して宣戦布告を行った。村人の嘆きが伝わる速度はハイラインの落城よりも速く届いたはずだ。なのに、彼らは戦闘を優先した。
民を庇護する領主として取るべき行動では無い。
副隊長が指摘したことは、当然シグルド軍上層部も推測し、把握したことだろう。
よってこれよりは、アンフォニー軍の迎撃と開拓村の守護。同時進行かつ迅速に行わなければならない。エリンらフィリップ隊は開拓村救援隊に配属が決まった。
これがエリンの初陣となる。
緊張からか、鼓動がやけに大きく響く。ラケシスの傍で控えていたかったのだが、そうもいかない。今回、ラケシスも救援隊として出撃することが決まったからだ。もっとも、彼女の役割はあくまで補助要員に過ぎない。つまりは回復役だ。
獅子王の妹というだけもあり、ラケシスは剣の扱いも心得ている。が、それは実践で使えるかは怪しいところだ。
これより戦うのは極悪非道な盗賊たち。慈悲も矜持も無く、奪うためならなんでも行う輩だ。民家に火を放ち、子どもすら手にかける。ラケシスの純真な剣では叶うはずがない。
そんな彼女のためにエリンは回復杖――ライブの杖を用意しにハイライン城内の武器庫へと向かう。ノディオンからの持参の杖はあるが、備えが過ぎて困ることはない。
エリンが目指したのは、城内の地下にある部屋の一つだった。詰所から離れた東端、普段は兵たちすら足を運ばぬ位置にあるその地下室には、貴重な武具や装具が収められている。魔法杖なども、たしかここに保管されていたはずだ。
使い捨てに近い量産型の武器類は、兵たちの詰所付近の武器庫に収められている。だが、そうした大量生産品ではない特別な品々は、すべて地下の武器庫で厳重に管理されていた。貴重な品々であるだけに、その存在を知る者も限られていた。
エリンはフィリップと共に何度か足を踏み入れたことがある。
――複雑だから、気をつけるように。迷ったと判断したらすぐに引き返すんだぞ。
助言してくれた義父の声を不意に思い出してしまった。エリンの鼻奥がツンと痛む。
道すがら、ハイライン城の様相に目を向ける。廊下の石壁は煤けていたが、崩れた箇所はほとんどない。床に散らばる破損した武具が、ここで戦いがあったことをかろうじて物語っていた。
想像していたよりも、城内の破壊が少ない。おそらくシグルドの指示によるものだろう。彼なら無駄な破壊行為を咎める……そんな気がした。
王族がシグルドのような人ばかりなら、恒久的な平和が保たれていたかも知れない。エリンはあまり詳しくないが、アグストリア諸国だけでなく、現在ユグドラル大陸全域が緊張に包まれている。
東方に位置する国イザークによる砂漠都市ダーナの襲撃。
イザーク討伐へと乗り出すグランベル軍。
ヴェルダン王国によるユングヴィ公国への侵略と略奪。
そして、アグストリア諸国連合の動乱の数々……。
世界が一気に崩壊に向かっているような気配すらエリンには感じられる。石壁に響く足音ですら、その不安を反響させるかのように大きく周囲に鳴り渡す。
壁伝いに手を添えると、作りの違う箇所が一つある。よくよく見やれば、石壁の隙間に手を差し込める窪みがあった。迷うことなくエリンはそこへ手を差し込む。カチリ、と小さな金属音が鳴る。すると、石壁はまるで扉のように軋む音を立てて開いた。
冷気を纏った風が下から吹き上げて、エリンの髪をたなびかせる。
見下す形に階段が下へと続いていた。明かりは灯されていない。階上からの明かりが薄ぼんやりと階下の部屋取りを照らし出すのみだ。
壁に手を添えたまま、エリンは階段を降る。一歩ずつ足を下ろすごとに肌で感じる温度も同時に冷えていく。暗さゆえに慎重に進んでいた……つもりだった。
不意に背後から光が遮られた。石壁に映る影が、細く長く伸びていた。
誰かがいる――そんな警戒心から反射的にエリンは振り返る。その判断がエリンの注意力を逸らした。
「――あ」
足を踏み外した、と気付いた時には遅かった。エリンの全身が浮遊による落下感に包まれていた。反応するより早く、体が浮いた。胃が迫り上がる不快感。脳裏に蘇る恐怖の記憶。悲鳴すら発せない。縋る左手は咄嗟に右手首の腕輪を掴む。迫る苦痛を想像して思わず目を強く閉じる。
痛みは即座に訪れた。エリンの腹部にのみ。
予想していたのは全身の打撲だ。しかし、腹部の圧迫感以外、エリンは何も感じない。まるで太く温かいロープのような腕が、彼女の身体をしっかりと抱き止めていた。
それが誰の腕なのか、すぐにエリンは気付く。
「……あっぶなかった」
らしくもなく焦る声を上げるアレクが、エリンの背後で密着していた。彼は左手を階上の壁を掴み、エリンを右腕で支えているようだ。右足は踏み込むように石段を踏みつけている。
どうしてここに。そう問いかけようとしても、エリンの口はひゅうひゅうと小刻みな呼吸音が漏れるだけ。
アレクの顔は見えない。その声は、落ち着いた調子でエリンの耳元に届いた。
「引っ張り上げるから、少しじっと出来るか?」
コクコクとエリンが頷いて見せると、アレクは彼女の耳元で囁く。
「いい子だ……。よっと!」
掛け声一つ上げて、エリンはアレクによって階上まで戻された。その優男な風貌からは連想出来なかったが、アレクも鍛錬された騎士だ。小柄なエリンなぞ、片腕でも余裕なのだろう。
平坦な石床の上にエリンを下ろすと、アレクはしゃがみ込む彼女の顔を覗き込むために膝を折る。
「大丈夫──じゃなさそうだな」
エリンの返答を待つ前にアレクは把握した様子だ。
彼女の体はガタガタと震えが止まらないのだ。口は声を発するのを忘れてしまったかのようだった。喉が震えて、掠れ声すら出ない。ただただ、荒々しい呼吸を小刻みに繰り返すのみ。
体温は感じられず、指先から足先まで冷え上がる。その癖、鼓動だけが大きく跳ね回る。寒いはずなのに全身から汗が止まらない。
自分を救ってくれたアレクの右腕を掴んだ左手の指を離すことが出来ない。全身の筋肉は張り詰めたまま動かせず、指先には力が入らない。
今のエリンを支配するのは、絶え間ない恐怖。
アレクもまた、そんなエリンを見て苦しそうな表情を浮かべていた。彼は自身にしがみつくエリンの指を無理に外さない。彼女の指と顔を交互に見て、何やら逡巡する仕草を取る。
「……すまない」
一言謝ると、アレクはエリンの身体を抱きしめた。決して強くなく、そっと包み込むように。
彼の左手はエリンの背に回される。そのまま宥めるように彼女の背をゆっくりとさする。
「大丈夫だ……。もう心配はない、安心していいんだ……」
静かにアレクは言う。その声音はゆったりとして落ち着いたトーンだ。彼の声に合わせるようにエリンの呼吸の速度も緩まってゆく。
「そう……ゆっくり、ゆーっくり息を吸って……吐いて。……そう、上手だ。そのまま力を抜いて……」
子守唄のようにアレクは優しく語りかける。鎧越しだが、アレクの手の振動が背中に伝わってくる。心地よい動きだ。目を閉じて、エリンはそれを全身で受け入れる。
そうして目を開いた時にはエリンの恐怖は和らいでいた。
「……落ち着いたか?」
問いかけるアレクの眼差しは優しい。はい、と答えたエリンの声は小さかったが震えは消えていた。
「そうか」
良かった、と自分のことのように安堵してくれるアレクは、無理にエリンを引き剥がそうとはしない。それでも隙間ほどの距離は作った。
「動けそうか?」
促されるような問いかけにエリンは素直に首を横に振る。まだ足腰に力が入らない、そんな感覚があった。己の情けなさに俯いてしまう。
「……すみません」
「謝らなくていい」
アレクはどこまでも優しい。トントンと彼の右手が、また背中を軽く叩いてくれる。その動きが、寝かしつけをしてくれた義父のものと似ていて、エリンはまた涙ぐむ。
「まだ怖いか?」
アレクの声に咎めるような響きはない。ただ、エリンの精神状態を心配している様子だ。その優しさから、ついエリンは口を滑らせてしまった。
「前に……階段から、落とされたことが……あって」
「は?」
鋭さが込められたアレクの声に、エリンの身体がびくりと震えた。怒られた、そう感じてしまった。
恐ろしくて顔を伏せてしまう。アレクの表情を見るのが怖い。再び目を伏せる。
「ああ、いや! 違う違う。アンタを責めたんじゃない」
怯えるエリンの姿にアレクは慌てる。
「その……悪かった。そりゃ、怖かったよな」
そうしてアレクは黙り込む。エリンを宥めるように右手は動かしたまま。
それ以上踏み込むような真似はしなかった。その気遣いが有り難い。しかし、エリンには疑問が浮かび上がっていた。
(どうして、私はこの人に気を許してしまうのだろう?)