一拍ほど、エリンの時が止まった。
キュアンは相変わらず愉快そうに目を細めている。エリンが彼の言葉を脳内で反復していると、フィンが声を荒げた。
「何を仰っているのですか!」
聞いたことのない声で叫ぶフィン。
遠く離れた場所で作業していた兵たちが何事かと、こちらに目を向けた。キュアンに向かってフィンが声を荒げる光景は、さすがに目を引いたらしい。作業中の兵たちはちらちらと視線を寄越しながらも、何食わぬ顔で手を動かし続けていた。
しかし、キュアンはそれらを無視して再びエリンに問うた。
「エリン、正直に答えてくれ」
そんなこと言われても……。
まさかそんな事を聞かれるとはエリンは思ってもいなかった。どうしたものかと、無意識に彼女はフィンを見た。
フィンはキュアンに向かって恨めしそうな視線を送っていた。その頬は朱に染まり、特に耳は火が灯っているかのように赤い。困ったように形の良い眉は垂れ下がり、その下の青い瞳は困惑からわずかに潤んでいた。
唇を震わせるフィンを眺めて、エリンの口から感想がポロリとこぼれた。
「可愛らしいと思います」
瞬間、爆ぜたようにフィンはエリンへと向き直った。
彼は目を見開き、その瞳孔は動揺からか揺れている。口は半開きとなり、言葉にならない何かを漏らしている。
キュアンはエリンの返答に大笑いしている。村中に響き渡るのではないのかという声量だ。その笑い声につられたのか、作業中の兵たちも、手を止めてしまってこちらを見ていた。
回答を間違えた――そう悟ったエリンの背筋に、冷たいものが走る。
よりによって「可愛らしい」とは……さすがに違うだろう。年下の少女からそんな風に評されれば、フィンの自尊心がさぞかし傷付いたに違いない。
しかも彼が敬愛する主君の前で、だ。これは侮辱行為と取られても仕方がない。
慌ててエリンは返答を付け足した。
「可愛らしいだけではありません。えっと……とても、頼りになる方です。ここまでの道中、私を気遣ってくれまし――」
言葉が詰まった。
エリンの脳裏に蘇る、先ほどの出来事が彼女の声を遮ったのだ。
――馬上で一瞬だけ触れ合った鼻先。
――事故による丘の上での押し倒し。
――間接的な口付けとなってしまった水分補給。
――そして、耳に残る、あの熱を帯びた吐息……。
途端にエリンの頬に熱が籠る。
「うん、どうした? それでおしまいか?」
黙り込んだエリンをキュアンが追及する。しかし、その声は弾んでいる。どう見てもエリンの様子を楽しんでいた。
しかし、彼女はそうとは受け取らなかった。
今ここで、フィンへの正当な評価をキュアンに告げなくては駄目だ。そんな使命感から、エリンは声を放つ。己の胸の内を語るという怖ささえ、今は忘れていた。
「私が辛い時、寄り添ってくれました。でも、決して甘やかしてはくれません。厳しく、公平で、しっかりと私と話を聞いてくれました」
アンフォニー城での薄暗い回廊。
あの日、あの時。エリンは初めてフィンの人柄を知った。
彼が頑固で生真面目で冷静で……優しい人だということを。
その時のやり取りを思い返し、エリンの口元が自然に緩んだ。
短い時間での邂逅。だが、そんなわずかな間にも、エリンの胸の奥にひだまりのような温もりを残していた。フィンの言葉を、握れなかった彼の手を思い出すだけで、胸が高鳴る。
蕾が綻ぶような可憐な微笑みを、その顔に浮かべていることにエリンは気付かない。
「結構はっきりと失礼なこと言ってきますし……でも、正論なんです。フィンは口先だけじゃなく、しっかりと私のことを考えて意見を言ってくれます」
一度覚悟を決めたら、絶対に引かないところ。
思っていたよりも、笑顔が多いところ。
冷静に見えて、その実、驚くほど表情がくるくると変わるところ。
その全てを愛しいとエリンは思う。
出会ってからまだ短い期間なのに、フィンの存在はこんなにも深く、彼女の心に染み渡っていた。
だから、エリンは言った。彼への素直な気持ちを。
「私は、そんなフィンが好きです」
言ってやった――。
胸の奥に、誇らしげな高揚感がふつふつと湧き上がる。
そして改めて見たのだ、彼女はフィンを。ちゃんと名誉を護ったよ――そんな思いを込めて、彼を見つめる。
「フィン……?」
訝しむようにエリンは彼の名を呼ぶ。
フィンはその場に突っ伏していた。主君の前だというのに、両手を地に付き、まるで伏し拝むように頭を深く沈めて。
海色の髪から覗く彼の耳は先ほどよりも赤い。炎に間近で照らされているようだ。
彼の体は小刻みに震えている。よくよく耳をすませば「やめてくれ……もう、やめてくれ……」と虫の羽音のような、かすれた声で唸っていた。
「フィン? ねぇ、大丈夫……?」
この異常なフィンの状態を、エリンは心底心配した。すぐさま彼の肩に手を触れる。しかし、フィンは大きく体を揺らして体を硬直するだけだ。
触れた彼の体温は驚くほど熱かった。体調を崩した? ……いや、そうじゃない。
この状況、ついさっき繰り広げた記憶が――。
「………………あ」
瞬間、エリンの全身が恥じらいの炎に包まれた。
ぎこちなく、彼女はキュアンへと顔を向けた。赤面する青年少女を見下ろす王者は、満面の笑みだ。というよりも、ニヤついていた。
周囲の兵たちの反応も様々だ。手を止めて眺めている者。見て見ぬ振りして作業に勤しむ者。口笛を立てて囃し立てる者。
全身から汗を流すエリンに止めを刺したのは、キュアンであった。
「なかなか情熱的だな」
「ち……ちがうんですッ!」
エリンの絶叫が空に響き渡った。木々にいた鳥たちが一斉に飛び立ったのは偶然ではないだろう。
地面に突っ伏す勢いでエリンはうずくまる。そして涙交じりの声で叫んだ。
「違うんです違うんです! フィンのことは好きですけど、そういう好きじゃないんです! すみませんすみませんゆるしてください!」
エリンの訴えは、もはや懇願だ。
普段から胸の内を話し慣れてないから、このような失敗を繰り返すのだろう。そんな反省も湧き上がる。
しかしキュアンの追撃は止まらない。
「ほう? フィンへの想いを語るお前の顔が、今の言葉を否定しているように思えるが」
一体自分はどんな顔して喋っていたのか。キュアンの言い回しから考えるに、よほど印象的な表情をしていたのだろう。彼には、すぐさまにそれを忘れていただきたい。エリンは強く強く願う。
あくまで笑顔のキュアン。このようなからかいに、エリンは慣れていない。
……弁明しなければ。
このままでは、何か誤解されたままになってしまう気がする。
それに、今は軍の中だ。私情で場の空気を乱してはならない。特に今、この村は襲撃の傷が深く刻まれている。そんな中で、エリンの今の発言は不謹慎ではないか。
焦った彼女がさらに言葉を続ける前に、フィンが遮った。
「キュアン様……おやめください。もう、やめてください……」
彼の声は疲れ果てたかのように、覇気がなかった。それでも、エリンにこれ以上発言をさせてはならない――そんな危機感から懸命に声をあげているようだった。
「エリンは、こういう子なんです……。どうかもう、お戯れはおやめください……」
絞り出すように訴えつつも、フィンは顔を上げない。上げられないのだろう。今、彼がどんな表情をしているのか――それは彼の耳の色でわかる。
公開処刑にフィンを巻き込んでしまった……。そんな言葉がエリンの胸の内に浮かぶ。
キュアンは軽く咳払いをして、フィンに話しかけた。
「ああ、すまない。お前たちの反応があまりにも愉快だったから、つい……な」
許せよ――そう言うキュアンに、青年少女は何も返せなかった。
理不尽な辱めを受けた。そんな思いだ。フィンも同じ気持ちだろう。
エリンは深く呼吸を繰り返し、顔に残る羞恥の熱をどうにか冷まそうとした。その様子を見て、キュアンが感慨深く言った。
「ラケシスが語った印象のエリンとは、全く違うな。まさかここまで愉快な奴だとは思わなかったぞ」
「……ラケシス様が?」
全身に燻る熱は取れていないが、エリンは思わず顔を上げた。ラケシスの名前が彼女の正気を取り戻させたのだ。
キュアンは頷く。
「お前がノディオン城にやって来た夜……軍議の後だな。ラケシスのやつ、私を随分と責め立てて来た」
それは、エリンが老馬を迎えにアレクと共に城を出た後。
ラケシスは頬を膨らます勢いでキュアンに詰め寄ったという。
――キュアン様! エリンに意地悪するのは、おやめになってください。
――あの子は繊細な子なんです。だから、もう少し言葉を和らげてあげてくださいな。
――エリンは、私を裏切るような真似なんてしません。……絶対に。
「大人しく、控えめな性格だと。そう言ってはいたが……逆だな。よく叫び、感情も分かりやすい。まるで二つの人格がお前の中にはあるようだ」
不可思議だと言うキュアンの言葉は、エリンの耳には入らない。
今の彼女の心を占めるのはラケシスだけだ。
エリンの愛する主君は、信じてくれていたのだ。決して裏切らないと。
だが、今のエリンはどうだ?
癇癪を起こして、悪戯にラケシスを傷付けた。――ラケシスの信頼を裏切っているのではないのか?
考え込むエリンの名を、キュアンは呼んだ。
「さて、聞かせてもらおうか、エリン。何故、ラケシスの元を離れて私の前に現れたのか」
たちまちキュアンの纏う空気が一変した。気安さは消え去り、今エリンの前に立つのは冷静な指導者だ。
その落差にエリンは戸惑う。だが、混乱まではいかない。先ほどのやり取りで緊張は剥がれたのだろう。
恐怖に萎縮することなく、エリンは経緯を語った。己の失態も隠すことや誤魔化すことなく、全て事実を。
自分でも驚くほどに客観的に言葉で羅列できた。以前までのような、喋ることへの忌避感が薄まっていたのだ。
そして改めて悔いる。自身の未熟さを。
好き嫌いで判断を決めつける、己の子供っぽさを。
話し終える頃には、エリンの鼓動は静まっていた。深く深く頭を下げ、細めの眉が悲しげに下がる。
「なるほどな」
キュアンの声は静かだ。
「あの傭兵――ベオウルフだったか、確かにラケシスは彼奴に懐いているな」
首を傾げるキュアン。彼もラケシスの熱の上げっぷりに疑問を抱いていたようだった。
「あまりあの子とは交流は無かったから、エリンよりも詳しくは無いが……警戒心の強い娘だ。特に異性に対して嫌厭するような潔癖さを持つ印象を抱いていた。……エルトシャンも、妹をそう称していた」
それはエリンも心当たりがある。
ラケシスは常々言っていたのだ。
――私は、エルト兄様のような人じゃないと好きにならないわ。
――でなければ、誰の妻にもなりたくないの。ずっと……エルト兄様のおそばにいたい。
熱っぽく語るラケシスに、エリンはなんとも言えない歯痒さを抱いた。
私はエルトシャン王には、なれない。そう思えば、途端に自分が惨めに思えた。真冬の風に当てられたように、エリンの心は冷え込んだ記憶がある。
そして同時に安堵した。
エルトシャンのような完璧な男は存在するはずがない。頭脳も顔立ちも、王としての統率力も武人としての剣の腕も、全てが優れている。神に愛されたと評される男だ。
だからラケシスの愛が他の男に向かうはずがない。他の男など眼中にあるはずがない。あってはならないのだ――エリンはそう信じていた。
「そのようなラケシスが、ああもあっさりと気を許しているのだ。……確かに、あの子を思うエリンからしたら不安になるだろうな」
そうして、キュアンはエリンを眺める。
傷ついたエリンを憐れむかのような眼差し。彼の黒鳶色の瞳には、突き放すような厳しさは無かった。