エリンの謹慎は数日で終わった。しかし、それでも彼女の心は深く沈み込んでいた。
現在のシグルド軍の拠点はアグスティ城。かつてアグストリアを束ねていたシャガール王の根城だった場所だ。
その庭園で、エリンは一人物思い耽っていた。
清涼感のある水音を奏でる噴水の淵に腰掛けて、エリンは細身の剣を見る。連戦続きであったため、かなり刃こぼれが出来ていた。そろそろ修復を依頼しに行くべきだろう。
刃に映る自分の表情が、ますます憂鬱にさせた。だが、そんな気分に反して、周囲の空気はあまりにものどかだった。
新たな拠点であるアグスティ城はシャガールの趣味が存分に反映している。蒙昧な彼は、反して審美眼は確かであったようだ。城の装飾は煌びやかだが決して華美過ぎない。宮殿とは、かくあるべきものなのかもしれない――そんな溜息が、思わず漏れた。
城下は活気に満ちており、民草は笑顔が絶えない。抑圧から解放されたのもあるのだろうか、シグルドの活躍を讃える声がそこかしこから聞こえてくる。
他国に配置されたグランベルの役人とは違い、シグルド軍の面々はアグストリアの民に歓迎されていた。今の所、表立って彼らを侵略者と罵る者はほぼいない。おかげでシグルド軍の兵達は堂々と城下を巡れた。
しかし、エリンはそんな気にはなれない。城下の歓喜の雰囲気に馴染めずにいる。とても浮かれた気分になれないのだ。
もしかしたら、一年待つまでの間に民たちは態度を一変させるかもしれない。これまでの言動が嘘のように、シグルドたちを責めるかも知れないと言う杞憂まで溢れ出す。
シグルドは何故、横暴に振る舞うグランベルの役人を叱りつけてはくれないのか――そんな声がわずかだが噂として流れ始めてもいた。
今のエリンにとって、世は憂いに満ちていた。そんな状態であったため、彼女はあっさりと側面から急襲された。
「エリィー!」
「ひゃあ!」
シルヴィアに全力で抱きつかれ、思わずよろけたエリン。噴水の縁で踏ん張ったものの、あわや二人して水に落ちそうになった。
華奢なシルヴィアを抱き支えつつ、エリンの心臓は大きく跳ね続けていた。咄嗟とはいえ、耐えられたのは今までの鍛錬の成果であろう。アルヴァの教えが役に立った――彼はこんな場面で役立てられために厳しくしたわけではないだろうが。
鎧を着てない分、エリンの身軽さが上がっていたのが幸いだった。鎧を着ていたら、その重みに負けて――きっと二人とも水浸しになっていただろう。
「危ないよ、シルヴィ……」
力なく注意するエリンに、シルヴィアは舌をペロリと出して謝る。
「ごめんね! ふふ、久しぶりにエリィに会えたから嬉しくなっちゃった」
照れもせずにこういうことを言うから、シルヴィアは可愛いのだ。エリンも別段怒ってはいないので軽い謝罪に腹も立たない。
人見知りの激しいエリンだったが、シルヴィアはグイグイと構い倒して来た。馴れ馴れしいぐらいの接近だったが、エリンは特に嫌では無かった。シルヴィアの人柄がそう思わせたのだろう。
いつの間にかあだ名で呼び合っても、違和感のない仲へと深まっていたのだ。
今日のシルヴィアは露出の激しい踊り子の服ではなかった。体の線が隠れる色鮮やかなワンピースを着込んでいた。髪も普段のように高く二つにまとめてなく、緩やかな三つ編みをしている。
「もう外に出て大丈夫なの?」
声を顰めてエリンが問い掛ける。周囲を探るような彼女に対して、シルヴィアは気にも留めず、いつも通りの明るい声で返した。
「うん。昨日の夜までで謹慎は終わり。アレクがね、教えに来てくれたんだ」
「……そっか」
「エリィは私に会えなくて寂しかった?」
悪戯っぽく聞いてくるシルヴィアに、エリンは柔らかく微笑みかける。
「うん。シルヴィがいなくて寂しかった」
爛漫なシルヴィアの存在は周囲を明るくさせる。踊りだけでなく、振る舞いで周りの者を華やかな気持ちにさせるのだ。
エリンの謹慎が解かれた直後、入れ替わるようにしてシルヴィアが処分を受けていた。その数日間は、どこか物足りないとエリンは感じてしまっていた。
それは、親しい人がそばにいないという心細さからさらに強く思えたのかもしれない。その寂しさが、エリンを素直にさせた。
「早く会いたいと思っていたよ」
真っ直ぐに気持ちを伝えれば、シルヴィアの眉が垂れ下がる。彼女は顔を隠すようにエリンの肩へと額を押し当てる。
「……ありがとう」
震える声でシルヴィアはそう言った。
◆ ◆ ◆
エリンの謹慎が明けてすぐに、城内で刃傷沙汰が起きた。場所はアグスティ城中枢に位置する中庭。真昼の穏やかな空気を切り裂いたのは、シルヴィアの悲痛な叫びだった。
「レヴィンの馬鹿!」
城内には行き交う人が多く、目撃者は多数だった。
皆が我が目を疑ったことだろう。
子供っぽくも、純真なシルヴィアが鬼気迫る表情で、剣を振るってレヴィンに襲いかかっていたのだ。
出鱈目に振り回された剣は、設置物にぶつかり砕け散った。しかし、そんなことお構いなしにシルヴィアは殺気のままに剣を突き立てる。
危うく犠牲になりかけたのはレヴィンを庇うように立つフュリーであった。事件は彼らが共に中庭で過ごしていた時に起きた。
冗談でも、戯れでもない。シルヴィアは真剣を手に、本気で二人を襲った。
戦い慣れてないシルヴィアの剣筋は荒く、騎士として鍛錬を積んだフュリーなら回避は安易である。しかし、主君レヴィンを守るという枷が彼女の動きを鈍くさせた。そして仲間であるシルヴィアへの反撃を躊躇ったのだ。
レヴィンも同じだ。シルヴィアを制止する声は放っても、魔法を使って彼女を害することはしない。
勢い余って剣を振り、その反動で倒れたのはシルヴィアであった。それでも彼女は折れた剣を手放さない。起き上がって振り返る。その目は憎悪に溢れていた。
「あんたなんかがいるから……レヴィンが……」
呪詛のように呟かれた声はいつもの明るいものではない。その場に居合わせた者の中には、何かに操られているのではと呟く者さえいた。
ふらふらと立ち上がるシルヴィアの膝は擦り切れ血が流れていた。
レヴィンはフュリーを守るように、彼女を抱きしめていた。それが返ってシルヴィアを煽ることになると気付かずに、彼は声を荒げた。
「落ち着け、シルヴィア!」
愛した男は別の女を庇っている。
そのことがシルヴィアをさらに追い詰め、惨めにさせた。
「なによ! ……なによ。あたしのこと可愛いって言ったのに。……嘘吐き! レヴィンの嘘吐きぃ!」
駆け出そうとしたシルヴィアを数人の兵たちが押さえ込む。羽交締めにされてもシルヴィアはもがき暴れ叫んだ。
「放して! 放してよぉ! やだぁ!」
彼女が全力で抵抗しても所詮は子供の力だ。鍛えられた兵たちの敵ではない。
シルヴィアが叫ぶも、折れた剣はあっさりと兵の手に渡り、地面へと遠くに投げ捨てられた。泣きじゃくる彼女はそのまま個室へと連れて行かれた。
幸いにも――と言えるかはともかく、怪我人はいなかった。しかし大変な騒動になったのだ。
温厚なシグルドも、今回ばかりは関係者全員を罰した。それぞれに謹慎処分を命じたのだ。レヴィンとフュリーは完全なる巻き添えなのだが、この処分は彼らを好奇の目から庇う意味もあったのだろう。
城内では今回の色恋沙汰が大変な話題となってしまった。
囁かれる噂は伝聞するごとに尾鰭が付いて行く。
――曰く、レヴィンがシルヴィアに飽きたからフュリーに乗り越えたのだと。
――曰く、フュリーがレヴィンの寵を得たことをシルヴィアに勝ち誇る発言をしたのだと。
――曰く、シルヴィアは弄ばれた復讐にレヴィンとフュリーを襲撃したのだと。
醜聞に歪めた見解を、真実のように人々は口にする。
真相を解明すると称して、本人たちから話を聞き出しに行く者も出ていたかもしれない。それを防ぐためだろう、シグルドは許可した者以外にレヴィン達との接触を禁じた。
エリンはこの時、現場にはいなかった。応接間にてエルトシャンと会談するラケシスの傍で控えていた。騒ぎを知ったのは、全てが終わった後であった。
すでに友人と称せるほどに交流のあるシルヴィアを、エリンは心配した。
天真な彼女が取り乱したというのだ。きっと深く傷付いていたのだろう。それに気付いてあげられなかった自分に腹が立つ。
しかし、シグルドの厳命により、シルヴィアの謹慎が明けるまで会うことは叶わない。
面白おかしく語られるシルヴィアの憤怒。彼女の友人と目されるエリンにまで、心ない者が詮索に来ることもあった。その度にエリンは口を噤む。
尚も追求してくる者には、震える声でこう告げた。
「シグルド様がこの件を公言するなと釘を刺されておりましたけど、お忘れですか?」
これは嘘では無い。レヴィンらを罰した際にシグルドが重ねて厳命したのだ。風聞を積極的に広める者も共犯と見做す、と。軍の風紀の乱れに繋がるから止めるようにと理由づけされていた。
心無い者は、すでに乱れているからこうなったのだと陰口を叩いたがそれはごく少数であった。大多数は理解しているのだ。これを表沙汰にしてしまえば、シャガール一派に口実を与えてしまうということに。
シグルド軍は歓迎するが、グランベルの支配下に置かれることへ抵抗を覚える民は増えつつある。痴話喧嘩というほんの少しの綻びで、その矛先がシグルド軍にまで届く可能性だってある。
聡い者達は黙り込んで無反応を決め込む。場が白けると理解すれば鈍い者も流石に話題にしなくなった。
それを見計らってレヴィン達の謹慎が解除された。……しかし、謹慎の解除は話題を再燃させる一因にもなってしまったが。
◆ ◆ ◆
ともあれ、友人であるシルヴィアとの再会はエリンにとって喜ばしい。静かに震える彼女の背中を、エリンは優しく叩いてあげる。
昼時という時間帯ゆえか、中庭まで顔を出す者はほぼいなかった。今頃は城内の食堂か、城下町の定食屋が賑わっていることだろう。
小さく嗚咽を漏らすシルヴィアが落ち着くまでエリンは黙って見守っていた。やがてシルヴィアが顔を上げた。
「……ふふ、あたしったら子供みたい! 泣いちゃった!」
笑おうとする彼女の目元には、まだ涙の痕が残っていた。
「ごめんね、エリィ。ラケシス様のトコに早く行きたかったでしょ?」
「あ、う……いや、その……大丈夫だよ」
咄嗟に返答が出せず、歯切れの悪い反応をしてしまった。声に出してから間違えたとエリンは後悔する。
ラケシス第一であるエリンにしては、らしくない反応を見せてしまったためか、シルヴィアが首を傾げる。
「どうしたの? ラケシス様と喧嘩でもしちゃった?」
周囲を配慮するように囁くような声音。普段の賑やかさを潜めるほどに、シルヴィアは真剣に気にかけてくれたようだ。
一瞬だけ、言い繕おうかともエリンは悩んだ。……悩んだのだが、シルヴィアの真っ直ぐな眼差しを受けると隠すことがやましく思えてしまう。思わず目を逸らしてしまったが……それでも、エリンの口からは自然と言葉がこぼれた。
「ベオウルフさんが……エルトシャン様の友人だった」
それだけでシルヴィアには伝わったようだった。吐息のような驚きの声を彼女は上げた。
「本当、だったんだ……」
「……うん」
エリンは頷く。肯定なんかしたくなかった。苦々しい思いで吐きそうになる。