女性が移動している間に、アルヴァがフィンの元へと馬を寄らせた。彼の前で馬から降りる。
「フィン殿、頼みがある」
その声は、わずかに顰められていた。あの女性が聞き耳を立てないように用心したのだろう。
「エリンをキュアン様の元へと連れて行ってくれ」
「……構いませんが、よろしいのでしょうか?」
「軍令違反者だ。報告する必要がある。……それにだ」
アルヴァがエリンをチラリと見た。彼の表情は変わらない。だが、どことなく赤銅の瞳が揺らいでいた。
「元の場所に戻せば、また諍いを招くだけだ。今のエリンは、姫様の傍に置いておくには危うすぎる。……頭を冷やさせてやれ」
厳しい言葉の裏に、エリンへの気遣いが読み取れた。それをエリンに悟られたのを気付いたのか、アルヴァの表情は再び険しいものへと変わる。まるで、あえて鬼の役を買って出るかのように。
アルヴァは真っ直ぐにエリンを見つめた。
「エリン。先ほどの怒りが本心から来るものだと言うのなら、これ以降は感情に流されるな」
集団行動を行うのなら個の我儘は自分で宥めるべきだ。たった一人の独断で、統率は乱れる。
それが戦闘であれば、自分の命を失う。それだけなら、まだいい。ただの自業自得で済む。しかし、災厄のように周囲を巻き込む可能性も高いのだ。
「心を殺せとまでは言わん。姫様の剣になると誓ったのならば、子供であることは捨て去るべきだ」
――でなけば、傷付くのはエリンだ。
そこまではアルヴァは語らなかった。しかし、エリンにはよく伝わってきた。
一礼をして、アルヴァは再び馬に乗る。
「物資を配送次第、姫には私から伝えておく。だから、フィン殿。エリンを頼んだ」
「……分かりました。必ず、キュアン様の元へと送り届けるとお約束いたします」
フィンの返事に満足したのか、アルヴァは手綱を振るった。荷馬車も再び車輪を回しだす。
車輪の音を残して、荷馬車は静かに遠ざかっていった。
彼らを見送ると、フィンはエリンを見た。
「エリン、君の馬は何処にいる?」
まさか本当にアルヴァの言う通り、エリンが徒歩でここまで来たとはフィンは思っていなかったのだろう。
エリンの馬が老齢なのを、彼は知っている。だから、具合を悪くして休ませているのか――そう考えたらしい。
気まずさからエリンは顔を伏せた。今日だけで感情の高落下が激しい。彼女の頬は再び羞恥により熱を持った。
「……馬は……乗ってきて、ないです」
意図せず敬語に戻ってしまった。声も縮こまっている。耳を澄ませなければ、風にかき消されてしまいそうだ。
フィンがしばらく考え込む。やがて何かを思い付いたのか、その耳が、ほんのりと赤くなった。
エリンがそれに気づく前に、フィンは自分の馬へと乗った。馬のいななきと共に、彼は言った。
「おいで、エリン」
馬上からフィンは手を差し伸べる。太陽を背にして、見下ろす彼の姿に何故だかエリンの鼓動が大きく跳ねた。その感覚が、どうしてだか怖い。
未知の恐れを抱いて、エリンは首を横に振る。
「……だ、大丈夫だよ」
易々と手を取ることが出来ず、エリンはフィンから目を逸らす。
どうしようもなく体が熱い。まるで、熱でもあるみたいに。それを彼には知られたくなかった。
フィンの馬に二人で乗る。それは彼の腕の中に入るということだ。――さすがに、無理だ。心の準備ができていない。
「乗せてもらわなくても……私、走れるから……」
「馬と並走なんて出来るはずないだろう」
至極真っ当な指摘にエリンは黙り込む。それでも何とか穏便にフィンの提案を断ろうと思案する。
しかし、何も浮かばない。普段から喋り慣れてないからだろうか。うまい切り返しが出てこない。
口籠って頭を振るエリンを見て、フィンは彼女の心配が別の理由であると判断した。
「大丈夫だ。君を振り落とすことはしない。だから、安心して」
違う。
全然違う、そうじゃない。
フィンはエリンを慮ってくれている。だが、彼女が躊躇ってるのはそれではない。
理解して欲しいとまでは言わないが、少しでもいいから察して欲しい。そんなことを考えて、またエリンは自己嫌悪に襲われる。
先ほどアルヴァに、感情に流されるなと叱責されたばかりだ。子供であることを止めろと言われた。
それなのにまたすぐに同じことを繰り返す。己を律せねばならないのに。
我儘は控えるべきだ。それに察して欲しいだなんて、なんて傲慢な考えだ。フィンはエリンの家族でも恋人でも無いのに。
(恋人?)
瞬間、エリンの体温が一気に上昇した。元々籠っていた熱が、沸騰する勢いで湧き上がったのだ。熱が胸の内からあふれ、頬へ、指先へと押し寄せてくる。鼓動はいよいよ破裂しそうなほどに忙しなく動き、寒くも無いのに手が震える。
かつて味わったことのない感覚にエリンはひたすらに困惑した。
なぜ、こんなにも体の内が変化するのか。
なぜ、こんなにも息苦しいのか。
なぜ、――こんなにも、フィンの手を取るのが怖いのか。
答えは浮かばない。己のことなのに、何一つ理解できない。
俯いたままのエリンに、フィンはもう一度声をかけてくれる。
「エリン、大丈夫だ。……信じてくれ」
乞うような声音。その中に滲む、不安の色。
彼にそんな声を出させてしまったことに、エリンは後悔した。どうしてだろう、フィンよりも自分の方が、悲しみを抱えてしまう。
確かに、このまま滞在し続けるのは良くない。たとえフィンがいるとはいえ、見習い二人では対処できない危険が襲ってくる可能性もある。
エリンは大きく深呼吸を繰り返す。
(大丈夫、大丈夫……。きっと緊張してるだけ)
誰かと共に馬に乗るのは初めてではない。幼い頃、義父や副隊長にたびたび乗せてもらった。
それでも、あまり親しくない相手と相乗りするのは初めてだ。きっと、この躊躇いはそこから来ているのだろう。エリンはそう結論づけた。
決意を胸に、顔を上げる。
「……よろしくね、フィン」
強張った声が、彼女の思い込みを後押ししてくれる。少なくともエリンは、そう感じた。
フィンへと手を伸ばす。指先が触れる。その手の硬さに、エリンは思わず肩をすくめた。
彼の手は、エリンのものより少し大きい。そして、鍛錬によって磨かれた皮膚の硬さがあった。骨ばった感触は、自分の手とはまるで異なる。
この手は、フィンの努力の証なのだ。
エリンの手を掴むと、フィンは彼女を馬上へと引き上げた。ほんの少しの粗雑さはあったが、それは彼の不慣れゆえのものであろう。腕の痛みよりも、己の背後に密着する体温にエリンは体を硬直させた。
「行くよ」
そう言ってフィンはエリンを腕の中に入れたまま、手綱を振るう。栗毛の馬は一度大きく前脚を上げると、その勢いを持って駆け出す。
馬足は速い。フィンの馬が、エリンの馬よりも若いからであろう。騎手への気遣いが控えめだ。
揺れ動くエリンの体を落とさないよう、フィンの左腕がエリンの腰へと回される。
エリンが身につけているのは、全身鎧ではなく、胸甲に近い。回避に特化するために重さを捨てた鎧だ。腰回りまでは装着されていない。
だからこそ、フィンの腕の温もりが、感触が服越しに伝わってしまう。
隙間なく密着した状態。フィンの息がエリンの耳元へとかかる。くすぐったさと恥ずかしさで、エリンは声が漏れないようしっかりと唇を噛み締める。
レンスターの騎士は、シアルフィやアグスノリアのように厳つい甲冑を身につける者は少ないようだ。少なくともキュアンとフィンはそうである。キュアンの妻エスリンもそのような動きやすい身なりの服装であるから、恐らくエリンの推測は正しいのだろう。
しかし、服の下には鎖帷子を着ているらしく、その金属の硬さが鎧越しに伝わってくる。それでも、これほどまでに体を近づければ、フィンの体格が分かる。……分かってしまう。
細身に見える彼だが、鍛えられた筋肉がしっかりと付いていた。その弾力のある硬さにエリンは羨ましさを覚えた。
思春を迎え、エリンの身体はどんどん丸みを帯びてゆく。勿論、鍛錬により身についた筋肉はあるがフィンと比べれば柔い。
身長だって、護るべきラケシスよりも低い。顔立ちもあどけなさが残る。かつて麦藁のようだとエリオットらに揶揄われた金髪は、鍛錬のために肩口で切り揃えられている。髪型と顔つき、そして体躯が合わさって、エリンを年齢よりも幼く映す。
でも、きっとこれから自分だって大きくなる。逞しくなるはず。
そう願って剣を振るってきた。それなのにどれだけ鍛えても――悔しいが、あのベオウルフには敵わない気がしてならなかった。
(ずるいな)
高い身長。がっしりとした逞しい体躯。歴戦の経験による知識。達観したような冷静さ。大人の余裕が漂う色気ある振る舞い。
どれもエリンには持ち合わせていないものだ。
せめてラケシスより年長であったのならば、と思う。
背の高さだけでもラケシスを上回っていれば、今よりも頼りにされたかも知れない。
一人で戦っても心配されることなぞなかったかも知れない。……エリンの言葉を受け入れて、ベオウルフを警戒してくれたかも知れない。
思考は沈みがちになり、だんだんと苦しくなってくる。涙は出なかったが、目元が潤む。込み上げる熱を逃がそうと、エリンは吐息を漏らした。
疾走する風景を堪能する気力もなく、エリンは手綱を握るフィンの手を見ていた。不意に、その手が大きく動いた。
栗毛の馬は騎手の意向を読み取り、道を駆ける。進むべき分かれ道とは違う方角へと。
「え……あれ? フィン」
道が違うと指摘しようとしてエリンは振り返る。……振り返るべきではなかった。
フィンの顔がすぐ背後にある。耳にかすかな息が触れるほどの距離だ。その状態で振り返れば――。
「ごめんなさい!」
「ごめん!」
顔を戻すと同時に謝罪の言葉が両者から上がる。
互いの鼻先が触れたような気がしたのだ。――いや、きっと気のせい。だってすぐに振り返る顔を戻したのだから。
悲しいのか、恥ずかしいのか。目まぐるしく移ろう気持ちに、ただ疲れてしまう。
フィンも何も言ってくれない。ただ、エリンの腰を回す手が、ほんの少しだけ力がこもっていた。
やがて、馬足が止まる。小高い丘の上だ。わずかな木々が生えており、穏やかな風が梢を揺らす。
背中を丸めるエリンにフィンがすまなさそうに声をかけた。
「少し、休息を取ろうと思って……。ごめん、先に言うべきだった」
どうやらフィンも少し距離を取ってくれたようだ。エリンの耳に彼の息が届かない。
エリンの返事も聞く前に、フィンは馬から降りる。背中が軽くなり、風通しがよくなる。それが少し寂しいと思ってしまった。
「エリン、降りて」
フィンがまた手を差し伸ばす。その表情はいつもにも増して真剣なものだ。よくよく見やれば彼の頬に赤みが差しているのだが、エリンには気付かない。それどころではないのだ。
鎮まったはずの熱がまたぶり返してきた。額に汗が浮かぶ。
胸の高鳴りを誤魔化しながら、エリンはフィンへと手を伸ばす。一度彼の手を取った。だからもう慣れたもの、そう思い込んで。
それが良くなかった。
ぐらりと体が傾いた、と思った瞬間にはエリンは馬から落ちていた。
小さな悲鳴。続いて、ドサリと鈍い音。
土にぶつかる衝撃を予測していたが、エリンが味わったのは全く違う感触だった。この弾力を、硬さを、暖かさを、エリンは知っている。ついさっきまで背中で感じていた。
「ご……ごめんなさい!」
叫ぶ勢いでエリンは本日何度目かの謝罪の声を上げる。謝罪相手も同じ人物だ。
「すぐに! 離れるから! フィン、ごめんなさい!」
フィンを下敷きにする状態でエリンは落下の痛みを避けられた。ならば、フィンはどうだ。
背後からの転倒。しかも鎧を着たエリンを支える形で。
いくらフィンが鍛えていても、耐えられるものではないだろう。地面に草が青々と茂っていたのは、幸いだったかもしれない。フィンの衝撃を少しでも衝撃が和らいでいれば、と願った。
エリンが上から退いても、フィンは動かない。もしや打ちどころが……とエリンが青ざめていると、フィンの肩が揺れ出した。
ゆっくりと右手を口元に添えて、大きく笑い出した。心底可笑しそうに。
「フィ……フィン?」
戸惑うエリンに、フィンは笑いを混えた声で言った。
「慎重そうに振る舞うのに、結構そそっかしいな、エリンは」
そしてまた笑う。声を立てて。
この人はこんな風に笑えるのかと、エリンが驚くほどに。……失礼なことを言われた気がしたが、先に無礼を働いた手前がある。目を瞑るしかない。