フィンはゆっくりと上半身を起こす。そして、エリンを見た。
「エリンも座ったほうがいい。少し、落ち着こう」
まだ可笑しさが残っているのか、その表情は晴れ晴れとした笑みを湛えている。
普段の取り繕った顔は何処へやら、今の彼は年相応の青年にしか見えない。どこか気安い空気を発している。
それを幻滅と取らず、好ましいとエリンは思ってしまった。
エリンが身悶えしていると、フィンは腰のポーチから皮袋を取り出す。簡易式の水筒だ。
「ほら、これを飲んで。エリンのことだから、水分補給もしてないだろう?」
兵たちに支給された皮袋。その中身は水――そして、貴重な果実である檸檬の輪切りが漬け込まれていた。
アンフォニー城の宝物庫には、芸術品だけでなく、かつての主が私腹を肥やすためにため込んだ高級食材も数多く残されていた。檸檬もそのひとつである。
檸檬の酸味は体調の回復を促し、また水の腐敗を防ぐ効果もあるとされる。 それを輪切りにして配せば、一袋の水でも格別の味となる。だが、本来は末端の兵にまで届くような代物ではない。
それらは今、行軍で疲弊した兵たちのため、シグルドの命で惜しみなく振る舞われている。しかも、全ての兵に行き渡るだけでなく、おかわりがあるほど用意されているのだ。
当然エリンにも支給された。――されたのだが、彼女は馬と共に、皮袋を村に置き去りにしていた。
弁解するならば、復興作業中の一時的な荷物置き場に、副隊長らの分とまとめていただけで、決して忘れていたわけではない。 ……が、今となっては言い訳にしか聞こえない。気まずさからエリンは視線を泳がせる。
「だ、大丈夫だよ。それ、フィンのだから」
「キュアン様のところでまた汲んでもらうさ。気にしなくていい。……やっぱり、忘れてきたんだ?」
「ち、違うの! 忘れたんじゃなくて、置いてきただけ!」
「わかった、信じるよ。だから、これはエリンが飲んで」
(フィンってば、絶対信じてない!)
頬をふくらませるエリンに、フィンはまた笑った。
意外と笑い上戸なのかもしれない、とエリンは疑ってしまう。けれど、からかうようなその声が、不思議と不快には聞こえなかった。
「私たちと合流するまで、一人で走っていたんだろう? だったら、少しでも水分を取らなければ」
涼やかな風は吹いていても、日中の陽差しはじりじりと肌を焼く。鎧を着ていれば、自然と汗ばむのも当然だった。
実際、作業中に倒れ込みそうになる兵士も出ていた。皮袋が支給されたのは、そうした状況を鑑みた上でのシグルドの判断だ。全兵に向けて、水分補給の徹底が通告されている。
皮袋の中で揺れる水音。思わずエリンの喉が鳴る。
エリンの意思に反して体は水分を求めていた。
よほど物欲しそうな顔をしていたのだろう、フィンは静かに微笑むと皮袋をエリンに手渡してくれた。弾力のある重みと、内部で跳ねる水音。それらが滑らかな皮袋越しにエリンの手に伝わる。
これはフィンの物――彼がいつも水分の補給に使っていた皮袋だ。
この皮袋はきっとフィンがレンスターにいたころより使用していたのだろう。指先に伝わる革特有のざらつきが、幾分か滑らかに感じる。
つまりは……。
連想してしまった事実にエリンの心拍が跳ね上がる。同時に思い出してしまったのだ。馬上での触れそうになってしまった唇を。
皮袋を受け取ったままで固まるエリンに、フィンは首を傾げる。そして、何やら合点がいった様子で声をかけてきた。
「私はまだ口を付けてないから、エリンが好きなだけ飲んでもいいから」
エリンの表情を、フィンは別の意味に解釈したようだった。水量の心配をしていると誤解されたらしい。
違う。そうではないのだ。
しかし、エリンはそれを言えない。声にしようにも、喉が固まってしまっていた。
あなたとの口付けを連想してました、だなんて……そんな際どい発言ができるわけなかった。
汗を流して、皮袋を見つめるエリンをやはりフィンは心配そうに眺めていた。
「遠慮しないで。倒れてからでは、遅いんだ」
フィンから促され、エリンは覚悟を決めた。何も考えないように意識をして、震える手で皮袋の栓を抜く。
飲み口に唇を付けると、鼻に漂う爽やかな柑橘の香り。液体が口内に流れ込むと、酸味が舌を刺激する。時間の経った檸檬水は冷たくないけれど、今はそれでも充分だった。ゴクゴクと音を立ててエリンの喉は潤う。
ほんの少しだけ、そう思っていたのに体は大量の水分を求めていた。
全てを飲み干し、エリンが顔を上げると風が彼女の前髪を揺らした。
さやさやと風が流れる。木々の葉を揺らし、心地よい音を奏でる。
栗毛の馬は休憩とばかりに、青々と生い茂る草を食んでいた。
空はどこまでも青く澄み渡っている。エリンは晴れた空が好きだ。遥か遠くまでをも照らし出す太陽が、敬愛するラケシスの瞳を連想させるから。
軽くなった皮袋を握りしめて、エリンは改めてフィンを見る。
「……ごめんなさい、フィン」
お礼を言うべきなのに、エリンの口から出たのは謝罪だった。
フィンには助けてもらってばかりだ。その優しさにエリンは甘え過ぎている。罪悪感ばかりが募っていた。
「エリンが謝ることはないよ。……むしろ、私が君に謝らなくては」
思わぬ発言に、エリンはフィンを見た。彼は先ほどとは違い、憂うような表情を浮かべている。
「あのご婦人の発言を止めるべきだった。……君は、きっと傷付いていたのに。そうなる前に、私が遮れば良かった」
彼は酷く後悔している様子だ。
実際、エリンは傷付いた。あの女性は昔からそういう人だとは知っていた。だが、だからと言って言葉の暴力に慣れるはずはない。本人が善意によるものだと思い込んでいるから、なおのことタチが悪い。
だが、フィンやアルヴァ達が彼女を止められない理由もエリンには分かっていた。
開拓村の復興支援を行っているとはいえ、シグルド軍はアグストリアの人間ではない。
村人の中には反グランベルの者も少なくはない。シグルド軍が戦のきっかけとなったから、こんな目に遭わされたんだ――そんな風に思い込んでいる者だっている。
そんな状況だから、彼らは止められなかったのだろう。あの女性のことだ、自分の村へと送り届けてもらったら「シグルド軍に乱暴な扱いを受けた」と喧伝するに違いない。
「元々、あの方を送る予定ではなかったんだ」
曰く、友人たちが心配だから隣村まで来たけれど自宅まで徒歩で帰るのは危険で怖いと身を震わせながら訴えて来たらしい。
そして、アルヴァ率いる物資隊の搬送先の村に自宅があるからと、無理矢理乗り込んで来たのだそうだ。
シグルドが第一に命じたことは。村人の安全を確保。復興隊全員に『困っている者がいれば助けてやれ』と念を押していた。
確かに道中は安全とは断言しにくい。もしも、彼女が帰宅途中に盗賊にでも襲われれば大変だ。他の村人のシグルド軍に対する心象は一気に下落するだろう。
「フィンが謝ることじゃないよ」
最悪の想像だが、あの女性はアルヴァ達に送り届けてもらった先でまた言いふらすであろう。
――エリンちゃんったら、相変わらず子供っぽいのよ。すーぐにムキになっちゃって。
笑いを堪えきれない表情で大振りに手を動かす姿が安易に想像できた。そういう人なのだろう。きっと、生涯変わらない。
それよりもエリンの懸念は、別のところにある。
あの女性はエリンの出自をアルヴァたちの前で口にした。すぐ後の彼女の失言により有耶無耶となったが、それでも後でアルヴァに追及される可能性もある。……あの男ならやりそうだ。
「フィン、その……」
言いかけて、エリンは口籠る。
口裏を合わせて欲しいだなんて、卑怯な提案を果たしてフィンは受け入れてくれるだろうか。……もしかしたら、卑怯者と幻滅されるかもしれない。そう考えただけでエリンは胸が苦しくなる。
フィンは心配するように、エリンの顔を覗き込む。
「水、足りなかった?」
「ち、違うの! その、あの人が言っていたこと、なんだけど……」
どうしよう、どうしよう……。
本当は言いたくない。
絶対に黙っているように、幼いエリンを見下ろしながらボルドーは冷たく言い放った。もしも、自ら言いふらすようなことがあれば、お前の首を刎ねてやると脅された。
すでに故人である王の重圧が、エリンの喉を鈍くさせる。――いや、違う。
怖いのは死んだボルドーじゃない。
長年ラケシスを騙していたという事実が耐えられないのだ。そして、その嘘が彼女にバレてしまうことも……。
だから、なんとしてもフィンに協力して貰わなければならない。例え彼に失望されても。
「私、本当の出自が分からないの……」
「え……?」
シグルド軍に正式に加入した時、エリンは彼らに改めての自己紹介をした。
――ハイライン騎士フィリップの養女エリンです。
――本当の父はハイラインでの身分を捨てて、侍女だった母と駆け落ちしました。しかし、旅の途中で亡くなり、母は身内を頼れずに開拓村で幼い私を育ててくれました。
――そこを訪れた義父が、私たちを憐んで家族になってくれたんです。
八年前、フィリップと一緒に考えた嘘をそのまま伝えた。多くの人々を欺き続けた嘘は、いつしかエリンの口を慣らした。流暢に告げられた彼女の身上を、シグルドたちが疑うことはなかった。
だが、本当はずっと良心が苛められていた。
懺悔のようにエリンは全てをフィンに話した。
このような嘘をつくきっかけとなった出来事も全て。
唇を震わせながら、エリンは隠すことなく全てを伝えた。彼女は両手で、皮袋を握り潰さんばかりに強く握りしめていた。
フィンは口を挟むことなく黙って耳を傾けている。その沈黙が怖くて、エリンは彼の顔が見られずにいる。
「――だから、フィンに協力して欲しいの。もしもアルヴァさんに問い詰められた時、助けてほしくて」
なんて卑怯なお願いだ。
誠実なフィンを共犯に巻き込もうとするなんて。きっと彼は嘘つきなエリンに呆れたことだろう。
己の情けなさに、エリンは顔を上げられない。
風に揺られる梢の音が、やけに耳に大きく響く。その音に紛れて、フィンの声がした。
「エリン」
「ごめんなさい……」
耐えられなくてエリンは謝罪した。
「こんなこと、頼んで……本当にごめんなさい。でも……ラケシス様には、ラケシス様だけには、絶対に知られたくないの」
あの太陽のような姫君に、失望されてしまう。想像したくもない。
アンフォニー城でラケシスを怒らせた時も、エリンは絶望した。あの時、ラケシスは許してくれたが、今度こそエリンは見捨てられるだろう。だって、八年もエリンはラケシスを裏切り続けたのだから。
「……分かったよ」
フィンの声は、静かだ。しかし、そこにエリンを咎める響きはない。
「あの女性の言葉、確かに違和感を感じた。だけど、まだ誤魔化せる範囲じゃないか?」
「え……?」
「いいかい、あの人はエリンを旅人の娘だと思っている。けれど、それはエリンの母親が事情を伏せていたから――だから、あの人は自分で推測した」
エリンの母が仔細を語らなかったから、あの女性は自分の都合の良い解釈をした。話が面白おかしく広がる捏造を行ってしまった。
彼女の性格ならそれを行っても違和感はない。……というか、実際に似たようなことを他人にやっていたことをエリンは思い出す。それで一度、隣村を巻き込んで大問題になった。それでも彼女は変わらなかったが。
「アルヴァ殿が問い詰めても、エリンは知らないと断言すればいいと思う……どうだろう?」
「…………うん」
「そもそも、私はそう判断したんだけど」
指摘されてエリンは気付いたのだが、最初からシラを切り通せる範囲だった。
あの女性へのアルヴァからの信頼度は低い。彼女は彼の主君エルトシャンを侮辱する話題を口にした。ならば、長年付き合いのあるエリンの言葉の方を信用してくれる可能性が高い。
あからさまな嘘を口にしたのは、女性の方なのだから。エリンの両親の話題も彼女の誇張だと受け止めて貰えるだろう。
もしかしたら、義父フィリップもそれを見通して嘘を作り上げたのではないだろうか。
ドナは寡黙な女性だった。自らの身上を吹聴するような人ではない。もしも、開拓村の人間がエリンの出自を疑うような発言を、他国の者に話しても言い訳が効くように。
なぜ、エリンはそれに気付かなかったのか。
「……ごめんなさい」
「いや、エリンが謝ることじゃないよ」
「でも……ずっと嘘、ついてたから」
「……仕方のないことだよ。きみは幼くて、逆らうことは出来なかった」
当時のエリンは十にも満たない。身よりもない幼い子供が、権力者に敵うはずがない。
そしてフィンは、何かに迷うように視線を巡らせる。少し黙り込んだ後に、彼は言葉を続けた。
「ただ、お節介を言うならラケシス様には本当のことを伝えた方がいいと思う」
エリンは息を呑む。
それをしたくないからフィンにお願いしたのに……彼は、それではいけないと言う。
「ラケシス様は、きみが真実を隠し続けることの方が悲しむと私は思う。あの方は、エリンに裏切られたというよりも、自分のためにきみに嘘を言い続けさせたことの方が許せないんじゃないかな」
「……そうかな」
だとしても、八年だ。
こんな長い歳月、エリンの嘘をラケシスは信じ続けていた。今さら真実を告げるのも、気が引けた。
「……選ぶのはエリンだ。私は自分の感想を伝えただけ。きみが黙っていた方がいいと思うのなら、私も誰にも話さないよ」