名も亡き少女の墓標   作:ねるねるねずみ

33 / 42
5-9 私のことを好きだと言ったじゃないか……!

 まるで突風のようだ。

 わずかの間で、蹄の音はもう聞こえなくなった。それでもフィンは顔を背けたままだった。

 足腰が石化したかのように重い。それにつられてか、心中も穏やかとは程遠かった。

 彼の脳裏を占めるのは、つい先ほどの出来事。

 アレクの手を取るエリン。彼女は何のためらいもなく、彼の手に触れた。……フィンの手を取るのは散々渋ったくせに。

 それが何故だか引っ掛かった。許せない、そんな言葉が胸に浮かんでフィンは落ち込む。

 どうしてそんなことを思ったのか、全く見当がつかない。

 エリンは何も悪いことをしていない。アレクだってそうだ。シグルドの命令に従い、彼女を迎えに来ただけだ。

 それなのにフィンは思ってしまう。――エリンが攫われてしまったと。

 まるでアレクを悪者として扱う思考だ。八つ当たりのような感情の芽生えに、フィンの方が戸惑う。

 

(私のことを好きだと言ったじゃないか……!)

 

 内なる叫びに驚いたのはフィン自身だった。

 自分は何を考えているのか。たちまちに身体に熱が籠る。エリンの好きは友愛から出た発言だ。深い意味は含まれていない。

 思考を切り替えなければいけないのに、瞼の裏に浮かぶのはエリンの顔ばかり。

 

 丘の上での休息。

 自身の秘められた真実を、エリンはフィンにだけ話してくれた。あの時、ラケシスには話すように助言をしたが、フィンは静かに心くすぐられていた。

 エリンが自分を信頼してくれているのだということが、喜ばしく思えたのだ。

 風になびくエリンの金髪。蜂蜜のように滑らかな金色が陽光を受けてきらめいていた。その甘やかな色合いの髪に触れてみたいとフィンは願ってしまった。

 相乗りを渋るエリンを引き止めるのを成功した時。

 思い返しても、口元が緩んでしまう。

 負けを認めて唇を尖らせるエリンの姿が、たまらなく愛おしく思えた。

 彼女の宝石のような黒い瞳が恨めしげに見上げてくる姿すら可愛らしいと思ってしまった。

 

 いつの間に、エリンはこんなにも自分の心に深く入り込んで来たのか。

 

 初対面の彼女は、緊張をその声に乗せていた。硬質な響きの中に幼さを感じさせ、背伸びをする子供のような声音だった。

 エリンは決してそれを崩すことはない。恐らく可憐な外見で侮られることを忌避しているのだろう。自分はラケシスの騎士なのだと虚勢を張るように。

 しかしここ最近、フィンの前ではそれが埋まりつつあった。

 固く結晶化していた砂糖がふわりと溶けるように、その声は柔らかく、心地よい甘さを含んでいた。まるで懐っこい子猫のように、彼女はフィンの名前を呼ぶ。

 それが……彼の胸をくすぐらせた。

 もう少し、あの声を聞いていたい――そんなふうに思ってしまうのだった。まるで酒に溺れたように、あの声を求めてしまう。

 

(エリン……)

 

 不意に蘇る記憶。

 馬上で聞いたエリンの甘い吐息。

 それは、扇状的で繊細な響きを帯びていた。思わず手綱を引き締めてしまいそうになる自分に驚いた。

 俯いた彼女の髪の隙間から、小さな耳たぶが覗く。林檎のように赤く染まったその耳に、唇を重ねたいという衝動を覚え、己の浅ましさを恥じた。

 必死に気を散らそうと、不自然に黙り込む自分。果たしてエリンは、それを不審に思わなかっただろうか……。

 鼓動が高鳴ったと同時に不安がフィンに這い寄ってきた。

 

(エリンはあの吐息を、アレク殿にも聞かせるのか?)

 

 フィンの浮かれていた気分は、一瞬で地面に叩きつけられた。沸々とした怒りすら抱く。

 今頃エリンはアレクの腕の中。あの心地良い温もりを、あの優しい香りも、アレクは今まさに味わっている。フィンが先ほどまで感じた心地よさを、アレクも享受している。

 悔しい、そんな感覚にフィンは胸を締め付けられる。だからといって追いかけることは出来ない。そんなことをしたら自分だって違反者だ。

 ……だが、それでも。

 

「……ィン。おい、フィン!」

「はい!」

 

 主君の声にフィンは体が飛び上がる勢いで返事をした。

 見上げれば、キュアンは何とも言えない表情でフィンを見下ろしていた。呆れというより、好奇のようだ。口元が緩んでいる。

 

「随分と考え込んでいたようだな。何を思っていたのやら」

「……キュアン様のお気になさることではありませんよ」

 

 気まずさからフィンは視線を泳がせた。これ以上、目を合わせたらキュアンに全てを見抜かれてしまうような気がしたからだ。

 前髪に隠れた額から流れる汗を、主君に気付かれないようにと祈る。

 しかし、そんなフィンの切なる願いはあっさりと打ち砕かれる。

 

「よほど気に入ったようだな、エリンを」

 

 不意に、喉の奥から変な声が漏れた。

 この方は見て見ぬふりもしてくれないのかと恨めしく思って、フィンはすぐに考えを改める。この方はそういうお方だった。

 

「いやぁ、そうか。確かに、お前の周りにはいない雰囲気の娘だったな」

「キュアン様、申し訳ございませんが!」

 

 何か別の話題を切り出さねば。そう思い、フィンは咄嗟に自分のポーチを見た。流れるようにそこから空になった皮袋を取り出す。

 

「水の補給をしたいのですが、よろしいでしょうか!」

「構わないが。もう飲み干したのか」

「……はい」

 

 詳細は伏せた。知らせる必要などなかった。むしろ、言えばキュアンは面白がってさらに茶化してくるに違いない。

 フィンの手の中で、くたりと垂れる皮袋。飲み口に視線が触れた瞬間、脳裏にエリンの姿が浮かんだ。

 頬を赤らめ、目を固く閉じて水を飲むエリンの姿。その唇が――紅もさして無いのに赤く、柔らかそうな唇が、飲み口を……。

 

「あ……」

 

 瞬間、フィンは悟った。

 あの時、何故エリンが水分補給を渋ったのか。

 この皮袋は、レンスターにいた頃から使い続けている馴染みの品だった。ずっとフィンが水分を取るために口を付けていた物だ。――それをエリンが使用した。

 そこまで結びついた時、フィンの胸の奥で何かが爆ぜたように、鼓動が一気に跳ね上がる。

 エリンは恥じらっていた。嫌がっていたのかも知れない。当然だ。だって、フィンのした行為は……。

 

(間接的に口付けを強要したようなものじゃないか!)

 

 隠しきれないほどの汗が頬を伝う。呼吸が動揺に合わせて荒々しくなる。

 皮袋を握る手が震えた。何故すぐに気付かなかったのか。エリンがあんなに気まずそうだったのに、気づけなかった己の鈍さに呆れる。

 いや、違う。心配だったからだ。

 あの時のエリンは酷く消耗をしていた。何とかしてやりたくて、それで水分を取るように提案したのだ。誓って、やましい気持ちなど一片もなかった!

 

 しかし、エリンはどう思ったのか。

 

 エリンは、あかさらまにフィンを避けるような動作を見せるようになった。だが、それは水分補給をする前からだ。

 最初に手を差し出した時、彼女はためらっていた。だが、次に相乗りした時はたくさん話しかけてくれた。途中から急に口を閉ざしてしまって……その理由を今はあえて深掘りしないようにする。

 そして、キュアンの前での熱弁。

 可愛らしいと言われた時は驚いたが、すぐに彼女は言葉続けた。

 はにかむように微笑み、言葉を紡ぐ姿。普段は慎重に言葉を選ぶエリンが、恋歌を口ずさむようにフィンへの想いを語ってくれた。

 あんなにも無邪気に微笑まれて、思わず『可愛い』と感じてしまった。胸の奥が熱くなるほど、嬉しかった。……しかし、衆人の前での告白に、フィンはすぐに耐えきれなくなってしまったが。

 近付いたと思ったら、すぐに遠ざかる。蜃気楼のようなエリンの心が分からない。

 

 こんなにも他人の関心が気掛かりになるのは、フィンにとっては初めての経験だ。

 

 エリンに避けられた時、フィンの指先は凍りついた。心臓が、何かにぶつかったように跳ねる錯覚すら覚えた。

 立場上、フィンは疎まれることが多かった。見習い騎士でありながら、レンスター王子が直々に指導をしてくれるのだ。

 フィンの生家は、王家と繋がりがあった。その縁で、キュアンが何かにつけて面倒を見てくれた。幼くして肉親を失ったフィンへの同情もあったのかも知れない。

 周囲の視線や揶揄、嫉妬や侮蔑。

 そんなものは慣れていた。今まで気にしたことなどない。そんなものに心を動かす暇はないと、自分に言い聞かせていた。

 例え誰に疎まれようと、敬愛する主君さえ自分を信じてくれれば、それで十分だと思っていた。

 だが今、彼の胸に巣食う痛みは、そんな理屈では抑えられなかった。なぜこれほどまでに、彼女の気持ちに、心が揺れるのか――。

 

「どうした、フィン?」

 

 訝しむキュアンの声に、再びフィンの意識は現実に引き戻される。

 今日の自分はおかしい。主君の前だと言うのに、上の空になりがちだ。……その原因がエリンだということには気付いているのだが、何故彼女をここまで気掛かりなのかが分からない。

 空の皮袋を握り、立ち上がる。とりあえず、水を補充しなければ。

 今は昼下がり、まだまだ気温の高さは保ったままだ。

 散々怒鳴ったフィンの喉が渇きを訴え始めている。補充を終えたらすぐに水を――。

 フィンは再び硬直した。

 この皮袋を使用する。エリンが口付けた飲み口を、フィンが咥える。それはつまり……。

 

「……キュアン様」

「なんだ?」

「皮袋の予備は頂けるのでしょうか?」

 

 努めて冷静な声をフィンは出した。動揺するな、上擦るな――そう念じながら言葉を発した。

 フィンの努力が通じたのか、キュアンは特に反応せずに返答を返す。

 

「ああ、必要なら支給しよう。どうした、その皮袋はもう使えないのか?」

 

 フィンの皮袋が使い込まれた物だとはキュアンも知っている。

 

「悪くなったのなら廃棄した方がいい。レンスターの皮袋とアグストリアの物は造りが違うが、使用するのに違和感はないだろう」

「いえ、廃棄するほどでは」

 

 そこまで言いかけてフィンは口を閉ざした。失言だった。

 皆まで言わなくとも、悟られる。付き合いが長いキュアンならフィンの隠し事もあっさりと推測出来てしまうはずだ。

 ああ、駄目だ。顔が焼けつく。たとえ伏せても、今の自分の心ごと透けて見えるようだった。

 

 エリンの口付けた皮袋を捨てるのは惜しい。

 

「なるほど。エリンに水を与えたのだな」

 

 思った通りだった。いや、想像よりも正確に見抜かれてしまった。

 キュアンの顔は見られないが、どんな表情をしているのかフィンには即座に理解できる。だって、主君の声はとても楽しそうに弾んでいるのだ。

 

「ははは! 若いなぁ。思い出すぞ、私もエスリンとそういうことがあった。お前にも話したことはあったか? あれはまだ私とエスリンが出会って間もない頃、そう……夏の盛りだった。シグルドに会いにシアルフィへ訪れた私の元へ、いつものように剣の勝負を挑んできたエスリンが――」

「キュアン様、そのお話はすでに聞いております。今は、やめてください。本当に、お願いいたします」

 

 レンスターの騎士は、ほぼ全員王子夫妻の馴れ初めや交際内容を把握している。もちろん発信源は、当のキュアン王子自らだ。

 彼は隙があれば嬉々として、妻との愛の軌跡を語る。聞いてなくとも語り明かす。

 妻のエスリンはそれを恥ずかしがることもなく、にこにこと微笑みながらキュアンに相槌を打つ。

 レンスター騎士たちから、フィンが唯一同情されてるのはこれだ。きっと間違いなく、フィンは王子夫妻の惚気話をレンスターで一番聞かされている。

 話の内容に照れはするが、フィンはそれを微笑ましいと思っていた。愛し合う主君夫婦が素晴らしいとすら感じていたのだ。

 しかし、今はそれを聞きたくなかった。きっと追い討ちに近い、打ちのめされた気持ちになりそうだ。

 話を中断されてキュアンはつまらなそうだ。しかし、そこで拗ねることはない。すぐさまフィンに次の指示を与える。

 

「予備の皮袋は支給品の荷馬車にある。場所は分かるだろう? 受け取り次第、お前も瓦礫の撤去に回ってくれ」

「了解いたしました」

 

 一礼し、フィンは立ち上がる。キュアンを背にし、歩き出す。道中で顔の火照りが冷めるよう願いながら。

 それでも拭いきれない。エリンへの複雑な想い。彼女は今、アレクの腕の中で何を思うのか? フィンと比べて、その逞しさに憧れを抱いたりはしないか? ……不安で堪らない。

 あの可憐な笑顔を、あの甘い声音をエリンがアレクに与えていると考えるだけで、胸の奥に無数の棘が突き刺さる。

 落ち込むような足取りのフィンの背後からキュアンが声をかけた。

 

「お前が勝負すべき相手は、アレクではないと思うぞ」

 

 その声が真剣なものであったから、フィンは思わず振り返った。

 キュアンの優しい眼差しの奥に、どこか労るような、懸念の色が滲んでいた。

 フィンは彼の言葉の意味が理解できなかった。

 そして――。

 

 この言葉の真意を理解出来なかったことを、フィンは生涯後悔することとなる。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。