フィンの言葉は厳しい。でも、その厳しさはエリンに優しく寄り添っているようでもあった。多少強引なところもあるけれど、不思議とそれが嫌ではない。
胸が熱くなる。胸の奥から溢れた想いが、ようやく言葉になってフィンに届いた。
「あの、フィン。あのね……ありがとう」
ようやくその言葉を口にできた。
「前も助けてくれたし、今回だってそう。……借りたハンカチ、まだ返せてないのに」
フィンと接点が出来ること。それを嬉しいと思う反面、借りが増えてゆくことが心苦しい。
自分だってフィンの助けになりたいのに。現実は上手くいかない。
すぐに返すと伝えた白い布も、未だにエリンの手元にある。今日は土仕事になるからと、部屋に置いてきてしまった。
「フィンがいてくれて、良かったと思ってるの。えーと、フィンってなんかその……厳しいから。そういうところ、すごく好き」
甘やかさない優しさ。それが心地よい。
一方的に、エリンは悪くないと庇わずに公平な視点で相談に乗ってくれた。
図星を指摘されると、正直、苛立つこともある。それでも、彼の批判は正確で、エリンの未熟さを諭してくれる。
今回のフィンは何故かシアルフィ兵から庇ってくれた。だが、それでも最初はエリンの独断を怒ってくれようとしていた。
「ありがとう、フィン。……フィン?」
エリンは首を傾げる。
フィンは俯いて口元に右手を添えていた。その頬は見たことがないほど朱に染まっている。彼の深い青色の瞳が、水面に映る月のように揺れていた。
それを見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなって、エリンは息を呑んだ。
(なんで、そんな顔をするの)
(どうして、そんなふうに目を逸らすの)
もしや彼も喉が渇いていたのか、と疑問に思いかけてエリンは気付く。
(私、今なんて言った?)
「ち、違う! 違うのね、フィン!」
まるで愛の告白ではないか。いや、彼に好感は抱いているが、決してそんなつもりで話したわけではない。
「違うの、ほんとに! そういう意味じゃなくて!」
すぐさま強く否定をした――が、これだと逆に嫌いだと思っているように取られてしまわないか? そのような不安が、ますますエリンの口から言葉をこぼれさせた。
「でも嫌いじゃないよ! フィンのこと、私は好きだもん! 同じ見習いなのに凄いなって。私もそうなりたいとか、そういう意味の……!」
喋れば喋るほど墓穴を掘っていないか?
好きというより憧れてると言えば良かったのだと、エリンは言った後に気付く。
全身が熱い。涼んだはずの体温は、一気に上昇していた。視線は忙しなく動き、唇が震える。
「フィン、その……信じて」
声がかすれて、今にも泣き出しそうだった。頬が焼けつくほど熱い。指の先までも、震えている。
空になった皮袋で顔を覆い隠す。どうして、こんなこと言ってしまったのだろうと酷く後悔する。
火照るほどの照れから、エリンはフィンの顔を見られない。
フィンは黙っていた。彼もまた、耳まで赤くさせてエリンを見られずにいる。目を伏せ、深く呼吸をして彼は口を開く。
「うん、分かってるから……」
普段は落ち着いた声音が、今は上擦っている。
「その、そういうこと……言われたのは初めてで……慣れなくて」
言葉を探りながら選んでいる様子だ。まるで、初めて歩む道を地図もなく進むように。
「エリンに、そう言われて……悪くない……気持ち、だった」
そうしてまた彼は黙り込む。
エリンも、もう喋れなかった。目だけが落ち着かず、視線は足元や指先をさまよった。ただ、今のフィンの言葉が、何度も胸の中でこだました。
悪くない、とフィンは言ってくれた。それが、エリンの中で未知の感覚を震わせていた。
心音が身体中に響き渡る。まるで全身が心臓になってしまったかのようだ。鼓動の音で、風が揺らす梢の音が掻き消される。この音がエリンの体から漏れて、フィンに伝わってしまわないか心配になるぐらいに。
今のエリンの耳には、空を舞う鳥の囀りも届かなかった。涼やかな風を浴びても、全身の火照りを冷ますことはできない。
沈黙が苦しい。フィンは何を考えているのか、エリンは不安になる。
何か喋ってくれないかな。いや、彼が何を喋ってくれるのか、分からなくて怖い。
そして、自分も何を言えばいいのかわからない。
恐る恐ると横目でフィンを見る。すると、彼もまたエリンを見ていた。驚いて視線を逸らしたのは同時だった。
一瞬だけ見られたフィンの顔。林檎のように赤かった気がした。恐らく自分も同じだろう。汗が流れるほどに頬が熱い。
手持ち無沙汰から、エリンは空になった皮袋をもてあそぶように揉み込む。使い込まれた皮袋はしなやかにエリンの手の中で形を変える。
心音は未だに鎮まることが無い。その早さに不安になる。自分の身に何が起こったのか、エリンには分からない。
エリンの内部では目まぐるしい異変が訪れているのに、目の前に広がる景色は平穏そのものだ。
黙り込む青年少女のすぐ横で、呑気に栗毛の馬が闊歩している。ふと、馬が首を上げた。何かを探るように、一点を見つめている。
つられるようにエリンも馬と同じ方角を見る。じっと目を凝らしていると、徐々に蹄の音が近付いて来た。
村と村を繋ぐ畦道を、白馬に乗った騎士が通過して行った。アグストリア産とは造りが違う緑色の鎧の男。操る馬こそ違うが、男はエリンのよく知る人物だった。
「……アレクさん?」
エリンの呟くような声は当然アレクには届かない。よほどの火急なのか、息する間もなくエリンたちの前を過ぎ去った。
そもそも位置的に彼はエリンたちには気づかなかったのだろう。エリンたちは丘の上――ちょうどアレクの姿を見下ろす位置にいる。
彼がやって来た方向にはアンフォニー城。向かう先は開拓村――もしかしたら、ラケシスが滞在しているあの村かもしれない。
何かあったのだろうか。かすかな不安が、そっと胸を撫でていった。
フィンもそう思ったのだろう、口を開いた。
「私たちも、そろそろ行こうか」
エリンは頷く。休息は充分に取れた。ただ、ほんの少しだけ気が乗らなかった。
これからキュアンに自身の軍令違反を自白しに行くという後ろめたさ。
(もう少し、一緒にいたかったな)
不意に浮かび上がった言葉をかき消すように、エリンは頭を振った。
いったい自分はどうなってしまったのかと恐怖すら覚えてしまう。ラケシスを困らせてしまった……それが一番エリンの思考を占めなければならないのに。
横目でフィンを見た。彼は栗毛の馬の手綱を取り、引き寄せている。その横顔が眩しく見えて、エリンはまた目を逸らした。
なぜだろうか、フィンだけに対してはいつも通りに振舞えない。自分が自分じゃない違和感に包まれる。
さっきだって、手を取ることすら――。
手を、取る……。
エリンは気付いてしまった。そして、彼女の想像通りの言葉をエリンに投げかけた。
「おいで、エリン」
先ほどとは違い、フィンは馬には乗らず、エリンに手を差し伸べている。どうやら先にエリンを馬に乗せたいらしい。
思わず、エリンは半歩後ずさってしまった。
「え、えと。その……そうだ! もう少しだよね、キュアン様のおられる村は! じゃ、じゃあさ……休憩も出来たし、私は歩いて行くから!」
言うなり、エリンはフィンに背を向けた。そして彼の返事も聞かずに脱兎の如く駆け出した――のだが、即座に右手を掴まれた。
強く握られた皮膚が、火傷したかのように熱く感じた。
俯いたままのエリンに、ため息混じりにフィンが言う。
「本当に……君は分かりやすい」
手を差し伸べるフィンとエリンの距離は、ごくわずかだった。
そして、手を差し伸べたまま、フィンは一歩も動いていなかった。エリンが逃げ出すのを待っていたかのように。すべて、彼の想定のうちだったのかもしれない。
思考を読み取られていた気恥ずかしさからエリンはフィンに背を向けたままでいる。
「あ……あのね、フィン! これはその……私、鍛錬がしたいの! ほら、体力を付けるのが騎士として大事でしょ! 鎧を着て走る練習にもなるし!」
それでもエリンは抵抗しようと言葉を並べ立てる。もはや意地に近い。
だって耐えられないのだ。またフィンの腕に体を包まれることに。あの温もりが心地良くて、離れなくなってしまう!
「フィンだって……その、イヤ、でしょう……? 私を、抱えて……馬乗るの……」
同意してほしい。そうすれば、エリンはフィンの手を振り切って走り出せるから。
……同意してほしくない。手を離されたら、エリンは悲しくなってしまう。
己の思考が相反することが怖い。
「私は、大丈夫だから……手を、離して」
お願い、と縋るように囁いた。これ以上、手を握られていたら、体が熱くて燃えてしまいそうだ。
エリンの願いが伝わったのか、彼女の手を握るフィンの手がピクリと動いた。しかし、掴む強さは変わらない。
そして、返ってきたのはエリンの望む言葉ではなかった。
「エリンは、私がキュアン様にお叱りを受けてもいいのか?」
なぜそこでキュアンの名が出るのか。訝しむように、エリンはフィンの方へと振り返った。
フィンもまた頬を染めている。しかし、その青い瞳は真っ直ぐにエリンを捉えていた。その瞳の奥に、強い決意の炎が灯っていた。決して逃がさない、決して逃げない。そんな強い意志の光があった。
この眼差しをエリンは知っている。あの薄暗い回廊で、泣きじゃくるエリンを不慣れな所作ながら宥めるフィンの目。
あの時と同じだ。
「想像してごらん? エリンは徒歩で、私は馬に乗って。その状態でキュアン様の前に現れたら、あの方はどういった反応をなされるか……」
皆まで言われなくてもわかる。
キュアンはフィンを叱るだろう。エリンは一応女性だ。しかもフィンより年下の。そんな子を歩かせて、お前は何をしている。ノディオン城でエリンを追及したような、厳しい声音でキュアンは問い詰めるだろう。
たとえ、エリンが自分の足で歩くと主張したのだと言っても……おそらくは納得はするまい。
ずるい問いかけだ。
エリンが、騎士としての誇りを何よりも大切にしたいのを知っていての質問だ。主君の名前を出されたら、エリンはもう拒否することができなくなる。
自分のわがままのせいで、フィンが叱られる。それは耐えられない。
負けた――そんな言葉がエリンの中に浮かび上がった。悔しさに唇を噛みながら、彼女はフィンを見る。
その口元の笑みは、悔しがるエリンを見て勝ち誇っているようにすら感じられた。
そうだった。
この人は、こういうところがあった。真面目そうな顔をしてるのに、大胆に人の心に踏み込んでくる。
悔し紛れにエリンは言う。
「フィンって、けっこう頑固だよね」
唇を尖らせるエリンに、フィンは目を丸くさせた。が、すぐに目元を緩ませる。
「そういうエリンも、意地っ張りなところあるよね」
どことなく愉快そうな口ぶりでフィンはそう返してきた。