「……なぁ、エリン」
アレクがエリンの耳元に口寄せた。
彼の吐息が直に吹き付けられ、エリンの背筋が震えた。唇を噛み締めていたため、以前フィンに聞かせたような艶めいた声を漏らさなかっただけ幸いだ。
そして、アレクはシルヴィアから引き離すようにエリンを立ち上がらせた。彼の左手はエリンの腰に触れている。頬を撫でた右手はそのままだ。
驚いてエリンが顔を上げれば、アレクは片目を閉じて鼻先を近寄らせた。
「ワルツでも踊るか?」
「え……」
アレクは右手をエリンの頬から離して、彼女の左手を取る。そして、エリンの返事も聞かずに、彼はエリンの体を傾けた。
咄嗟のことで抵抗は出来ずに、エリンはアレクにしがみついた。服を引っ張るように掴んだのだが、アレクは気にせず妖しげに微笑む。
「うん、その調子だ。そのまま俺に身を委ねて……」
エリンの耳元で、アレクは低く甘く囁いた。
ついさっきまでエリンの内部を占めていた感傷的な気分は、とうに散っていた。今はただ、アレクの密着に戸惑いながら耐えている。
同時に彼の足を踏まないように注意しなくてはならない。エリンは社交ダンスの経験がほぼ無い。舞踊系統は幼い頃、エリオットに揶揄われて以来、意図的に避けてきた。
たどたどしいエリンのステップも、アレクは不思議と上手く導いてくれた。さすが、と言うべきなのだろうか。
「そう……上手だ、エリン」
耳元で囁く彼の声は、いつもの軽やかさを削ぎ落とし、低く艶を帯びていた。
「――俺を見て……顔をもっと近付けてくれ」
なすがままのエリンは素直にアレクの言うことを聞いた。
見上げれば、アレクは目を細めてエリンを見つめていた。その視線の奥に、どこか獲物を見据える獣めいた熱が灯っていることに、エリンは気づかなかった。
ただ、エリンはふと既視感を覚える。動きに合わせて揺れるアレクの緑髪。そのたなびきが、彼女の心の奥底をざわめかした。
――全く、お前は本当に負けず嫌いだな。
ふと、知らないはずの少年の声がエリンの耳に蘇った。エバンス城の屋上で、不意に耳に過ったあの声だった。
自然とエリンの足が動く。
いち、にぃ、さん、いち、にぃ、さん……そんなリズムに合わせて身体が動く。支える男の手に身を委ね、軽やかに足を弾ませる。きっと前よりも上手く動けてる。
だって練習したのだ。最初に踊った時はぎこちなくて、笑われたから。悔しくて、びっくりさせたくて――。
エリンの記憶の中で、少年が微笑んだ気がした。
――ああ、認めるよ。前に踊った時よりも上達した。……頑張ったな、エリュー。
自分ではない名前で呼ばれたはずなのに、胸を締めつけた。自然とエリンの目が潤む。視界が滲むと、アレクの顔がぼやけて映る。……そのはっきりとしない輪郭の先に、エリンはアレクでない誰かを求めた。
衝動がエリンを突き動かした。会いたかった、寂しかった――そんな想いが湧き立つ。彼女は両手を伸ばして、目の前のアレクに抱きついた。
突然のエリンの積極性に、アレクは驚いたように目を見開く。しかし、すぐに口元を緩めた。
「急に甘えてくれるなんて珍しいじゃないか。……俺はここでも構わないが、どうせなら二人きりで――」
「発言を慎め、アレク!」
ノイッシュの怒鳴り声にが庭園に響き渡る。彼の顔は先ほどと違う意味合いで赤い。
「エリンは、まだ子供なんだぞ!」
「はぁ? お前こそ何を想像してるんだ。いやらしい奴だな」
「なッ……!?」
絶句したノイッシュに、ケラケラとシルヴィアが声立てて笑う。
「やだーノイッシュってば! まだお昼なのにー!」
半眼で囃し立てるシルヴィア。アレクに追従して悪ノリをしている。
ノイッシュはそれを真に受けた。滝のように汗を流して、首を振る。
顔は火に照らされたように赤い。いや、顔だけじゃない。全身が発火しているように肌が赤い。
「ち、ちがっ……だ、だからアレクが悪い!」
「おいおい。エリンが疲れたみたいだから休憩を提案しただけだぞ、俺は」
アレク曰く、休むなら庭園よりも部屋に行こうという意味合いだったそうだ。それを聞かされても、ノイッシュは納得出来ずに吠える。
「紛らわしい言い方をするな!」
「勝手に勘違いしたのはお前だろ? 怖いなぁ、ノイッシュは」
そう言いながら、アレクはエリンの腰を強く抱き寄せた。衣服越しに伝わる筋肉の弾力に、エリンは我に帰った。
今、自分はどんな体勢になっている?
エリンの腕はアレクの首を絡め、彼の太い首筋に顔を擦り寄せるほどに密着している。アレクはそれを受け入れるように、エリンの腰に両手を回して抱きしめていた。
ハイライン城で鎧越しに抱きしめられた時とは違い、柔らかな服越しだ。アレクの鍛えられた胸板がしっかりとエリンの肌にも伝わる。
一気にエリンの全身から汗が吹き出した。
散々アルヴァと副隊長に、アレクに注意しろと警戒されたのに。
レヴィンに慎みを持てと叱られたのに。
その瞬間、鳥肌が立った。自分を抱きしめるこの男が、恐ろしいと思ってしまったのだ。
鼻先に届くアレクの香り。柑橘系だろうか、どこか甘みを思わせる香料。――危険だと、エリンの頭に警鐘を鳴らした。
(ちがう……私が欲しいのは、この人じゃない!)
突き飛ばすようにエリンはアレクから離れた。
アレクの意識はノイッシュに向かっており、エリンの抵抗は予測不可能だったようだ。彼は一瞬だけ眉を顰めたが、瞬きひとつで表情を変えた。
「エリン……? どうした」
不思議そうに問いかけるアレクは、それでも動揺を見せない。頬を赤らめるエリンの心中を、己の都合良く解釈をしたのだろうか?
エリンの右手は、縋るように左手首の腕輪を掴んでいた。足が震えていることを隠すように、エリンは一歩下がった。
「あの、すみません……。その、踊ってる時に足がもつれてしまって」
それで抱きついたのだと、嘘をつく。
「……足、挫いてないか?」
アレクは、エリンの目線に合わせて軽く腰を落とし、彼女の顔を覗き込んだ。その視線は、責めるのでも、試すのでもなく、ただ静かに真実を待っているようだった。
その距離の近さが、かえってエリンの逃げ場を塞ぐように感じられた。
エリンは顔を逸らす。嘘をついた後ろめたさに加えて、どこかアレクへの得体の知れない恐怖があった。何故だろうか、アレクの目の奥に何かよくないものが映っているような気がした。
エリオットに睨まれた時の感覚が蘇る。エリンの指先が、かすかに震えた。それを隠すために、エリンは母の腕輪を強く握った。
「すみません、やっぱり……私、踊るのは苦手で」
「えー、そんなことなかったよ」
口を挟んできたのはシルヴィアだった。彼女はするりとエリンとアレクの間に入り込む。
「エリィ、すっごく上手に踊れてたもん。足捌きも綺麗でさー、お姫様みたいだったよ」
「そんなこと、ないよ……アレクさんが上手だから、そう見えただけ」
後ろめたさが、エリンの声を小さくさせた。なるべく不自然でないように振る舞いたいのに、やはり無理が出る。指先は冷えているのに、鼓動が早く、内側だけが火照っていた。頬にも熱が滲む。
「だからごめん、シルヴィ……」
「もぅ、謝ることないのに」
唇を尖らせて、シルヴィアはエリンの手を取った。
「エリィは出来る子なんだから、自信を持って!」
その励ましも、身内贔屓にしかエリンは受け取れなかった。
沈黙するエリンの肩にアレクの手が触れる。瞬間、彼女の身体がビクリと震えた。
怖くて、顔を上げられない。その様子を、アレクはどこか嬉しげに見ていた。
「シルヴィアの言う通りだ。俺の力じゃなくて、エリンの実力さ」
アレクの声は男性にしてはやや高めで、柔らかく、耳に入りやすい。からかい混じりでも、不快にはならない。その声が、彼の印象を親しみやすくさせていた。
警戒を維持しなければ、するりと彼の侵入を許してしまいそうになる――それが怖い。
エリンは小さく首を振る。
「いいえ、私なんか……」
「なら、俺が練習に付き合ってやろうか? あんたなら飲み込みが早そうだ」
アレクは片目を閉じて微笑む。彼に憧れる女子ならば、その仕草だけで陶酔するかもしれない。
面倒見のいい言葉に、ほんの数日前のエリンならば素直に頷いていただろう。優しい人だなと感心しながら。
エバンス城攻防戦以来、どうもアレクに対して、不信感のようなものが拭えない。彼はただ、親切に接してくれている――はずなのに。
黙り込むエリンに助け舟を出したのは、意外にもノイッシュであった。
「アレク、あまり無理強いさせるな。嫌がってるだろう」
咎める声に、アレクは大仰にため息を吐いた。
「……お前、本当にモテないな」
「何だと?」
突然の蔑みにノイッシュは軽く苛立ったようだ。声のトーンが低くなる。
そんな中でも普段通りなのはシルヴィアだ。エリンから離れると、ノイッシュの前へとつま先立ちで歩み寄る。彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開いた。
「じゃあ、モテないノイッシュは私と踊ろうよ」
「は⁉︎」
思わず大声を発したノイッシュに、アレクが追撃を行う。
「良かったじゃないか! ご指名が入ったぞ、ノイッシュ」
「黙れ、アレク!」
実直に鍛錬を積む男というのは、どうしてこんなにも声に圧が掛かるのか……。アルヴァを思い出してしまい、エリンは身をすくませた。
そんな彼女を庇うような素振りをしながら、アレクは自然を装って肩を引き寄せてきた。だが、それはエリンにとって自然でも、優しさでもなかった。
密着した瞬間、またアレクの体温と匂いが肌に触れる。それに触れたくなくて、エリンはそっと身を捩った。
アレクはその反応に何を思ったのか……小さく笑い声を上げる。
「エリンも見たいだろ、ノイッシュのエスコート」
エリンは声も出せなかった。小さく震えながら、母の腕輪を握りしめる。涙を耐えるために目は潤み、唇から熱い吐息が漏れる。
彼はその震えを、寒さや照れによるものとでも思ったのか、まるで温めるようにさらに強く抱き寄せてくる。
頼りのノイッシュも、今はシルヴィアの押しにたじろいでいる。
「ねぇ、いいでしょ? 踊ろうよー」
「俺は踊らん。アレクにでも頼め」
「アレクはもうエリィと踊ったの。だから次はノイッシュの番!」
「なんだその理屈は!」
ノイッシュがどんなに吠えようが、シルヴィアは引かない。甘えるようにノイッシュの腕にしがみつく始末だ。
なんとなくエリンは、シルヴィアもアレクを避けているような気がした。彼の緑髪が、レヴィンを思い起こすのだろう。……そういえば、雰囲気も似ている気がする。
上目遣いでエリンはアレクを見た。すると、アレクはなぜかエリンを見つめていた。目が合うと優しげな微笑みを向けてくれた。
すぐさまにエリンは顔を逸らした。心臓は未だ落ち着きを取り戻さない。それどころか、いっそう早鐘のように鼓動は鳴り響く。
(……どうして、身体が動かないの?)
恐いのに。逃げたいのに。
アレクの微笑みに縋りつきたいと思ってしまう自分が、恐ろしくてたまらない。懐かしくて、恋しくて。……違うのに。アレクでは、無いのに。
その緩く伸びた髪が揺れるたびに、エリンの胸が締め付けられる。
(そうだ……似てるんだ。レヴィン王子と)
エリンの脳裏に蘇るのは、アンフォニー城でのレヴィンの言葉。
――もしも魔力酔いしても、俺が受け止めてやる。安心しろ……エリュー。
エリュー。
記憶の少年も、エリンを指してその名を口にした。
彼の顔は朧げで、確信は持てない。……だが、その髪色は確かに緑だったのではなかったか?
その髪は、緩く波打つ柔らかな緑だった。アレクと――いいや、レヴィンと同じだ。
あれは……あの少年は――レヴィンなのか?
符合が一致すれば、次々に疑問が浮かび上がる。
エバンス城で、レヴィンはエリンに質問漬けをした。その内容は、エリンの母ドナに関する問いかけが多かった。
そして、あの時――エバンス城でエリンは人目も憚らずに、レヴィンへ怒鳴ったのだ。
――笑えば許してもらえるとお思いですか? そうやって、いつもいつも人を誑かして!
無意識にエリンはレヴィンのことを以前から知るような発言をした。そして、レヴィンはそれを指摘せずにこう返した。
――人聞きが悪い……。お前は本当に昔から――。
昔から……確かにレヴィンはそう言った。
そして、母に似た魔女の言葉。
――信用しては駄目。決して……シレジアの人間を!
この女の声を思い出した後に、エリンは知ったのだ。レヴィンがシレジアの王子であることを。彼の正体に驚くエリンに向かって、レヴィンは何と言った?
――あー……その反応は、やっぱり忘れていたのか。
あれは――エリンがレヴィンのことを知っている前提の言葉ではないのか?
それは、逆もまた然りだった。
(レヴィン王子は……私のことを知っている?)
その時、エリンの鼓動が大きく高鳴った。答えに辿り着いたと、身体が先に気付いたように。
母の腕輪を強く握る。
そういえば、初対面の時にレヴィンはこの腕輪を見た瞬間に態度が厳しくなった。殺気すら感じ取れるほどの不信感。詰め寄る口調は明らかに敵対者に対するものだ。
しかし、エリンの瞳を見て、それを一変させた。過剰なまでの警戒を解き、以降は馴れ馴れしく近寄ってきた。その態度は――兄が妹を可愛がるような……。
「じゃあ、エリィに歌って貰おうよ!」
突然のシルヴィアの提案に、エリンの思考が途切れた。驚き、エリンが顔を上げればシルヴィアがこちらへと走り寄ってきた。