押し負けたエリンは、再びフィンの腕の中に納まった。伝わってくる体温が心地よくて、そんな風に感じてしまう自分が口惜しかった。
沈黙を恐れてエリンはあれこれとフィンに話しかけた。そして、すぐさま後悔した。
フィンが言葉を発するたびに、彼の吐息がエリンの耳元をくすぐるのだ。何とか耐えていたのだが、ついに声を発してしまったのだ。
その声の甲高い甘さ。
思わずエリンは両手で口元を押さえ込んだ。聞いたことのない声だった。発したことのない声だった。
あんな、はしたない声を上げてしまった己を恥じてしまった。恥じらいから上半身ごと顔を伏せる。頭の先から足先まで全てが熱い。記憶を消し去ってしまいたい……!
フィンには、聞こえてしまっただろうか。……大丈夫だ。きっと吐息よりも小さかったはず。彼が黙り込んでしまったのも、エリンが話しかけなくなったからだ。
うん、そうだ。そうに決まっている。
だってエリンの腰に回るフィンの左腕も力強いままだ。動揺なんてしてたら緩むはず。
言い聞かせながらもエリンは願った。早く目的地に辿り着いて欲しい。
流れる景色には目も向かず、エリンは強く強く瞼を閉じた。
そうして体を強張り続けた結果、目的の村に辿り着いた頃にはエリンの全身は疲れ切っていた。どんな鍛錬よりも過酷な時間だったとすら思えてしまう。
アンフォニー城から一番近い村。ここが盗賊の被害が特に酷かった。
本来なら、城に近い村ほど守りが厚く、被害も少ないはずだ。
だがここは逆だった――それが何より、マクベスと盗賊との癒着を物語っている。
焼き尽くされて倒壊した建物。煤けた匂いがまだ充満している気すらしてくる。
あちらこちらで見かける小ぶりな砂山は簡易的な墓だろう。供えられたらしい白い花が、ポツリと一輪置かれていた。
崩れた民家の前でフィンは馬を止めた。硬直したままのエリンを残して、彼は一人で馬から降りる。
「……エリン。ほら、捕まって」
腕を伸ばしてくるフィン。エリンはまた躊躇ったが、ここで意識してしまった方が不審がられてしまうと判断した。
なぜ動かないのかと、あの真っ直ぐな青い眼差しで問われれば、誤魔化しも何も通用しないだろう。何よりフィンのことだ。エリンの嘘をすぐに見抜くに違いない。
そしたら【あの声】について話さなければならない。……せっかくフィンに聞こえていなかったのだ。恥を上塗りする必要はない。
赤面のままで、エリンはフィンの腕に捕まった。
丘の上の失敗が勉強になった。今度はしっかりと力を込めてフィンの腕に捕まる。失敗しないようにと、強く強く意識付けしながら。またおかしな雰囲気にならないようにと。
そのまま滑り落ちるように地に足を付けた。
フィンも同じことを思い返していた様子だ。どことなくホッとした顔をしている。
その頬が朱に染まっていることにエリンは気付かない。意識してフィンの顔を見ていないからだ。
「……少し待っててくれ」
そう言い残すと、フィンは馬を引いて行く。村の一角には、兵たちの馬を集めておく場所が設けられていた。簡易の厩だ。
彼はそこに自身の馬を預ける。馬の背を撫でてから、フィンは再びこちらへと戻ってきた。
「行こうか」
フィンの声かけに、エリンは黙って頷く。彼に自分の声を聴かれるのが、少し怖くなっていた。
過去に、お前は喋ると幼さが出ると今は亡きエリオットたちに揶揄われていたことを思い出してしまったのもある。そんな声で、あんな艶めいた吐息を発したのだ。フィンに聞こえていたら、さぞかし滑稽に思われていたはずだ。
ぎこちない空気を纏ったままで二人は歩き出す。ほんの少しだけ、エリンはフィンから離れた。今は彼のそばに寄りたくない、そう思ってしまった。
フィンから意識を遠ざけようとエリンは村を見渡す。
かつて幼いエリンも盗賊の襲撃に怯えた。しかし、ここまでの惨状には遭遇しなかった。どこもかしこも破壊の跡が刻まれている。焦げついた惨劇の匂いが鼻を刺し、胸の奥がじわりと痛む。
視線を上げると、村の中心に見慣れた背中があった。
キュアンだ。
彼の周囲にはシアルフィ兵が幾人か集っている。その中に一人、年老いた老人がいた。
この老人は、エリンも見覚えがあった。この村の長役だ。幼い頃、会ったことがある。
彼らは話し合いを行なっている最中のようだ。次に行うべき指示をまとめている。
エリンらに気づいたキュアンが、こちらを振り返った。
「……フィンか。何かあったのか?」
キュアンの前でフィンは跪く。エリンも慌ててそれに倣う。
フィンには、アルヴァとともに物資の運搬を命じられていたはずだ。それなのに、アルヴァではなくエリンを伴って戻ってきた。それが疑問となってキュアンの口から出たのであろう。
フィンは頭を下げたまま、キュアンに言った。
「ラケシス姫の騎士見習いエリンについてのご報告があります。アルヴァ殿に頼まれ、私が彼女をここまで送り届けに参りました」
「なるほど。しばし待て」
キュアンは再び部下たちの方へ顔を向け、それぞれに指示を出して解散させた。
長役も頭を下げ、兵士達と共に去ってゆく。ほんの少しだけ、心配そうにエリンを一瞥していた。彼もまたエリンを覚えていたようだった。
彼らがそれぞれの持ち場へと戻ると、改めてキュアンがエリンたちへと向き直す。
「待たせたな。さて……どういった報告かな」
キュアンはエリンではなく、フィンに問いかける。
「エリンは確か、ラケシスの護衛にあたらせていたはずだ。あの子の身に何かあったのか?」
「おそらく、ラケシス姫はご無事です。エリンの様子からそう判断しました。」
もしもラケシスの身に異変があれば、エリンはひどく取り乱すだろう。多少落ち込んではいたが、エリンは静かだった。だから、フィンもラケシスは安全だと判断したのだろう。でなければ、道中でエリンを気遣って休息なんか取らないはずだ。
「詳しい話は彼女の口から……。それでいいかい、エリン?」
フィンがエリンを見る。先ほどから無口のままな彼女に気遣ったのだろう。
推測による不確かな証言を行うよりは、本人が話した方がいい。確かにそうだ。
フィンに同意するように、エリンは頷いて見せる。
だが、キュアンに対して、エリンは苦手意識を抱いている。だから、頷いたものの不安は拭えなかった。それはノディオン城での初対面――あの日の厳しい追及から来るものだ。
あの時のキュアンの瞳の鋭さ。黒鳶色の瞳が映し出した剣呑な光を思い返しただけで、エリンの背筋が震える。
声音は冷たく、敵対する相手への容赦は見受けられない。あれが王者の声なのだと、エリンは初めて知った。
指先を震わせながら恐る恐るとエリンは顔を上げた。恐ろしいキュアンの顔を見るために。
追及の直後に軍令違反をした。見習いが独断で隊から抜ける。却って被害を増やす行為。
しかし、それはレヴィンたちを助けるためだからとラケシスが必死に助命を願い出た。エリンは正義感から飛び出したのだと。
さらに、当のレヴィンまでもが擁護の声を上げた。皮肉とも冗談ともつかない調子で、不敵な笑みを浮かべながら。
――確かに役には立たなかったが、それでもコイツの勇敢さは認めてやってくれないか?
思い返しても庇ってる言葉には思えない。しかし、レヴィンは馴れ馴れしくエリンの肩を抱いて言った。
――無謀極まりない行為は叱られるべきだ。だが、なぜコイツがそういう行動をとったのかは考えてやってくれ。
王族相手に臆することなく、堂々とレヴィンはエリンを庇った。初対面の時はあんなにも冷めた態度を取っていたのに。手のひらを返すような入れ込み具合だ。
そんなレヴィンに対して、シルヴィアは頬を膨らませていた。きゃあきゃあと、他の女の子と仲良くしないで! と喚いていた。そんな彼女を、レヴィンは慣れた調子で軽くいなしていた。
なぜか、ラケシスもレヴィンを鋭く睨みつけていた。まるで仇を目にしたかのような、凍りつくほどの視線で。
そして、一番大変だったのがアルヴァだった。
その日の夜、アルヴァにアンフォニー城の鍛錬場まで呼び出されたエリンは、開口一番こう言われたのだ。
――お前は、男にされるがまま肩を抱かれて何も言い返せんのか!
怒りと焦燥を押し殺せていない声音だった。
エリンは驚きすぎて言葉が出なかった。改めて独断行動についての説教をされると覚悟していたが、まさかそんなことで叱られるなんて――。
落ち込むよりも前に、エリンは目を丸くした。
父親が娘の素行の悪さを叱るように、アルヴァは強い口調で続ける。
――誰にでも触れられて、流されているようでは、お前は……騎士として、危うい。
――いいか、あの吟遊詩人に気を許すな。信じるに値する人物とは限らない。そこを肝に銘じておくように!
――分かったなら、剣を取れ。久しぶりに稽古を付けてやる。
そうして始まる地獄の特訓。ラケシスとイーヴとエヴァ、さらには副隊長までが止めに来てくれてようやくエリンは解放された。――レヴィンのせいで、散々な一日だった。
ともあれ、その一件が軍としてエリンに下したのは厳重注意だけだった。次は気をつけるように、キュアンが言ったのはその一言だけだ。
しかし、エリンに対するキュアンの心象が良いはずはない。今度こそ、あの冷たい声で叱責される――そう思い込んでいた。
だが、覚悟を決めて見たはずのキュアンの顔を見てエリンは拍子抜けした。
彼は、なぜか笑いを堪えるような顔をしていた。例えるのならば、珍しい光景でも見るような顔だ。まるで、予想だにしなかった答えを見つけたときのように。
キュアンは、まじまじとフィンと、そしてエリンを見比べている。
予想外なキュアンの反応が、逆にエリンを混乱させた。この方は一体何を考えているのか?
声をかけるきっかけを見つけられず、エリンはただ戸惑っていた。そんなエリンの様子に気付いたのか、キュアンの方から口を開いた。
「ああ、すまない。なかなか面白いものを見せてもらえたから、つい見入ってしまった。許してくれ」
想像したよりもキュアンの喋りは気さくであった。あの時の魔王のような男とはまるで印象が違う。今の彼は、親しみのある表情をエリンに見せてくれている。
それどころか、謝罪まで口にした。
キュアンが何を楽しんでいるのか、ますます見当がつかなくなる。エリンの混乱は深まるばかりだった。
ついには、エリンの顔が半泣きに変わる。キュアンの態度の違いが、却って恐怖を煽るのだ。
エリンの心情を察したのか、フィンが咎めの声を放った。
「キュアン様、からかうのはおやめ下さい。エリンが困っております」
すると、キュアンは声を立てて笑った。朗らかなその笑い方は、決して蔑む響きは無い。
しかし、フィンは眉を寄せる。
「キュアン様!」
「すまん、すまん。しかし、驚いたな。フィン、お前はそんな顔も出来るのだな。いや、本当に意外だった」
「キュアン様は私をなんだと思っているのですか」
主従の会話は、エリンが思うものよりも気安い。以前、フィンが口にした言葉を思い返す。
――私は、キュアン様からよく言われております。お前は弟のような存在だと。
あれは比喩のようなものではなく、事実だったらしい。彼らのやり取りには隔たりのようなものはない。
確かにフィンの言葉遣いには身分差による配慮はあるが、キュアンに対する畏怖を感じさせない。二人の間に朗らかな空気が流れているように思える。
主従であり、兄弟。彼らを表す関係は、そう見て取れた。
「さて、エリン。一つ聞きたいのだが」
ついに来た。
キュアンの声かけにビクリとエリンの肩が跳ね上がった。思わず視線が左手首の腕輪に吸い寄せられた。不安を和らげてくれるその存在に、縋るような気持ちで。
窮した時のエリンの癖――右手で腕輪を撫でたいのを必死で堪える。今はキュアンの御前だ。
これより尋問が始まるのだと、エリンはゴクリと喉を鳴らす。目線を逸らしたい気持ちを抑えて、エリンはキュアンを見つめた。
キュアンの薄い唇が言葉を繋いだ。
「フィンのことを、どう思う?」