「ねぇ、エリン……?」
「……ご、ごめんなさい」
エリンは俯いたまま首を横に振った。
頭に鐘のように響くのは、エリオットの声だ。
耳から離れないのは、彼の取り巻きたちが嘲笑う声だ。
――お前みたいな賤しい子供が、城内に足を踏み入れるのもおこがましい。
――穢らわしい、捨て猫風情が。
そうだった。
おひめさまの部屋に自分みたいな子供が入ったら、穢れてしまう。
絵本の中にしかないと思っていた世界が、目の前に広がっている。だからこそ、足は一歩も前へ進めなかった。
「……わたしは、入っちゃダメ、です」
あの時、取り巻きを前にしたエリオットは存分にエリンを罵倒した。取り巻きたちも、競うように嘲りの言葉を浴びせた。
怯えるエリンの手を、エリオットは乱暴に引っ張る。道すがらも嘲りの言葉は止まない。抵抗する拍子に、母の腕輪が手首から外れ、取り巻きに奪われた。
返してと叫んだ時、エリンの体は突き飛ばされた。
大広間へと続く階段の上で。
「わたしは、おしろに、ふさわしくないから……」
落ちた後の記憶はない。
その後のエリンが覚えているのは、絶え間ない全身の痛みに苦しむ中で、フィリップにおぶられて屋敷までの帰路だった。
空に昇る三日月が、鋭利な刃物のように光っていた。エリンの心をさらに傷付けようと企むように。
夜風はますます寒く、乱れたエリンの髪を靡かせる。
ブーツはいつの間にか脱がされていた。開放感はあるが、つま先の痛みは消えない。
――すまない……すまなかった、エリン……。
広い背中越しでは、フィリップの顔は見えない。ただ、彼の声が酷く憔悴しているのは分かった。
繰り返される謝罪も、もはやどうでも良かった。エリンはただ……母に会いたかった。
「わたしみたいな、いやしいこどもが……おへやに、はいったら、ダメです……」
早く家に帰りたかった。
フィリップの広く大きな屋敷ではなく、開拓村の小さな家――母と二人で過ごした場所。
そうだ、きっと母はそこでエリンを待ってる。前のように、穏やかに微笑みながらエリンを抱きしめてくれる。夜は薄い布団で一緒に眠るのだ。母は子守唄を、エリンが眠るまで歌ってくれる。
そうに……決まっている。帰りたい。帰りたい、あの家に――。
「誰がそんなこと言ったの!」
怒鳴り声が、エリンの体を揺らした。
ラケシスだ。
彼女は怒っていた。琥珀色の瞳を吊り上げ、金糸の髪を逆立てさせている。
驚き、エリンは謝罪の言葉も出なかった。ラケシスを怒らせてしまった――取り返しのつかない事態にエリンは凍り付く。
ラケシスが一歩近寄れば、エリンの体が震え出す。
怒りの表情を浮かべていたラケシスだが、エリンの震えに気づいたのか、目元を曇らせた。そして、改めて静かに質問を送った。
「ねえ、教えて。誰がエリンにそんなこと言ったの? まさか......フィリップが?」
「ち、ちがいます。騎士様は、言いません……」
エリンは即座に否定する。
むしろフィリップは、傷付くエリンを慰めてくれる方だ。あらぬ誤解で、ラケシスに嫌疑を抱かせてしまうのは良くない。
ラケシスはエリンの言葉を信じてくれたようだ。安堵したように、肩の力を抜いた。
「そう……良かった。じゃあ、誰が言ったの?」
エリンは答えられない。
声が喉元に張り付いて、その名前を口にできない。いないはずの王子が、エリンの後ろに立っているような気がした。
幻影の王子は、あの黒い情念の渦巻く瞳でエリンを睨んでいる。
――俺を突き出すのか?
――俺を断罪するのか?
――そんなこと、お前に出来るはずがない!
勝ち誇ったかのように、あの高笑いをエリンに聴かせる。
恐怖からエリンは左手首の腕輪を強く、強く握りしめた。
「……教えて、エリン」
いつの間にか、ラケシスはエリンの目の前にまで来ていた。彼女はエリンを怯えさせないように、柔らかく微笑んでいる。
「私は、エリンを怒ったりしない。約束するわ。……誰が何を言ったか、聞きたいだけなの」
ラケシスはエリンの右手を両手で包み込む。決して左手首の腕輪には触れないように。
冷たくなったエリンの指先を、ラケシスの体温が暖める。
寄り添ってくれるラケシスの声が、背後の幻影を薄くさせた。そして、それがエリンに告発のきっかけを与えた。
「エリオットさま、です……」
小さな声だった。口にするのも、やっとというほどに掠れた声だった。
そして口にした瞬間、エリンの涙腺が決壊した。大粒の涙が次から次へと溢れ出す。
「ごめんなさい……ごめん、なさい……」
誰に告げるものでもない謝罪の言葉が落ちる。
王族を非難したことへの畏れか、憧れのお姫様に弱みを見せたことへの恥か……それとも泣くことしか出来ない自分への失望か――その全てへの謝罪かも知れない。
「わたしが、わるいこ……だから……ごめんなさい……」
しゃくり上げながら、エリンは謝り続ける。彼女が今、求めるのは愛する母親の抱擁だ。守ってくれる母親の存在だ。
――だが、その母はもう……。
「違うわ!」
叫びと共にラケシスがエリンを抱きしめた。決して離さないとでも言うように、強く強く。
驚いたエリンの目尻から涙が落ちる。それはラケシスの肩に落ちて濡らした。
「だ、だめです……」
力なくエリンは首を横に振る。
「わたしは、きたないから……おひめさまを、よごしてしまいま――」
「エリンは汚くなんかない!」
ラケシスの声も涙で濡れていた。彼女はエリンの自己否定を掻き消すように叫んだ。
「可愛い女の子よ! 私の大切なお友達なのよ! ……だから……だからそんな悲しいこと、言わないで……」
ラケシスの小さな肩は震えていた。それでも、彼女はエリンを抱きしめる腕の力を弱めない。痛いほど強く、ラケシスは傷付いたエリンを守るように抱いていた。
暖かい腕の中に抱かれながら、ふと感じた柔らかな香りは――確かに違うはずなのに、どこか母の面影に重なっていた。
母はいつもエリンを抱きしめて囁いてくれた。穏やかな眼差しで、甘い声音で……。
――エリン、私の可愛いエリン……。
――大好きよ、私の宝物。
もう会えない。もう慰めてくれない。……もう抱きしめてもらえない!
母の声が好きだった。母の顔が好きだった。母の抱きしめる腕が好きだった。……母の全てが好きで、恋しかった。
開拓村へ辿り着くまでの過酷な旅路も、開拓村で落ち着いてからの貧相な暮らしも、ハイラインでの謂れ無い不遇も……全て母が居たから耐えられた。母さえいれば、エリンは幸福だった。
だけど、その母はもう死んだ。
耐えられない。苦しくて辛くて悲しくて、仕方がない。
責めるエリオットの言葉が、貴族たちの視線が、取り巻く全ての世界が、エリンはもう嫌で仕方がなかった。
優しい人たちもいる。フィリップや副隊長、屋敷の人たちはエリンを可愛がってくれる。……でも、それじゃ無理なのだ。
エリンを一番に愛してくれた人は……母一人だけだ。
エリンは声を上げて泣き出していた。母が亡くなった夜、もう涙は枯れ果てるほど泣き尽くした。それなのに、まだこんなにも悲しくて哀しくて涙が溢れる。
ラケシスもまたエリンを抱きしめて泣いてくれた。寄り添うように、その悲しみも分け合いたいと願うように。
やがて赤髪の侍女がやって来るまで、二人は一緒に泣き続けた。
慌てた侍女に慰められ、涙を柔らかな布で拭かれる。
侍女はエリンに謝ってきた。恐らく彼女は、我が子の心なき言葉がエリンを傷付けたのだと関連付けたのだろう。
「アルヴァには、よく言い聞かせておきましたから」
確かにアルヴァの言動には恐怖を覚えたが、落涙の原因ではない。説明しようとしたエリンをラケシスが止めた。
「アルヴァが無神経なのは事実だから」
その口ぶりから、彼が普段どんな振る舞いをしているのか……エリンは察してしまった。侍女の謝罪なれた態度に、幼いながら同情の念を送る。
そのまま午後も、ラケシスの部屋で過ごさせてもらうことになった。
広くて柔らかいソファの上で、ラケシスはエリンに物語を読み聞かせてくれた。
小さな妖精姉妹が、様々な世界を旅をする冒険譚だ。初めて聞いた物語だったので、エリンは身を乗り出すほどに聴き入る。
熱心な観客にラケシスは、さらに張り切ったようだ。抑揚をつけ、臨場感溢れる語りを行ってくれた。
なんと、この日のためにラケシスは音読する練習を行っていたらしい。歳の近い女の子の訪問を彼女は指折りしながら楽しみにしていたそうだ。
「だから、今日はお勉強はお休みなのよ」
エリンが来たらずっと一緒に遊びたいと、前々から王たちにねだっていたと言う。
「エリンさえ良ければ、私とずっと一緒に過ごさない? お仕事は、お父様たちに任せておけばいいのよ」
確かに使者としての役目で、子供のエリンが行うことは何もない。むしろ、ハイライン側はエリンに何の期待も抱いていないのだ。王族の子が気に入れば御の字といったところか。……エリンは知らずにそれを叶えてしまったのだが。
「だから、エリンはこの部屋で寝ましょう。一緒に夜更かしだって出来るのよ!」
「夜更かしはいけません」
クスクスと笑うラケシスに、侍女がピシャリと釘を刺す。しかし、すぐに厳しい表情を緩めた。
「……ほんの少しは、見逃しますよ」
「まぁ、嬉しい!」
ラケシスが笑う。つられてエリンも……ほんの少し笑った。
夕食も会食であったが、エリンの席はラケシスの隣に設けられた。昼食と同じく緊張するエリンに、ラケシスは優しく手ほどきしてくれた。銀器の使う順番やテーブルマナーをひとつひとつ丁寧に教えてくれたのだ。
フィリップの屋敷で習っているのもあって、エリンは間違えることなく食事を終えることが出来た。昼食では分からなかった料理の味を、堪能する余裕まであった。
その後、王族用の浴室をエリンは使わせて貰った。当然ラケシスも一緒だ。
大きな浴槽は泡が溢れており、二人ではしゃぎながらシャボン玉を飛ばした。
寝衣はラケシスの私物を使わせてもらった。エリンには少し大きかったが、眠る分には支障がない。滑らかな絹のナイトドレスは肌触りが良く、真珠のような光沢を放っていた。
エリンの髪を梳いてくれたのはラケシスだ。遠慮したのだが、彼女は引かなかった。
「私がエリンにやってあげたいの!」
まるで姉のようにラケシスはエリンに優しくしてくれる。エリンも次第に、その優しさに甘えるようになっていった。
部屋の明かりを消され、天幕付きの寝台に二人で入り込む。その頃にはエリンはすっかりラケシスに懐いていた。
手を繋ぎ、月明かりの中で二人はいつまでも語り合った。眠るのが惜しいと、エリンは人生で初めて思った。
――早く朝がくればいいのに。そうしたら、ラケシス様とまた色んな遊びができる。
――ずっと夜のままでいいのに。そうしたら、ラケシス様とずっとおしゃべりができる。
相反する気持ちは、全てラケシスへの好意からくるものだ。こんなにも幸せで、楽しい時間は久しぶりだった。
いつ眠りについたのかも分からないほどに、エリンは充実した一日を過ごしていた。