そのままシルヴィアは、アレクからエリンを引き剥がした。エリンの両手を握って、シルヴィアは可愛らしく小首を傾げる。
「ノイッシュがね、音楽があったら踊ってくれるって言うの」
「そ、そこまでは言ってないぞ!」
焦りからか、いつもよりもノイッシュの口調は早い。顔を赤くさせて必死に抵抗を口にする。
「踊るとは断言してない! 音楽が無ければ難しいとだけ言った」
「だから、エリィに歌ってもらうんだもん」
ねーと、シルヴィアはエリンに同意を求めてくる。甘えるような仕草は愛らしいが、頼んでくる内容は可愛く無い。
むしろ、エリンにとっては嫌がらせに近い提案だ。
人前で歌うなんて、エリンには出来ない。ラケシスの頼みであっても、エリンは無理だった。
自分のみっともない声を人に聞かせるのは嫌だし、歌声なんてもってのほか!
過去、散々エリオットたちに揶揄われたことが深い傷となっている。
幼かったエリンを虐めた面々はもういない。みんな戦死した。それでも、エリンの心が癒されることはない。彼女は未だに過去に囚われている。
「おいおい、シルヴィア。エリンが困ってるぞ」
口籠るエリンを助けたのはアレクだった。彼は再びエリンの肩に腕を回す。相変わらずの接触の気軽さにエリンは表情を固くさせる。
アレクはそんなエリンの反応を、恐らく自分の都合の良いものと受け取っているのだろう。振る舞いに迷いはない。
「嫌がってる子に無理強いするのは、良くないなぁー」
「俺も嫌がってるんだが……」
恨めしげなノイッシュのツッコミをアレクは無視する。
「なんなら、俺が歌ってやろうか?」
片目を閉じて立候補するアレクを、シルヴィアは拒否した。ふるふると首を横にふれば、柔らかな緑髪がなだらかに揺れる。
「やだーエリィがいいのー。エリィの声って可愛いじゃん? アレクの声は可愛くないもん」
無茶苦茶な理屈だ。
大体、エリンの声は可愛くなんか無い。舌足らずさは無いが、子供と間違われるほどに声は幼い。普段は勤めて意識して声を張り詰めているのだ。固く、無感情であるようにと。
困ったようにアレクが肩をすくめる。
「こりゃ折れないなぁ。……どうする、エリン?」
そう言ってエリンの顔をアレクが覗き込む。動作に合わせて、アレクの髪が揺れた。
深緑色した緩やかな髪。梢を彩る葉々に似た色。背後から届く噴水の水滴が、その色に艶やかな煌めきを与える。
その色が、柔らかさが――またエリンの鼓動を高鳴らせた。
そして、彼女の口は無意識に動く。
「――歌えます」
自分の声を聞いて、驚いたのはエリン自身だ。自分でも分からずに勝手に了承してしまった。
驚きのままにエリンは自分の口を右手で塞いだ。そんなことしても、もう遅いのに。
案の定シルヴィアは歓喜に満ちた笑みを浮かべる。彼女は、アレクとの間に割り込んでエリンを抱きしめてきた。
「ありがとう、エリィ!」
「え……いや、その……」
やっぱり無理――と言い出せないほどに喜ばれてしまった。シルヴィアとエリンの背丈はほぼ同じだ。そのため、シルヴィアは頬擦りでもするように顔を寄せてくれば、互いの唇が触れそうになる。
同年代の少女と、こんなにも至近距離で触れ合うのは初めてだった。エリンは緊張に頬を染める。
香ったのは、花瓶の薔薇に顔を近づけたときのような甘さに、舞台化粧の白粉がわずかに混ざった匂い。自分よりも子供っぽいと思っていたシルヴィアから、大人の女性の香りがした。
陽に焼けた小麦色の肌を持つシルヴィアが腕を絡めると、その温もりが直接エリンの体に届く。細いのに、逃げられなくなるような柔らかさを秘めていた。押し当てられた膨らみに、胸の奥がざわめき、エリンは思わず息を詰めた。
困ったように彼女はアレクを見上げてしまった。だが、彼はどこか期待に満ちた表情をしている。
「お、いいじゃないか! 俺もぜひとも拝聴したいと思ってたんだ」
さっきまで無理をさせるなと言っていたのに、この男は……手のひらを返すのが早過ぎる。エリンはますますアレクに対して不信感を抱く。
恨めしげに彼を見上げれば、アレクはうっとりとするような微笑みを返してきた。だが、その眼差しは爽やかさとは程遠い。まるで肌にまとわりつく湿気のような視線に、エリンの背筋が震える。
エリンの恐怖は、やはりアレクには通じない。彼は軽快に言った。
「エリンの歌声で、あの堅物が踊り出すんだぞ。見ものだと思わないか?」
焦り出すのはノイッシュだ。退路が絶たれるのを恐れて、声を荒げた。
「俺は音楽があれば踊るとまでは言ってない! それに渋々歌われても踊りづらいだろうが!」
「じゃあ、お前は踊んなくていいよ。先に帰れよ。俺は歌姫と舞姫の晴れ舞台を独占したいし」
「お前は本当に黙ってろ、アレク!」
騒ぐ騎士二人。静かな空気に満たされていたはずの庭園は、すっかりと様変わりしていた。涼やかな噴水の音も、二人の声でかき消されている。
エリンはただ、一人静かに過ごしたくてここに来たのだ。
謹慎が明けてから、ラケシスは前にも増してエリンに構ってくるようになった。開拓村でのエリンの独断行動――盗賊の残党がまだ確認されている最中に、馬にも乗らずに単独で飛び出したあの出来事が、彼女の心に深い傷を刻んでいたのだろう。
ラケシスは自分がエリンを蔑ろにしたせいで傷つけてしまったと強く後悔し、その夜、もしもエリンに何かあったらと彼女を前にして声を震わせたのだ。
その罪悪感から、ラケシスはエリンを落ち込ませないように気を回し、過剰に優しく接している。
しかしエリンにとっては、それが居心地の悪さを呼んだ。ラケシスの優しさは時に重く、まるで自分が壊れやすい存在であるかのように扱われている気がしてならなかった。
そして何より、ラケシスの隣にいるベオウルフの顔を見るだけで、エリンの胸はざわついた。彼とエルトシャンの繋がりが真実であることが知れ渡った今、あの男が堂々とラケシスの隣にいるのは、まさに地獄の光景だった。
思わずため息が口から落ちると、シルヴィアが気遣わしげに問いかけてきた。
「エリィ……やっぱり歌うの、イヤ?」
囁くようなその声音は、どこか寂しげな響きがあった。細い眉は垂れ下がり、翡翠色の目は潤んでいる。心配からか、彼女は黙り込むエリンの手を強く握った。
もしかしたら、シルヴィアなりにエリンを気遣ってくれていたのかもしれない。彼女の踊り子としての半生を省みれば、歌ったり踊ったりすることは気分転換の一環でもあるのだろう。
ただ、それをエリンが苦手としているだけだ。
シルヴィアはエリンが自分の声を嫌悪していることは知らない。エリンもそれを改めて彼女に伝えるつもりもない。
理由を話せば、同情されてしまうだろう。それは嫌だ。ラケシスから気を遣われているだけでも息苦しいのに、これ以上他者から憐れみの目で見られたくない。
母の腕輪を撫でる。冷たい銀の感触が、エリンの心を落ち着かせてくれる気がした。
「……大丈夫だよ」
声が震えていることを悟られないよう、エリンは微笑んだ。
きっと聞き苦しい歌声だろう。旋律だって上手く取れるかも分からない。
それでも――ほんの少しだけエリンは勇気を出してみることにした。
「あまり上手に歌えないけど……」
「そんなことないよ、きっと! ふふ、楽しみ!」
せめてシルヴィアの期待を裏切らない歌になればいいなとエリンは願う。
シルヴィアはエリンの元を離れ、ノイッシュへと手を伸ばす。彼は未だに納得のいかない顔で、その手から逃れる回避を見せた。
アレクは口笛を吹き、エリンを見つめる。両手は拍手の形を取っている。どうやら手拍子で参加してくれるようだ。
三人がエリンに注目している。緊張で足がすくむ。戦地に立つのと同じくらいの緊張が彼女を包み込んだ。
噴水を背に、エリンは胸の前で両手を組む。震える指先は、自然と母の腕輪に触れた。
俯くエリンの目に、腕輪の緑石が映る。昼下がりの日差しと噴水の霧が合わさり、淡くぼんやりとした煌めきを放っていた。
思い出すのは、歌う母の姿。
腕輪を空にかざしながら、歌声を響す母。陽の光に反射して輝く緑石、そしてそれを切なげに見つめる母は美しかった。
そうだ、確か……こんな歌だった。
「……私を連れて、風は揺れて」
ゆったりとした旋律。
囁くような、優しい歌声。
胸の奥から少しずつ緊張が溶けていく。
「花びら散らして、口づけて」
風に舞う花びらのように、エリンの歌声も静かに空気に溶けてゆく。
やはり、母よりも美しい声ではない。掠れ、小さく……恐れから喉も締まっている。ダンスの楽曲には相応しくない。
胸越しに心音が両手に伝わる。跳ねるような鼓動が、今にも胸を突き破りそうだ。
アレクはエリンを歌姫と言ったが、その称号は母ドナこそ相応しい。
「どうか――どうか、覚えていて」
ドナの歌う姿は、娘から見ても麗しく、魅了されるほどだった。
白鳥のような細身の体から放たれる歌声は力強く、儚げな印象を打ち消す。全身が楽器のように大気を震わす。潤む瞳は太陽の光を宿し、空を仰ぐ。
記憶につられるように、エリンも頭を上げ、空を見た。
庭園は吹き抜け、青々とした秋空が広がっている。空を見るたびにエリンは太陽のようなラケシスの瞳ではなく、フィンの瞳を連想するようになっていた。
深く澄んだ青藍の目。その眼差しが欲しいと願ってしまう。
「その風は、私の吐息――その花弁は、私の唇」
フィンのことを思い返すと、冷えて硬くなっていた指先に温もりが戻る。
フィンの手のひら――自分よりも大きく硬い手。
馬上で背中越しに感じた体温――固い弾力のある筋肉は、頼り甲斐のある男として成長している証だった。
子供のように声を上げて笑う姿――からかわれたはずなのに、ちっとも嫌ではない。
キュアンの前で赤面する顔――男の子を可愛いと思ったのは初めてだった。
「季節が廻り、廻っても……私はあなたを求めてる」
胸の奥から湧き上がる感情が、震える声に温かみを添えていく。
大きく息を吸い込み、エリンは朗々と歌う。想いと全ての自分を、声に乗せて。
「どうか、どうか……忘れないで」
怯えから猫背気味だった背筋が伸びる。空を抱え込むように両手を広げる。呼吸が楽になり、歌声はますます高く響く。
その声は澄み渡った湖面のように静かで、けれど聴くものの心の奥に、そっと波紋を広げていく。
「私が風になっても」
エリンは気付かない。自分がどんな表情をしているかを。
「私が光に溶けても」
エリンは知らない。息を潜めるように、誰もが彼女の歌声に聴き惚れていることを。
ノイッシュもシルヴィアもアレクも静止し、踊ることも手拍子も忘れ、目の前の少女へ釘付けになっていた。
「どうか、どうか……覚えていて」
庭園を囲む回廊を歩く者たちも、歌声に惹かれて足を止める。一人、また一人と視線が集まる。
そして誰もが驚くのだ。この清らかな歌声の主が、まさかエリンであることに。
「風が吹くたびに、花が咲くたびに」
空から指す日差しは光のカーテンとなり、静かな庭園を包む。天空に舞う鳥の羽がふわりと舞い落ち、光に透けてエリンの周囲を柔らかく彩った。
「私のことを、思い出して」
そうだ、思い出した。
エリンは歌うことが好きだった。母と声を合わせ、空高く自分の声を響かせることが好きだった。
「私は鳥、あなたへ捧ぐ花束」
視界の端に柔らかな緑髪が見えた。記憶の少年を思い出させる髪色――エリンは彼に微笑みを向けた。
(あなたの為に歌うのが好きだった)
愛しい気持ちが、そのまま笑みの形となる。
私を褒めて、愛して、抱きしめて――そんな想いを歌声に乗せた。
周囲のざわめきも、歌声に溶けて消えたかのように感じられる。庭園は、まるで無音の世界のように、少女の祈り歌だけが響いていた。
ここは教会や礼拝堂ではない。パイプオルガンも聖歌隊もない。
纏う衣装も礼拝服ではなく、鎧のない軽装姿。
だが、エリンは歌声ひとつで庭園を荘厳で神秘的な空気に包んでいた。
「どうか……心だけでも、あなたの隣に――」
歌い終え、エリンはシルヴィアたちを見る。三人とも時が止まったかのように静止していた。彼らの沈黙が、じわじわとエリンの劣等感を呼び起こす。
エリンの耳に、過去の暴言の数々が蘇る。エリオットやその取り巻きに、散々歌声を蔑まれたのだ。
下手だ、聞き苦しい、猫の鳴き声……そんな歌声とも言えない声を聞かせてしまった。
胸の奥が締めつけられ、息がうまく吸えない。エリンは両頬を手で押さえ、その場にうずくまる。
「ごめんなさい……」
掠れた声で謝罪をすれば、目の前の三人は慌て出した。
「なんで謝るの⁉」
シルヴィアが驚きながら駆け寄り、しゃがみ込んで目線を合わせる。