アンフォニー城でエリンに与えられた自室は貴賓室――ラケシスの部屋の近くの使用人室だ。貴賓室の煌びやかさは何処へやら、この部屋は質素倹約にまとめられている。飾り気は一切ない。机やベッドはあるが、それがかえって部屋を窮屈にしていた。
硬いベッドの上で、エリンはぼんやりと銀の腕輪を眺めていた。
――あの腕輪、落としてしまったのか?
自室の前で別れる際、フィンにこう問われた。彼の疑問の通り、エリンの左手首には腕輪がなかった。
だが、それは彷徨ううちに失せたわけではない。……あえて身につけてなかっただけだ。
ここ数日、時折襲いくる母の幻覚が原因だ。あれは母では無いと思いたいのに、どうしても否定し切れない。過去の母は嘘の姿で、あれが本性ではないかとすらエリンは思ってしまったのだ。
そう考えたら、常時癒してくれた緑石の輝きは妖しい煌めきに見えてしまう。
母が亡くなった日、これを身代わりと――お守りだと思って絶対に手放さないとエリンは決めた。それなのに……今はこの腕輪を恐ろしく感じている。
だから、今日は机の引き出しに納めていたのだ。しかし、それがよくなかったのかも知れない。お守りを持っていなかったからこそ、自分はラケシスにあんな酷い発言をしてしまったのではないか。
幼いエリンが間違えると優しく叱りつけてくれた母。相手を思いやるようにと、母は苦痛と悲しみに満ちた表情で叱ってくれた。
その教えを、腕輪と一緒に置き去りにしてしまったのかも知れない。
――おい、フィン! 霊じゃなく女の子をナンパしてきたのか? ……って、その子は、ラケシス様のところの……。
フィンと回廊から抜け出した後の話だ。
少女を連れて戻ってきたフィンをからかうつもりだったのだろう、シアルフィ兵は声を弾ませていた。しかし、相手がエリンだと気付くと調子を落とした。
気まずげに顔を見合わせる彼らに、フィンは普段通りの澄まし顔で説明した。
――迷い込んでしまったようでした。それで塞ぎ込まれていたようで……。
細部はぼかされたが、嘘は言ってない。エリンの名誉をフィンが守ってくれたのだろう。彼の機転と気遣いが、ますますエリンのフィンに対する印象を上昇させた。
心は上向きになったとはいえ、エリンの顔は酷いものだ。目は赤く腫れ上がっている。とても人前に晒せるものではない。
――まだ落ち着かれてないようなので、彼女の自室まで送ってきます。
一礼をしたフィンを兵たちはそれ以上追求しなかった。労わるような空気を彼らは発していた。それはフィンではなく、エリンに対してだ。
シグルドとフィリップの一騎打ちを目撃した兵士たちは、あの日以来皆エリンに同情的だ。彼らは大っぴらに――エリンの前では特にその話題を不自然に口に出さない。
義理とはいえ最愛の父親を目の前で撃ち取られた年若い少女。しかも、その仇の軍に主君共々身を寄せている。エリンの内心はともあれ、彼らはその境遇に深い同情の念を抱いていた。
そんな少女が薄暗い回廊の奥で一人泣いていた。……この事実だけで、彼らの良心を深く責め立てるのだろう。
エリンもまた、自覚をした。
最初こそ元ハイラインの人間と見られたためかシグルド軍に居心地の悪さを感じたが、今では風当たりが和らいでいる。
エリンが馴染めたのではない。彼らがエリンに配慮してくれているのだ。
振り返れば、あの時のエヴァの提案にはこんな意図があったのではないかと思う。
シグルド軍が勢揃いする中で、エリンの誠実さとその悲劇性を強調するために。それがエリンの今後の身の振り方が有利に働くだろうと。……恐らくエヴァ本人に直接問いただしてもはぐらかされるだろうが。
誰もがエリンに一歩引く中で、フィンはまっすぐに踏み込んでくれた。
しっかりとエリンの話を聞いてくれた。落ち込む彼女にそれでもはっきりと非があることを教えてくれた。……暗闇の中で手を引いてくれた。
自然とエリンの表情が柔らかなものになる。鏡のない部屋ゆえ、自分がどんな顔をしているのかエリンは気づかない。
腕輪を眺める黒曜の瞳は、柔和な光を放つ。滑らかな頬に、薔薇のような鮮やかな朱が刺している。唇は緩やかにカーブを描く。
それはまさに、春を寿ぐような穏やかな微笑み。
彼女の背には、わずかに開かれた小窓。その前に括られた洗濯紐に、洗ったばかりの白い布が干されていた。小窓から差し込む陽光を帯びた暖かな風が、布を軽やかにはためかせる。まるで鳥の羽音のように。
「……ラケシス様に謝らなくちゃ」
フィンがそうやって教えてくれたのだ。エリンの鈍感さを指摘してくれた。それがラケシスを傷付けたのだと。
軽やかな気持ちで、エリンは腕輪を左手首に通した。慣れた重みが心を落ち着かせる。
エリンの胸で光るのは義父が遺した指輪。
左手首を彩るのは母の遺した腕輪。
その二つを身につければ、心強い気持ちになる。まるで二人がエリンのことを見守ってくれている気すらしてくる。
ベッドから立ち上がった瞬間に扉が外から叩かれた。控えめに叩くこの音に、エリンは心当たりがあった。彼女は慌てて部屋の扉の前まで駆け寄る。
そして、訪問者が名乗る前に扉を開けた。
不用心な出迎えを、来訪者は驚いたようだった。灯火より澄んでいる目を瞬かせている。彼女がエリンの不用心を咎める前にエリンは言った。
「ラケシス様、お会いしたかったです」
口に出して自分でも気付く。泣きそうな声だな、と。
ラケシスはエリンの言葉に戸惑ったようだった。困ったように目を伏せ、そしてまたエリンを見てくれた。
「私も……会いたかったの」
ラケシスを自室に招き入れ、ベッドに座らせる。硬いベッドに彼女を座らせたくはなかったが、この部屋の椅子にクッションはない。ならば、少しでも居心地が良い方へ案内すべきであろうとエリンは判断した。
そして、自分は椅子に座ろうとした時、ラケシスに呼び止められる。
「隣に座っていいのよ」
「いえ、私は…………いいえ、お言葉に甘えます」
一度は断ろうとして取り消したのは、フィンの言葉をエリンが思い出したからだ。
――過度な謙遜は、返って相手への無礼になるものです。
それに信じていたかった。ラケシスがまだエリンのことを見捨ててはいない、と。
隣に腰掛ければ、ベッドはギシリと小さく音立てる。
ラケシスは俯いていた。躊躇っているというよりも、怯えている。そういう風に見て取れた。彼女の言葉を待っても良かったが、エリンは先に口に出した。
「先ほどは申し訳ございませんでした」
「いいえ、違うわ! 悪いのは、私の方よ……」
頭を下げたエリンをラケシスは止めた。
「貴女はただ、私の身を案じてくれただけなのに、私はあんな……突き放すような言い方をしてしまって」
ごめんなさいとラケシスは静かに謝る。目はエリンを見ているが、瞳孔がわずかに揺れている。ちょっとした衝撃で決壊してしまいそうだ。
エリンはそんな弱々しい主の姿に胸を締め付けられる。ラケシスが自分を許してくれた喜びよりも、彼女に悲しい思いを味合わせてしまったという罪悪感で苦しくなる。
「あれは私が悪いのです。ラケシス様のお気持ちを無視して勝手な発言を行いました。……お許しを得るのは、私の方です」
「エリン……」
ラケシスの手がエリンの頬に触れる。その手は以前のような柔らかさがわずかに薄れていた。剣を振るうために皮膚がわずかに固くなっていた。
元々手習いでラケシスは剣を握ることはあった。が、それでも彼女の手は姫君の手であった。
それが失われてゆくことにエリンは悲しさを覚えた。
自分が未熟でなければ、彼女の手は柔らかなままであったはずなのに。
そして同時に恨む。ラケシスに剣を取る選択肢を選ばせた男――ベオウルフのことを。
ラケシスはエリンと関係修復出来たことに安堵したようだ。肩の力を抜いて、表情に明るさを取り戻している。
「本当にごめんなさい、エリン。あなたと仲直りが出来て本当に良かった」
「……私もです、ラケシス様」
喜びから涙ぐんだエリンに向かい、ラケシスは言った。
「ベオウルフに相談して叱られたの。エリンの気持ちも考えるべきだって」
瞬間、エリンの中で何がひび割れる音がした。静止した彼女に気付かず、ラケシスはクスクスと囀りのように笑う。
「お前の立場を案じてくれているんだって……。私、彼にそう言われるまで気付かなかったの。私が我儘を言うことで、エリンの立場が苦しくなってしまうってことに」
違う。
今だ。
今、エリンを苦しめているのは、ラケシスの微笑みだ。
エリンはそれを言えない。いや、口にできない。だってラケシスはとても嬉しそうで、幸せそうに笑うのだ。
ベオウルフの言葉を思い出しながら。
「エリンが咎められる結果になるって。そうよね。私はそんなの、嫌だわ。だって……あなたのこと、とても大切だもの」
愛の告白のように、ラケシスは頬染めてエリンに話してくれる。――だが、エリンは見えない壁で遮られたかのように、彼女の声が遠くに聞こえている。
「ベオウルフに感謝しなくてはいけないわね。私がエリンに甘えていたってことを指摘してくれて……仲直りするように勧めてくれたんですもの」
エリンだって、フィンにそうされた。だが、それは成り行きだ。フィンが強引にエリンから聞き出したから相談に乗ってくれただけだ。
でも、ラケシスは違う。
ラケシスは自分からベオウルフを訪ね、自分から相談に乗ってもらったのだ。
彼女が頼ったのはエリンでは無い。喧嘩の相手だから当たり前なのだが、それでもエリンは許せなかった。
他の誰でも無い、よりにもよってあの男に、ラケシスはその弱さを曝け出したのだ。
ベオウルフを褒める彼女の顔は、何と言うことだ。黄金より柔らかい色を放つ瞳を熱っぽく潤ませ、白磁の頬は薔薇の色に染まる。柔らかな唇は熟れた果実のように紅く、笑みの形をとる。喜びに微笑むその姿は、恋に堕ちた乙女でしかなかった。
あの男は、ベオウルフは、エリンから全てを取り上げるつもりなのか。
ラケシスの信頼も――その恋心までもを!
沈黙するエリンを疑問に思ったのだろう、ラケシスは首を傾げた。
「どうしたの、エリン?」
その眼差しは以前と変わらない。友愛の感情がこもっている。エリンが望んだように、願ったように、ラケシスはまたエリンがそばにいるよう許してくれた。
だが、エリンは――。
「何でも無いですよ、ラケシス様……」
エリンがラケシスの気持ちを否定してたというのなら、ラケシスだってエリンの気持ちを否定してるのだ。
◆ ◆ ◆
そして、現在。
エリンの前で、ラケシスはベオウルフを頼っている。彼の有能さをエリンに同意させようという真似までする。
二人の仲を取り持ったことで、ベオウルフは完全にラケシスの信頼を勝ち得たようだ。事情により彼女の傍を離れている三つ子騎士の代わりにラケシスの護衛として選ばれた。
エリンも当然、ラケシスの元に配置されたが護衛役とは言えないだろう。むしろエリンの護衛役として副隊長ら数名のフィリップ隊がこの村に配属されている。最初からベオウルフとは勝負にならない。
僻むエリンの目には、二人のやり取りの全てが気に食わない。
ラケシスが、ベオウルフに囁く声音は甘く、その顔は花咲かんばかりに朗らかで、全身で彼を好いているのだと発している。
ベオウルフはそれを拒否することなく、甘んじて受け入れる。自らの知識をひけらかし、ラケシスを誑かす。
それが視界に入るたびに、エリンの中でゾワゾワとした不快感が溢れる。
何とかしてベオウルフをラケシスから引き離そうと企んだが、無駄に終わった。
人手不足を理由にベオウルフを他の村へと移動させようとしたのだ。しかし、拙い悪巧みは仇となった。逆にラケシスのにベオウルフの魅力を見せつける結果となった。
歯軋りしたくなるのを堪えて、エリンは尚も悪あがきをする。
人員を勝手に送り込むのは迷惑だと却下されたが、それでもと喰らいつく。
「村の復興が早ければ早いほど良いのでは? 復旧が遅れているところに少しでも人を回すべきです。戦準備も早められると思います」
それは建前だ。自分でも無理があると分かっていたが、何か言わずにはいられなかった。
休戦中にあからさまに軍事準備をしだしたら、それこそ不穏の種となる。そんな当たり前のことすら、今のエリンには気付かない。
ベオウルフは鼻で笑う。
「確かに、そうだ――理想の上ではな。だがな、急拵えの作業で村人の安全は保証出来るか? 迅速だけを掲げて、その屋根は脆く崩れないと保証できるのか? 賢い嬢ちゃんなら、考えなくても分かるだろ」
ベオウルフは腰を折り、エリンの耳元へと顔寄せる。その近さに嫌悪感が湧き立ち、エリンは一歩下がる。
わざわざラケシスの目が二人から逸れている時に接近してくる。この男のいやらしさが嫌いだ。
あからさまな拒絶など意に返さず、彼は声を潜めて言った。
「今はいいが、シグルド様の情勢が不利になった時、村の連中はどう考える? そうなりゃ、奴らは思うだろうよ。『俺たちを見捨てて戦争か』ってな」
「それは……」
否定しきれない。
現在はシグルドが救世の人と受け取られている。彼の名声はアグストリアの領民の支持もあるが、何よりも勝ち馬に乗っているからという部分もあるだろう。
ならば、一転してシグルドの勢いが堕ちたらどうなるか。
やはり余所者では自分たちを救ってはくれない。
昨日まで救世主と持ち上げていたその口で、今日は「やっぱり侵略者であった」と罵る。
多数の意見に流される人間も多い。批判が大部分となればそれに乗る。手のひらを返す人々も出てくるはずだ。
口実を与えるなとベオウルフは言いたいのだ。エリンも理解している。が、それはそれとしてベオウルフの言う通りに動くのは癪に障る。
最後の悪あがきをエリンは口にした。
「……復興部隊の指揮を任されているのはキュアン様です。なので、進言に行ってきます」
「どうしてそんなことを言うの、エリン……!」
声を荒げるラケシス。彼女の目はいつの間にかエリン達へと向けられていた。
ベオウルフはとっくにエリンの傍から離れている。本当に抜け目のない男だ。肩をすくめる、その動作が似合うだけに腹正しい。
彼がエリンを挑発したなどと、ラケシスは思ってもいないのだろう。彼女は一方的にエリンを宥めた。
「私たちは、私たちに任された村を助けましょう。復興は建物修理だけではないのよ。被害にあられた方々へ寄り添うことも必要なの」
ラケシスに言われなくとも、エリンには分かっている。
正しいのは間違いなくベオウルフだろう。彼の意見は、傭兵を生業とした経験と知識によって裏打ちされている。未熟で経験不足なエリンなんか叶うはずもない。
だからこそ、ラケシスは彼の意見に賛同している。
知っているのだ。理解しているのだ。
――それでも、エリンは受け入れられない。
「……後々の指示も仰ぎに行きます。もしかしたら、状況が変わっているかも知れません」
「エリン、だから――」
「失礼します!」
ラケシスの声を振り切り、エリンは駆け出す。もうこれ以上ベオウルフの顔を見たくはなかった。いや、彼を頼るラケシスの姿を見たくはなかったのだ。
胸が痛くて痛くてたまらない。悔しくて悔しくて頭がぐらぐらする。
副隊長やフィリップ隊の兵たちがそばにいなかったのは幸いだった。彼らなら間違いなくエリンを追うことなく捕まえられる。
あの二人だからこそ、エリンを追ってこられない――追ってきてくれないのだ。
背後からまだエリンを呼ぶ声が聞こえる。それは叫びに近かった。声を張り上げるラケシスの姿を想像してしまって、エリンの視界が歪む。
いったい自分は何をしているのだろう。
誰よりも守りたい人を悲しませてまで、意地を張る必要なんか無いのに。
ああ、あの時。自分はアンフォニー城の攻撃部隊に加われば良かったのだ。そうすれば堂々とベオウルフを敵にできた。
ラケシスが彼と出会う前に切り捨てることができたのだ。――エリンの実力では返り討ちになるだろうに。それを自覚してなお、エリンはベオウルフを憎んだ。
込み上げる苦味に似た負の感情を、怒号にして叫びたくなる。
(あの方は私の……私だけの『おひめさま』なのに!)
日が高く登る空を背に、エリンはひたすら駆けて行った。