5-1 フィンは悪くないんです!
怒り任せに飛び出したが、やがてエリンの足が止まる。
両膝に両手をつき、咳き込むように呼吸を繰り返す。感情が湧き立っているから息継ぎも上手く出来ない。
乾いた地面にポツポツと水滴が落ちる。汗だけでなく、涙も含まれていた。それらを拭うことなく、エリンは肩で呼吸を繰り返す。
風の冷たさがエリンの消耗をわずかばかりに和らげる。普段と変わらず、静かに靡いて草木を揺らす。さわさわと梢の音が奏でられるが、エリンの心の癒しまでにはならない。
体も、心も……全てが苦しい。声を荒げて泣けたのなら幾分か楽になれたかも知れない。
だが、苦しくてもいいとも思ってしまう。この辛さが、苦しさが、全てエリンへの罰なのだと。ラケシスを愛しながら、彼女を傷付ける振る舞いしか出来ない自分に対しての。
「……馬鹿、みたい」
あれほどフィンに諭されたのに、今の自分はこうだ。きっと呆れられるだろう。
そう思ったらさらに胸が苦しくなった。
屈んだエリンの目の前で、義父の指輪が鎖に絡まり揺れていた。
指輪に嵌め込まれた若葉色に光る宝石。……当主の指輪を煌めかせ、臙脂色のマントを翻し、重騎士鎧を着込んだ義父が好きだった。
エリンには重くて持てない長槍を軽々と振り回し、守護の要として立つ義父の姿に憧れていた。
騎士を目指すならば、義父のようになりたいとエリンは願っていた。――それなのになんだ、この為体は。
背中から照らす太陽が、エリンの影を地面にくっきりと落とす。影はまるで彼女を飲み込まんとばかりに遠くまで伸びる。
――お前は何者にもなれない、ただの小娘。
不意に蘇るあの女の声。母に似た幻影がエリンの背後から両肩を掴む。そしてエリンの耳元で囁くのだ。……呪詛の言葉を。
首を振り、エリンはそれを払おうとする。
「違う……私のお母さんじゃない」
エリンにその言葉を言わせてくれたのは義父の指輪だ。目の前で揺れる、家宝の指輪。
指輪の宝石はフィリップの姿を――エリンと母を包み込んでくれた義父の顔を連想させるのだ。一年にも満たない短い日々であったが、三人で過ごした日々は尊く懐かしい。
そうだ、あの時の母が本物なのだ。優しくて弱々しい、守ってあげたいお母さん。
あんな……恐ろしい魔女なんかじゃ、ない。
そう強く念じれば、幻聴は消えていた。エリンの耳に聞こえるのは、空高く舞う大鳥の鳴き声だけ。遠くから響くその声が、広々とした青空へと消えてゆく。
腰を起こし、後ろを振り返る。
飛び出した村の姿はもう見えない。しかし、目的地もまだ遠い。復興隊司令官のキュアンが担当するのは、アンフォニー城近くの開拓村。城近い村は一番に盗賊の被害を受けた。そのため、人員を多く割かれている。
かなりの距離をまだまだ歩かなければならない。老馬に乗ってくれば良かったと少しだけ後悔した。しかし、元の村へと戻る気にはなれない。
「申し訳ございません、ラケシス様……」
聞く者のいない謝罪の言葉は、澄んだ青空に消えてゆく。エリンの心中とは裏腹に太陽は煌めき、梢を照らす。穏やかな風が緑葉を揺らし、のどかな昼下がりを表現している。
楽しげな小鳥の囀りを耳にし、エリンの中で罪悪感が膨れ上がってゆく。
いくらベオウルフが気に入らないからと言ってラケシスにまで強く当たるのは良くない。分かっているのに、どうしても理性を保つことが出来ない。
フィンがあれほどまで真剣に助言をしてくれたのに、エリンはその厚意を無駄にしたといえる。
それでも、ラケシスがベオウルフに声をかけることが、笑顔を向けることが、手を差し伸ばすことが――全てのことが許せない。
だってそれは、自分が向けられたかったものだ。エリン一人だけに向けて欲しかったものだ。
子供のような独占欲。
義父が今の自分を見たらきっと叱るだろう。いや、叱って欲しい。
騎士を志すなら己の律することが大事だと。
その鎧の色に誓ったのだろう、ラケシス姫を御守りするのだと。
そう――諭して欲しい。
「お義父さん……」
鳥の声が止んだように感じられた。ほんの一瞬、世界が静まった。
義父の形見の指輪を、縋るように左手の中指に通す。冷たい銀製の重み。エリンの細指には大きすぎた。
装飾用の鎖を通してなお、その幅が余る。
指輪を見つめれば、その先の手首にある母の形見の腕輪も視界に入る。
この腕輪を、母はとても大切にしていた。最期の眠りにつくまで、肌身離さずに。
一度だけ、幼いエリンがこの腕輪をねだったことがあった。娘の望みなら、可能であれば何でも叶えてくれる母があからさまに渋ったのだ。
――ごめんなさい、エリン。
哀しそうに笑う母を見るのが辛くて、その日以降、エリンは腕輪を欲しがるのをやめた。
時折哀愁漂う目で、母はこの腕輪を眺めていた。布団に入って寝たふりをしながら、エリンは想像した。
あの腕輪は母の大切な人からの贈り物なのかも知れない。
揺れる蝋燭の灯りの中で、一人考え込む母は切なげにため息を吐くことが多かった。腕輪を撫でて、何かに耐えるように震えていた。
母の死後、一緒に埋葬してあげたかったが、出来なかった。母の望んだ方法では、それは叶わなかった。
……ああ、そうだ。母の命日はもう間近に迫っていた。義父と約束したのに、もう一緒に行くことは出来ない。
いつまでも子供のような振る舞いは、やめなければならない。もうエリンを守ってくれる両親はいないのだ。
呼吸を整え、冷静さを取り戻すよう心がける。
とはいえ、今更ラケシスの元へと戻るのは難しい。距離的な意味合いでなく、精神的にだ。あのような無礼な振る舞いをして舞い戻るのは流石に自分が許せない。ならば、己の発言の通りにキュアンへ謁見を求めるしかない。
しかし、それは問題がある。
エリンは独断で出立した。ラケシスからの遣いという理由も使えない。
それに気まずいのはそれだけではない。
キュアンは盗賊討伐の際にエリンが勝手な行動を起こしたことを知っている。ラケシスは黙っていたのだが、アルヴァが報告したのだ。レヴィンとシルヴィアを助けようとしたという名目はあるが、軍令違反には違いない。
今後は気をつけるよう、注意を受けた。それなのに日も置かずに、またやってしまった。
自分の愚かさが、今更になって腹正しくなる。
道すがら名案が浮かばないかと、再び歩き出す。一歩、また一歩と進んでも何も思い浮かばない。
「…………あ」
そして気付いた。
キュアンの元へ行く、それがどういうことに繋がるか。
瞬間、エリンの頭の熱が一気に下がった。冷気が肌を撫でるように、背筋を寒さが這い上がった。
やはり戻るか……? いや、しかし。
心が何度も揺れて、足はその場を行ったり来たりする。
途方に暮れかけたエリンの前方から荷馬車がやって来た。それに付き添うように少数の騎士が馬を歩かせている。
その中の一騎――彼を見つけてしまった。
エリンの心臓が大きく跳ね上がった。慌てて周囲を確認して、身を隠す場所を探す。……が、無理だ。開拓村は森林に囲まれた場所なのだが、現在地は開けた原っぱにすぎない。離れた場所に木々はあるのだが、そこまで移動している間に発見されてしまう。
そうでなくとも、エリンの目からその姿を捉えられたのだ。向こうも同じはずだろう。
冷や汗をかきながら、それでも逃げ場を探すエリンの耳に、一騎の蹄の音が近づいてきた。その速さは、明らかに彼女の存在を見つけてのものだ。
恐る恐ると、エリンはそちらへと顔を向ける。
今は一番会いたくなかった、その人。
「……エリン!」
フィンが血相を変えて、馬を走らせて来た。
途端にエリンの体中から汗が湧き出した。灼熱の中に放り込まれたように、全身が焼けつく。
先ほどまでの全ての悩みが一気に吹っ飛ぶ。指や手首に通した装飾品の冷たさも消え失せた。
この場から消え失せたいとまで思った。義父の指輪の力を使えば、その願いは叶うだろう。だが、それは出来ない。逃げるような真似をすれば、フィンもエリンのことを見損なってしまう。
そんなふうに思われるのは、何よりも嫌だった。
すでにフィンはエリンの間近にまで来ていた。馬の蹄が土を叩く音がすぐそばまで迫る。目を閉じたくなる衝動を、なんとか堪えた。
硬直するエリンのそばで馬を止め、フィンはすぐさまに馬から降りた。彼はエリンに駆け寄ると、怒ったような表情で問いかける。
「どうして、一人でこんなところにいるんだ」
それは心配からくる怒りだったのだろう。声音に焦りの色が混じっている。
エリンはすぐには答えられない。彼に嘘は言えない。言いたくない。だからと言って真実も話しづらい。
口をつぐむエリンに、フィンはため息を吐いた。その息の重さにエリンの体がビクリと震えた。
失望された。
彼の態度をそう受け取ったエリンは顔を地面に向ける。
この人を裏切ってしまった。そう思えば、胸が締め付けられるように痛む。
「……ごめんなさい」
囁くように出た謝罪の言葉は、フィンの耳に正確に届いたらしい。
「……ラケシス様やハイライン兵の方々が、君を気にかける理由がよく分かったよ」
そんな独り言がエリンの耳に届く。
知らぬ間に、義父の指輪は外れていた。指輪は鎖に吊られてエリンの胸元で揺れている。
後悔の波に耐えようと伸ばされた彼女の右手は、母の腕輪にしがみつくように添えられている。
フィンが、また少しエリンに近寄った。その接近が、怖いと彼女は思う。
一歩、また一歩と距離が縮まるたびに不安が募る。ただでさえ胸が締め付けられていたのに、彼が近づくたびに息苦しさが増していくようだった。
次に発せられるフィンの言葉を聞きたくない――その思いが、心の奥底からじわりと滲み出す。彼が咎める理由はいくらでもある。エリンのことを見放す理由だって、もうできているはずだ。
指先が震える。目を固く閉じて、エリンはフィンを待ち受けた。
彼は何も話さない。
エリンには見えないが、フィンもまた悩んでいる様子だ。眉根を寄せている顔は一見怒っているようにも見える。だが、また別の感情が彼を困らせている。右手を口元に添えたまま、しばらく何も言わなかった。口を開きかけては閉じ、それを繰り返して沈黙が続く。
平行線の二人を遮ったのは、シアルフィ兵の一人だった。
「おい、フィン。あまり女の子をいじめるなよ」
からかうような口調だが、その目は真剣だった。
上目遣いで彼の顔を見て、エリンはその人が誰かに気付く。先日アンフォニー城で出会った兵士だ。幽霊騒動で騒いでいた一人だった。
エリンに同情的な声をかけたのは、そういった理由だからだろう。
いつの間にか荷馬車もエリン達の傍までやって来ていたのだ。シアルフィ兵がその御者台に座り、手綱を引いていた。
荷馬車の隣で馬に跨るノディオン騎士の姿を視界に入れて、またエリンの全身は凍りついた。
ノディオン騎士の中で、一番有名な三つ子。彼らの外見は、同じ人物が分裂したのかと疑うほどに似通っている。
額を出して整えられた赤銅色の髪は、三人とも共通する髪型。黒い軍服を隙なく着こむのは、彼らの几帳面な性格を反映しているようにも見えた。
同じ涼しげな目元と、同じ癖のない顔立ち。口を開けば、それぞれの特徴は出る。しかし、黙られると彼らを見分ける難易度が跳ね上がる。
ただひとつの識別法は、三人が羽織るマントの色だけ。
今、目の前で馬に乗る彼が纏うのは鮮やかな黄色。この色を持つのは――アルヴァだった。
エリンの中で気まずさによる苦味がますます広がる。
彼は黙っていた。けれど、その赤銅色の目が雄弁に語っている。お前、またやったのか、と。
いよいよと滝のように汗を流すエリン。悪行が白日にされた罪人のように。今の彼女は断罪を待つ心地だ。
それをシアルフィ兵は別の解釈をしたようだ。
「駄目だろう、フィン。この子には、優しくしてやらなければ」
「いえ、私は…………そうですね」
あっさりと自分の咎だとフィンは認めたのだ。驚きからエリンは顔を上げる。
フィンはエリンに背を向けていて、その表情は分からない。声で感情を探ろうとしても、彼は普段のような硬い声音だ。それがエリンには辛かった。
「違います! フィンは悪くないんです!」
彼の無罪をエリンは必死に訴える。
親しくない相手に向けて、己の未熟な声を聴かせたくはない。かつてエリオットたちに傷付けられた尊厳は、未だ癒されてはいない。
それでも、親しい人を庇いたいという気持ちが優った。
「私が勝手な行動をしたから……私のことを、叱ってくれたんです……」
「エリンちゃんは、そうは言うがなぁ……。どう思います、アルヴァさん?」
シアルフィ兵がエリンの名を呼んだことに、思わず目を見開く。エリンの方は彼の名前も知らない。
それほどにまで、シアルフィ兵たちの記憶にあの一騎打ちの場面が刻み込まれていたのだろう。
だが、アルヴァに話を振るのをやめて欲しかった。
彼は三つ子の中で一番武人らしい性格をしている。武を極め、冷静さを常に湛える。己に厳しいが、他人にも厳しい。
はっきり言って、エリンは彼が三つ子の中で一番苦手であった。
「私は、フィン殿の対応が間違いとは思わないが?」