「すっごい上手じゃない! 本当にびっくりしちゃった!」
言葉の最後を明るく跳ね上げ、シルヴィアは大袈裟に両手を広げた。
「だから自信持ってよー! エリィったら恥ずかしがり屋なんだから」
シルヴィアの言葉に被せるように、前のめりでアレクも近寄る。
「いやぁ、俺も聞き惚れたよ。毎日でも聴きたいぐらいだ」
そしてアレクは意味ありげに片目を伏せる。何かの暗黙的な合図を送っているようだが、エリンには皆目見当つかない。
ノイッシュが咳払いをひとつして、アレクを横目で制す。
「踊りには向かない歌だが……悪くはなかった」
「……すみません、選曲を間違えました」
「気にするな、全然構わない」
むしろ助かったと、ノイッシュは小さく言った。その頬は、ほのかに赤い。よほど踊るのが嫌だったのだろうか。
エリンも顔の火照りは治らない。彼らの反応を見るに音を外してはなかったようだが、お世辞の可能性もある。やはり母のようには歌えない。
己の実力不足を噛み締めていると、シルヴィアがまた突拍子なく尋ねてきた。
「ねぇ、エリンって好きな人いるの?」
思わず咳き込んでしまった。
「な、な……なんで?」
「だって、さっきの歌は恋歌だよ」
それに、とシルヴィアは続ける。
「エリィの歌い方、すっごく心こもってたもん。聞いてて、こっちまでドキドキしちゃった」
シルヴィアは、からかうでもなく、純粋にそう告げたのだろう。
だが、エリンは余計に頬を熱くした。
歌の最中、胸の奥で浮かんだ面影――それを見透かされたようで、血の巡りが一気に早まる。
いや、そんなはずはない。そんなつもりで選曲したわけでは……。
「あのね! むかーし、どこかの国の王子様が、旅の歌姫の歌声に一目惚れして結婚したってお話があるの!」
シルヴィアは目を輝かせ、まるで舞台の物語を語るように身振り手振りを添える。
「エリィも、その歌姫に負けないよ! どんな人でもイチコロだって! もっと自信持ちなって!」
励ましのつもりなのだろうが、エリンには返す言葉が見つからなかった。
胸の鼓動が跳ね、思考はぐるぐると巡る。それは、御伽噺の王子と歌姫に、自分とフィンの姿を重ねてしまった瞬間に――胸の高鳴りが頂点に達した。
(フィンが、私に……? ……え、私は……フィンのこと……)
瞬間、エリンは両手で唇を押さえた。そうでもしないと、大声で叫びそうだった。
フィンのことは好きだ。それは人間として、同じ見習い騎士として、尊敬という意味合いで。
だが、今――シルヴィアの言葉でエリンは別の感情を胸に宿した。
そばにいたい。もっと話したい。……フィンにも好きだと言って欲しい。
この想いの正体を、エリンはようやく気付いたのだ。
指先が震える。触れた唇が熱を持っていた。エリンの心を表すように。
「おいおい、シルヴィア。そんなにエリンをからかうなって」
助け舟のつもりだろうか、アレクが口を挟んできた。
「そういうのは無理に暴く必要はないんだ。エリンだって、照れてるだろう?」
何が嬉しいのか、アレクはニヤついている。口元の笑みが抑えられないといった様相で、こちらを見ている。
エリンはその視線に背筋をひやりとさせ、視線を逸らす。アレクの目の奥には、不穏なものが潜んでいるのを感じたのだ。
やはり、副隊長やアルヴァの忠告どおり、彼には警戒しておくべきなのだろうか――頭の中で思考がぐるぐる巡る。
そのとき、女性の明るい声が場に差し込んできた。
「あら、歌はもうおしまいなの?」
声の出どころは、庭園と回廊を繋ぐアーチの向こう。視線を向けると、まだ娘らしさの残る女性が立っていた。その細腕に眠る幼子を抱きながら、楽しげにハキハキと声を弾ませている。
「もっと聴かせて欲しかったわ」
彼女がエリンたちのそばに近寄ると、即座にノイッシュが跪いた。隣に立つアレクは軽く一礼する。
「しっかりしろ、アレク! エスリン様の御前だぞ!」
「お前、本当に堅苦しいな。ここは舞踏会じゃないんだぞ……って、お前にとっては舞踏会だったな、今は」
「お前は本当にしつこいな!」
軽口を叩き合う騎士二人に、女性――キュアンの妻エスリンが至極楽しそうにコロコロと笑う。
「相変わらずね、二人とも」
エスリンの反応から見るに、アレクとノイッシュとやり取りはシアルフィでも日常だったようだ。この二人の言い合いは、喧嘩というよりじゃれ合いらしい。
にこやかな表情のままで、エスリンは言う。
「いいのよ、ノイッシュ。アレクの言う通り、楽にしても」
語る言葉は気品があれど、その声音は軽やかだ。幼子を抱きながらも、エスリンはうら若き少女のように見える。
薄紅色のふんわりとした柔らかな髪はゆったりと一つにまとめていた。
髪を束ねるのは金の髪飾り。装飾石は無いが、光の反射で金の中に鮮やかな赤が混じる。
少女らしい甘さが残る顔立ち。唐紅の大きな瞳は、柔和に笑みの形を取る。
ゆったりとした色鮮やかなワンピースが、ますます彼女を王子妃という立場よりも親しみやすい雰囲気を漂わせていた。
彼女の腕で眠るのは、キュアンとの一子アルテナ姫だ。両親の愛を一身に受け、ますます愛らしく育っている。
恐らくエリンたちと同年代のエスリン。結婚して子供を抱く姿は、王族なら普通だが、目の前で見ると少し不思議に思えた。
同時にエリンの脳裏にラケシスの姿が過ぎる。敬愛する彼女だって王族だ。そう遠くない未来に嫁ぎ、子を持つ可能性があるはずだ。
その傍に立つ男を――ベオウルフを想像してしまい、エリンは苦い顔をした。
ため息を噛み殺したエリンの目が瞬く。鼓動がまた、胸の奥で波のように打ち寄せる。
エスリンの隣にはフィンが控えていたのだ。恐らくはエスリンの護衛として彼女のそばにいたのだろう。
彼はどこか戸惑うような表情で、エリンの方を見ていた。
エリンは視線を逸らせない。恋心に突き動かされ、自然と彼を見つめてしまう。
すると、フィンは一瞬、目を逸らした。
その動作はほんの僅かで、誰も気付かないかもしれない。しかし、エリンには痛いほど伝わった。心臓が跳ね、胸の奥に小さな刺し傷のような痛みを覚える。
(ああ、そうだった……)
エリンは今、フィンに嫌われているのだ。彼から話しかけてくることも、目を合わせることもない。今更ながらに、エリンはそれを悲しく思った。
ようやく己の心を理解したのに、結局は改めて苦しむだけだった。
こんなことなら、自覚しなければ良かったのに……そんな後悔がエリンを苛む。
和やかな庭園で、静かに様々な想いが揺れ動いていた。
唯一、この不自然なすれ違いに気付いたのはシルヴィアだった。彼女は目を丸くさせ、エリンとフィンを交互に見る。そして、何かを決意したかのように頷き、エリンに抱きついた。
「ねえ! さっきの歌、エリィが歌ってたんだよ!」
「シ、シルヴィ!」
突然何を言い出すのか。エリンは慌てふためく。
そして思い返す、エスリンはこう言ってた。
――あら、歌はもうおしまいなの?
それはつまり、エスリンの耳にもあの歌声が届いていたということ。そして――フィンの耳にも入っていたはずだ。
だが、今のエリンが最も恐れたのは……王族の耳に自分の歌声を聴かせてしまったこと。
「も、申し訳ございません!」
恐怖心に突き動かされるまま、エリンはその場で突っ伏した。その顔は病的なまでに青ざめていた。
全員が目を丸くする中、エリンは謝罪を続けた。
「お聞き苦しい声を、お耳に触れさせてしまって……私は、とんでもないことを……」
エリンの身体が震えるのは、恥じらいからではなかった。胸の奥で蘇るのは、幼き日の罵声の記憶。
――お前の声は、子猫の声だ。
――にゃあにゃあと鳴いて、俺に媚びてるつもりか?
フィリップの屋敷。その中庭で、エリオットは取り巻きと共にエリンを取り囲んだ。小さなエリンは逃げ出そうとしたのだが、年上の男子たちには敵わなかった。
まずエリオットが暴言を吐き、それに取り巻きが追従する。縮こまる幼いエリンに容赦なく、彼らは思い思いに彼女を責め立てた。
――よくそんな声を響かせられるな、この恥知らずが。
――王宮に招かれた吟遊詩人気取りか?
――全く、とんだ身の程知らずだ。
悲しかった。辛かった。
フィリップやドナ、副隊長、屋敷の使用人たちはエリンを励ましてくれた。
しかし、暴言によって抉れた傷は完全には癒やされない。それどころか、回復する前にエリオットたちは再びエリンに刃を突き刺してくる。
何度も何度も、繰り返してエリンの歌声を否定する。
――もしかしたら、本当はエリオット様たちの言う通りなのかもしれない。
――私の声は、変なのかもしれない。
――私の声は……悪い声なんだ。
幼いエリンがそう思い込んでしまうのに時間はかからなかった。
ラケシスと出会い、エリンの不遇を泣いて怒ってくれても――心因は取り除かれることはなかった。
「どうか……お許しくださいませ……」
今でもこうして身体が震える。この醜い声を尊いお方に聞かせてはいけない。謝らなくてはならない。
あの日の続きのように――。
「どうしちゃったの、エリィ……?」
エリンの急な取り乱しに、戸惑うような声を上げたのはシルヴィアだった。彼女はエリンを自慢したかったのだ。
――私の友達は、こんなにも素敵に歌うのよ!
きっとそう伝えたかったに違いない。けれど、その願いとは裏腹に、エリンは怯え出してしまった。理由も分からず、シルヴィアは困惑した表情を浮かべた。
ノイッシュはただただ当惑していた。うずくまったままのエリンを見下ろし、目は当てもなく彷徨っていた。
取り乱すエリンを目にしたフィンは、すぐさま駆け寄ろうと足を踏み出したが、思わず動けなくなる。
「エリン、大丈夫か?」
アレクが先にエリンの背中に手を置き、跪いたまま抱き寄せるようにして落ち着かせていた。
それを見て、フィンは無意識に拳を握りしめる。アレクがエリンを慰める場面を見たくない――そんな素振りで彼は視線を逸らす。
アレクはこの中で唯一、エリンの過去の不遇をうっすらと知る人物だ。ハイライン城で彼女を介抱した時のように、低い声でまるで暗示のように何度も優しく言い聞かせる。
「安心してくれ、誰もお前を責めていない……良い子だ、エリン。お前は何も悪くない」
「ねぇ、アレク! エリンに何があったの?」
シルヴィアは焦りをにじませ、エリンを守るようにぎゅっと抱きしめた。
エリンの体は先ほどとは打って変わって冷え切っていた。蘇った恐怖と怯えが、彼女をますます正常から遠ざける。
今のエリンの思考は、自分の粗相を王族に許してもらうことだけでいっぱいだった。
謝罪相手であるエスリンは、何も言わなかった。それは、あまりにも怯えるエリンに言葉を失ったようにも見えた。
エスリンは一度目を伏せ、静かに呼吸する。そして、そっとエリンに近づく。足音を立てず、恐怖を増幅させないように。
エリンの目の前に辿り着くと、エスリンは膝を折る。土が膝を汚すことなど気にもせずに口を開いた。
「ねぇ、エリン」
柔らかな声音。愛しむような優しい声。
それは、最愛の母ドナの声を思い起こさせ、エリンはゆるゆると顔を上げた。
目が合うと、エスリンは穏やかな笑みを向ける。
「アルテナを見て」
促されるまま、エリンは幼子を見る。若き母親の腕の中で、アルテナはスヤスヤと安らかに眠っていた。
「この子ね、あなたの歌声を聞いて眠っちゃったの」
庭園へアルテナを日光浴させる途中、エリンの歌声が届いたという。
「ふふ、この子ったら、普段はなかなかお昼寝してくれないの。でも、今日はぐっすりでしょう?」
先ほどの取り乱したエリンの声でも、幼子は起きない。深く眠っているのだ。
「ねぇ、エリン。あなたは謝るけれど、決して悪い歌声じゃなかったのよ。それをアルテナが証明しているの」
幼子は素直だ。言葉をまだ十分に理解できない年齢だから、嘘をつくことも、誤魔化すこともできない。
エリンはじっとアルテナを見つめた。
寝息を繰り返す幼子は、幸せそうで安心しきっている。その姿を見ていると、なぜだかエリンの胸が熱くなった。
脳裏に響いていたエリオットたちの言葉も、今は遠くに押しやられたように感じる。何度も過去のことだと自分に言い聞かせても、あの言葉たちはいつでもよみがえり、心を揺さぶってきた。
しかし、アルテナの寝顔を見ていると――それが些細なことに思えてしまう。こんなことで一々心を乱す自分が、恥ずかしい。
「申し訳ございません……」
今度は、自分の意思でしっかりと謝罪した。
泣き出さずに声を絞り出したので、少し上擦りはしたが、もはやそれを恥だとは思わなかった。
まだ完全には過去を振り切れない。それでも、今この瞬間にエリンは長年囚われていた闇から抜け出せそうな気がした。