馬車が城壁前に止まると、門兵が整列していた。その前方に、青い紋章のマントを纏った中年の騎士が直立している。彼は、暗みがかった金の髪を後ろに固く撫で付けて、額を際立たせていた。
フィリップは窓を開けて、彼に書状を渡した。騎士はそれを受け取ると一礼し、窓越しに中の人間を確認する。
騎士とエリンの目が合う。人見知りが発動した彼女はすぐに顔を伏せた。赤銅のような瞳が、鋭い視線を送ってきたからだ。
彼からすれば、用心の為の警戒だったのだろうが、エリンからしたら自分が睨まれたようにしか思えない。怯えで右手の指先を震わせながら、左手首の腕輪を握る。
「娘さんは、体調を崩されたのか?」
気遣う素振りを見せるが、口調は冷たい。怒られる――そう思ってエリンはギュッと目を閉じた。
「ああ、繊細な子なんだ。ここまでの距離で、疲弊してしまったのかも知れない」
フィリップの声がする。声音に怒りはなく、気遣うような響きがある。
「義娘だけは、先に休ませてやっても構わないだろうか? ノディオン王への謁見は、予定通りに私だけが行う」
「ああ、構わない。城内まで歩けそうか?」
「……私が抱いていこう。無遠慮で申し訳ない」
「いいや。子を想うのは、どの親でも同じだろう。私も息子たちが幼い頃は、熱を出すたびに慌てたものだ」
騎士の声も、わずかに角が取れた声音だった。同じ親として、フィリップへ親近感を抱いたようだった。
馬車の扉が開かれる音がする。フィリップが降車したらしい、馬車が軽く揺れた。
「おいで、エリン」
フィリップの誘いの声で、エリンは薄目を開けた。扉の外で、フィリップが腕を伸ばしている。ほんの少し、その目には怯えの色が見えた。――義娘はこの手を取ってくれるだろうか、そう不安を抱いているようだった。
恐る恐るとエリンは手を伸ばした。この人も怖がることがあるんだ……そんな気持ちが胸の下で浮かんだ。
エリンの手を取ると、フィリップは彼女を抱き抱えた。小さな背中に優しく手を添えて、安心させるように軽く控えめに撫でる。
それを見届けると、騎士はフィリップに向かって口を開く。彼の表情はまた元の鉄面に戻っていた。
「馬車は使者用の厩へ。御者たちは詰所で待機してもらおう」
それに応じて、ノディオンの若い兵が馬車の御者に声をかけた。フィリップの部下たちも、一礼して馬を降りると、別の兵士に案内されていった。
「使者殿には謁見の間の控え室を。随行である娘さんは……いや、先にお部屋で過ごしていただこう」
騎士の提案に、フィリップは感謝の言葉を発した。
「有難い。……一つ我儘を通して欲しい。私が義娘を部屋に連れて行かせてもらっても構わないだろうか?」
フィリップはエリンの背中を撫でた。大丈夫だと、未だに震えの止まらないエリンを慰めるように。
「この通り、多感な子だ。見知らぬ相手では却って伏せってしまうかも知れない」
「了解した。確かに、娘さんの体調は気掛かりだ。姫様の喜ばれるお顔が減る。早急に部屋へご案内しよう」
「感謝する」
騎士の言葉に、フィリップは頭を下げた。彼の動きに合わせて、エリンの身体も揺れる。落とされないようにと、彼にしがみつくエリンの小さな手が、きゅっと力をこめる。
それに驚いたのか、フィリップの体が一瞬だけ震えた。しかし、すぐにエリンの背に手を添えたままで歩き始める。決してエリンを落とさないよう、心がけるかのように。
暗金髪の騎士に案内され、義父娘はノディオン城へと足を踏み入れる。
フィリップの肩越しに、エリンは城内を見回す。
ハイライン城が黒と赤なら、ノディオン城は白と緑だ。
城というよりも要塞のようだ。過度に調度品はなく、また素っ気ないほどでも無い。調和された美のように、ノディオンは静かな風景を表現していた。
回廊を飾るのは、四季の風景を描いた静かな絵画。合間には、歴代王やその家族とおぼしき肖像画もかけられていた。
太陽の祝福を受けた髪と瞳を持つ美貌の一族。それはエリンが絵本で見た王族の姿だった。
(……おひめさま)
心の中でエリンは反芻する。どんな人なんだろう。通過してきた肖像画の中に、その人はいたのだろうか。
初めての感覚がエリンに沸く。
不安と楽しみが混じり合って、心臓が大きく動く。それを怖いとエリンは感じる。
会いたいけど、会いたくない。甘い幻想を壊されたくないと、エリンは怯えてしまった。
義父の腕の中でエリンは揺られている内に、目的の場所へと辿り着いた。
羽ばたく鳥たちのレリーフを刻まれた白い扉、暗金髪の騎士がそこを開ける。金色のドアノブがカチャリと音を立てた。
「娘さんをこちらへ」
促され、フィリップはエリンを部屋のソファに座らせた。
客用に用意された藍色のソファは、ふわりとエリンの体を包み込む。初めての感触だ。座り心地が良すぎて、却って落ち着かない。
大きなソファに、エリンはちんまりと体を縮ませる。そんな義娘を見て、フィリップは少し思案したように目を伏せた。やがて、ゆっくりと手をエリンの頭頂部へと伸ばした。彼女を怖がらせないよう、力を抜いて慎重に。
母と違う強さで、フィリップはエリンの頭を撫でてくれた。
彼がエリンの頭に触れたのは、これが初めてだった。目を丸くするエリンに、フィリップはぎこちない笑顔を見せてくれた。
「少し、待っていてくれ。すべき事を終えたら、すぐに戻る」
低い声をなるべく和らげるよう苦心したのだろう。フィリップの言葉は普段よりもつっかえ気味だった。
父親という立場を押し付けないように、エリンとの距離感を測り兼ねている様子だ。後に彼は、どんな敵と対峙するよりも緊張したものだと、この時の心中をエリンに語ってくれた。
ともあれ、それはこの時のエリンも同じだった。言葉で無く小さく頷くことで、フィリップに感謝を伝えた。
部屋の外から暗金髪の騎士が声をかける。
「すぐに侍女を――私の妻を呼ぼう。その方が、話が進みやすい。フィリップ殿も、娘さんを一人にさせとくのは、心元無いだろう」
「お気遣いに、感謝する」
フィリップは立ち上がり、もう一度だけエリンを見た。
「行ってくる」
行ってらっしゃい、と返すべきなのだろう。しかし、エリンの声は喉に張り付いて言葉にならない。困ったように目を伏せた。
それをフィリップはほんの少し寂しげに見つめると、踵を返して部屋を出て行った。
扉の閉まる音が鳴れば、室内は外界から閉ざされた。小ぶりな柱時計の振り子の音が響くだけだ。
手持ち無沙汰なエリンは、ソファから動かずに部屋を見渡す。
フィリップの屋敷で与えられたエリンの部屋よりも大きい。かつて母娘だけで過ごしていた開拓村の小屋が、丸ごと収まりそうだと感じた。
部屋の壁紙は薄緑色で目に優しい。
白い天井には、煌びやかなシャンデリアが飾られている。窓から差し込む陽光を反射させて、キラキラと室内を輝かす。
がっしりとした文机。義父の執務室のものよりも高級そうだ。材質はマホガニーが使われている。滑らかな木の色が、仕事を捗らせてくれそうだ。
同じ木材で作られた衣装棚に本棚、そして椅子。調度品も数こそ控えめだが、ひとつひとつが手の込んだ華やかさを持つ。
窓は大きく開放的。その近くには白いサイドテーブルがある。上には柔らかそうな、くまのぬいぐるみが置かれていた。エリンのために用意されたのだろうか。
部屋の隅に置かれた大きなベッド。義父娘二人で休んでも余りあるだろう。
ここで五日ほど、エリンはフィリップと共に過ごすのだ。そう考えて、少し憂鬱な気分になる。
フィリップは優しい。エリンの父親になろうと努力してくれている。それをまだ、エリンは受け入れられない。
その優しさが期限付きでないという保証が無いからだ。
ドナはフィリップの誠実さを信じたようだが、エリンは別だった。出会いの日、母の命を救ってくれた恩はある。
母は警戒心の強い人であった。わずかな物音でも細身の身体を大きく震わせた。
そして、娘にも過保護なほどに強く言い聞かせた。
――安易に人を信じてはいけないわ、エリン。
――何があっても、私のそばから離れたらダメよ。
ドナの教育と、エリオットの理不尽な言動でエリンはすっかり内向的な性格で固まってしまった。
くまのぬいぐるみが、エリンに構って欲しそうに黒いボタンの目を向けていた。触ってごらん、フワフワしてるよ――そう言いたげに、エリンの興味を引くようにぬいぐるみは主張していた。
その目に吸い寄せられるようにエリンは見つめ――けれど、誘いを振り切るように俯いた。
ぬいぐるみの誘惑に後ろ髪を引かれながらも、一歩を踏み出すことができない。
広いソファの上で、エリンは体を丸めたまま、ひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
ぼんやりと空を見ていると、にわかに外が騒がしくなった。二人分の声が、段々と近付いて来る。
「お戻りくださいませ!」
「いいじゃないの、お見舞いに行くの!」
そんな会話がエリンのいる部屋の外から聞こえ――扉が勢いよく開かれた。
その大きな音に、エリンは一瞬肩が跳ね上がる。彼女の目は見開かれている。それは怯えによるものではなかった。
開かれた扉。その先には、絵本のお姫様が立っていた。
エリンがまず釘付けになったのは、その瞳だ。曇天を割って差す光のような色。神々しさを感じるほどに美しい。
金糸の髪は、淡い光を包み込む飴細工のように、あたたかく輝いていた。きっと、触れればくまのぬいぐるみよりも柔らかいのだろう――そう思わせるほどに、髪の一本一本が繊細に揺れていた。
きめ細やかな白磁の肌は、病的には見えない。むしろお姫様の神秘性を強化させていた。
陽だまりのような橙のドレスは、感嘆の声が出るほどに豪華だ。裾は幾重にも重ねられた布でふわりと広がり、胸元には金糸で繊細な刺繍が施されている。
その頭上には、小さな紅玉のティアラが輝く。
絵本の中よりも、お姫様は綺麗で可憐だった。
エリンは夢の続きを見るように、彼女を見つめていた。まばたきをすることすら、惜しかった。
お姫様もエリンを見た。そして、その愛らしい顔に眩しいほどの笑顔を浮かべた。
「まぁ、なんて可愛いの!」
お姫様は声も綺麗だった。張りのある透き通る声。エリンの耳に心地よい音楽の様に響く。
両手を胸の前で組んで、お姫様は感動するように言葉を続ける。
「お人形さんみたい……! あなた、お名前は?」
「……エリンです」
陶酔していたエリンは、夢見心地のままの状態で名乗った。
憧れたお姫様が目の前にいる。絵本と違って、動いて喋っている。それだけでエリンは感動の渦に包まれたのだ。
だから、そのお姫様がこちらへと歩み寄って来た時、エリンは驚いてしまった。気恥ずかしさがエリンに逃亡を急かすが、彼女の身体は動かなかった。心がまだお姫様を見ていたいと我儘を言うのだ。
彼女の歩いた後には、光が散っているようだった。このお姫様はきっと光の妖精なのだろうとエリンは思った。
ソファに座るエリンとお姫様はちょうど目線が合う。
お姫様の桃色の唇が動く。
「エリンね。名前も可愛いわ。ふふ、会えて嬉しくてよ」
褒めてくれた……!
あまりの嬉しさにエリンは俯いてしまった。憧れの人が目の前にいて、しかも、いまだけは自分だけを見てくれている。……夢でもいい。どうか、この時間が終わらなければいいのに――そう思った。
「私は、ノディオン国第一王女ラケシス。よろしくね」
お姫様――ラケシスはドレスの裾を掴んでお辞儀をした。カーテシーだ。
絵本で何度も繰り返し眺めた、憧れのお姫様の仕草。その実物を目の当たりにして、エリンの目元が熱くなった。
その空気を破るように、ひとりの侍女が姿を現した。彼女は貫禄のある顔立ちをしていた。燃えるような赤髪をきっちりと束ねている。恐らく先ほど騎士が言っていた侍女――彼の妻なのだろう。
「姫様、ご挨拶がお済みになられましたらお部屋へお戻りください。こちらのお嬢様に無理をさせてはなりませんよ」
「知っているわ! でも、もう少しだけお話したいの……」
拗ねたように唇を尖らせるラケシスを見て、エリンは衝撃を受ける。お姫様もこんな表情をするのかと。
「ねぇ、エリン。まだお話に付き合ってくれるかしら? 私、今日をずっと楽しみにしてたの」
憧れの存在からのおねだりなら、叶えなければならない――そう、これは夢の続きなのだから。エリンは、胸をときめかせながら頷いた。
するとラケシスはまた笑顔を見せてくれた。
「本当? 嬉しい!」
そして彼女はまた侍女へと顔を向けた。
「ねぇ、エリンもいいと言ってるわ。だから、少しだけ……お願い」
どうやらラケシスのおねだりを叶えたいと願っているのはエリンだけではないようだ。
ラケシスに上目遣いで言われた侍女は、小さくため息を漏らして頷いた。
「分かりました。その代わり、お嬢様がお辛そうでしたらすぐに休ませて差し上げてください」
「ありがとう!」
その場で飛び上がるように、ラケシスが喜んだ。