「まぁ、あの子の気持ちが分からんでもない。……口には出さないが、エルトシャンが囚われたことがラケシスには相当堪えたのだろう」
ノディオン城で再会した時、ラケシスは一度たりとも不安を口にはしなかった。ただ、エリンがやって来てくれたことを喜び労わってくれた。
不自然なほどにエルトシャンについて話題にしなかった。
「不安なのだろうな。今のあの子にとって、兄だけが唯一の肉親だ。シャガールの気まぐれでエルトシャンの安否が決まる」
アグストリアを束ねる王――その采配一つでエルトシャンの命運が決まる。公平とは程遠い、シャガールの私情に委ねられて。
シャガールもまたエルトシャンを憎んでいた。賢王と呼ばれた実父が目をかけた天才を。……エリオットと同じように。
「ラケシスの兄想いは、よく知っている。少しでもエルトシャンの痕跡を縋りたいのだろうな」
ノディオン城から離れた開拓村で噂になるほどの仲の良い兄妹。エルトシャンが曰れなき投獄されてから今まで、どれほどまでにラケシスは心細かっただろうか。
その不安を癒す存在にはなれなかったことに、エリンは胸を刺すような苦しみを感じた。自分が無力であると、断言されてしまった……そんな気がした。
「そのような中で、エルトシャンの友と名乗る人物――ベオウルフが現れた。真偽はともあれ、彼奴の語る兄の思い出話が、ラケシスの慰みになったのだろうな」
それならば、他の者でも良いのでは無いのか?
エルトシャンを知る人物はベオウルフ以外にもたくさんいる。
アルヴァたち、エルトシャンに忠誠を誓う若き三騎士。
士官学校からの交流のあるシグルドやキュアン。
他にも、ノディオン城に仕える者たちからだって、エルトシャンの評判を聴ける。わざわざベオウルフだけに頼る必要はない。
エリンの不服が見て取れたのか、キュアンが嗜めるように笑う。
「例えば、私についての評判をお前が知りたい時。エスリンに聞くか、シグルドに聞くか、フィンに聞くか――尋ねる者によって印象が変わる」
夫としてのキュアン。
友人としてのキュアン。
主君としてのキュアン。
同じ人物を語っているはずなのに、それぞれ別の側面を口にするだろう。万華鏡のように、違った一面に触れることができる。
「ラケシスは知りたいのだろう。獅子王ではないエルトシャンの姿を」
ならばシグルドとキュアンに聞くのは駄目なのか――きっとそうだろう。
シグルドは、奥方のディアドラが先日懐妊されたと発表されたばかり。
キュアンも一児の父だ。
二人とも軍を率いる責任もあるし、時間があるのなら家族と過ごしたいはずだ。
聡いラケシスならば遠慮するだろう。彼らの時間を、自身の我儘に付き合わせることに。
そこまで思い至ってようやくエリンはラケシスの心中を理解した。
気丈な姫君――しかし、まだ年若い娘なのだ。
「ともあれ、警戒を抱くことが悪いことでは無い。むしろ主君を案ずるからこそ、疑うのは自然なことだ。……全く、シグルドにもその疑い深さが少しでもあればいいんだが」
後半は愚痴るように呟くキュアン。呆れというより、懐深い友人を案じているようだった。
「キュアン様、申し訳ございません」
深々とエリンは頭を下げた。しかし、キュアンは首を横に振る。
「エリンが謝るべき相手は私ではないだろう。……私が今のお前に指示することは一つだ。ラケシスと仲直りをすること」
それだけでいいのだろうか。
二度も軍令を破ったのだ。本来なら即座に厳罰を下して、他の者への示しとするべきだった。
それにキュアンはエリンを叱りつけることはなかった。まるで子を諭す父親のように、エリンに接してくれたのだ。
「エリンへの処罰は、まだ保留だ。シグルドと話し合い、決める。説教もお前には必要ないだろう」
自分の行いを素直に話し、恥いるエリンの姿を見て止めたのだとキュアンは言う。
「私の前に誰かに叱られたのだろう? フィンではないな……アルヴァか。あの口調で、かなり厳しく言われたのだな」
エリンはこくりと頷いた。まるでその場に居合わせたようなキュアンの言葉に、思わず首を傾げる。
……なぜ、分かったのだろう?
キュアンはすぐに千里眼の種明かしを教えてくれた。
「先の違反報告の時もそうだったが、アルヴァはどうやらお前を目にかけているようだ」
アルヴァはエリンを庇う素振りは一切見せなかった。容赦なくエリンの非をキュアンに報告した。
エリンにはしばらく謹慎処分を施したらどうか、とすら彼は言ったのだ。情緒不安定な者は戦いの足手纏いである、と。
しかもその後は呼び出して、説教と鍛錬までエリンに与えてきた。
「あれは言葉は強いが、お前を気遣っている。私から見ても、お前は危うい。まだ守られるべき子供に見える」
それこそが、今回の騒動を招いた原因でもあった。抑えられないエリンの衝動が、こんな事態へと導いた。
「……義理とはいえ肉親を失った悲しみは、すぐには癒えない。ましてや、その仇のそばにエリンはいる。少しでも休ませてやりたい、そう思っているのだろう」
不器用な男――そういう風にキュアンはアルヴァを評した。エリンに彼の気持ちを分かってやってくれとでも言うように。
言われずともエリンは知っている。
アルヴァの遠回しな優しさを。
ノディオンへ使者として幾度も赴いた義父フィリップ。エリンもその随行をした。
その度にアルヴァはエリンに剣の稽古を付けてくれた……いや、むしろ無理にでも稽古を付けに来たのだ。
ラケシスとの挨拶を終えれば、アルヴァが何処からかやって来て言うのだ。
――鍛錬の成果を見せてみろ。
アルヴァの剣に一切の容赦はなかった。副隊長らも厳しかったが、彼はそれ以上だ。厳しいを通り越して冷酷とすら感じられた。
疲労でへたり込むエリンに向かい、容赦なく立ち上がるように命じるのだ。エリンが疲れ果てても、なお。
ラケシスが止めても、フィリップが嗜めても、イーヴやエヴァですら咎めの声を上げたとしても、アルヴァの態度は変わらなかった。
――生半可な覚悟で騎士になるのは許さん。お前は自ら死地へと飛び込んだのだ。……それを自覚しろ。
その言葉を、幾度となく叱咤され続けたのだった。
辛くないといえば、嘘になる。逃げたいと弱気になったこともある。だが、エリンは泣き言は言わなかった。
ラケシスを思えばこそ、アルヴァの指導の辛さも苦しさも耐え切れた。
エリンは弱い。体格も腕力も騎士向きとは言えない。だからこそアルヴァは厳しいのだとエリンは納得していた。
厳しくエリンを鍛え上げることが、アルヴァなりの優しさなのだろうと。
しかし、理解してなお、エリンは彼を苦手だと感じていた。
それは、エリンとアルヴァの剣が交差した時に現れる。
アルヴァの赤銅色の瞳。その奥に、黒い霧のような、得体の知れない熱が灯る。エリンを絡めとるような、荊のような執念めいた感情が――。
気のせいだと思えるほどの刹那。瞬き一つでその光は消える。普段と変わらぬ厳しい指導者の瞳でアルヴァはエリンを見る。
彼は何かを隠している。エリンはそう判断した。そして、それは自分には良くないものだとエリンは本能で怯えた。
結果、彼を前にすると、普段よりも強い緊張感を抱いた。
強張ったエリンの顔を見て、キュアンは痛ましげに目を細めた。
「……アルヴァの気持ちを分かってやれとは言わん。だが、少しお前には時間が必要だと私も思う」
アルヴァへのエリンの複雑な心中。そこまではキュアンは気付かなかったのだろう。
しかし、エリンの横顔を見つめていたフィンは何か引っ掛かりを覚えたようだ。彼女の黒曜の瞳の揺れに異常を読み取ったらしい。
フィンがエリンに話しかけようとしたその時だった。遠くから馬の蹄の音が近づいてくる。
「どうやら迎えが来たみたいだな」
キュアンの言葉で振り返れば、遠くから一騎がエリンたちの元へと近寄ってきた。
蹄の音が次第に近づき、村の入り口で馬は一瞬速度を落とした。だが、騎手はエリンを認めたらしく、馬から降りることなくそのまま走らせた。
キュアンの言う通り、エリンを迎えに来たのだろう。副隊長か、フィリップ隊の誰かだろうか。
そして、白馬に乗って現れた人物は予想外の相手であった。
「……アレクさん?」
やって来たのはシグルドの騎士アレクであった。彼は白馬から降り、エリンに駆け寄る。
アレクはあからさまな安堵の表情を浮かべて、肩で息をする。まるで彼自身が疾走していたかのようだ。弦を緩めるように、アレクはへにゃりと笑った。
「良かった、無事で……」
普段の軽い口ぶりとは違う、真剣な声音。発声の弱々しさから、彼がどれほどの焦りを抱いてたのか察せられる。
らしくないアレクの様子にエリンは戸惑って、思わず黙り込んでしまった。彼がエリンを探していたのは何故かと問う言葉を出しそびれてしまう。
アレクはエリンの体に怪我が無いのか確認するように一瞥すると、キュアンの方に向き直して跪いた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。シグルド様の命により、エリンを迎えに参りました」
「シグルドが……?」
さすがにキュアンも動揺を声に出す。形の良い眉をピクリと跳ね上げ、アレクを見やる。
シグルドは現在、アンフォニー城でマッキリー城対策のために準備を行っているはずだ。
あのシャガールがこのまま黙っているはずがない。そう時間も経たずに挙兵するだろう。
何よりもシグルドらの友人エルトシャンは囚われたままだ。情深いシグルドは彼を救い出したいはずだろう。
軍師や重臣のみで慎重に、ことを進めている。新参のエリンが必要になる理由なぞあるだろうか?
キュアンの疑問の声に、アレクが頷き答えた。
「火急を要します。失礼ですが、エリンを連れて行ってもよろしいでしょうか?」
「構わないが、ラケシスには報告した方がいいだろうな」
「それは大丈夫です。アルヴァ殿が報告しているはずですから」
アレクは経緯を語る。
シグルドの命令を受け、エリンの迎え役に任命されたアレク。馬を走らせ、彼女が配属された村へと訪れれば波乱が巻き起こっていた。
彼がまず耳にしたのは、鼓膜が破かれんばかりの怒号だった。
――テメェ! お嬢に何をしやがったッ!
――おいおい、誤解するなって。あの嬢ちゃんが勝手に飛び出してったんだ。
ベオウルフに掴みかかる副隊長。ベオウルフは、怒鳴られ慣れてでもいるかのように平然としていた。
副隊長を止めようとするフィリップ隊員たち。その傍らで今にも泣き出しそうなラケシス。
――わ、私が悪いの……。私がエリンを気にかけてあげなかったから。
――姫さんは悪くねぇよ。コイツだ! コイツがお嬢を……!
――その大切な嬢ちゃんを追いかけなくていいのか? 俺に構うよりも、そっちのが優先だろ。
あわや乱闘となる瞬間にアレクは止めに入った。事情を聞けば、エリンが一人飛び出したという。しかも、馬にも乗らずに。
アレクは副隊長の怒りをなだめ、すぐさまエリン捜索に加わった。
村の守備を離れられない副隊長たちに代わり、騎馬のアレクが遠方の探索を請け負った。
見当たらぬエリンの姿に焦るアレク。隣村へとあと少しのところでアルヴァ率いる物資隊と遭遇した。そこで、彼からエリンの行方を教えてもらったのだ。
「それで、こうして馬を走らせて来た、というわけです」
アレクから聞かされたラケシスたちの様子。エリンは自分の浅はかさに身を縮めた。
そこまでの大事になっているとは想像もしていなかった。ラケシスを悲しませ、副隊長たちに心配をかけてしまった。
ベオウルフは――副隊長に怒られているのを知って少しスッキリしてしまった。そんなことを思ってしまった自分を恥じてしまう。
俯いて震えるエリンに、キュアンが声をかける。
「随分と大勢を振り回したものだな、エリン。これはもう、ラケシスがどれほどお前を庇おうが無視は出来ない」
厳しい発言だ。だが、声はそれに反して柔らかい。
「追って沙汰する。今はアレクと共にシグルドの元へ行くがいい」
「……はい」
罰を与えられる。そのことにエリンは安堵してしまった。そうでなければ、罪悪感で押しつぶされてしまいそうだった。
アレクは立ち上がると、キュアンに向かい一礼した。
「失礼します、キュアン様。……エリン、行くぞ」
「はい。……キュアン様、申し訳ございませんでした」
エリンも立ち上がり、アレクに倣って一礼する。キュアンは二人を見送るように、右手を軽く振った。
それを確認すると、エリンは差し伸ばされたアレクの手を即座に取った。
「あ……」
フィンが声を上げた。それに引きずられるように、エリンが振り向く。
跪いたままのフィン。彼はエリンが視線を送ると同時に顔を逸らした。その横顔が、何故か寂しげに見えた。
不意にエリンの胸が痛んだ。フィンのそんな表情を見たくない、そう思った。
だからだろうか。エリンの口は自然と言葉を紡いでいた。
「フィン、色々とごめんなさい」
彼は顔を上げない。上目遣いでエリンを見る。その目元がわずかに熱がこもっているようにエリンは感じた。
「助けてくれてありがとう」
「……気にしないでくれ」
どこかフィンの口ぶりは素っ気なかった。エリンを遠ざけたい、そんな風に聞こえた。
そして、今はエリンを見たくないとでもいうように彼は目を伏せた。
「フィン……?」
突然、態度が変わったフィンにエリンは戸惑う。
何か彼を怒らせるようなことをしたのだろうか? ――心当たりしかない。
エリンの足が震えた。あんなに優しかったフィンを怒らせてしまった。……もう笑いかけてもらえないのだろうか。そう考えただけで息苦しさを覚えた。
「エリン、どうした?」
アレクが焦るように問いかけてきた。動かないエリンを心配したのだろう。彼は腰を屈めて、エリンの顔を覗き込む。
深い緑色の瞳がエリンを映す。その色に、エリンは何故だか泣きつきたくなってしまう。
分からない。今日の自分はおかしい。感情が抑えられない。心臓も涙腺もエリンの言うことを聞かない。
「……大丈夫です。行きましょう」
「あぁ。じゃあ、持ち上げるぞ」
アレクに抱き抱えられ、白馬に乗せられる。以前、ハイライン城の階段で助けられた時のように軽々とエリンは運ばれた。
すぐさまにアレクがエリンの後ろへ座る。彼の逞しい左腕がエリンの細腰に回る。
「行くぞ!」
アレクは右手で手綱を振るい、白馬は駆け出す。途端に疾風がエリンの体を撫で付ける。
エリンは咄嗟に振り返る。すぐにキュアンとフィンの姿は見えなくなってしまう。
フィンは最後までエリンを見ることはなかった。