目を逸らすエリンに向かい、アルヴァはまた問い詰める。
「父親相手に敬称はいらないだろう。それに何故、名乗る最中にためらった?」
エヴァやイーヴがアルヴァを嗜めるように彼の名を呼ぶ。
しかし、アルヴァは止まらない。彼は真っ直ぐにエリンを見つめた。その赤銅色の目は、牢獄となって幼い少女の姿を捉える。
震えながら、エリンは答えた。
「騎士様は……おとうさんじゃ、ないからです……」
「どういうことだ?」
言葉の裏を探るように、アルヴァはじっと目を細めた。
そして、何かを確かめるように、エリンの周囲を探る。保護者の姿を求めるかのように。
だが、誰もいないと分かると、迷いなく――そして無遠慮に、一線を踏み越えた。
「お前は、親がいないのか?」
「アルヴァ!」
同じ声が同時に叫んだ。そして、同時に同じ形の二人の手がアルヴァの口を塞いだ。
「バカ! お前、本当バカ!」
慌てたように罵倒するエヴァ。
「少しは察しろ! 本当に剣以外だと鈍いな!」
冷や汗を流すイーヴ。
モゴモゴと何やらアルヴァは抗議している様子だが、その口は封じられているので声にはならない。
「ごめんな、エリンちゃん! コイツ、こういうヤツだから!」
「悪気は無いんだ……いや、無い方が厄介だよな。ごめん、後で言い聞かせておくから」
あからさまにエリンが落ち込んだことを慌てたのだろう。三つ子のうち二人は必死で弁明を繰り出す。
だが、アルヴァは悪びれることなく、まだエリンを見ている。まるで獲物を狙う狩人のように。
恐怖により、エリンの顔が引き攣る。ついに涙がこぼれ落ちそうになった瞬間、ラケシスが彼女を抱きしめた。
ラケシスの白の日傘が、鍛錬所の地面に落ちる。
「アルヴァ! 言い過ぎよ!」
ラケシスは眉を吊り上げ、怒りを露わにする。
「私のお友達をいじめないでちょうだい!」
「……おともだち?」
馴染みのない響きが、エリンの恐怖を薄れさせた。疑問を抱いたように顔を上げれば、ラケシスと目が合った。
雲間を切り裂く太陽の色。吸い込まれそうに美しい。その目に映るエリンの顔は、驚いたような表情を浮かべていた。
そんなエリンを安心させるように、ラケシスは、ふわりと笑う。
「ええ、そうよ。エリンと私はお友達なの」
その途端、エリンの中で渦巻く恐怖の感情が霧散した。
嬉しくて、暖かくて……エリンの口元が自然と緩んだ。
初めてだった。大好きだった母以外の人の前で、エリンが微笑んだのは。
見開いたラケシスの目が、鏡のようにエリンの笑みを映す。
冬の夜空のように澄んだ瞳は、柔和に細まる。浮かぶ光は黒曜石の煌めきに似ていた。その上で、細めの眉は緩く下がる。頬は薔薇色に染まり、小さな唇が笑みの形をとる。
幸福だと、そう告げるような春の陽だまりのような微笑みであった。
「……エリン!」
感極まったのか、ラケシスが強くエリンを抱きしめる。エリンも恐る恐るとラケシスの背中に手を回した。
少女たちの抱擁を、惚けたように三人の青年は眺めていた。しかし、すぐに彼らは背筋を伸ばすことになる。
「――アルヴァ」
厳かな声を発したのは、赤髪の侍女だった。
彼女はあくまでも穏やかに口元を緩めている。しかし、その目は冷ややかだ。
母の迫力に、名指しされたアルヴァは居心地が悪そうに視線を泳がす。
エヴァ、イーヴも全く同じ反応を見せる。彼らに罪は無いのだが、三つ子ゆえに感覚が通じ合っているのだろうか? 気まずさを露わにしている。
怯える息子たち。しかし、母は許さない。
「後でお話しがあります。……分かりましたね?」
「……はい」
恐れが二人の兄弟の手元を緩めたようだった。アルヴァの口から、はっきりと返事が聞こえた。
◆ ◆ ◆
昼食はノディオン城の大広間で行われた。
細長い会食用の長卓が据えられ、清潔な白布がかけられている。その上には銀器、花を飾った燭台が整然と並んでいた。
壁には色彩豊かなタペストリーが掛けられ、窓辺から差す夏の陽が柔らかく床を照らしている。
彩り豊かな料理が次々と運ばれてくる。香草を効かせた焼き肉料理に、果実を添えたパイ。スープは銀の器に湯気を立て、ワインの代わりにエリンの前で果実水が注がれた。
だが、エリンに味は分からなかった。緊張で喉がこわばり、目の前の料理が霞んで見えるほどだった。ただ、対面に座るラケシスが微笑むたびに、どこか安心して息がつけた。
食事が終わると、ラケシスが椅子から立ち上がった。彼女は真っ直ぐにエリンの元へとやって来る。
「さあ、エリン。私のお部屋で一緒に過ごしましょう」
「え……でも」
ためらうエリンに、横に座るフィリップが声をかけた。
「お誘いをお受けしなさい、エリン」
びくりと肩を震わせて、エリンはフィリップを見た。彼は穏やかな眼差しを向けていた。
「こちらは気にしなくてもいい。……姫様、義娘を頼みます」
恭しく頭を下げるフィリップに、ラケシスは自信たっぷりに頷いた。
「ええ、いいわよ。エリンは私のお友達だもの」
「光栄です。……ありがとうございます」
礼を言うフィリップの目元は潤んでいた。
大広間でエリンと合流した時、フィリップは驚きを隠せないでいた。
ドナの死後、ずっと塞ぎ込んでいたエリンが笑みを携えてやって来たからだ。
ラケシスと手を繋ぎ、二人で楽しげにお喋りをする姿を、フィリップは感慨深く眺めていた。久しぶりに見た、義娘の笑顔を彼は本心から喜んだ。
「行きましょう、エリン!」
促されるままに、エリンは再び小さな手を取られて立ち上がる。そのまま飛び立つように、二人で大広間を抜け出る。
小さな背中が、あっという間に遠ざかっていく。フィリップはただ、黙ってそれを見送っていた。
ラケシスの部屋は、大広間から回廊を幾つか抜けた先にある。エリンの足は疲労を訴えたが、はやる心がそれを無視させた。
王族の私室までを繋ぐ回廊は、ひっそりと静まり返っていた。高く伸びた天井と、まっすぐに続く石造りの廊下。窓辺から差し込む昼下がりの陽光が、固めの絨毯に淡く模様を描いている。
壁には重厚な額縁に収められた王族の肖像や、神話をモチーフに描いた絵画が点々と飾られていた。床脇には、白い石で彫られた彫像が寂しげにぽつりぽつりと佇んでいる。
時折、鎧の音を立てずに立つ兵の姿があった。誰一人、声を発さない。ただ、ラケシスの姿を見て静かに一礼を返すだけだった。彼らの眼光の鋭さが、エリンの恐れが蓄積されてゆく。
この厳かな空間を、エリンは知っていた。……いや、知っている気がした。
薄暗いわけではない。むしろ、清廉とした煌びやかさがある。絨毯に吸収されても、少女たちの足音は広い回廊に響く。
エリンの足並みが鈍くなってることにラケシスは気づかない。ただ、「もう少しよ」と可愛らしい声で、はしゃぐ。
エリンの心臓が大きく脈撃ち始める。ここに来てはいけない――なぜだか、そんな警告めいた想いが湧き上がる。
こわい。
だめ。
ちかよったら、きけん。
恐怖がエリンの声となって警鐘を鳴らす。鼓動と共に呼吸も小刻みになってゆく。
どうして?
どうして、こわいの?
混乱する頭で、エリンは必死に記憶を辿る。……やがて、心当たりであろう出来事を思い出した。
あれはそうだ……ドナが永き眠りについて、すぐの頃のことだ。
ハイライン城の舞踏会に、フィリップがエリンを連れて行ってくれた。
母を失ったエリンは部屋に引きこもり、屋敷の者が話しかけても小さく震えるだけだった。
愛妻を亡くしたフィリップも、深く気落ちしていた。
喪に服す彼は、王からの舞踏会の招待を辞退していたが――やはり王命には逆らえなかった。
ボルドー王は、おそらくフィリップに相応しい後妻をこの催しで引き合わせようと考えたのだろう。
フィリップもそれを察していた。だからこそ、彼はエリンを連れて行く決断をする。
塞ぎ込む義娘の気晴らしのため、そして血の繋がりがなくとも我が子であるという静かな宣言のために。
義父娘は、華美な装束を避け、黒を基調とした礼服を身に着けた。喪に服す意思を表すために。
暗いドレスは、エリンの沈んだ心をそのまま映しているようだった。
そして――予想通り、城の空気は冷ややかだった。
身分の高い者ほど、エリンの存在を疎ましく思うのだろう。口には出さずとも、その視線が鋭く突き刺さる。
フィリップはボルドーに呼び止められ、何やら強く叱責されている。きっと間違いなく、エリンのことを責められているのだ。
怖くなって彼女は黙って逃げ出した。もういない母の元へと帰りたかった。
エリンが震えれば、母は大丈夫と言って両手で包み込んでくれた。その左手首の腕輪が安心させるように緑石が光を放つ。
だから……母はきっと、エリンに微笑んでくれるはずだ。泣いているエリンを慰めるために、綺麗な歌声を聴かせてくれるはずだ。死んでなんかいない、エリンを遺して遠いところになんか行くはずがない。
――おかあさん、おかあさん……おかあさん!
涙を堪えて走るも、ハイライン城内は広く迷宮のようだった。どこをどう走ったのかも分からないまま、エリンは気が付けば見知らぬ回廊に辿り着いていた。
壁掛けのランプでは回廊の全てを照らせない。薄暗い中で浮かび上がる彫刻が、今にも動き出しそうでエリンは怯えた。
要所に立つ兵士の顔も、一段と険しい。道を尋ねることすら許されない雰囲気を発していた。
ついにエリンは疲れ果てて、隠れるように回廊の隅でうずくまる。
履き慣れないブーツにより足が痛む。食事にもありつけなかったので、お腹は空腹を訴える。そして何よりも心細かった。
このまま帰れなかったらどうしよう……そんな不安がエリンを押し潰す。体を抱き込むように座り込み、顔を俯ける。途方に暮れた彼女の耳に、聞きたくない声が届いた。
――お前、何故ここにいるんだ!
甲高い少年の声に、即座に小さな体が強張った。嫌いな声だ。エリンをいじめる声だ。
逃げようにも足は動かない。恐怖と疲労が彼女を縛り付ける。
やがて声の主――エリオットがエリンの前に立つ。珍しく彼は慌てたような表情を浮かべていた。らしくなく、エリンを案じているような――しかし、彼の取り巻きたちがその背後に近寄ると、すぐに普段のような横暴さを取り戻した。
そして、彼は――。
「エリン、着いたわよ!」
ラケシスの声が、エリンを忌まわしき回想から呼び戻す。
辿り着いた静かなその一角に百合のレリーフが彫られた両扉があった。その扉が開かれれば、別の世界が広がっていた。
壁は淡い桃色を帯びた白で塗られており、彩りの良い花束を描いた絵画が飾られている。
大きな窓には薄紅色のカーテンがかけられ、陽光を柔らかく受けて、揺れていた。
白いドレッサーには丸い鏡が取りつけられている。その鏡は磨き上げられ、まるで魔法の道具のように輝いていた。
そして部屋の奥、ふかふかの絨毯の上に置かれたのは、白く塗られた木製のベッドだった。幾重にも重なるレースの天蓋が降りていて、それはまさに、絵本の中でしか見たことのないお姫様の寝台だった。
ラケシスはためらいもなく部屋へと足を踏み入れる。……しかし、エリンは立ち止まった。
繋がれた手が、自然と離れた。エリンは足元に視線を落とし、小さく唇を噛む。
振り返ったラケシスの顔は、不思議そうな表情を浮かべていた。
「どうしたの? 入ってもいいのよ」
そう言われても、エリンの足は動かない。だってこの先はお姫様の部屋なのだ。自分なんかが入り込んで良い場所ではない。
エリンの右手は左手首に寄せられていた。母の腕輪。また救いを求めるように彼女はそれに触れていた。