「ねぇ、エリン。お隣座ってもよろしくて?」
「……あ」
こんな綺麗な人が、自分の隣に――?
感動よりも先に、恐怖が追いついてくる。衝動のままに、エリンはソファから降りてしまった。
ソファに座りかけていたラケシスは、目を丸くした。
「エリン、座ってなくても平気なの?」
「……は、はい」
お姫様の小鳥の囀りのような声と比べて、自分の声のなんと子供っぽいこと!
これまでの間に、ラケシスはエリンを褒めてくれた。けれど、喋ったら幻滅されてしまうかも知れない……。こんなに綺麗なお姫様に、こんなに拙い声を聞かれたら……。
そう思い、エリンの唇が震えた。
両手の指と指を合わせて、エリンは恥じらう。
その仕草ですら、ラケシスはお気に召したらしい。頬を紅潮させながら、彼女は軽やかにソファから立ち上がった。その動きに合わせて、ドレスの裾が羽ばたくようにフワリと広がる。
「ねぇ、私と一緒にお散歩しない?」
突然の申し出に、エリンは固まってしまう。こんな幸運を得て良いのだろうかと不安になったのだ。
目の前でラケシスが小さな手を差し出している。華奢な指先ですら美しい。今まで見てきたどの芸術品よりもエリンの心を揺さぶった。
返答をためらっていると、侍女がラケシスを嗜めた。
「姫様、それはいけません。こちらのお嬢様は、体調が優れないとお聞きしています。もしものことがあっては」
侍女は決して意地悪をしているわけではない。彼女もまた、純粋にエリンの体調を気にかけてくれているのだろう。
エリンに万が一があれば、ノディオンの責任問題となるのだ。必死になって止めるのも無理ないだろう。
しかし、エリンは不調というわけではない。
見知らぬ土地と、知らない大人たち。それらが不安となり、エリンの怯えを誘っていたのだ。
だが、絵本のお姫様が――憧れの人が一緒に歩こうと誘ってくれているのだ。こんな幸運、もう二度とないかもしれない――。
その想いがエリンに勇気をくれた。
「私、おひめさまとお散歩したい……です」
エリンの声は小さく、震えていた。どんなに勇気を振り絞っても、不安や恐れはエリンを離さないのだ。
それらはエリオットの声となってエリンを責め立てる。
――なんて無遠慮な子供だ!
――お前、身分というものを知らないのか?
――無知な奴め。恥をかく前に発言を取り消せ。
この場にいないはずのエリオットの姿が、エリンの目に映った気がした。
そうだ、出過ぎた真似をしてしまった。ラケシスはきっと、社交辞令で誘ってくれただけだ。でなければ、こんな無価値な子供なんかに優しくしてくれるはずがない。
悲しさから、エリンは形見の腕輪に右手を添えた。その手の動きを、ラケシスはしっかりと捉えていた。
「綺麗な腕輪ね。あなたの宝物なの?」
「……は、はい」
「エリンには少し大人っぽいわね。そうだわ! 私の腕輪を貸してあげる。きっとあなたに似合う物があるはずよ」
良いことを思いついたとはしゃぐラケシスに、エリンは小さく首を横に振った。
「……これが、いいんです」
口に出してからエリンは後悔した。すぐさまに幻覚のエリオットが、蔑むように笑った。
――お前は愚かだな。人の厚意すら無駄にするのか? どこまでも恥知らずだな。
「ご、ごめんなさい……」
瞼を固く閉じてエリンは謝罪した。その相手は、目の前のラケシスか、それとも幻想のエリオットか……どちらとも判別付かなかった。
それでもエリンは確信していた。ラケシスはこれでもう、エリンを見限るだろう。つまらない子供だと、熱が冷めたように出ていってしまうだろう。
その様子が安易に想像出来てしまって、エリンの足が震えた。
そんなエリンに、ラケシスが近寄る気配がした。驚いたエリンは思わず目を開けてしまう。
ラケシスは――不思議そうな表情をしていた。
「どうして謝るの?」
「……え?」
エリンもまた疑問を顔に浮かべた。それがおかしかったのか、ラケシスは綻ぶように微笑んだ。
「謝る必要は無いのよ。エリンはその腕輪が好きなのね」
どうしてお姫様は怒らないのだろう。エリンが失礼な返答をしたのに。
目を瞬かせるエリン。そんな彼女にラケシスがまた話しかけてくれた。
「誰かからの贈り物なの?」
「……おかあさんの」
「まぁ、優しいお母様ね! 私もお母様からお譲りいただいた髪飾りがあるのよ」
そしてラケシスは悪気なく尋ねてきた。
「エリンのお母様は、ハイラインでお留守番なの? せっかくだから、一緒に来てくだされば良かったのに」
「……おかあさんは、これしか残ってないから」
ポツリと漏らしたエリンの言葉に、ラケシスが首を傾げる。
顔を青ざめた侍女が、すぐさまラケシスに耳打ちをした。そして、ラケシスもまた顔色を変えた。
恐らく侍女は、エリンの境遇について夫やフィリップから聞いていたのだろう。そして、それをラケシスに伝えた。
全てを知ったラケシスも表情に翳りがさす。
「ごめんなさい……私、何も知らなくて」
お姫様に謝られてしまった。それがますますエリンの哀しみを生んだ。エリンの存在が、ラケシスを曇らせるのだと思い込むゆえだ。
ラケシスもラケシスで、自分の無遠慮な質問でエリンを傷付けたのだと思ったのだろう。自分の手元と、エリンの顔、そして左手首の腕輪を順番に眺める。
彼女は何かをためらうように、形の良い唇を開いては閉じてを何度も繰り返す。両手を胸の前に組み、恐れているかのように震わせる。
やがて、決心したのかラケシスはエリンに告げた。
「私も……お母様を亡くしてるの」
今度はエリンが驚く番だ。
黙り込む彼女に、ラケシスは懺悔のように語ってくれた。
数年前、ラケシスの実の母親は亡くなったという。母と共に離宮で過ごしていた彼女は、この出来事がきっかけとなり本城へと移り住むことになった。
赤髪の侍女は、その頃からラケシスに付き従い、本城に移って以降も変わらず彼女の側に仕えているそうだ。
語るラケシスの顔は暗く、哀しみに溢れていた。長い睫毛を瞬かせば、今にも涙が粒となって零れ落ちてしまいそうだ。
「だから、ごめんなさい」
同じ痛みを持っている子に、無遠慮にその傷に触れてしまった。そんな後悔が、ラケシスにはあるのだろう。
きっと彼女も、エリンと同じく母親を愛していたのだろう。そして、失って深い哀しみを味わったのだろう。……今のエリンのように。
苦しくなってエリンはラケシスに話しかけた。初めて、自分からお姫様に声をかけた。
「……騎士様が、いてくれるから」
そう答えながら、どこか言葉が足りないような気もした。けれど、どう補えばいいのか分からなかった。
その曖昧な答えが、ラケシスの混乱を誘った。
「騎士様? あなたのお父様の配下かしら?」
「騎士様は……わたしと、一緒に来た人です」
どうして、と言いかけてラケシスは黙った。恐らく悟ったのだろう。エリンとフィリップの関係を。
赤髪の侍女はそこまで詳しくは耳打ちしてないようだ。だから、エリンの発言で初めてラケシスは気付いた。そんな顔をしている。
「そうなの……。でも、良かった。あなたもひとりぼっちじゃないのね」
安心したようにラケシスは微笑んだ。まるで花咲くように朗らかに。
「私も、エルト兄様が迎えに来てくれたの」
本城に向かう日、兄王子エルトシャンが直々にラケシスを迎えに来てくれたらしい。彼の存在が、ラケシスの心に光を差した。
まるで太陽のような人だと、初めて兄を見たラケシスは思ったそうだ。
そして、この美しい兄のために自分も相応しい姫になろうと決意したのだとラケシスは教えてくれた。
エルトシャン。その名前はエリンの記憶を呼び起こした。それは、フィリップの屋敷を発つ前のエリオットの発言。
――貧相な体を着飾れば、エルトシャンの奴が靡くとでも思ったか?
なるほど、あれはラケシスの兄君を指していたのか。どうして、自分が彼に靡かせねばならないのか……考えても分からない。ただ、その言葉にはどうしようもなく嫌悪感だけが残った。
「そうだわ! エリンにも、エルト兄様に会わせてあげる」
名案を思いついた、そんな口調でラケシスが提案した。
彼女の目は、夜空の星を吸い込んだかのように、キラキラと輝いていた。
「きっとエリンも気に入ってくれるはずよ。エルト兄様は素敵な方なの! ね、行きましょう?」
「姫様……?」
ラケシスの言葉に反応したのは、赤髪の侍女だった。訝しむような声音でラケシスに問いかける。
「本当によろしいのでしょうか? 姫様は、いつも――」
「……行ってみたいです」
侍女の言葉をエリンは遮った。そして、声を発した後で後悔した。
大人が話している時、子どもは黙っているべきだと、かつて誰かに教えられた気がする。だから――遮るなんて、許されない。
きっと侍女も不快に思ったはずだ。だって彼女は驚いたようにエリンのことを見つめているのだ。
すぐにエリンは侍女から目を逸らしたため、彼女の驚きは怒りによるものだと思い込んでしまった。
身体が冷たくなるのを感じて、エリンはすぐに謝罪をしようと口を開いた――が、その前にラケシスが身を乗り出した。
「行きましょう、エリン!」
ラケシスの声は弾んでいた。まるでその声も輝いているように、歓喜に満ちていた。
その喜びを心身共に露わにしながら、彼女は侍女に言う。
「ほら、エリンも良いと言ってるわ! ねぇ、いいでしょ? 少しだけでいいの」
「え、えぇ……?」
侍女は何やら困惑している様子だ。まるで信じられないものに遭遇したかのように、ラケシスを見ている。
「ですが、姫様。その、よろしいのでしょうか……? こちらのお嬢様を、王子様にお会わせになるんですよね?」
恐る恐るといった様相で侍女は確認してきた。本当にそれでいいのか、と念を押すように。エリンとエルトシャンを自ら引き合わせようとするラケシスに、何かの間違いかとでも言いたげだ。
ラケシスは頬を膨らました。
「もう! エリンが良いなら良いに決まってるでしょう!」
「姫様は……本当に?」
「当たり前よ。ねぇ、エルト兄様は今は剣の鍛錬かしら?」
戸惑いつつも、侍女は頷く。
「はい。私の息子たちと一緒に鍛錬所にいるはすです」
「イーヴたちも一緒なの?」
ラケシスはクスクスと小さく笑う。まるで何か悪戯を思いついたように。
「だったら、なおさらエリンを連れて行かないと。きっとびっくりするわ」
そしてラケシスはエリンの方へと向き直す。くるりとその場で舞うように。金糸の髪が、日差しの光を散らして舞う。
「行きましょう、エリン。案内してあげる」
差し伸べられたラケシスの手。
華奢で、柔らかそうな手のひら。
エリンは夢見ていた。いつか、絵本のお姫様がこうやって手を差し伸べてくれることを。
辛いことも悲しいことも、全ての嫌なことからエリンを連れ去ってくれる存在を。
泣きそうになりながら、エリンはその手を取った。
ラケシスの手は温かった。絵本のお姫様と違って、エリンの手を握り返してくれる。
そして、感動で身を震わせるエリンを安心させるように笑いかけてくれた。その微笑みのなんと可憐なことか。
差し込む日差しが、後光となりラケシスを神々しく映させる。
瞬間、エリンの胸の奥で何かが弾けた。
(この人こそが、私のおひめさまなんだ!)
天啓のように、エリンはそう思い込んだ。きっと自分はこの方と出会うために産まれたのだ、そう強く……強く思わずにはいられなかった。
まるで欠落した空虚が満たされたかのように、エリンの胸を暖かくさせた。
感動に打ち震えるエリンの手を引っ張るラケシス。その強さすらもエリンには愛おしい。
しかし侍女が、少女たちの歩みを静止させた。
「お待ちください、姫様。日傘を用意しますので」
もう引き止めることは諦めたのだろう。ならば、せめて少しでも快適に移動してもらおうと彼女は考えたらしい。
だったら、とラケシスは言う。
「お母様からいただいた日傘を使いたいわ。ほら、あの白のレースが付けられたものよ」
「……分かりました。お待ちください」
「あぁ、やっぱり私も行く! エリンにお城の案内をしたいの!」
いいでしょう? と、尋ねられればエリンはうっとりと頷く。こんな素敵なおひめさまと一緒に巡れるのなら、見知らぬ場所に対する恐れもない。
「分かりました。……ですが、姫様。お嬢様の足取りに合わせてゆっくりと歩くのですよ。小さなお嬢様のお足ではきっと疲れてしまいますから」
「分かってるわ。ねぇ、エリン。辛かったら言うのよ。お休みしながら行きましょうね」
「……はい。がんばります」
ラケシスはその言葉を聞いて、ぱっと顔を綻ばせる。「エリンは可愛いわ!」と嬉しそうに言ってくれた。