ラケシスの顔から憂いが消え、エリンの手を握る指先に力が籠る。
「騎士になれば、国の違いなんて関係ないわ! エリンが望むのなら、ずっと私と一緒にいられるの!」
自国の貴族の娘から選出される侍女よりも、騎士はもっと柔軟だ。他国出身でも、能力や縁故――王族の信頼があれば採用されることが多々ある。
実際にエリンは、そうなった人間を知っている。
副隊長だ。
彼はアグストリア出身ではない。生まれが何処かは分からない。だが、彼はフィリップと信頼を築き、実力も備え、今ではフィリップの右腕と呼べる地位までのし上がった。
安易では無い、その道のりを副隊長は酒の話で軽く語る。笑い話の裏側はきっと血の滲むような過酷さもあったはずだ。
エリンは副隊長と違い、小柄で体力も腕力も無い。騎士としての才覚は恵まれてはないだろう。
ラケシスの提案は無謀と言える試練だ。
それでも、エリンの目は輝いていた。
(騎士になる……そうだ、私は騎士になりたいんだ!)
心の欠落が埋められた気がした。エリンは冷たい水で顔を洗った時のように、頭は冴え渡る。
夢の続きを思い出した……そんな感覚がした。
エリンはラケシスを見る。
柔らかな金糸の髪。白い肌には、そばかすの一つもない。桃のような唇と、高い鼻筋。
長い睫毛の下には、煌めく金の瞳。どんな宝石よりも美しいその色は、晴れた夏空の太陽を連想させた。
エリンが憧れたお姫様。その人を守る騎士――これこそが、エリンの使命とすら感じた。
「わたし、ラケシス様の騎士になります」
はっきりと宣言すると、ラケシスは微笑んだ。
「決まりね! 行きましょう」
何処へ行くのかなど、エリンは問わない。ラケシスが行くと決めたら、一緒に行くのだ。だって、エリンはラケシスの騎士になるのだ。主君に従うのが騎士の務めだ。
手を繋いだまま、二人は机から離れる。そして、そのまま扉まで進み始めた時に制止の声がかかった。
「お、お待ちくださいませ!」
エリンたちより、一回り年上の侍女が慌てて割り込んだ。
「今日はお天気も優れないので……姫様たちはお部屋で過ごすよう、言われております」
侍女は、長い栗色の髪を二つに分けて三つ編みにしている。彼女が首を横に振れば、それに合わせて三つ編みも揺れた。
若い侍女は両手を胸元で組みながら、必死にラケシスたちを説得する。
「それに、もうすぐお茶のお時間です。お部屋でお待ちなるよう、言われております」
赤髪の侍女の指示だ。彼女がお茶や菓子の準備を行うため、その間若い侍女にラケシスの側に付いてるよう頼んだのだ。
若い侍女は、つい先日にラケシス付きの役割を与えられた。そのためか、まだ自信が無さそうに声を震わせている。茶色がかった大きな黒目が困ったように潤んでいる。
しかし、ラケシスはあっさりと却下した。
「嫌よ。だって、エリンは明日には帰ってしまうのよ? だから今しかないの!」
「ど、どちらへ行かれるのです……」
「決まってるじゃない、鍛錬場よ」
その発言に、若い侍女は何かを察したようだ。
「今日は、エルトシャン王子は鍛錬場にはおられません」
兄会いたさゆえの行動だと、若い侍女は考えたらしい。
ラケシスはエルトシャンに懐いている。時間があれば、彼に会いに行くことが多い。
それはエリンが来る以前からも、そうだったらしい。仲の良い兄妹として、ノディオンの人々は微笑ましく眺めていた。
「分かっているわ。でも、イーヴたちがいるでしょう?」
この時間帯、鍛錬場にはイーヴたち三つ子が揃っている。三人で剣を振るい、動きを合わせたり競い合ったりしているのだ。
中でも、アルヴァはまるで取り憑かれたように剣を振るっていた。雨の日も、風の日も、決して休むことはない。赤銅色の瞳に宿る険しい光は、近寄り難いほどだった。
――お前、体力の化け物かよ……。
呆れたように零すエヴァの声を、エリンは何度も耳にした。
そして、ここ数日は特にその熱が増しているようだった。何かあったのかと、イーヴが困ったように問いかけていたのも見た。
けれどアルヴァは、ぶっきらぼうに「なんでもない」とだけ答え、再び剣を振り続けていた。
エリンとラケシスが鍛錬場を訪れると、アルヴァは一度は剣を止める。そして、じっとエリンを睨みつけてくる。言葉をかけることはない。ただ眼光だけで、何かを伝えるように。
怯えるエリンを、ラケシスが庇うことも多々あった。
イーヴが窘めれば、アルヴァはそっぽを向き、エヴァがエリンを慰めればまた鋭い視線を送ってくる。
初対面の後、母である赤髪の侍女に叱られたことを恨んでいるのだろうか? だとしても、エリンに八つ当たりすることはないのに……。
そんな彼らとも、明日でお別れだと思うと寂しく感じるものだ。
若い侍女も、エリンと三つ子たちの交流を知っていた。だからこそ、必死に提案する。
「で、でしたら……わ、私がイーヴ様たちをお呼びして参りますので!」
「待てないわ!」
そうしてラケシスは、若い侍女を押し退けて扉に手をかけた。エリンと手をしっかりと繋いだままで。
扉が開かれる。ラケシスとエリンは同時に外へと足を踏み出した。
部屋の前で立っていた警備兵は、突然のことに驚き固まっていた。止める声を放つことも忘れるぐらいに。
駆け出した少女たちの背後から、若い侍女の声が追いすがる。
「ひ、姫様! せめて、傘を……日傘をお持ちくださいまし!」
◆ ◆ ◆
曇天の下、やはりというかいつも通りに彼らは剣を交えていた。激しい剣戟の音が、どんよりとした空に響く。
同じ顔、同じ背格好の青年たち。数日の交流で、エリンはどれが誰なのかの見分けが付くようになっていた。
入り口近くの壁にもたれかかって座り込んでいるのはエヴァだろう。彼はぐったりと項垂れて、へたり込んでいる。
絶え間ない攻撃を受け流しているのは、イーヴであろう。汗を流し、疲労の色が浮かんだ瞳で攻撃の流れを懸命に追っている。
一方的に剣を振るうのは、間違いなくアルヴァだ。兄弟の体力は消耗しているのに、彼の動きは冴えたままだ。恐らく三人の中で誰よりも動いているはずなのに、疲れる様子はない。
イーヴと同じくらいに汗をかいているのに、それを拭わずにひたすら木剣を振りかざす。
やがて、イーヴが壁際へと追い詰められる。逃げ場を失った彼の喉元目掛けて、アルヴァは木剣を突き立てる――前に動きが止まった。
そして、アルヴァは黙って顔を向ける。鍛錬場の入り口までやって来たエリンたちを見やったのだ。
明らかにアルヴァは集中していたはずなのに、即座に来訪者に気付いた。休んでいるエヴァよりも先に。その鋭さに、エリンは正直恐怖すら覚える。
アルヴァの動きが止まったと同時にイーヴが膝を付いた。どうやら限界だったらしい。木剣を支えにして、肩で荒々しく息をする。
「お前、加減を……覚えろよ……」
息を切らしながらイーヴはボヤく。
しかし、アルヴァはそれを無視する。彼の視線の先は変わらない。その鋭さも。ただじっと、エリンを見据える。もしかしたら、本人は睨んでいるつもりは無いのかもしれない。
けれどその眼差しは、幼いエリンにはやはり怖かった。昨日までだったら、エリンはラケシスの背に隠れていただろう。
だが、今日は逃げない。エリンは、ラケシスを守る騎士になるのだから。
細い足を震わせながら、エリンはアルヴァの視線を受け止めた。自分の手を握ってくれる、ラケシスの手に勇気を貰いながら。
「あれ……姫様に、エリンちゃんだ」
先に声をかけて来たのは、エリン達のすぐ側で休んでいたエヴァだ。やはり相当アルヴァに絞られた後だったのだろう、彼の声に覇気がない。
エヴァはラケシスとエリンを確認し、その背後で大きめな黒の日傘を広げる若い侍女に気付いた。
「母さんは……?」
「心配しないで、護衛兵に伝言はしてきたから」
得意げに答えたのはラケシスだ。
部屋を飛び出したラケシス達に、子供用の白い日傘と大きめな黒い日傘の二本を手にして追いかけてきた若い侍女。黙って出掛けたら赤髪の侍女が心配するから、一言伝えるから待っていて欲しいと涙目で訴えてきた。
――なら、そちらの貴方に伝えてもらうわ。
彼女と一緒に追いかけて来た警備兵を指差し、ラケシスは言った。
――私たちはこれから鍛錬場へと向かうの。良くって?
警備兵は困ったように首を捻ったが、頷いてくれた。彼も明日にはエリンが帰国することを把握している。その別れを惜しむ姫君の我儘を受け入れてあげようと思ったのかも知れない。
ここまでの道中も若い侍女は体を震わせながら、エリン達から一歩引いて付いて来た。新人が上司の指示無しに、勝手な真似をして良いのかと怯えている様子だ。
そんな彼女に向かい、エヴァは力なく笑いかけた。
「あのさ、悪いんだけど……そこの棚に、水あるから、イーヴたちに渡してあげてくれない?」
鍛錬場の入り口には、木製の棚がある。そこには、膨らむ皮袋と清潔な白いタオルがそれぞれ三つあった。
「ごめん……俺は、まだちょっとしんどくて……」
エヴァは会話ができるほどには回復したようだったが、立ち上がるのはまだ難しそうだった。
「あの、でも……」
若い侍女は戸惑いながら、ラケシスとエヴァを交互に見つめた。勝手に動いていいものかと悩んでいる様子だ。そして、彼女は項垂れるイーヴにも視線を向けた。
曇り空とはいえ、夏の暑さが消えたわけでは無い。今日は風も少ないため、体内に溜め込んだ熱を冷ますことが難しい。
イーヴの顔は発熱したように赤くなっていた。その額を、頬を玉粒の汗がいくつも流れ落ちる。
痛ましげな眼差しを向けながら、若い侍女はイーヴを見つめていた。疲れ切った人を放っておけない、そんな優しさが感じられた。
そんな侍女に向かい、ラケシスは頷く。
「構わないわ。エヴァの言う通りにしてあげて」
「は、はい……」
小走りに若い侍女は棚へと近寄る。そして、皮袋とタオルを二つずつ手に持つとイーヴ達の元へと駆けて行った。
黒い日傘を手にしたまま。
ラケシスが持つ白い日傘では、少女二人を陽光から守るには小さすぎる。それを補うために若い侍女も黒い日傘を持っていた。しかし、今日の空は灰色の雲が広がり、日差しを遮っていた。だから補助がなくても、特に問題はなかった。
若い侍女はイーヴの前にしゃがみ、皮袋とタオルを差し出した。
「あの、どうぞ……」
「あぁ……ありがとう……」
息が切れていても、イーヴは礼節を忘れない。優しげな微笑みを侍女に見せる。
イーヴが若い侍女の手から皮袋とタオルを受け取る。その時に互いの手が触れたらしい。若い侍女の頬が赤く染まる。
皮袋の栓をイーヴは開ける。それを見届けると、侍女は立ち上がる。そして、直立したままのアルヴァに恐る恐る話しかけた。
「ど、どうぞ……」
イーヴの時よりも、声に緊張が込められていた。先ほどのイーヴに対するアルヴァの鬼気迫る攻勢に、臆したらしい。皮袋とタオルを差し出す腕も震えている。
アルヴァは侍女を一瞥し、無造作にそれらを受け取る。乱雑な振る舞いに、侍女は小さく悲鳴を上げて怯んだ。
「アルヴァ……礼ぐらい、言えるだろう」
イーヴが眉を顰めた。
しかし、アルヴァは無反応のままだった。ただエリンたちを観察し続けていた。
エリンはそれに気付くことなく、ラケシスに小声で話しかけた。
「あの、ラケシス様……すこし、いいですか?」
「なぁに、エリン?」
「私も、お水……持っていきたいです」
棚を指差すと、ラケシスは察してくれたようだ。少女二人は手を繋いだまま、棚へと移動する。
近寄ってみれば、エリンの身長よりやや高い棚で、手を伸ばしても届きそうにない。エリンはつま先で立ち上がり、左手を伸ばす。
心配してラケシスがエリンに声をかける。
「私が取った方がいいかしら?」
「だいじょうぶ、です……ん、取れた!」
ラケシスは日傘を持ったまま、反動でふらついたエリンを抱きとめてくれた。おかげでエリンは皮袋とタオルを地面に落とすことは無かった。
「ありがとうございます」
「ふふふ、いいのよ」
ラケシスは良い匂いがした。その香りは、エリン自身も纏っているものだった。共に過ごすのだからと、同じ香水を振りかけてくれたのだ。
照れるようにはにかむと、エリンはゆっくり歩き出す。手を繋いだままなので、ラケシスも一緒だ。
二人の歩く先には、座り込むエヴァがいた。
「あ、あの……」
エリンの心臓はドクドクと早鐘を打った。エヴァに自分から話しかけるのは、これが初めてだった。
「お、お水……どうぞ」
三つ子の中で、エヴァは一番親しみやすい人物であった。エリンがラケシスに連れられて鍛錬場へとやって来れば、気安い笑みを浮かべて手を振ってくれる。よく来たねーと優しく話しかけてくれた。照れから口籠るエリンに対しても、エヴァは凄むこともなかった。……アルヴァとは大違いだ。
だから、そんな優しいエヴァが疲れ果ててるのをエリンは見てて辛く思った。
エヴァも初めてエリンが話しかけてくれたことに驚いた様子だった。しかし、すぐに口元を緩めて微笑んだ。
「ん、ありがとう。エリンちゃんは優しいね」
そうして、彼は手を伸ばしてエリンの頭を撫でてくれた。母とは違う、節くれだった固い手だ。フィリップの手よりは小さいが、やはり男の人の手だった。
頬を赤らめるエリンの耳に、地面を踏み鳴らすような足音が近寄る。反射的に振り向けば、アルヴァが彼女のすぐ間近に立っていた。
凍てつくような視線に、エリンは怯える。
「アルヴァ、どうした……って、おい!」
エヴァが問いかけかけたその時、アルヴァは乱暴にエリンの手から皮袋とタオルを奪い取った。そして、侍女が渡した方をエヴァに放り投げた。
「お前、なんだよ! それ、エリンちゃんが俺に――」
無視してアルヴァは皮袋の栓を開けて、口付けた。そして音立てて、中の水を飲み干す。彼が水を喉に流し込むと同時、ゴクリと喉仏が大きく動く。
疲労は見せてはいなかったが、やはり水分に飢えていたのだろう。あっという間に飲み干した。
空になった皮袋を握りしめるアルヴァ。その目はまたエリンへと向けられていた。
赤銅色の瞳は剣呑に光り、明らかに彼が怒りを抱いていることを表している。理解出来ないのは、それがエリンに向けられていること。機嫌を損ねることをしたつもりはない。だから、分からなくてエリンは恐怖で震えた。
「アルヴァ! エリンをいじめるのはやめてって、いつも言ってるじゃない!」
怯えるエリンの代わりに、怒鳴ったのはラケシスだった。彼女はエリンの手を引いて、自分の背中に隠す。
「姫様の言う通りだ。今のはお前が悪い」
釘を刺しながらも、エヴァは皮袋に口を付けている。喉が潤いを取り戻したからか、声に艶が戻っていた。
二人に責められてもアルヴァは無言だ。許せない、そう言いたげにエリンを睨みつける。