回想1 ……あなた、ごめんなさい……
春の終わり――花が散る夜に、エリンの母親ドナは息を引き取った。
蝋燭の灯りに照らされたドナの眼は、ひどく濁っていた。煌めく黒曜石のようだった瞳は、今は焦点が合わない。ただ、虚ろに虚空を眺めていた。
「……ごめんなさい」
死の数日前から、ドナは掠れた声で謝罪を繰り返した。
彼女は容姿だけでなく、声も美しかった。鈴の音のような華奢な声。
しかし、歌を口ずさめば、その声に力が籠る。儚げな容貌とは打って変わって生命力に溢れた歌声が朗々と響きわたるのだ。
エリンは母の歌が好きだった。ここ最近はその歌声はごくまれにしか聴かされなかった。口ずさんでも、かつてと違って弱々しい。
母は、もう歌えない。
代わりに、ひゅうひゅうと苦しげな呼吸を喘ぐ。
それでも彼女は言葉を発した。
「ごめんなさい……あなた、ごめんなさい……」
そしてドナは両手を伸ばすのだ。まるで抱擁を求めるように。
その相手はエリンではない。母はもう、娘を見てないからだ。
伸びた両腕は痩せ細っていた。あと少し痩せてしまえば、肉が消えて骨と皮のみになる。
ギリギリの範囲で、ドナの美貌は保たれていた。本人がそれを知ることはない。夢幻の人となった彼女は、エリンの知らない誰かに懇願する。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
許して、とドナは言わなかった。涙が込められた声は確かに贖罪を求めているのに、彼女は決して口にはしなかった。
幼いエリンが着込む寝衣は春とはいえ分厚く、重たかった。ハイライン城壁内に建てられた、義父の屋敷はまだ冷えるのだ。
真新しいレースのカーテンが風に揺れていた。蝋燭の炎が影を踊らせ、母の痩せた頬を淡く照らす。
頬は痩け、唇は乾いてひび割れている。絹糸のようだった黒髪も、艶が失われていた。
長い睫毛を震わせる姿は、泣いているようにも見えた。
「おかあさん!」
耐えきれず、エリンは母を呼んだ。以前のように答えて欲しかった。
――なぁに、エリン?
甘露のような優しい声。あの声でエリンの名前を呼んで欲しかった。
そして、温かな手のひらでエリンの頬を優しく包み込んで欲しかった。
――エリン、大好きよ。私の宝物。
歌うように、囁くように、そう言って欲しかった。
しかし、愛娘の訴えにもドナは何の反応を見せない。彼女は謝罪を繰り返す。罪人が、懺悔するように。
蝋燭の灯りが母の腕輪を輝かせる。痩せた左腕に、その腕輪は大き過ぎた。手首に収まるはずのそれは、肘まで垂れ下がっている。
腕輪の緑石は灯りに照らされて若葉色に光る。
母娘の寝室には、フィリップもいた。
彼は、部屋の隅にじっと立ち、何も言わずに妻であるドナの最期を見守っていた。
フィリップは、流浪のドナを伴侶とし、血の繋がらぬエリンも我が子として迎えてくれた。
ハイライン直属の騎士、その身分ゆえにこの婚姻には多くの反対を受けた。しかし、フィリップはそれを跳ね除け、ドナを正妻とした。
夫婦となっても、彼らの寝室は別であった。フィリップが幼いエリンに気遣ってくれたのだろう。母娘だけの広い寝室を用意してくれた。
暖かい部屋。
柔らかなベッド。
美味しい食事。
フィリップは、まるで夢のような生活を与えてくれた。
開拓村で住んでいた頃の狭くて、隙間風の酷い納屋のような家とは大違いだ。……だが、エリンはその小屋での暮らしを、決して嫌ってはいなかった。
肌寒い夜は、ドナに抱きしめられて暖を取った。熟れた果物のような母の甘い香りが好きだった。
その香りも、今は無い。
エリンは母に縋り付く。おかあさん、おかあさんと必死に呼びかける。少しでも長く、母を現世に留めるために。
フィリップは何も言わない。ただ、静かに涙を堪えている。
最期まで、母はエリンの名を呼んでくれなかった。
◆ ◆ ◆
日が登ると、密やかにドナの遺体は燃やされた。
火葬は、この地ではあまり行われない風習だった。何故なら、死者を火で燃やすのは罪人に対する処置として知られている。
これはドナ自らの願いによるものだ。まだ意識が混濁する前の彼女が懇願した。
――私が死んだら、その骸を燃やして。そして、骨は海に捨てて……。
無論、エリンは反対した。フィリップもだ。珍しく彼が声を上げて拒否した。
しかし、ドナの決意は固かった。どうか、どうかと涙を流す彼女に、最終的に二人は折れるしかなかった。
火葬後の母は、とても小さくなっていた。幼いエリンが抱えられるほどの小ぶりな壺、その中に全てが収まるのだ。
その軽さを実感した時、エリンは静かに涙をこぼした。
せめて骨だけでもいい、自分の傍にいて欲しい。そう思うほどに、エリンは母のぬくもりを求めていた。
しかし、それは叶わない。母が土の下で眠ることを願わなかったからだ。
喪中旅行と称して、フィリップと二人でエリンは海まで馬乗りした。なるべく知り合いに見られぬように、ハイライン城から遠い北の地――マディノ城付近の海岸に向かう。
海向こうの大陸には、ブラギの塔がある。せめて、かの神の慈悲が届くようにとフィリップがドナを悼んだのだろう。
涙で腫れたエリンの目に、青々と広がる海があった。
もう夏は近い。太陽が、腹立たしいほどに海原を眩しく照らしていた。キラキラと輝く海面は、まるで宝石で出来ているようだ。
こんな綺麗なところで眠れるなら、母はきっと喜んでくれる。もう苦しむことは無いんだ。――エリンは、そう思い込む。
海の向こうには何隻も帆船が揺れていた。粗末な帆だが、どれも美しく整っている。オーガヒルの海賊船――義賊と呼ばれる彼らの船だろう。
船の上では、金の髪を束ねた子供が父親らしき髭面の男と笑い合っている。
遠目からその様子を見て、エリンはまた悲しくなった。
◆ ◆ ◆
エリンは父親を知らない。ドナはエリンの父について何も語ってくれなかった。
フィリップが新たな父となってくれたが、どうしてもエリンは距離を取ってしまう。彼の家に迎え入れられて半年以上過ぎたのだが、未だに父と呼べずにいる。
人見知りの激しさと、騎士という役職の人間をエリンは信用できなかったのだ。
ドナはど何故だか、騎士を信じていなかった。エリンにも強くそれを言いつけていた。彼らに頼ってはいけないと。
エリンは忠実にその教えを守った。しかし、開拓村で過ごす母の体がいよいよ限界を迎えた時にそれを破った。
咳き込み喀血するドナを小屋で寝かせ、小さなエリンは飛び出して助けを求めた。たまたま村に視察に来ていたフィリップがそれに応じてくれた。
慈悲深い彼は、医師を呼んでドナを助けてくれた。……それが夫婦の馴れ初めであった。
あんなに騎士を嫌っていたドナが、あっさりとフィリップの求婚を受け入れた――。そのことに、幼いエリンは戸惑った。もしかして、無理やり母に迫ったのかもしれない。
そんな疑念すら、心の中に芽生えていた。フィリップはそれが可能な身分であるから。
だが、フィリップはまるでエリンの疑念など気にもしていないように、変わらず母子に尽くしてくれた。
今回のように母の最期の願いですら、仕事を休んで叶えてくれる。
少しずつ、フィリップを信じてみたいという気持ちが、エリンの胸の奥に芽生え始めていた。……しかし、それでも父とは呼べない。
フィリップが愛したのはドナで、その娘エリンはそのおまけかも知れない。彼を父と呼んだ時にもしも……迷惑そうな目で見られたら、拒まれたら――。そう考えたらエリンに勇気が出なかった。
彼女は今も、あの出会いの日と同じように、彼を「騎士様」と呼ぶしかなかった。
ドナの散骨が終わると、束の間の静寂が破られた。フィリップの周囲には、声高な者たちが集まり始める。
――代々続いた由緒ある騎士の家名を、途絶えさせる気か?
ハイライン王ボルドーが率先して、フィリップに圧をかけたのだ。王の臣下たちもそれに続く。
アグストリアの「連合」という形態が、彼らを焦らせるのだ。仮初の均衡は保たれているが、どの国も虎視眈々と自らの利を狙っている。
現在アグストリアを束ねるアグスティ王イムカは、和平派である。彼が目を光らせているうちは、小競り合い程度ですむだろう。
だが、その先には暗雲が立ち込めている――諸侯たちは口を閉ざしながらも感じていた。
後継となる王子シャガールの評判は良くない。武によって、早急さを求める性質がある。
代替わりすれば、危ういところで保たれていた平穏が崩れるであろう。
だからこそ、ハイラインの王とその家臣たちは、戦の要であるフィリップに、次の世代を託したかったのだ。
しかし、フィリップはそれを拒み続ける。
――私の愛した女性は、ドナただ一人。
――私の愛する子は、エリンただ一人。
彼は繰り返し、王らにそれを言い続けた。……しかし、幼いエリンはそれを知らない。
フィリップが愛していたのは、エリンの母親ドナ。ただそれだけ。
ならば、その母がいない今、自分はもう傍にいる意味すらないのかもしれない。
エリンの被害妄想はハイライン王子エリオットの暴言によって、ますます加速した。
――お前みたいな卑しい身分の人間が、この屋敷に留まっていること自体が間違いだ。
――母親と同じく、フィリップに媚びて取り入るつもりか? ああ、そうでもしなければ、お前のような役立たずは野垂れ死ぬしかないからな。
――どうせなら、俺が飼ってやろうか? ちょうど猫が欲しかったんだ。
エリオットは取り巻きである貴族の息子たちを引き連れて、ほぼ連日のようにエリンを責めた立てた。
幼いエリンは耐えるしかなかった。彼らに逆らえば、きっとフィリップに累が及ぶ。それだけは、何としても避けねばならなかった。怒ったフィリップにより、エリンは即座に屋敷から追い出されるかも知れない。
エリンは思い込んでいたのだ。どこから来たかも分からない自分など、フィリップに愛されるはずがないのだと。
屋敷に閉じこもっても、エリオットたちはわざわざ押しかけて来て、エリンを罵った。結果、エリンの内向的な性格がますます強くなってしまった。誰に対しても怯え、恐れるように言葉を閉ざす。
さらには、彼らによる揶揄いが原因で、エリンは大怪我を負わされた。幸い命に別状は無かったが、心に深く傷を負った。
◆ ◆ ◆
笑顔が失われてゆく義娘を憐れに思ったのだろう。ノディオンへの使者に任命されたフィリップはエリンの随行を王に願い出た。
他国でなら、迫害されることはないだろうとフィリップは縋った。
エリンが暗いのは、虐めだけではない。亡き母恋しさに毎夜一人で声を押し殺してエリンは泣いていた。屋敷の者が彼女を心配して声をかけても、布団に頭まで包まるエリンは「何でもない」と拒絶をする。
少しでもこの澱んだ呪縛から解放されるならばと、フィリップは無理を承知で願い出た。
驚くことにその申請はあっさりと許可された。
ボルドーはエリンたち母子を疎んでいた。我が子エリオットの横暴も見て見ぬふりをするぐらいに。
病に侵された異国の女――その女の妖しい美貌に、忠臣フィリップまでも誑かされたと信じて疑わなかった。
由緒ある騎士家系のフィリップと、身元知れずの女ドナ。
その婚姻は、貴族社会では【あり得ない】に限りなく等しい。王族や身内、その全てからの信頼を失っても無理はない、噂にもしたくない愚行であった。
通常であれば、フィリップは騎士の位の剥奪、あるいは今後の出世が望めない――それほどの暴挙だ。しかし、有能なフィリップを手放せない王たちは、これを咎めはするが、罰を与えることはできない。せいぜい、女の寿命が早く燃え尽きるのを祈るのみだ。
呪詛は、思いのほか早く届いた。女は、すぐに死んだ。……だが、その娘は残ったままだ。
父の知れぬ子。
独り身となったフィリップの縁談の妨げになるだけの厄介者だ。
だが、そんな炉端の石だからこそボルドーは利用してやろうと企んだのかもしれない。
ノディオンには、神童と謳われるエルトシャン王子がいた。
まだ十代半ばではあるが、その才覚はアグストリア全土に響き渡っている。彼はなんと、黒騎士バルドが持つ魔剣ミストルティンの継承者であった。
本来ならば、その神器はアグストリアを束ねるアグスティの王族が受け継がれるべきである。
しかし、聖痕が現れたのは黒騎士ヘズルの末姫。彼女はノディオンへと嫁入りしていた。以来、神器はノディオン王族の物となっていた。
民草たちは口々に言う。
――シャガール王子ではなく、エルトシャン王子がアグストリアの王に相応しい。
そして、諸国の王たちは呪う。
――エルトシャンの才能は、歳を得て失われてしまえ。
我が子とエルトシャンを比較し、落胆し叱咤する。彼を憎めば憎むほど、我が子の出来の悪さに焦りと絶望を覚えたのだ。
後継の王子たちには悲劇であった。彼らは自分ではどうにでもならない理由で厳しく躾けられる。――エリオットもその被害者だ。
ボルドーは、エルトシャンにエリンを充てがおうと企んだのだ。
犬猫のように、邪魔者同士を番わせてやればいい。これが成功すれば、国同士の繋がりも期待出来る。
失敗しても、恥を晒すのはエリンだけだ。身分不相応な夢を見た馬鹿だと、大手を振るって責められる。
どう転んでも、ボルドーの痛手にならない。
陰湿なこの企みをフィリップは知っていただろうか? 理解して、逆にそれを利用してやろうと睨んだのか……当時のエリンは何も分からなかった。
ただ、しばらく他国へ共に行くとフィリップに告げられただけだ。子供のエリンに、それが何を意味するのか分かるはずもなかった。ひょっとすると、これは旅行などではなく、自分を国外に捨てる口実では――。そんな疑いすら芽生えた。