名も亡き少女の墓標   作:ねるねるねずみ

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3-2 違う違う違う!

 あの痛く苦い記憶は、誰にも話したくない。できることなら、忘れてしまいたい……それなのに。

 

 エリンの恐怖の記憶。

 

 あれは、まだ十にも満たない頃のことだった。

 エリンは、ハイライン城内の踊り場から突き落とされた。主犯はエリオットの取り巻きの数人。

 大将であるエリオットがエリンを侮るから、取り巻きたちも当然のように同じ態度を取っていた。お前の存在が罪なのだと、それが当たり前のように。

 その日、ハイライン城に登城したのは義父の誘いだ。母親が亡くなり、塞ぎ込むエリンを城の舞踏会へと連れて行ってくれたのだ。

 しかし、エリンは歓迎されない。義父が王らに詰め寄られるのを見て、怖くなったエリンは一人逃げ出す。――そして、事件は起きた。

 今でも忘れられない。取り巻きの一人がエリンの腕輪を奪ったのだ。

 

 ――返して欲しいのなら、自分で取り返してみろ!

 

 取り巻きの手に光るのは銀の腕輪。母の形見であるエリンの宝物。

 

 ――かえして!

 

 飛びかかるエリンだったが、取り巻きは彼女よりも年上だ。身長差的に届かない。揶揄うような笑い声。それでもエリンは諦めずに取り巻きに体当たりをする。

 

 ――やめろよ!

 

 そうして取り巻きはエリンを押した。よりにもよって、そこは階段の踊り場だった。悲鳴を上げる間もなくエリンは階下へと叩きつけられた。

 エリオットを始めとした取り巻きたちがエリンをからかいの的にしていることは度々目撃されていた。義父のフィリップはそのたび抗議を行なったが、エリオットは認めない。父親であるボルドー王も息子を強く咎めない。

 エリンは養女であり、貴族社会における立場は決して強くなかった。王はそれを把握しているからだ。

 しかし、今回は大問題に発展した。

 被害を受けたエリンは全身を強く打ち、体を庇った衝撃で腕の骨にヒビが入った。薄れゆく意識の中で届いたのは、多くの悲鳴と怒号だった。

 舞踏会という催しゆえに目撃者が多くいたこと。養女とはいえ、ハイラインの守衛の要である騎士長の娘を公の場で傷付けたこと。普段は王に付き従うフィリップが、さすがに烈火の如く激怒したこと。それらが、子供のした悪戯で済ませなかった。

 取り巻きたちは全員罰を受けた。エリオットは彼らを庇うことはなく、むしろ責め立てていたらしい。

 

 ――あの悪ガキ、自分だけは逃れようとしてやがる!

 

 見舞いに来た副隊長が、怒りに震える声で吐き捨てた。取り巻きたちはエリオットの命令に従ったに違いないと、目を赤くさせて断言する。

 ベッドの上でエリンはそれを、どこか遠い他人事のように聞いていた。

 当のエリオットの主張は以下の通りだった。

 

 これまでは自分はエリンに直接的に暴力を振るってはいない。

 腕輪を取り上げろと指示も出してない。だから、今回の件は取り巻きたちの独断だと。

 

 むしろ目の前で行われた狼藉に、怒りすら覚えると言い放つ。誠実ぶるその態度に、エリンは薄気味悪さを覚えた。

 取り巻きたちもエリオットから指示を受けていないと証言し、結局エリオットには咎はなかった。

 打撲による痛みよりも、エリンが苦痛を受けたのは、見舞いと称してエリオットが部屋にくることだった。彼女が拒むと、彼は自らの権力を行使して無理矢理寝室へと押し入ってきた。そして、痛みに耐えるエリンへ嫌味を言うのだ。

 

 ――お前が不注意だからこんな目に合うんだ。

 

 反論する気力もなく、エリンはほぼ連日エリオットと顔を見合わせることとなる。フィリップや副隊長が非番の時には、その来訪が無いのは幸いだったが。

 

 ――これに懲りたら、こんなものを見せびらかすな。分かったな。

 

 そう言い捨てて、エリオットは腕輪を投げ返してきた。彼が取り巻きから取り返したらしい。普段と変わらぬ振る舞いのエリオットであったが、その点に関してだけはエリンは感謝した。

 エリンの回復能力が高かったおかげか、医師の見立てよりも早くに傷は治った。母の腕輪が手元に戻った安心感もあったかも知れない。フィリップらが懸念していた外見上の傷痕も残らなかった。

 

 しかし、心に深く植え付けられた恐怖が治ることはなかった。

 

 しばらくは階段が恐ろしかったし、事件の場であるハイライン城を目にするのもエリンは嫌がった。

 それでも、ラケシスと出会い、彼女の騎士になるためならばと己を奮い立たせたのだ。守るべき騎士が、恐怖に慄いているのは主君の恥にもなる。

 だから、この事件の仔細をエリンはラケシスに黙っていた。

 

 ――だって、私はラケシス様の剣であり、全てから守る盾になるのだから。

 

 知ればきっと彼女は怒ってくれる。エリンのために涙を流してくれる。それは嫌なのだ。騎士として強くならねばならない。

 この事件はハイラインの醜聞にも繋がるため、進んで外に漏らす者もいなかった。エリン自身も多くに言いふらすことはしたくなかった。

 それなのに、アレクには話してしまった。そのことにエリン自身が戸惑っている。

 確かにアレクはエリンへ親切にしてくれた。

 ノディオン城でラケシスと謁見出来るよう手助けしてくれたし、老馬を迎えに行く際も快く護衛として同行してくれた。……思えば、エリオットの横暴ぶりを話してしまったのも、無意識に彼を信頼していたからかも知れない。

 元々エリンは人見知りの激しい性質だ。自分から新たな交流を広げることに積極的にはなれない。会って数日も満たない人間をここまで親しみを抱くことがおかしいのだ。

 恐る恐るとエリンはアレクの顔を見る。目線が合うと、彼は優しく微笑みを浮かべてくれた。その笑顔にエリンは取っ掛かりを覚える。記憶にあるはずのない郷愁の念が胸の奥底から湧き上がる。

 

(私は、知ってる……?)

 

 疑問から記憶を手繰り寄せようとしたエリンの脳裏に浮かんだのは母の顔。

 

 ――あなた――エリン――。

 

 母は美しい人だった。

 晩年はわずかに翳りを見せていたが、それでもその美貌と声の美しさは損なうことが無かった。

 記憶の母は若く、唇もみずみずしい。潤いのある長い黒髪が垂れ、エリンの顔を包む。まるでエリンを籠に閉じ込めるように。

 エリンの頬に触れられた母の滑らかな指先が、皮膚に食い込んでいたことも思い出した。

 母の目は、睨むようにエリンを見る。

 漆黒の瞳に強い輝きが宿っていた。まるで研ぎ澄まされて刃と化した黒曜石のように。

 

 ――父親は――――私だけ――覚えて――。

 

 叱るように強く母は言う。

 エリンの知る母の喋り方では無い。彼女は柔らかい語り口をしていた。寡黙な人で滅多に声を上げない。

 だから、そんな人がこんな声を出せば記憶に刻み込んでいるはずなのに、何を言ってたかが思い出せない。

 

 思い出しては、いけない!

 

 警告のようにエリンの頭が思考を無理矢理打ち消した。

 全てを遮るように、顔を伏せた。

 落ち着いたはずの鼓動がまた忙しなく動き始める。ふるふると頭を振れば、記憶の残骸は薄れてゆく。

 

「エリン、まだ辛いか?」

 

 心配するアレクにエリンは首を横に振る。

 

「……いいえ、大丈夫です。少し、混乱して」

 

 恐怖よりも困惑が今のエリンを支配していた。あれは何だったのだろう。ひたすらにそんな疑問が渦巻く。

 エリンの記憶に母とのあんなやり取りは無かったはずだ。夢か、空想か? ……いや、そんなことないと思えてしまう。母の息づかいも、指先の力も、肌に残っている気がした。

 覚えている母は、おっとりとした人だ。あんな……まるで別人のような、妖艶で毒々しい顔をするはずかない。

 黙り込むエリンを、アレクは恐れからくるものだと思ったようだ。また静かに抱きしめてくれる。

 

「あんたが落ち着くまで、このままでいいから」

 

 出陣前ゆえに二人は鎧を装着している。完全に体が密着しているわけではないが、それでも人肌の心地良さは伝わってくる。

 抵抗することなく、エリンはそれを享受する。静かなエリンにアレクは小さく苦笑した。

 

「……あの厳ついおっさんに見つからなきゃいいがな。首根っこ掴まれるだけじゃ、すまなさそうだ」

 

 副隊長のことだろう。あの人はそんな乱暴な真似をしない――と言いかけてエリンはやめる。副隊長ならしかねないと思ってしまったからだ。

 ハイライン戦後、沈むエリンにアレクが会いに来てくれた。さすがに返り血は落としていたが、戦闘後すぐに探してくれた様子だ。煤に汚れた顔が、エリンを見て安堵したような色を浮かべていた。

 一騎打ちの場にもアレクはいた。だから、エリンを気にかけてくれていたのだろう。

 

 ――疲れてないか?

 

 そう聞いてきたアレクに大きな影がかかった。

 

 ――うちのお嬢に何のようだ、若造?

 

 険しい風貌をますます強くして、副隊長はアレクを睨む。筋骨隆々で長身の副隊長が見下ろせば、さすがにアレクもたじろいだ様子だった。

 彼はアレクの噂は何も知らない。だが、発する雰囲気で察したようだ。この男は手慣れている、と。

 そこからはもうアレクの言い訳は通らなかった。何を言おうが、副隊長の態度は和らがない。

 恐らく亡き親友を想っての行動なのだろう。彼の愛娘は自分が守らねければ、そんな決意が副隊長を頑なにさせているのだ。

 そして、今。副隊長が警戒した男にエリンは抱きしめられている。場所は城内でも人気がない通りであり、密会を連想させる。事情を話したとしても、信じてはもらえないだろう。

 副隊長に目撃されないとしても、この状態は不味いであろう。誰に見られてもあらぬ噂が立つに違いない。アレクを見るオイフェの目の温度が、ますます下がる様を安易に想像できた。

 

「ありがとうございます、アレクさん」

 

 体の不調はもう治っているように思える。少しふらつくかも知れないが、一人で歩けるはずだ。

 立ちあがろうとするエリンに、アレクは慌てる。

 

「無理をするな。しっかりと休んでから動いた方がいい」

「もう、大丈夫です。動けます」

「しかしなぁ……」

 

 躊躇うアレク反応を見るに、エリンの顔色は悪いのかも知れない。

 しかし、今は出陣間際。時間が惜しいのだ。ラケシスのために回復杖を持っていかないと。

 遠慮したが、アレクはエリンの体を支えてくれた。冷静さも取り戻したエリンは先ほどのように近い距離は取らず、アレクの手を取る程度だ。立ちながら事情を話せば、アレクはエリンを連れ立って地下室の入り口まで進んでくれた。

 そうして、再び階下を覗き込んでエリンは落胆する。

 

「何も無さそうだな」

 

 アレクの言葉の通り、地下室にあるのは空箱ばかりだ。考えてみればそうだ。前日はハイライン城にとって最後の決戦であったのだ。持てる道具は全て使うだろう。

 しっかりと探せば、杖の一本や二本は見つかるかも知れないが……そんな時間は無い。諦めるしかなさそうだ。

 こんなことでラケシスはエリンに失望はしないだろう。しかし、エリンは落ち込む。役に立てない自分を恥じてしまう。

 目的を果たすどころか、過去の恐怖に囚われてしまったのだ。エリンが目指すべき騎士とは程遠い。

 肩を落とすエリンにアレクは言う。

 

「俺のせいだな。黙って後を付けるような真似をしたから」

 

 どうやらアレクはかなり早い段階からエリンの姿を捉えていたようだ。

 なるほど、足音の響きが妙に大きかった理由はこれか。あれは錯覚ではなく、本当に足音が一個多かったのだ。

 しかし、何故そんなことを?

 疑問がエリンの顔に出たのだろう、彼女の言葉を待たずしてアレクは弁解を始める。

 

「いやいやいや! 違う違う違う! 決してやましい思いからじゃなくてだな!」

 

 よほどエリンの視線に猜疑の色が濃かったのか、それとも後ろめたさを感じたからか、アレクは全力で否定から入った。

 

「……あの後、あんたとしっかり話せなかっただろう。あのおっさ――副隊長殿がずっと目を光らせているし。機会を探してたんだ。そしたら、ちょうどエリンが一人で歩いているところを見かけて」

 

 なるほど、エリンを心配するからこその行動であったらしい。つくづく気遣いの出来る人だ、と彼女は思う。だからこそ、素直にその厚意を受け取った。

 

「ありがとうございます。お気遣い、痛み入ります」

 

 互いに要件は終わったので、これで解散……になるはずだった。エリンを支えるアレクの手は、そのまま添えられている。馴れ馴れしさは無く、ただ寄り添うようにそっと触れているだけだ。

 首を傾げるエリンにアレクは言う。

 

「ここまでの道のり、結構入り組んでるだろ? 格好つかないが、詰所まで送ってもらいたいんだ」

 

 嘘だ――エリンは瞬時に悟る。アレクほどの人なら、迷わず一人で戻れるはずだ。

 だが、彼はあえて道が分からないと言う。それは、エリンが一人にならないように。そしてそれを本人に気付かせないように。

 全てエリンのためを思っての言葉だ。

 

 なるほど、この人はこうやってモテるのか。

 

 優しく気遣いも出来る。軽々しい言動だが、その裏には誠実さがある。顔立ちだって整っているのだ。多くの女性が彼に惹かれるのも無理はない。

 ノディオン城にて、アレクの知り合いが散々彼の女性関係について公言していたのをエリンは理解し、納得した。

 ならば、エリンの返す言葉はこうだ。

 

「……仕方ないですね」

 

 アレクの真意に気付いてないフリをした。

 はたしてそれが、本当に彼の本心なのかも分からずに。

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