使者の随行だからと、いつも以上にエリンは着飾らされた。
この日のために仕立てられたドレスは、エリンの金髪に映える薄藤色だった。
貴族の子どもが着るような、胸下で切り替えのあるハイウエストのドレス。その形が、エリンの小柄さと幼さをいっそう際立たせる。
袖はふっくらとしたパフスリーブで、肩口がほんのりと膨らんでいる。襟元は控えめなスタンドカラー。誠実さと地味さを感じさせるが、それでいて礼装としての格式を損なうことはない。
淡い地の色を引き立てるように、金や銀糸で簡素な刺繍が施されていた。精緻とは言えないが、それがかえって子どもらしい素朴さと可憐さを引き立てていた。
髪型は、普段どおりの三つ編みに侍女たちが飾りを加えて整えてくれた。左右に分けて淡いラベンダーのリボンで結び、耳の後ろには、小さな菫の髪飾りが添えられる。
エリンは幼いながら、自分で髪を結うことができる。病床の母に教わった手つきは、今では誰にも頼らずに身支度を整える癖として身についていた。
だからだろうか。侍女たちは張り切って、幼い淑女を飾り立てた。
最後に、薄手のショールを肩にかけられてから、エリンは姿見の前へと連れて行かれる。
鏡に映る自分を見て、エリンは思わず息をのんだ。母譲りの漆黒の瞳には、見知らぬ誰かの姿が映っている。
(まるで、お姫様みたい)
自然とエリンの頬が緩んでいた。久方ぶりの笑顔だった。
喜ぶ彼女の背後で、侍女たちは健闘を讃えあうように微笑みを交わす。
後は、穏やかに出発の刻を待つだけ――そのはずだった。
何やら外が騒がしい。
使用人たちの声が、慌ただしくなっていく。誰かを止めようとする叫び。
直後、扉が乱暴に叩き開けられた。
乱入者――豪華な衣装を纏う少年を確認して、エリンは即座に青ざめた。侍女たちも顔を強張らせて、その場で頭を下げる。
少年がエリンを見た。鳶色の目が動揺したように大きく揺れる。息を呑むように一瞬黙った彼だが、すぐさまに口を開けた。
その口から飛び出すのは、エリンへの侮辱。
「……似合わないな。服に着られてる。やはり、どれだけ飾っても出自は隠せないんだな、お前は」
甲高い声には、怒りとも嘲りともつかぬ棘があった。その棘は鋭く、確実にエリンの胸を刺す。
耐えるように、エリンは左手首を右手で握りしめた。指の下には、母の形見――銀の腕輪がある。まだ細すぎる手首には、大きくて不格好だった。
部屋の空気が重苦しいものへと変貌していた。その元凶であるエリオットは構わずに、エリンを攻撃し続ける。
「お前も自分の母親のように、男に媚びを売る気か? 賤しい性根だな。貧相な体を着飾れば、エルトシャンの奴が靡くとでも思ったか? 思い上がりも腹立たしい」
何故、ここでエルトシャンの名前が出てくるのかエリンには分からない。そもそも、この時の彼女はエルトシャンが誰なのかも知らないのだ。
ただ、八つ当たりのように責めてくる年上のエリオットに怯えるしかない。
黙ったままのエリンが、よほど気に障ったのだろう。ハイライン王子の声は、さらに荒々しさを増していった。
「聞いてるのか? お前みたいな奴は、どこに行っても蔑まれるだけだ。行く前に、泣いてやめとけ」
そして、大股でエリンへと近寄ってくる。横暴者の接近を止めようと、使用人たちは手を伸ばす。しかし、それらをエリオットはひと睨みで静止させた。
――俺に逆らえば、分かっているだろうな?
彼の目は、そんな脅しを映していた。そして、これは虚言では無い。
エリオットは本気でやるのだ。自分の気に入らない者を、あれこれと理由を付けて罰を与える。
父親であるボルドーは諌めもしない。それどころか、彼の方も忠臣の苦言を反抗的だと断じて罰した。よって、息子はますます調子に乗る。
出来上がったのは、小さな暴君である。
エリオットがついにエリンの前に立ちはだかった。彼の小さな手がエリンの胸元を触れる。そして、強くその布を掴んだ。
エリンは、小さく悲鳴を上げた。怯える彼女を満足そうに眺め、エリオットは言い放つ。
「こんな服、お前には勿体無い!」
その目を、エリンは思わず見てしまった。
どす黒い独占欲が濁った光を放つエリオットの目を。
恐ろしさで凍りついたエリンの耳に、雷鳴のような咆哮が差し込んだ。
「テメェ、このクソガキ! 今すぐお嬢から、その汚ねぇ手を離しやがれ!」
その声に、室内が一瞬で凍りつく。
扉の向こうから、軍靴を踏み鳴らすような重い足音が響いた。
現れたのは、飾り気のない騎士鎧を纏い、厳つい顔を持つ大男だった。古傷塗れのその顔が、ますます威圧感を煽る。
野太い声に怯んだのか、エリオットがその手を緩めた。
すぐさまに侍女の一人が、その隙をついてエリンを引き寄せる。彼女はエリンを守るように、その細い腕で包み込んだ。
巨人のような足音を立てて、男はエリオットの前へやって来た。長身で筋骨隆々の彼は、腰を屈めることなく傲慢な王子を見下ろす。
「誰の許可を得て、お嬢に手ェ出してんだ? 王子様なら何してもいいってか?」
男の凄みに、子供のエリオットは怯む。わずかな恐れをその顔に浮かべたが、すぐさまに胸を逸らした。
「お、お前! 不敬だぞ! 父上にお前の発言を伝えてやる!」
男の太い眉がピクリと動いた。それを動揺だとエリオットは読み取ったのだろう。たちまち勝ち誇るような笑みを浮かべる。
「お前のせいで、フィリップにも責が及ぶだろうな! 今度こそ厳しい処罰を喰らうだろう! 分かったら、早く俺の前から立ち去れ!」
「おーおー、そうだな。そりゃ困ったな」
男が引き下がったと勘違いしたのか、エリオットは嫌味な笑みを浮かべた。やはり、こんな大男でも権力には敵わない。そう思ったのだろう。
だが、男はそのゴツゴツとした手を握り合わせて骨を鳴らした。
「なら、性根の悪いクソガキを一発ぶん殴っても構わねぇな? どうせしょっ引かれるんだ、何したって同じだろ」
そうして、その岩石のような拳を振り上げた。
慌てたのはエリオットだ。みっともないほどに動揺を全身に表して、逃げるように部屋の外へと飛び出した。
「覚えてろよ、この化け物!」
そんな小物めいた捨て台詞を残して。
悪魔が去った後、部屋にいる誰もが安堵の息を漏らしていた。ただ一人、エリンを除いて。
侍女の腕の中で、エリンは身を縮めて震えていた。そんな彼女を痛ましく思い、侍女は優しく抱きしめている。
エリオットが去った扉をしばらく睨みつけていた男が、エリンへと顔を向ける。太い眉は垂れ下がり、彼の申し訳ない気持ちを露わにしていた。
「……すまねぇ、俺の到着が遅れちまったからだ」
「副隊長さんのせいではありませんよ……」
エリンを抱きしめる侍女が首を振った。彼女の榛色の瞳を潤んでいた。エリンの心中を慮ったのだろう。
「私たちこそ、お嬢様をお守り出来ずに申し訳ございません」
彼女の言葉に、使用人一同は肩を落とす。しかし、それを男――副隊長は否定した。
「いや、アンタらにも立場ってモンがあるだろ。それに胡座をかいてる、あのガキが一番悪い」
副隊長がエリンの元へとゆっくりと近寄った。先ほどと違って足音をなるべく立ててないのは、エリンを怖がらせないためだろう。
侍女の腕越しに、彼はエリンに話しかけた。
「お嬢、もう大丈夫だ。怖い目に遭わせちまってすまねぇ」
エリンは泣いていた。声を押し殺し、大粒の涙をこぼしている。震える声で彼女は謝罪した。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい、服が、服……破れちゃった……」
エリオットが掴んだのは、薄手のショール越しのエリンの胸元だった。繊細な布質のショールは裂けてしまっていた。
エリンのせいではないが、彼女の罪悪感を煽るには充分であった。
肩を震わせてエリンは謝罪を繰り返し続ける。
エリンを抱きしめる侍女が口を開く。榛色の瞳は、傷付いた少女を勇気付けるように強い光が灯っていた。
彼女は、エリンの涙をハンカチで拭き取りながら言った。
「ご心配いりませんよ、お嬢様」
そう言って彼女は、他の侍女に目配せをする。すぐさまにその侍女が衣装棚を探った。
「そうですよ! ショールの代わりは、最初からご用意してますから」
取り出されたのは、白のケープであった。エリンの肩から腕までの距離の短めのケープだ。端には花をあしらったレースが縫い付けられている。
侍女は優しげな手つきで、エリンにケープを掛けてくれた。
「ショールとケープ、どちらにしようか迷っていたんです。……ほら、お嬢様。こちらも、とても可愛らしいですよ」
そうしてまたエリンに姿見を見せてくれる。確かに侍女の言う通り、羽織るものが変わっても装束の愛らしさは損なわれていない。
しかし、エリンの表情は浮かないままだ。
あんなにも素敵だと思った鏡の中の自分が、今はとてもチグハグに映っている。エリオットの暴言ひとつで、自分の中にひっそりあった「醜さ」が、急に輪郭を持ってしまった気がした。
どんなに侍女たちが褒めても、それはお世辞に聞こえてしまう。
笑顔が無くなったエリンの前に、そっと膝をつく副隊長。その動作は、不器用ながらも精一杯の敬意と優しさを込めた、騎士の振る舞いだった。
「お嬢、よく似合ってる。フィリップが見たら、きっと喜ぶぞ」
……果たしてそうだろうか。
疑惑がエリンの頭に浮かぶ。魔法が解けてしまったように、エリンは鏡の中の自分がただの子供にしか見えなかった。
……もう、お姫様なんかじゃない。そう思うと、また涙が浮かぶ。
黙り込むエリンに、副隊長が武骨な手を差し出した。
「そろそろ出発の時間だ。お嬢、俺に抱き抱えさせてくれないか?」
エリンは首を横に振る。一人で歩ける、そう言おうとしても声に出せなかった。自分の声すらも醜いと、エリンは思い込まされていた。……あのエリオットのせいで。
だが、副隊長はニカリと笑う。熊のような男が、笑えば威圧的になる。しかし、それを出さないよう、彼は注意して笑顔を作っていた。
「こんな可愛いお嬢を一人にさせたら、悪いヤツが攫っちまうかも知れねぇ。俺にお嬢を守らせてくれ」
副隊長はエリンの両足が震えていることを指摘しなかった。ただ、騎士としてか弱い少女を守らせてほしい。そう願い出た。
彼と出会った頃、エリンはこの大男が恐ろしかった。
顔は傷塗れで、逞しい筋肉が岩石のように見えた。頭髪も無く、代わりに大きな傷痕が走っている。整った騎士鎧よりも、粗野な山賊服のが似合いそうな容姿をしていた。
しかし、今は副隊長が心優しい人だというのを理解していた。
彼の容姿よりも怖いものが、このハイライン城にはたくさんいた。無言の圧力、冷たい視線、命令ひとつで豹変する空気――そんなものが、日常だった。
怯えは残りつつも、エリンの小さな手は副隊長の大きな手のひらに触れた。
「よし、行くか!」
副隊長は軽々とエリンを抱き抱えた。宝物を運ぶように、彼はエリンを片腕で支える。
一気にエリンの視界は高くなる。普段は目が届かない棚の上まで見通せるほどに。
のしのしと音立てて廊下を進む副隊長。その後ろに使用人たちが続く。
屋敷の玄関で使用人一同は整列し、エリンに向かって頭を下げる。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
どうかご無事で。そんな願いが込められているようだった。
エリンは彼らに向かって小さく頭を下げた。ありがとう、と言いたかったのに。言えなかった唇が、ぎゅっと固くなった。
フィリップの屋敷の門前には、黒と銀で彩られた中型の馬車が停められていた。緩やかな朝靄のなか、四輪の車体はしっとりと光を宿している。
馬の手綱を握る御者は、顔馴染みの馬丁だった。かつて厩戸を見学した折、無口ながらも丁寧に案内してくれたのを、エリンは覚えている。
馬車の脇には三騎の兵が控えていた。いずれもフィリップ隊の騎馬兵であり、戦支度の上に薄手の外套を羽織っている。
その中央に、まるで彼らの盾のように立つフィリップの姿があった。彼は、登城する際に使う黒い軍服を着ていた。胸元には金属の飾章がかけられている。
戦鎧こそ着ていないが、彼の背には臙脂色のマントがなびいていた。鎧の厚みがない分、今日のフィリップは痩せて見える。
胴には簡素な礼装剣が佩かれている。彼の得物である槍はない。
戦地では鉄の如き将だが、今日の彼は一人の使者であり、少女の保護者でもあった。
フィリップは着飾ったエリンの姿を見て目を細めた。その口が義娘の可憐さを讃えようとしたところで、止まった。彼の目はエリンの腫れた目元を見つめていた。
エリンを抱いたままで、副隊長が申し訳なさそうに言った。
「すまねぇ、フィリップ。あのクソガキが来やがった」
「王子が? いつの間に……」
フィリップが馬車の手配をしている間の侵入だったようだ。フィリップは、まさかという顔で目を見開いている。
狡猾なエリオットは、フィリップや副隊長が在宅中には決して現れない。今日も、彼らが共に屋敷を離れると見計らって現れたのだろう。
副隊長の訪問予定はボルドー王に報告されていた。王子であるエリオットがそれを知らなかったはずがない。
だからこそ、屋敷の人間は油断していたのだ。今日は、エリオットの襲来があるはずはないと。
「悪い、また面倒事になっちまうかも知れねぇ」
エリオットが副隊長を恐れるのは、彼の容姿もそうなのだが、何よりも自分の思い通りにならない事だろう。
他の人間とは違い、副隊長は遠慮がない。王子だろうが貴族の子息だろうが、関係無くエリオットたちを叱り飛ばす。
しかし、エリオットは懲りない。自らの非は認めずに、父親に言い付ける。結果、上役のフィリップに責が及ぶ事が多々あった。
「構わん。むしろ、お前には感謝せねばならない。……本来なら、私がしなければならない役目なのにな」
「気にすんな。お前が表立って逆らったら、余計にお嬢が傷付けられるだけだ。……いいんだよ、俺は。元々騎士じゃねぇんだ。しがらみなんか知ったことか」
副隊長が忠誠を誓うのは、フィリップだけだ。ハイライン王家に剣を捧げたつもりは無いと、彼は豪語している。
元傭兵の彼が、由緒ある騎士の家に仕えるまで、どれだけの苦労を重ねてきたか。
その経験が、今の優しさとなってエリンを包んでいる。
「それよりも、お嬢を見てくれよ! 可愛いだろ、ノディオンの姫さんにも負けねぇと思うぜ」
「……おひめさま?」
エリンは、自分とは別の世界に住む存在を思うように、その言葉を口にした。
ポツリと呟いた声に、副隊長は嬉しそうに答えてくれた。
「そうだとも! 確かお嬢より一、二歳ほど年上だったっけな? なぁ、フィリップ」
「ああ。お年が近いから、エリンの訪問を楽しみにしていると聞いている」
エリンの知る限り、ハイラインに姫はいなかった。王子だけだ。幼い彼女の中で、姫は絵本の中だけの存在だ。
挿絵に描かれた煌びやかな姫君を思い出し、エリンの胸が高鳴った。
フワフワの金髪、愛らしい顔立ち、可愛らしいドレスに豪華なティアラ。
まるで妖精のように綺麗な人――それがエリンの知識にあるお姫様だ。
そんな人にこれから会える。そう思うと、緊張と期待がエリンを包み込んだ。だが、すぐに不安も付いてくる。
憧れのお姫様がエリンのことを好いてくれるか、分からない。
エリオットのように、エリンを疎ましく思われるかもしれない。……でも、相手はお姫様なのだ。
絵本の中のお姫様はとても優しい性格をしていた。全ての姫君がそうだとは断言できない。だけど、ノディオンのお姫様は絵本のままの人かも知れない。
気持ちがまぜこぜになったエリンは、無表情になってしまった。
馬車の扉が開かれた。エリンはゆっくりと足をかけ、副隊長の視線を背に感じながら、そっと乗り込んだ。
見送る副隊長に向かって手を振る時も、エリンは心ここに在らずだった。
◆ ◆ ◆
久しぶりに乗った馬車は、以前よりも座り心地が良かった。背もたれまで、ふんわりとしたクッションが使われている。
内装も広々としていて、フィリップと二人だと空間が余るくらいだ。装飾も行き届いている。
国としてのハイラインの見栄が、この使者用の馬車を豪華にさせたのだろう。
窓には、曇りのない上等な硝子がはめ込まれていた。フィリップの屋敷でも、ここまで外の景色が見える硝子は使われていない。
見知らぬ場所へと移り変わってゆく風景を、エリンは眺めていた。
彼女と対面する形で、フィリップが腰掛けていた。二人の間に会話は無い。だが、彼の方がエリンを気にかけるようにチラチラと視線を送っている。
エリンはそれに気付かないふりをした。景色に夢中になるフリをして、会話を封じたのだ。
ドナの死後より前から、義父娘の関係はギクシャクとしていた。
フィリップは義娘を可愛がろうとしたが、エリンはそれを受け取れずにいた。
「遠慮」というよりも、「信じてはいけない」と思っていた。
母がいない今、フィリップに気に入って貰えなければエリンはまた元の見窄らしい子供へと逆戻りだ。十にも満たない子供一人でどうやって生きていけばいいというのだ。
それなのに、エリンはフィリップに懐いたふりすらもできなかった。
窓の外を流れる風景が、にわかに滲む。
――母親と同じように男に媚びるのか?
そんなエリオットの言葉が、エリンに躊躇いを生むのだ。
彼の暴言は、幼いエリンへの呪いとなって縛り続ける。それに立ち向かう術など、彼女にはわからなかった。ただ、怯えることしかできなかった。
助けてくれる人はいる。守ってくれる人もいる。……それでも、エリンの傷は癒されない。
海へと消えていった母の白い骨と共に、エリンの心も眠ってしまったようだった。……豪華な衣服も、贅沢な食事も必要なかった。母がそばにいてくれるだけで、エリンは幸福になれた。
フィリップだけでは、がらんどうの心の隙間を埋めてくれる存在にならない。彼がどれほどにエリンに心を砕いてくれていたとしてもだ。
結局、ノディオンの城壁が見えてくるまで二人の間に会話はなかった。