一斉に注目を浴びて、侍女は怯えたように肩を竦める。
特にアルヴァの視線が鋭い。余計なことを言うな、とでも言うような殺気を孕んでいる。
それにイーヴが気付くと、今度は左手でアルヴァの目を塞いだ。さすがにアルヴァも抵抗をした。両手で兄弟たちを振り払う。
三つ子たちの戯れを横に、ラケシスが侍女に問う。
「何かしら?」
「その……剣の代わりに、姫様の日傘を使われてはいかがでしょう? それでしたら、危なくないですし……。剣を使用するのは姫様達が大きくなってからで――」
「だ、だめです!」
侍女の提案に反対したのは、エリンだ。
ラケシスの白い日傘は、彼女の母から贈られた物だ。エリンにとっての母の腕輪と同じように、ラケシスには大切な物であるはずだ。
それをアコレードの剣の代わりに使ってしまえば、エリンに譲ることになってしまう。
侍女は、ラケシスの元に就いて日が浅い。日傘の由来をまだ知らなかったのだろう。知っていたらきっと、彼女は提案しなかったはずだ。
「……そうね、これを使いましょう」
繋いでいたエリンの手を離し、ラケシスは白い日傘を畳んだ。エリンは慌てて止める。
「だめ……だめです! だって、それはラケシス様の大切な――」
「大切だから、この日傘を使いたいの」
穏やかに微笑みながら、ラケシスはエリンを見つめた。
その瞳には慈愛と決意が宿っている。大切なものを、大切な人に託そうとする覚悟の光だった。
「だって、エリンは私の騎士になってくれるんでしょう? だったら、私もそれに見合う物をあなたに贈りたいの」
ラケシスの白い日傘。傘の裾には花模様のレースが縁取られている。軸の飾り部分は金細工で造られており、繊細な模様が彫られている。
その傘をくるくると回しながら、はしゃぐように彼女は教えてくれたのだ。
――この日傘を持って、お母様とお散歩をしたのよ。
母との穏やかな記憶。その象徴である日傘。
エリンにとって、母の形見の腕輪と同等の思い入れのある品に違いない。
それを、ラケシスはエリンに譲ると言ってくれたのだ。改めて理解した時、エリンの身体が痺れるように震えた。
もしも母の腕輪を誰かに譲らなければならない時――エリンは拒否するだろう。母の腕輪ほど大切な宝物は何も無いからだ。
胸の奥が熱い。心臓だって大きく跳ねる。だけど、不快じゃない。この感覚は、嫌いじゃない。
悲しくないのに涙が出そうだ。
そんなエリンに、ラケシスは優しく言う。
「さぁ、エリン。屈んで」
その言葉に頷き、エリンは静かに跪く。騎士の礼は知っていた。
フィリップたちの姿をエリンはずっと見ていた。……いや、それより前から知っていた気がする。
主君のために剣を捧げる。そんな騎士の志を、憧れを抱いて見上げた気がする。
(きっとラケシス様に出会うためだ)
エリンの空っぽの心が満たされていく。生まれてきた意味を実感するように、彼女は感動を噛み締めた。
静かにラケシスは日傘をエリンの右肩に当てた。それと同時に、雲間から光が差した。まるで少女たちの誓いを祝福するように。
「あぁ……」
三つ子の中でも特に感受性の豊かなエヴァが、思わず感嘆の声を漏らした。
他の者たちも、ただ静かにその光景を見守っていた。あのアルヴァでさえ、目を見張っていた。
土の匂いが立ち込める鍛錬場。周囲には木人形や鍛錬用の武具が散らばり、空気は夏の湿気で肌にまとわりつく。神聖とは程遠い、無骨な場所だった。
それでも、奇跡のような光景だった。
日傘がエリンの左肩から離れる。ゆっくりと彼女が顔を上げた。
目の前に立つのは、敬愛すべき姫君。畳まれた白の日傘を両手で包み込むように持ち、ラケシスはゆっくりと口を開いた。
「さぁ、エリン。立ち上がって」
言われた通りにエリンは立ち上がる。跪いたせいでドレスの裾に土が付いてしまったが、二人ともそれを気にする様子はなかった。
ラケシスは、日傘を差し出す。
「これで、貴女は私の騎士。……本物の剣は、大人になったときに贈るわ。エリンだけのために」
返事をしなければ。そう思うのに、エリンの喉は震えて声が出ない。
嬉しくて、幸せで……涙が溢れそうで、歓喜の感情がエリンの声を封じたのだ。大きく息を飲み込んで、喉の詰まりを押し込む。
きっと変な声になる。掠れて、不恰好で――とても儀式にふさわしい声とは言えないかもしれない。
昨日までのエリンならば、恥じらいと恐れで返事をすることはなかっただろう。しかし、今は違う。
正式ではないが、エリンはラケシスに忠誠を誓ったのだ。彼女の騎士として生まれ変わったのだ。
「……はい」
やっぱり変な声になった。それでも誰もエリンのことを笑うことはない。
エリンはラケシスから静々と日傘を両手で受け取る。子供用の小柄な傘だ。エリンでも軽々と持てる。
今のエリンにとって、この日傘は何よりも尊く、重いものだった。たとえ剣の形ではなくても、騎士の証であり――彼女の魂そのものだった。
エリンの左手首を飾る銀の腕輪――その緑石が日差しに照らされて煌めく。新たな騎士の誕生を歓迎するように。
◆ ◆ ◆
翌朝。
この日の空は青々と澄み渡り、白い雲が高く高く天目指して昇る。煌々と輝く太陽が、エリン達の出立を見守ってくれている。
馬車の車輪が石畳をコトコトと刻む音を立てながら、ハイラインへの帰途についていた。
名残惜しむように、エリンは馬車の窓から、何度も来た道を振り返った。すでにノディオンは遠く、城の全貌も彼女の手のひらよりも小さくなっている。
エリンの隣に、小さな白い日傘と一冊の本が置かれていた。
――この本も、エリンにあげるわ。
そう言って別れ際にラケシスが差し出したのは、彼女がエリンに読み聞かせてくれた本だった。
表紙には若葉色の厚紙に、金糸の文字で題名が刺繍されていた。幼いエリンにはまだ、すべての文字を読みとることはできない。それでも胸が熱くなる。
ラケシスと過ごした時間、その記憶が手元にある――それが、何よりも嬉しかった。
ハイラインに戻ったら勉強をしよう。この本を一人で読むために。
……いや、それだけではない。
騎士としての鍛錬も積まねばならない。だってエリンはラケシスの騎士となったのだ。
姫付きを目指すのならば、形だけの肩書きは許されない。アルヴァの指摘は最もだ。
窓に両手を押し当てつつ、エリンはちらりと対面に座るフィリップを見た。
彼もまた、行きがけと同じようにエリンを見ていた。やはり、会話のきっかけを探していたようだ。
「どうした、エリン?」
ほんの少し緊張しているようだ。フィリップの声は、わずかに上擦っている。
エリンは悩む。
ここでこの人に、騎士になりたいと伝えるべきかと。――もしも、反対されたらどうする?
アルヴァのように強く厳しく、お前には無理だと突き放されたら。そんな我儘を言う子供は面倒だと、馬車から放り出されたら。
ハイラインが近付くにつれ、また元の気弱なエリンに戻ってゆく。エリオットによる呪縛が再び彼女を蝕み始める。
俯くエリンの目に、左手首の腕輪が映った。その装飾の緑石が、窓から差し込む日差しを受けて、淡くビロードのような光を宿していた。
その光が、エリンを勇気付けた。
深呼吸一つして、エリンはフィリップに向き合った。小さな手は拳を作り、痩せた両膝の上に乗せる。
「……騎士様」
お義父さん――そう呼ぶべきかエリンは悩んで止めた。フィリップに怪訝な顔をされたくないからだ。
それに今から頼み事をする。都合の良い時だけ義父と呼ぶのは、媚びているように思えたからだ。『お義父さん』と呼んでしまえば、お願いを聞いてほしいという甘えが混じってしまいそうで、エリンは踏みとどまった。
そんなエリンの葛藤には気付かないのだろう。フィリップは目を瞬かせる。
「なんだい、エリン?」
エリンからフィリップに話しかけることは滅多にない。義娘の人見知りの激しさを知る彼は、無理にエリンから言葉を強要することはしない。
だから、エリンから話しかけた時、フィリップはその度に驚いた表情を見せるのだ。
エリンは体を強張らせる。心臓の鼓動が全身に響き渡るようで、耳が痛くなるほどだ。
「お願いが、あります」
聞き入れてもらえるだろうか?
怒られたりしないだろうか、否定されないだろう……多くの不安がエリンを包み込む。
確かめるように、横目で白い日傘を見る。これは騎士の証。ラケシスから与えられた、エリンの誇り。
「私、ラケシス様の騎士になりたいです」
「騎士……」
フィリップの目が大きく開かれた。戸惑うような反応だ。
やはり、アルヴァのように反対されるのかもしれない。
恐れがエリンの顔を伏せろと指示する。見なければ、傷付くことはない。なんでもないと発言を取り消せば、無かったことに出来る。――だが、そうはしたくない。
――だって、私はラケシス様のための【剣】になると決めたのだから。
膝の上の拳を震わせながらも、エリンはフィリップから目を逸らさなかった。
馬車の揺れる音が、二人の沈黙を遮る。
フィリップは何かを思案するように目を閉じて、口を開いた。
「騎士という役職は、想像よりも過酷なものだ。……心身共に深く傷付くことも多々ある。主君のために剣を捧げ、盾となって己の命を武器とする。――それが自分の意思でなくとも」
義父の声は静かだ。自身の主ボルドーに対し、思うことがあるのかも知れない。
エリンは黙ってフィリップの話を聞き入る。厳しい現実ですら、耐え抜いてみせるという志を表すように。
「私は……正直に言えば、反対だ。お前が傷付く姿は見たくない。ドナもきっと、そう言うだろう」
母の名前を出されれば、エリンも胸が痛んだ。心優しい母も生きていたならば、フィリップの言う通りに反対しただろう。
それでも、エリンは折れたりはしない。だって、エリンはもうラケシスの騎士となったのだ。
義娘の瞳の奥に宿る決意の炎を見たのだろう、フィリップは肩の力を抜くように笑う。
「それでも、エリンが選んだ道だ。私が止めたところで、お前は決意を捨てたりしないだろう。ならば、せめて守れる位置から見守りたいと思う」
ハイラインで騎士の娘として成長しても、エリンは迫害され続けるだろう。素性の知らぬ娘。貴族連中は今以上に厳しい目をエリンに突きつけるはずだ。
王子エリオットの欲が、エリンの将来を閉ざす可能性だってある。
ならば、戦う手段と生きる道を身につけさせた方がいい。――きっとフィリップはそう判断したのだ。
息詰まるハイラインでの生涯を終えるよりもきっと、ノディオンで過ごす方がエリンは幸せだろうと信じたのだろう。
フィリップの義娘に対する想いは、今ようやくエリンに伝わったのだ。
「……ありがとうございます」
エリンの言葉はまだ、他人行儀のままだ。それでも、少しだけフィリップに歩み寄れた気がした。
フィリップもそれを感じたのだろう。優しげな笑みをエリンに見せてくれる。
「ハイラインに戻ったら、専用の訓練道具を揃えよう。……屋敷の者たちにも、話を通しておかなくてはな」
フィリップの屋敷の使用人たちは、エリンを主の娘として分け隔てなく迎え入れてくれた。
エリンの母――衰弱するドナにも、誰ひとり嫌な顔を見せずに、彼女が亡くなるその日まで世話をしてくれた。
だからこそ、エリンが騎士を志すと知れば、きっと彼らは心から案じて、止めようとするだろう。
それでも、彼らなら、きっと受け入れてくれる。
フィリップはそう言う。彼らはエリンの決意を、否定することなく受けとめてくれるはずだと。
「お前の進む未来が、光に満ちたものであるように。……そう願っているよ、エリン」
慈しむような笑みを浮かべるフィリップ。つられるように、エリンは微笑みを返していた。
子供らしい、無垢な微笑み――それは、彼女が初めて義父に見せた心からの笑顔だった。
開かれた窓から、夏の陽光が降り注ぐ。影さえも焼き払うような、まばゆい光だ。
どこまでも続く青空の下、馬車は、ゆっくりと街道を進んで行く。