城外に留めていた老馬を迎えに行きたいというエリンの申し出は認めてもらえた。
「こんな遅い時間に、エリン一人では危険だわ」
ラケシスの心配を汲み、シグルドはアレクに指示した。エリンに同行するようにと。それを受けると、アレクは即座に了承した。そんな彼に、オイフェがますます厳しい眼差しを向けていたが……。
ノディオン城からそう遠くもない距離の林が目的地だ。ランタン片手に二人は徒歩で進む。時刻は夜半過ぎ、冷気を纏う夜風がザワザワと木々を揺らす。頭上には、凍えるような夜空が広がっていた。冷たく澄んだ空気のせいか、星々はひときわ鋭く、痛いほどに美しく瞬いている。夜の黒さを吸収した雲ですら、その光を遮ることは出来ない。
そう時間も掛からずに老馬と再会する。
老馬は眠ることなく、エリンの帰りを待っていてくれた。落ち着くことは出来たのか、呼吸は穏やかだ。肌寒かっただろうに、老馬はそれを抗議する素振りを見せなかった。
「良い馬だな」
感心するようにアレクが言った。
「俺の馬よりも貫禄がある」
「かつては数多の地を駆け巡った名馬だったそうです」
不思議とすんなりと言葉が出た。
アレクという人物は話しやすい雰囲気を纏っているようにエリンには感じた。だが、それでも気安く接することはできない。
長く自分の声を他人に聴かせるのが、エリンは怖い。変な声だと揶揄われないだろうかと、いつだって不安になる。
だから今も、エリンの声は硬さが保たれている。戦に赴く兵士が鎧を着込むように。
「私の乗馬練習にも、よく付き合ってくれました」
木の幹に繋いだ手綱を緩め、エリンは老馬の鞍には乗らない。手綱を引いて歩き出そうとする。
「乗らないのかい?」
「アレクさんが馬に乗ってきていないのに、私だけが楽するわけにはいきません。それに……」
エリンはアレクを見つめる。
今宵は雲の多い空だ。雲間からわずかに差し込む月光だけでは相手の内面までは読めない。
「私が馬に乗ったら、あなたは私を斬るでしょう?」
アレクは動揺を見せない。ただ、柔和な笑みを整った顔に浮かべているだけだ。
「あんたは可愛いだけじゃなく、賢いんだ。……いいね。俺は好きだぜ、そういう子」
飄々と嘯くその語り口にエリンは身を震わせる。口説き文句に心ときめいたのではない。彼の騎士としての非情さを言葉の裏から読み取ったからだ。
「シグルド様があなたを私に付けたのも、私を監視する目的なのでしょう」
姫の友人と名乗り信用を得て、場内に侵入。戦力の確認を行い、馬を取りに行くと伝えて元の軍に引き返す。ハイラインは易々と敵の状況を知ることが出来る。
これが上手くいけば、ノディオンはさらに窮地に陥れられるだろう。
そうならぬように先に対処を行ったのだろう。エリンの剣は返してもらっておらず、逃亡の素振りを見せたら処分するための人間も同行させた。
「私のことをシグルド様たちが警戒なさるのはごもっともです。ですが、私は決してラケシス様を裏切るような真似は致しません」
体の震えは止まらない。恐怖からか悔しさからか……その両方か。エリンには分からない。
それでも、アレクから目を逸らさないように努める。己が彼に恐れていることを悟られないように、暗がりがエリンの内面を覆い隠してくれることを願う。
対応を間違えれば、斬られるのだ。死を恐れて逃げても、ラケシスに失望される。それが何よりも恐ろしい。
しばし見つめ合う二人であったが、やがてアレクが口を開いた。
「シグルド様は純粋にあんたを心配してくれただけだ。何の含みもない、安心しな」
敵意は無い、そう示したいのかアレクは両手を軽く上げた。
「エリンが思うよりもシグルド様はお優しい。きっとあんたのことはもう疑ってもいないはずだ」
「……では、貴方は何のために私に同行したのです?」
「だから護衛だって! あんたみたいな可愛い子が一人だと危ないだろう……これも俺の本音だ」
もう見抜いているだろうが、とアレクは言葉を繋げる。
「もしもハイラインに戻るようなら、斬るまではしなくとも、あんたを捕縛するつもりでもあった。だが、これは俺の独断だ。エリンがもたらす情報によってシグルド様が窮地に陥ったらとんでもないからな」
「……アレクさんは正しいです」
エリンの中で少しだけアレクの評価が上がる。彼も主君を案ずる騎士なのだと実感した。
「開戦間際の事態です。私のような人間を無条件に味方に引き入れるのは、却って毒になるでしょう」
せめて情報の土産だけでも、と思えどエリンはハイラインの重鎮ではない。義父であるフィリップはそうであるが、彼から作戦内容などを聞き込む時間や余裕なんてなかった。
アレクが一歩、エリンに近寄る。
「なぁ、教えてくれないか? エリンは何故ノディオンに付いたんだ」
「私は、ラケシス様をお守りしたいと……義父も強く勧めてくれました」
「エリンが知らないだけで、俺たちが援軍に向かってるって情報、ハイラインに入ってたんじゃないのか?」
軍議室でも推測はしたが、おそらくそんなことはないだろう。ノディオン城に兵がないと知って、王たちは意気揚々と城攻めを計画し始めた。もしグランベルからの援軍の報が届いていたなら、もう少し慎重になったはずだ。
勝利を確信した高揚に包まれて、ハイライン城はひとつの熱に浮かされていた。
「だったら何故? 俺たちはエリンの父親については知らないが、あんたを可愛がっていることが話を聞いてて分かる。可愛い愛娘を危険な場所へと、たった一人で送り出せるのか?」
アレクの問いかけに対して、エリンはすぐには答えなられなかった。右手が自然と左手首の腕輪を撫でた。少し考え、やがて話すことに決めた。
口に出すのもおぞましい、その理由を。
「ハイラインの王子エリオット様が私を差し出すよう、義父に命じました」
アレクの余裕が崩れた。彼の感情に浮かび上がったのは、嫌悪。エリンにも、それがありありと伝わってきた。
「それは、つまり……」
「貴方のご想像通りですよ」
言い淀むアレクに対し、吐き捨てるようにエリンは肯定した。
◆ ◆ ◆
それは開戦を前にした、今日の昼の出来事。
軍議室から戻ってきた義父は裾の乱れた軍装のまま、肩を落としている。その姿は、まるで敗戦兵のようだった。目尻に刻まれた皺の一つ一つが、この数日の苦悩を物語っていた。
深い栗色の髪に櫛を通す余裕もないのか、癖が目立つ。伏し目がちに垂れたまぶたの奥に光は乏しく、口元に蓄えた髭も手入れが行き届いていない。疲労と憂いに彩られたその姿は、義父を年齢よりも老けて見せた。
執務机には書きかけの報告書が積まれ、窓から差し込む日差しがその上に斜めの影を落としている。フィリップが腰掛けた椅子は、背もたれが悲鳴のようにわずかに軋んだ。
侵攻をハイライン王が宣言した日より、軍議は休みなく長時間繰り広げられた。義父の身体を蝕むのは、それによる疲労だけではないのだろう。
これから行われる戦には義が無い。それが何より義父の精神を、誇りを消耗させられた。
執務室の整理整頓を行なっていたエリンは、その手を止めて義父に話しかける。
「お義父さん、大丈夫? 昼食は軽い物にするよう頼んでおいたよ」
ここしばらくの義父は食が細い。多大な精神疲労のためであろう。日々やつれてゆく義父をエリンのみならず、義父の部下たちも心配していた。
「今、副隊長がコックから受け取りに行ってるの。もう少しで帰ってくるから」
「ありがとう、エリン」
優しい言葉遣いで義父は微笑みをくれた。
「お前たちには心配をかけてばかりだ」
「そうだよ。副隊長が、最近の隊長は酒の付き合いが悪いって文句言ってたもん」
「ははは、そうだな。今回の厄介ごとが片付いたら、アイツのからみ酒にまた付き合うか。……ああ、その前にドナの墓参りをしなければな」
ドナは、エリンの母親の名前だ。
フィリップの提案にエリンは静かに頷いた。
最愛の母ドナの命日が、あと数日に迫っている。母が亡くなってから義父は一度たりとも彼女を忘れたりしてない。
さらには、亡き妻の娘を手元に置いて慈しんでくれる。血の繋がりがなくとも、フィリップは我が子のようにエリンを育ててくれた。
エリンは彼の愛情深さに有り難く受け入れている。
「そのためにも、ちゃんとご飯を食べないと! お義父さんの体力が保たないよ」
急かすようにエリンが訴えれば、義父は困ったように笑う。
前々からハイライン王の不穏な動きは噂になっていた。ついにこの日が来てしまった──エリンが思ったのはそれだった。
義父に鍛えられ、騎士としての実力を付けつつあった。そして、王の許しさえ得れば、エリンはノディオンへと移れる。
夢に見たラケシスの騎士になれる――叶うのは目前まで迫っていた。
このような事態になればエリンの移籍は難しいだろう。仕えるのならば、ハイライン王にということにされてしまうはずだ。
心苦しいのはラケシスを──エリンにとって太陽のような姫君を護れないということだ。
初めて出会った時に見せてくれたあの輝かしい笑顔。彼女を守るために己は生まれてきたのだと、強く思った幼き日の記憶。
宿願を果たすために、ハイラインを出奔することも思案した。しかし、それは無理だ。
裏切れないからだ、義父を。
義父はきっとハイラインと共に在り続けるだろう。忠義の人だ。例え自身の感情とは別にあっても。
己にも人にも厳しい人だ。そして、誰よりも優しい人だ。九年前、開拓村に身を置くドナとエリンを匿い、尽くしてくれた。余所者のドナを愛し、その子のエリンを我が子として育ててくれた。
その翌年、ドナは衰弱の末に帰らぬ人となった。
フィリップは、誰よりも多くの涙を流して死を悼んでくれた。その後も変わらずエリンの父親で在り続けてくれた。
そんな義父フィリップにエリンは言葉に尽くせない恩義を感じている。血の繋がりは無くとも父親として心から慕っている。
だからこそ、彼が憔悴しているこの姿は見てられなかった。
「そうだ! 今日の夕飯はお義父さんの好きな兎肉のシチューを頼もうよ」
無理に口角を上げた笑みは、義父の疲れをどうにか和らげたい一心だった。何も知らない無邪気なふりしてエリンは懸命に義父を戦の気配から連れ出そうとする。
「ねぇ、ひさしぶりに副隊長や他のみんなで一緒に食べようよ。……明日からしばらく大変だから、きっと……みんなは了承してくれると思うの」
「……エリン」
フィリップはエリンをじっと見つめたまま、静かに口を開いた。
「お前はノディオンへ行きなさい」
苦味を噛み締めるように、フィリップは矢継ぎ早に言葉を続ける。まるでエリンの反論は聞かないというように。
「夜がふける前に、ここを発ちなさい。迷う暇はない」
「お義父さん、でも――」
「後のことは気にするな。私の部下たちに話は通す。お前は何も気にすることはない」
「どうして……」
理由を問おうとした時、執務室の外が騒がしくなった。宥めるような兵士たちの声を遮り、扉が乱暴に開かれた。
乱入者の姿を確認して、フィリップは椅子から立ち上がる。エリンも姿勢を正して直立した。心中で乱入者を歓迎していなくとも、快く迎え入れなければならない。
この相手をどんなに嫌っていても。
ハイライン王の長子、エリオット王子だ。