翌朝、エリンはラケシスのお下がりのドレスを着せてもらえた。
薄手の絹を重ねた初夏用のドレス。袖はふんわりと膨らみ、肘下で絞られたベルスリーブだ。胸元や裾には、繊細な百合の刺繍が白地の糸で縫い付けられている。淡い緑色の布地は、まるで若葉のようだ。
エリンの髪は後ろで高く結い上げられ、碧玉のような光沢のあるリボンで結ばれた。
「そのドレスはね、お母様とお揃いだったの」
今日のラケシスのドレスは、朝焼けの色をしたサマードレスだ。鮮やかな色合いなのに、ワンピースに似た形だからか、どこか涼しげな印象を受ける。
足首まである長いスカートには、フリルとレースが贅沢に縫い込まれていて、ラケシスが振り向くたびにふわりと揺れる。
エリンは思わず見とれてしまった。こんなにも柔らかな布地が、彼女の仕草を一層美しく見せているのだ。お姫様って、本当にすごいんだな……と、素直に思う。
ラケシスの金髪も、エリンと同じように後頭部で高く結い上げられていて、二人並んで立つとまるで姉妹のようだった。
「私には着れなくなってしまったけど、手放せなくて……」
そんな大切な物を、着せてもらえていいのだろうか?
不安がエリンの顔を現れたのだろう、ラケシスは微笑む。エリンを安心させるように。
「エリンが着てくれて良かったわ。きっと、お母様のも喜んでいるはずよ」
そう言いながら、ラケシスは「エリンは本当に可愛い」と抱きしめてくれた。エリンは、もうそれを拒絶しようとは思わなかった。
それからずっと、エリンはラケシスと共に過ごした。
姫としての礼儀作法の勉強も、同じように受けさせてもらった。
見様見真似でエリンは動く。フィリップの屋敷で家政婦長から教わったこともあり、なんとか様になった。
安堵するエリンを、教師は驚き、そして褒めてくれた。
「とても綺麗な所作です。少々気になる点はありますが、それは粗探しに近いほどですよ」
「すごいわ、エリン!」
そうしてまたラケシスが褒めてくれる。彼女だけではない、ノディオンの大人たちもみんなエリンに優しくしてくれる。エリンの頑張りを認めてくれるし、話をきちんと聞いてくれる。
貶されることも嫌厭されることもない――そのことが、こんなにも心を軽くするものだとは……エリンは初めて知った。
ラケシスはエリンを離さなかった。朝は共に起き、昼は共に勉学に励み、夜は同じベッドで眠りについた。手を繋いで城内を探索し、二人きりでお茶会を開いたりした。
エリンもそれらを喜んで受け入れる。けれど、どうしても応えられなかった願いが二つだけあった。
一つは、エリンの持つ銀の腕輪。
それをよく見せてほしいとラケシスに頼まれた。アグストリアとは違う造りの腕輪が、彼女の興味を注いだのだろう。しかし、エリンは断った。
「ごめんなさい、ラケシス様……」
怯えるように謝罪するエリンに、ラケシスは首を横に振った。
「……私こそ、ごめんなさい。エリンの宝物だって知っていたのに、不躾なお願いをしてしまって」
母親の形見であることを考慮してくれたようだ。彼女はそれ以降、腕輪について何かを求めることはなかった。
そしてもう一つは――。
「ねぇ、エリン。どうしてもダメ?」
ラケシスは困ったように微笑みながら、小首をかしげて問いかける。しかし、エリンは首を横に振る。
城の中層に位置する楽堂。
南向きのアーチ窓から覗く昼下がりの太陽は、燦々とした光で室内を照らす。石壁には厚めのタペストリーがかけられており、防音の役目を任されている。
部屋の奥向きに鍵盤楽器が設置され、そこに教師役の音楽家が腰掛けていた。
ラケシスはその前に立ち、エリンを説得する。
「一緒に歌いましょうよ。お腹から声を出すと気持ちいいのよ」
お姫様と合唱するなんて、まさに夢のような話だ。だが、エリンはどうしても受け入れられない。
「私……歌、上手じゃないから、ダメです」
「それでもいいの。音楽は楽しむものなのだから」
ラケシスの言葉に、音楽家も静かに頷いている。楽堂の隅で控える赤髪の侍女も、困ったように成り行きを眺めていた。
彼女たちなら、エリンがどれほどに音程を外したとしても揶揄うことはないだろう。だが、エリンはそれでも恐れてしまう。
エリオットの呪いだ。
エリンの全てを封じ込めたのは、あの王子の嫌がらせによるものだ。
母がまだ生きていた頃、エリンは歌うのが大好きだった。母と一緒に声を合わせる時間が何よりも幸せだった。母が死んでも、その思い出を偲ぶように歌を口ずさんだ。
だから、フィリップの屋敷――その中庭でエリンは空を仰ぎながら一人で歌を奏でていた。周囲の迷惑にならないよう、小さく囁くような歌声で。
そこへエリオットがやって来た。取り巻きを引き連れ、エリンを指差して嘲笑った。
――にゃあにゃあと、子猫の鳴き声かと思ったぞ!
――独りでブツブツと……気味が悪い!
それが幾度も繰り返され、すっかりエリンは歌うのを恐れるようになった。
ラケシスに促され、試しにと口を開いても喉奥に息が張り付いて声にならない。ひゅうひゅうと掠れた吐息が漏れるだけだ。声にならない自分が情けなくて、胸の奥がきりきりと痛んだ。
「ごめんなさい……」
泣きそうな声で俯く。歌うのが怖いと思い込んでいたことが、何よりも悲しかった。母との思い出が消し潰されたように思えたのだ。
涙を堪えるために、エリンは母の腕輪を右手で強く握りしめた。
落ち込むエリンにラケシスは柔らかい微笑みをくれた。
「いいのよ、エリン。……あなたが辛いのなら無理をしなくてもいいの」
ラケシスは全てを聞かない。それでも、彼女はエリンのハイラインでの不遇を知っている。だから、エリンが歌えない理由も言われずとも察したのだろう。
「でも、約束して。いつかエリンが歌えるようになったら、きっと一緒に歌いましょうね」
そうして、ラケシスはエリンの左手を握ってくれた。彼女の眼差しは優しい。眩いばかりの金色は、夏の空を照らす太陽のように煌めきながらも、宿すの刺すような光ではない。
穏やかな春の日差しのような輝きだ。その瞳に、エリンは魅了されている。
ずっとずっと、この目を見ていたいと願ってしまう。
「……はい」
エリンは、すっかり優しいおひめさまが好きになっていた。
だからこそ、彼女は恐れた。
自分の正体が、身の知れない平民だということを。
エリンがフィリップの養女であることは真実だ。
そして、エリンの実の父はハイライン貴族の者だと偽っている。使用人の娘と駆け落ちしたため、家から勘当されたという筋書きだ。だが、それを言いふらしはしない。あくまでもそれを匂わせる程度でいいとフィリップはエリンと約束した。下手に風聞したら、却って怪しませるだろう。
運の良いことに、ノディオンの人々はそれを尋ねずとも、エリンを没落した貴族の娘だと思い込んでくれている。彼女の所作や言葉遣いなどが、高貴の出身だと判断したのだろう。
もしも本当のことがバレてしまったら、怒られるかもしれない。よくも裏切ったなと責められるかもしれない。
……ラケシスに嫌われてしまうかも知れない。
不安を胸の奥底に秘めつつも、エリンはノディオンでの日々を堪能した。
◆ ◆ ◆
幸福な時間だからこそ、過ぎるのはあっという間だった。
明日にはエリンはフィリップと共に、ハイラインへと帰国する。夢のような数日間が終わり、日常へと戻る。
副隊長や屋敷の使用人たちに再会するのは楽しみだ。……だが、同時にエリンは憂鬱になる。
エリオットとも顔を合わす日々が戻ってくるのだ。それが顔に出ていたのだろう、ラケシスが真剣な表情で言った。
「ねぇ、エリンはノディオンに残りましょう?」
時刻は昼前。朝食を終えた二人はラケシスの部屋にいた。
今日は勉学の授業は無かった。エリン滞在の最終日を、ラケシスと共にゆっくりと過ごすよう、ノディオン王からの計らいだ。
開かれた大きな窓。バルコニーの上空に広がる空は曇っていた。まるで、別れを惜しむ二人の心を映すように。
「私がお父様とお兄様にもお願いしてあげる。きっと、許していただけるはずよ」
ラケシスは手にしていたビロード生地のぬいぐるみを机の上に置く。そして、対面の椅子に座るエリンの両手を握った。
「私、エリンとずっと一緒にいたいの。あなたもそうでしょう?」
ラケシスの真っ直ぐな視線を、エリンは俯いて遮った。
エリンも、本当はラケシスと同じ気持ちだった。大好きなおひめさまと離れ離れになりたくない。……でも、それは駄目なのだ。
彼女がこうやってラケシスと交流を深められたのは、フィリップの庇護によるものだ。彼の養女でなければ、お姫様と知り合うことすら出来なかった。
ノディオンに残るのなら、フィリップとの関係も解消されることになるだろう。そうなった時に、改めてエリンの身の上を調べられたら全てが明らかになってしまう。
ハイライン騎士の養女という身分がなければ、エリンをノディオン城に留めておく必要は無い。身元の分からない子供を、王族の傍に置いておけるほど、ノディオン王家は寛容ではないだろう。
そうなったら、どれほどにラケシスが王に懇願しても、エリンはノディオン城から追い出されるに違いない。
その後、エリンはどうなる?
親もいない、頼れる大人もいない。何もできない子供が、たった一人でどうやって生きていけばいいのか。自分からフィリップの庇護を手放して、彼にまた『助けて』と言うこともできない。
これらの思考は、すべてエリオットの呪詛によるものだった。彼の暴言はエリンの尊厳を傷付け、心に深く楔を打ち込んだ。
だから、ラケシスはエリンを引き止めようと必死だ。彼女に多くは話していない。それでも、エリンの悲しみを悟るには十分な時間を共に過ごしていた。
「ねぇ、お願い。良いと言って。大丈夫、お父様たちもエリンを気に入ってくださっているもの」
ハイラインに戻れば、エリンが酷い目に遭う。この優しいおひめさまは、それが耐えられないのだろう。
細い眉を下げ、懸命にエリンを説得してくれる。だが、ラケシスのことを大切に思うからこそエリンは頷けない。
「どうして? エリンは私のこと、嫌い?」
「きらいじゃ、ないです」
好きだから、離れたくない。
離れたくないからこそ、帰らなければならない。
そうしたら、ラケシスはエリンのことを、友達として覚えていてもらえる。そう思えば、これからどんなに辛いことがあっても、耐えられる気がした。
母との記憶とラケシスと過ごした日々。この二つがあれば、エリオットに理不尽に責められても、エリンの心の灯火として慰められるはずだ。
きっと、大人になっても……。
ラケシスは黙り込む。彼女は必死で考えているようだ。どうすればエリンをノディオンに留められるかを。
しかし、難しいだろう。
エリンを姫付きの侍女にするという手段は取れない。侍女というのは、基本的に自国の貴族の娘などから選ばれる。他国の少女を引き入れれば、政治的なしがらみも発生する。友情という絆だけで覆せるほど、甘いものではない。
ならば、滞在期間を延ばすようハイラインに申請しても同じことだ。狡猾なボルドーはここぞとばかりに、自国の利益になる交渉を行う可能性もある。元々エリンは使い捨ての駒だ。使えるのなら乱雑に扱っても支障はない。
そしてもしもエリンの真実が、ノディオン側に明らかになった時、ボルドーはあっさりとエリンを見捨てるだろう。
――この娘は、その母親共々、我々を欺いたのだ!
そう高らかに嘯くボルドーの姿が目に浮かぶ。ノディオンへの詫びとして、エリンの首をすぐさまに切り落とすだろう。身分の偽りは大罪だ。例え、幼い子供でも……。
いくつかの嘆願があったとしても、結局は刑が執行されるに違いない。
「ごめんなさい……」
母の腕輪に触れながら、エリンは謝った。これ以上、ラケシスを悩ませたくなかったからだ。
それに帰国直前にエリンが我儘を言えば、フィリップに迷惑がかかるだろう。
「……騎士様を、困らせてしまいます」
「それよ!」
勢いよく、ラケシスが立ち上がった。その反動で椅子が床に倒れる。
しかし、ラケシスは構わずにエリンへと顔を近寄らせた。
「エリンが、私の騎士になればいいのよ!」