「レヴィンさん、この後どうするんです……?」
確かにレヴィンの宣言通り、この場は収まった。
だが、停戦した訳ではない。すぐにでも戦いは再開されるだろう。
心配するエリンに対してレヴィンの態度は変わらない。彼は空に目を向けたまま、微動だにしない。
「そうだな。そろそろ降りてくるだろう」
彼の見る先に襲撃兵らが集っている。会議でもしているのだろうか、円陣を組むように固まっていた。
やがて一騎のペガサスがゆっくりと下降してきた。好機と見たのか、地上の兵達が各々の武器を構える。
「やめろ、手を出すな!」
即座にレヴィンが制止する。堂々と響いた、その号令に兵達の手が止まった。まるで王者の命令に従うように。
何人かの兵は、すがるようにアーダンを見た。しかし、アーダンは兵たちを制止させるために首を横に振った。レヴィンの言葉に賛同するように。
そうしているうちに一騎のペガサスがエリンたちの目前に着地する。
大きな白い翼が折り畳まれると、それに隠れていた騎手の姿があらわになる。
エリンは目を見開いた。ペガサスナイトの正体が、若い女性であったからだ。
ペガサスから軽やかに降り立ったその女性は、まるで雪の中から現れた幻のようだった。
腰まで伸びる淡い緑の髪が、風に揺れて柔らかく広がる。その色は、レヴィンのものと同じだった。潤んだように光を湛えた、暗緑色の瞳。
引き締めた口元と真っ直ぐな視線は、幼さを隠すように凛としていた。それでも、整った顔立ちにはどこか清らかなものがあった。その顔は真っ直ぐにレヴィンへと向けられている。
純白の鎧に包まれた肢体は細く、一見頼りなさを覚えてしまう。
女性は護身のためからか、自身の武器を手放しはしなかった。その槍はまるで雪そのものだった。柄の白さに、金の細工が薄く光っている。陽光が金細工の彫りを浮かび上がらせる。
風の足跡のような波細工――それはエリンの腕輪の彫りとよく似ていた。
「フュリー⁉︎ どうしてお前がここにいるんだ?」
レヴィンが動揺の声をあげた。その声に、エリンは思わずレヴィンを見た。――どうやら、彼にとっては馴染みの顔らしい。
その慌てぶりは、エリンを抱き寄せる左腕にも表れていた。力がこもり、エリンの体がぐっと引き寄せられる。息が詰まり、彼女は喉を鳴らした。
「あ、悪い……」
レヴィンはすぐに力を緩めてくれたが、抱き留める腕を解くことはなかった。そのぬくもりに包まれながら、エリンはふと、胸の奥に小さな優越感のようなものが芽生えているのに気づいた。
――この人は、私だけのもの。
そんなことを、目の前の女性に告げつけたくなってしまう意地悪な自分がいた。その衝動が、知らない誰かのようで、少し怖かった。
フュリーと呼ばれた女性は、レヴィンの腕の中のエリンを見つめていた。その瞳には、微かに沈んだ色が浮かんでいる。
「……それはこちらの言葉です」
彼女の声は、よく通る高音だった。澄んでいながらも、どこか不安を抱えた響き。
答えを探すように、フュリーの瞳が宙を泳ぐ。だがすぐに意を決したように、彼女は顔を上げた。
「その子は誰なのですか、レヴィン王子……」
静かな問いかけは、周囲にざわめきを巻き起こした。そして、誰よりも大きな声で反応したのはエリンだった。
「レヴィン王子⁉︎」
驚いてレヴィンの顔を見れば、彼は気まずさから口元を歪ませていた。すぐさまエリンの視線に彼は気付く。
「あー……その反応は、やっぱり忘れていたのか」
「知らないですよ! そんなこと!」
初耳だ。衝撃のあまり、エリンはレヴィンの言葉を聞き流してしまった。
彼は、エリンに「忘れていたのか」と言った。
しかし、彼女は気付かない。体の奥底から怒りが湧き上がったのだ。憤怒の衝動はレヴィンを責める言葉となって、エリンの口から飛び出した。
「一国の王子が、このようなところで何してるんですか! 何が旅の吟遊詩人ですか! 王族としてのご責務をお忘れですか! 」
矢継ぎ早にエリンはレヴィンを問い詰める。エリンの勢いにレヴィンはたじろぐ。
「あのなーあまり喚くな。お前の声は耳に響くんだ」
「どうせ子供の声だからとか言うのでしょう! あなたは、いつもそうやってはぐらかす!」
「急に吠え出したなぁ。機嫌直せよ、な?」
「笑えば許してもらえるとお思いですか? そうやって、いつもいつも人を誑かして!」
「人聞きが悪い。お前は本当に昔から――」
「あのぅ……」
恐る恐ると口を挟んできたのはフュリーだった。
「その子は、レヴィン王子の……その、大切なお方なのでしょうか?」
「違います!」
弾けるように否定したのはエリンだった。
「こんな人、私は存じ上げません!」
唇を尖らせてそっぽ向く。子供のような振る舞い。普段のエリンだったら絶対にしない。でも、今は別に恥ずかしくなかった。だって、悪いのはレヴィンなのだ。
困ったように眉を下げながら、レヴィンは拗ねたエリンを見ていた。そして、彼は改めてフュリーに言う。
「コイツは……エリンだ。俺の妹分」
「レヴィン王子! 勝手に決めつけるのは、おやめください!」
悪びれもなく嘘をつくレヴィンにエリンは吠える。
「貴方の妹分なら、シルヴィがいるでしょう!」
「お前、律儀にアイツをそう呼んでるのか」
「シルヴィがそう願いました!」
――エリンっていくつ? 私と同じくらいだよねー! じゃあ、そんな堅苦しい話し方やめてよ。
――ほらー、シルヴィ! シルヴィって呼んでね。私もエリィって呼ぶね。よろしく、エリィ!
出会った日の夜、グイグイとシルヴィアが絡んできたのだ。どうやら恋敵を牽制しに来たらしい。
しかし、すぐにレヴィンのエリンに対する視線に色恋が含まれていないことを察したのだろう。手のひら返したようにシルヴィアはエリンに懐っこく接してきたのだ。
エリンは遠慮し、断ったのだが迫るシルヴィアの勢いには勝てず了承してしまった。互いに愛称で呼び合うことを。
新たな女性の名前の登場に、フュリーはさらに泣きそう顔立ちになる。
「あの……シルヴィというのは、どなたなのですか?」
「いや、それは……今はいいだろう。それよりもどうしてお前がここにいるんだ」
フュリーもはぐらかされたことが腑に落ちないようだ。彼女の瞳が、困惑と寂しげな色に揺れた。しかし、それを口には出さない。控えめな性格なのだろうか、彼女は生真面目にレヴィンの問いかけに返答を行った。
「アグスティのシャガール王が、レヴィン王子はエバンスで囚われていると仰られまして」
どうやらこのフュリーという女性は素直な人物らしい。シャガール王がどのような人かを知るエリンは彼女の純粋さを実感した。同時にかの王に対してますますの不信感が湧き上がる。
フュリーたちは騙されて、先鋒隊にされていたのだ。彼女たちの手で、エバンスが落ちれば儲け物。失敗しても、アグスティは無関係だとシラを通せる。多かれ少なかれ、シグルドの兵は自国とは無関係の隊により減らせる。
どう転んでも、シャガールの得にしかならない。
レヴィンも同じ感想を抱いたようだ。呆れたように漏らしたため息は、目の前のフュリーに向けてではないだろう。
「相変わらず騙されやすいなぁ、フュリーは」
からかうような口ぶりにフュリーの表情に翳りが宿る。どうやら落ち込んでしまったらしい。
レヴィンに彼女を追い詰める気は無いようだ。だが、フュリーはそう受け止めてしまっている。
さすがにエリンは哀れに思い、レヴィンの横腹をこずいた。
「レヴィン王子、それは失言です。心配してくれた方に対して無礼ですよ」
「あー……それは悪かった。そんなに睨むな、エリン。機嫌直せって」
「機嫌を取る相手は、私ではないでしょう! だって、あの人は――」
――あの人は……フュリーは……。
「あなたの恋人でしょう!」
同時にレヴィンとフュリーが咳き込んだ。
恋人、その単語を口にしたエリンも慌ててレヴィンの腕の中でもがいた。エリンの体を包むレヴィンの右腕を、乱暴に引き離す。その勢いのまま、彼女はレヴィンから距離を取った。
「こ、こら! 人の中で暴れるな」
「貴方が無理矢理抱きしめてきたのでしょうが!」
我に返れば、自分が人々の視線の真ん中にいることに気づいた。
ようやく恥じらいがエリンに追いついた。彼女の顔が赤く火照る。
この男は、なんという恥晒しだ。衆人の前でこんな狼藉を行うなんて……! しかも、悪びれもせず、大切な人を傷つけたまま――謝罪の一言もない。
ついにエリンの怒りが頂点に達した。
腰に左手を当て、右手はレヴィンを指差した。
「愛する人を前にして、何とふしだらな行い! 慎みを持ちなさい!」
レヴィンは絶句していた。
周囲の兵たちもだ。彼らもまたエリンを哀れな少女としか認識していなかったのだろう。しかし、今、目の前の彼女はどうだ?
まるで高貴な令嬢のように、年上の男に礼節を説いている。日頃のような遠慮がちな姿は、どこにもなかった。堂々と、声を張り上げてレヴィンを睨みつけていた。
「あの……違います、エリンさん。違うんです……」
緊迫した空気を裂いたのは、またもやフュリーだった。彼女の顔も朱に染まっていた。目を伏せて、体を震わせて、声だって羞恥で揺れていた。
「わ、私とレヴィン王子は……そういう間柄では、ありません……」
「そんなわけないでしょう?」
エリンは首を傾げた。
ペガサスの翼からフュリーが顔を覗かせた時、彼女はまず先にレヴィンを確認した。その時の表情――安堵が一番大きな割合を占めていたが、その中に慕情のような照れも見えた。細めた目は、恋に陶酔する乙女のようだった。
そして、フュリーを見るレヴィンの瞳。驚きもあったが、別の感情も浮かばせていた。それは――喜色。湧き上がる温かな想いを隠すように、彼は声を発していた。
どう見ても二人は想い合っている。それを実感した時、エリンの胸に棘が刺さった……気がした。
そして、痛みはエリンに冷静さを取り戻させた。
自分は今、何をしている? こんな大勢の前で声を張り上げて……。
たちまちにレヴィンを糾弾せんとする勢いは削がれた。彼を指差す右手がゆるゆると下がる。
エリンの変貌を知らないフュリーは、恥ずかしいのか目を伏せている。彼女の長い睫毛が震えていた。
「畏れ多いことです……。私には、王子の隣に立つ資格は、ありません……」
涙が込められた声だった。
諦めようとして、それでも失いきれない……そんな想いが込められているように聞こえた。
エリンの良心が痛む。それはレヴィンも同じだったのだろう。バツの悪い顔で彼はフュリーを見ていた。
「……フュリー、すまない。言い過ぎた」
「い、いえ……私は別に」
それでもフュリーの顔色は晴れない。きっとこの人は真面目な人なのだ。
恋に臆病なのではない。ただ、身分差という壁の高さに、心が折れかけているのだろう。その壁を壊すことも、乗り越えることも自分には不可能だと、思い込んでいる。
哀れな人だと、エリンは同情した。そして……どうしてだか、彼女の気持ちが痛いほどに理解できた。
エリンの中に浮かぶのは、夏空を象徴する太陽のような最愛の人。
――ラケシス様……。
ため息のように、その名を胸の奥で静かに呼ぶ。忘れかけていた自分の輪郭が、そこから少しだけ戻ってくるような気がした。
エリンの右手が縋るように左手首の腕輪をさすった。恋する乙女を前にして、エリンも思う。ラケシスに会いたいと。
だって、騎士になりたいエリンを造ってくれたのはラケシスなのだ。彼女こそが、エリンの存在意義。
ラケシスとの絆を疑ったから、こんなにも自分を見失ってしまったのだろう。今日のエリンはエリンじゃない。知らない誰かに乗っ取られてる。
空の青さが、エリンにもう一人を思い起こさせる。
日差しの中で見た、あの青年の髪――心を揺らす、やわらかな青を思い出させた。
しかし、エリンはそれをあえて無視した。思えば、彼の存在こそがエリンの心を崩したきっかけでもある。
共に過ごす時間が増えればきっと――騎士を目指した志しも見失ってしまう。彼の手の温もりだけを求めてしまう。
ちょうど良い。だって、もう嫌われてしまったのだ。これでもう、エリンの心が揺れることはない。
喜ばしいことなのに……エリンの表情は傷付いたように暗かった。
沈黙したエリンを置いて、レヴィンは会話を進め始める。
「フュリーが、エバンス城を襲撃した理由は分かった。俺がさらに聞きたいのは、お前が何故アグストリアにいるのかだ」
「王子をシレジアに連れ戻すためです」
フュリーは語る。
二年前にレヴィンが出奔して以来、彼の母である王妃ラーナが心を痛めているという。彼女の命により、フュリーが隊長として捜索隊が派遣されたそうだ。
対してレヴィンは渋った。後ろめたさから、フュリーから目を背けた。その顔は苦いものを噛み締めたかのように顰めていた。
「王位を継ぐつもりは無い」
断言すれば、フュリーは息を飲む。しかし、それを気付かないフリしてレヴィンは言葉を続ける。
「こんな俺なんかよりも、志のある叔父達が王位を継げばいい。……その方がシレジアの民にとっても良いはずだ」
「それはなりません! シレジアの国民は貴方を望んでいるのです! お願いです、王子。ラーナ様は泣いておりました。どうか……どうか、シレジアにお戻りください」
レヴィンの前で、懇願するように跪くフュリー。頭は深々と垂れ下がり、鎧越しでも分かる細い肩が震えている。
これまで成り行きを眺めていた兵たちは自然とレヴィンに厳しい目を向ける。無論、エリンもだ。アーダンだけが、困ったようにレヴィンを見ていた。
今、この屋上でレヴィンは全ての人物の敵となってしまったのだ。己のわがままひとつで、か弱い女性を泣かせたのだ。当然の報いである。
分が悪いと察したレヴィンは、見るからに慌て出した。
「分かったから、泣くな……。考えておく」
「……本当ですか?」
見上げるフュリーの深緑の目は濡れている。雪のように白い、その頬を伝う涙の痕が日に照らされて煌めいた。ますます周囲はレヴィンを睨みつける。
普段の飄々とした空気はどこへやら、レヴィンはすっかりと参っている様子だ。
「泣き虫なのは、変わらないな」
泣かせたのはお前だろう。
そんな圧が一斉にレヴィンへと飛びかかった。その場にいる誰もが、言葉にせずとも非難していた。針の筵だ。心配そうに見守るアーダン以外、誰もレヴィンに同情はしてないようだった。
しかし、フュリーにはもう充分であったようだ。彼女はゆっくりと立ち上がる。その目はもう、泣いていなかった。