こんな己の胸中までは、エリンはシルヴィアに話せなかった。おぞましいほどに醜い感情を、失恋の傷が癒えてない友人にはぶつけられない。
いや、シルヴィアどころか他の誰にも話せない。エリンですら、自分の心を持て余している。恐ろしいと思うほどに。
語らずとも、エリンの消沈はシルヴィアに伝わってしまったようだ。彼女もエリンの心が伝わったかのように、悲しげな表情をうかべている。
小鳥の囀りが、静かな二人とは対照的に、のどかな空気を醸していた。噴水の跳ねる霧のような水滴が、しっとりと二人の肌をなぞり、ひんやりと気持ちを冷ますようだった。
アグスティ城の庭園は複数ある。その中で一番、この庭が美しい。調度品の代わりに木々や花々が彩られている。吹き抜けとなった天井からは、昼下がりの穏やかな日差しが差し込む。城内の最奥に位置しているために人目が少ない。静かに過ごすには最適な場所だ。
だが、心落ち着く空間はエリンたちの傷心を癒すには物足りない。
重々しい沈黙に耐えきれなくなったのはシルヴィアだった。彼女は勢いよく立ち上がると、右足を軸としてその場でくるりと回る。
「ねえ、エリィ! 踊ろう!」
シルヴィアがエリンに手を差し伸べる。
「え……どうして?」
突然の提案に、困惑するエリン。しかし、シルヴィアは満面の笑みを向ける。
「身体を動かしたら、暗ぁーい気持ちなんか消え去っちゃうの。ほら、手を貸して!」
エリンの戸惑いなど気にもせず、シルヴィアは、にこやかに両手を掴んだ。そして力一杯にエリンを引き寄せて無理やり立たせる。
なすがままに立ち上がったエリンだったが、戸惑いで体がこわばっていた。
そんな彼女を急かすように、シルヴィアがリズムを刻むように片足を鳴らす。動きに合わせて、手首の鈴飾りが軽やかに鳴った。
踊り子装束でなくても、シルヴィアはいつも装飾品を身につけていた。彼女が身動きするたびに、煌びやかな音が鳴る。
音楽も無いのにシルヴィアはリズムを取り始め出す。手を繋がれた状態のエリンの体もつられて動くが、ぎこちない。
「シルヴィ、私、無理。踊れない」
舞踊とは無縁だった。ただ、ラケシスに相応しい騎士を目指して剣技ばかり磨いてきた。
淑女として嘆かわしいものだ、とエリオットに罵られたという余計な回想すらエリンの脳裏を過った。嫌な記憶に顔を顰める。
どのようにステップを踏めばいいのか、全く分からない。
シルヴィアに促されるまま、手を繋いでその場でくるりくるりと一緒に回っているだけ。これのどこが踊りなのか。
「大丈夫、大丈夫! エリィの好きに体を動かせばいいの」
「そ、そんなこと言われても……」
「んー、じゃあコレを貸してあげる」
言うなりシルヴィアは右手の飾りを繋いだままのエリンの手首に通した。
エリンの腕輪とは違い、大きさに余裕のある形であった。指先ほどの細い銀の輪に、硬貨のような白い鈴飾りがゆるい金具でついている。
「鈴を鳴らすように手を振ってみて」
繋いだ手をシルヴィアは離す。手本を見せるように彼女は大きく腕を頭上へと伸ばした。残された左手の飾りがシャラシャラと軽い音を奏でる。耳当たりの良い音は波間の音にも似ていた。
シルヴィアは腕全体をくねらすように揺らせば、動作に合わせて軽やかな音が立つ。まるで楽器を演奏するかのように。
誘われてエリンも真似をする。貝殻に似た色の丸飾りは、ぎこちない動きにも応えるように、綺麗な音を鳴らした。
「上手上手! じゃあ、次はこうね」
踵をトントンと踏み鳴らし、シルヴィアはその場でくるりと回る。回転しながら手首をくねらせると、飾りがシャンシャラと弾む音を立てた。
「えと……こ、こんな感じ」
エリンも続けて真似てみるが、照れと不慣れからか回転が乱れる。手首の揺れもふらついており、音もどこか調子外れだった。動作の一つ一つが歪で舞というより千鳥足のようだ。
とても踊りとしてみられない動作だが、シルヴィアは拍手をしてくれた。
「そうそう! そんな感じ」
「……本当にそうなの?」
訝しむエリンにシルヴィアは明るく言う。無責任だ、とますます懐疑的になるエリン。恐らく顔に出てしまっていたのだろう、シルヴィアはすぐさま言葉を足した。
「自分の好きなように体を動かせばいいの。下手とか上手とかカンケーないの! 大事なのは楽しいって思うことだよ」
確かにシルヴィアは楽しそうに踊る。先ほどまでの沈んだ顔は何処へやら、今は全身から楽しげな雰囲気を醸し出していた。
軽やかな音楽はない。それでも、シルヴィアは愉快そうにステップを踏む。
「ほら、エリン! 続けて続けて」
再びシルヴィアはエリンの両手を取る。そのまま繋いだ手を中心として、くるくるとその場で回転した。
これは踊りなのだろうか。エリンは疑問を抱いたが、目の前で笑っているシルヴィアを見ているとそんなことどうでも良くなってきた。彼女に釣られるように、エリンの口元に笑みが浮かぶ。
楽しい――そんな気持ちが小さく形になりかけた、その時だった。
「見ろよ、ノイッシュ。可愛い蝶々たちが戯れてるぞ」
からかうような声の元へと視線を向ければ、アレクとノイッシュがいた。中庭から城内へと繋ぐ渡り廊下に彼らは佇んでいる。
休息中あるいは本日は非番なのか、二人とも鎧を脱いだ私服姿で、剣だけは腰に帯びていた――エリンと同じように。
軽装であっても、ボタン一つ外さずに着込んでいるノイッシュ。軽装というよりは、ただ鎧を脱いだだけのようにも思える。
対して、アレクはもっと気崩していた。
普段は頭頂部で布を使って束ねている長い緑髪も、今日は無造作に垂れていた。だらしない格好なのだが、彼の纏う雰囲気がそれを色気に変えている。
「アレクだー! やっほー」
廻るのをやめ、シルヴィアが廊下に佇むアレクへと手を振った。対してアレクもにこやかに手を振りかえしてくれる。隣に立つノイッシュはそんなアレクに対して眉根を寄せていた。
エリンは、硬直していた。
あの踊りと言えない動作を見られていた……。
激しい恥じらいにエリンは身悶えをする。恐らく顔は赤く染まっているだろう。耳まで熱くなっているのを実感する。
いや、アレク達が声を掛けた時、エリンはシルヴィアと共にその場で回っていただけだ。直前までの、あのヘンテコな舞は見られていないはず。そうだ、そうに違いない……!
身悶えしながら前向きに思い込もうとするエリンをよそに、シルヴィアはとんでもない提案を発した。
「ねぇーアレクたちもこっちにおいでよ! 一緒に踊ろ」
何を言い出すのだ。
思わずエリンは息を呑む。
エリンの踊りは踊りとは言えない、ヘンテコなもの。動作だってぎこちない。あれを改めてアレクたちの前で振る舞えというのか。
しかし、きっとアレクはシルヴィアの提案を受け入れるだろう。そうに違いない。アレクはそういう男だ。
「これは魅力的な申し出だな。いいぜ、俺も混ぜてくれよ」
あっさりと了承したアレクがこちらへと歩み寄ろうとする。しかし、その足はノイッシュによって止められる。
アレクの肩を掴んだまま、ノイッシュは苛立ちの声音を発した。
「みっともない真似は止めろ、アレク」
常に釣り上がり気味のノイッシュの眉が、怒りの形に引き上げられる。
「子どもと戯れるのが、騎士のすることか? 自覚を持て。他の者に示しがつかない」
先日の刃傷沙汰について釘を刺したつもりなのだろう。ノイッシュは厳しい眼差しを緩めない。
しかし、彼の言葉は流れ矢となってエリンに突き刺さる。
「……みっともなかったですか」
思わず溢れたエリンの声は、悲壮に満ちていた。
やはり見られていたのかと、上向いた感情は一気に下降した。
がくりと項垂れるエリンを見て、ノイッシュはあからさまに慌て出す。
「い、いや、違う! 俺はそんなつもりで言ったわけじゃなくて」
「悪い男だなぁ、お前は。女の子を悲しませるなよ。……大丈夫だ、エリン。ちょっとぎこちない感じが、また可愛かったぞ」
アレクの慰めにより、しっかりと目撃されていたことが確定した。脱力するようにエリンはその場にうずくまってしまう。このまま石になってしまいたい。恥ずかしさからか本気でそんなことを思う。
アレク自体は別にエリンを揶揄ったつもりはないのだろう。彼の口ぶりは軽いが、貶すような棘はない。だが、それでもエリンの羞恥心を呼び起こした。
落ち込むエリンの代わりに怒ってくれたのは、シルヴィアだった。
「もぅ、二人とも! エリィをいじめないで!」
膝に土が付くことも構わずにシルヴィアはしゃがんでエリンを抱き抱えてくれる。振り解く気力もなく、エリンはシルヴィアの腕に包まれた。
「ほら、エリィが拗ねちゃったじゃん!」
「い……いじめてなんかないぞ、俺は」
「エリィをからかったじゃない! ノイッシュったらひどーい!」
「だから、その……と、ともかく! 俺はそういうつもりで言ったんじゃない!」
普段のノイッシュからは想像も出来ないほどの取り乱しっぷりだ。自分の発言により、エリンが落ち込んだことに酷く動揺しているらしい。常時張り詰めた声音も、今は激しく上擦っている。
シルヴィアはノイッシュからアレクへと視線を移す。
「アレクも! エリィが、かわいそうでしょ!」
「いやいや、俺はコイツと違って褒めたんだが」
「言い訳は許さないよ!」
「今日のシルヴィアは、手厳しいなぁ……」
三人の声は耳に入っても、エリンの意識は自分の内側に沈んでいくようだった。
その体は羞恥により発熱していた。両手を頬に押し当てると、燃えているように熱い。気づけば、額にまで汗が滲んでいた。
エリンに密着するシルヴィアの肌は張りがあって滑らかだ。香料を付けているのか、ほんのりと甘い香りがする。
それが却ってエリンの落ち着きを取り戻さない。頬が触れ合うほどに近い距離にシルヴィアの顔がある。
何故か、エリンの心の内にラケシスの顔が浮かび上がった。居心地の悪さが余計に増長してしまう。どこか後ろめたい気分になったのだ。
俯くエリンに目を留めていたアレクが、不意に明るく声を上げた。
「よし! お詫びとして、さっきのお誘いをお受けしようじゃないか! なぁ、ノイッシュ」
アレクはノイッシュに無理矢理肩組みをする。当然ノイッシュは露骨に嫌な顔をした。
「なぜ、そうなる! 俺は嫌だ!」
「お前さぁ、こんなに可愛い女の子たちからのお願いを断る気か?」
アレクは跪き、エリンの頬へと手を伸ばしてきた。エリンは驚き、身を縮こませる。その反応を楽しむように、アレクは口元を緩ませる。
彼の手は、エリンの頬を撫でていた。硬い骨ばった男の手――その感触にエリンは身震いをした。以前だったら気にもしない接触なのに、何故か今は居心地悪く感じる。
「ほら、こんなに震えてる……。ノイッシュ、お前のせいだぞ。エリンがこうなったのは」
「お、俺は……そんなつもりは……」
顔を逸らし、俯き、ノイッシュは低く唸る。責められている状況に居た堪れないのだろう。やがて、ノイッシュは顔を上げ、開き直ったかのように声を荒げた。
「分かった! やればいいんだろ、やれば!」
そう叫ぶノイッシュの顔は赤い。耳まで朱に染まっている。彼の鎧の色に負けないほどだ。
そこまで行くと、エリンはノイッシュが気の毒に思えた。彼もまた、エリンと同じく踊るのが苦手なのかも知れない。
ならば、無理強いをさせるのは良くないだろう。エリンが恥をかいたからといって、報復のようにノイッシュに強いるのは本意ではない。
恐る恐ると、エリンはノイッシュに話しかける。
「あの、無理をなさらないでください」
相変わらず、エリンは親しくない相手に話しかけるのは苦手だ。緊張から声が掠れる。
「ノイッシュさんが、嫌なら……踊らなくても、いいと思います……」
エリンの言葉の後半は、もう消え入りそうなほどに声が小さくなっていた。それに相反して、鼓動が早まる。余計なことを言ってしまったのだろうかという不安すら湧き上がる。
「あの……ごめんなさい……」
「い、いや……お前が謝る必要はない。……私の方こそ、悪かった」
ノイッシュの話し方は、どこか亡き義父を思わせた。幼いエリンに歩み寄ろうとして、その距離感を探りあぐねていた頃のフィリップに似ている。
どんな風に話しかければ、エリンを怖がらせないか……そんな気遣いをしてくれた頃の義父に――。
不意にエリンの涙腺が緩んだ。慌てて俯いて、その顔を隠した。泣いていることを知られれば、またノイッシュを追い詰めてしまう。
それでも一筋の涙が頬を伝った。そして、彼女の涙はアレクの手のひらに、微かな熱を残して落ちた。