緊張と恐怖が一気に四散し、エリンにまとわりつく氷が剥がれ落ちる。それを表すように、彼女の顔が和らいだ。
陽だまりように、穏やかで優しい微笑み。肩の力を抜いた、年相応の少女そのものだ。その花開く微笑みに見惚れていた人物がいたことを、エリンは知らない。
落ち着きを取り戻したエリンに、改めてエスリンが話しかける。
「ふふ、ようやく笑ってくれたわね」
先ほどまでの慈母のよう声音ではない。まだ年若い少女のようなはしゃぐ声だ。
「私、ずっとあなたとお話したいと思っていたのよ」
「え……」
口を開くエリンに、エスリンは悪戯めいた表情を見せた。
「だって、キュアンから色々と聞いてるのよ。あなたのこと!」
再びエリンは凍りついた。今度はあからさまに取り乱すことは無かったが、それでも一気に血が冷える。
これまでエリンがキュアンに見せた言動はとても褒められるものではない。軍令違反二回に、彼が可愛がってる弟分フィンに対して公然で告白もどきの公開処刑。どう考えても良い評判ではないだろう。
エリンは縮こまり、頭を深々と下げる。もはや地面に額が付く勢いだ。
「申し訳ございません……」
「え、なんで?」
今度はエスリンが慌てる番だった。
「い、今……私、悪いこと言ったかしら? ねえ、フィン」
「え……?」
こちらに話を振られるとは思ってもいなかったのだろう、フィンの声が上擦っている。あからさまに挙動を乱し、目を泳がせる。
「わ、私には分かりま――」
その瞬間、フィンの動きがピタリと止まった。何かに気付いたらしい。頬が赤く染まり、視線が逸れたまま瞼を下ろす。
「……キュアン様は、何とおっしゃっていたんですか」
「えー? それはもう色々と」
エスリンの声に何やら含みが混じる。その顔はにこやかというよりも、ニヤニヤとした笑みが浮かんでいた。
その含みが何なのか、フィンは即座に察したのだろう。耳まで赤く染まった。
「エスリン様まで、私を揶揄うおつもりですか?」
「そんなことないわよ? 私とキュアンがフィンをイジメるわけないじゃない」
「ですから、それは誤解です。深く受け取らないでいただきたいのですが」
「ねーねー、何の話ぃー?」
割って入るのはシルヴィアだ。話の輪に入れない苛立ちよりも、好奇心の方が優ったらしい。瞳を輝かせて、身を乗り出す。
エスリンが答える前に、ノイッシュがシルヴィアを叱りつけた。
「おい、言葉遣いがなってないぞ!」
「あら、別に構わないわよ」
寛容にエスリンは流す。
「こういった話は女の子は大好きだもの」
「えー、やっぱりそういう話なの?」
「そうなのよー。ついに春が来たって、キュアンったらもう大喜びで!」
「きゃー! キュアン様公認なんだー!」
騎士たちをそっちのけでエスリンとシルヴィアが盛り上がる。華やかな会話に、身分差など感じられない。年頃の少女たちの賑やかな囀りだ。
エリンには何の話なのか、皆目検討がつかない。むしろ、自分の話であったはずなのに何故かフィンの話になっている。
不可思議な話題切り替えに、エリンは困惑した表情でフィンを見た。彼は居心地が悪そうに目を閉じていた。その手は僅かに震えている。きっと頭を抱えたくなる衝動を必死に抑えているのだろう。
しかし、エリンも気が気でない。発端は自分の話題であったはずだ。当人そっちのけで少女二人が盛り上がってる。
不安げな眼差しをエスリンに送れば、彼女にそれを気付かれた。
「ごめんなさいね、エリン」
軽い謝罪の言葉に、エリンは小さく「いえ……」と返すしかない。伺うような彼女の態度に、エスリンは小さく笑う。
「私ね、キュアンから話を聞く前から、ずっとあなたとお話したいと思っていたのよ」
エリンは、ふと思い出した。
あれはエルトシャンがアグスティ城に初めて訪問した日のこと。談話室でエスリンは、何度かエリンに目を向けていた。どことなくソワソワと落ち着かない様子だった。
あれは会話のきっかけを探っていたのだろうか? これまで彼女とは接点がなかったために、エリンは全く気付かなかった。
エスリンは朗らかに言葉を続ける。
「ほら、私たちって名前似てるじゃない? だから、仲良くしたいと思っていたの」
エスリンとエリン。
確かに似ている。しかし、恐れ多いことだ。ますますエリンは身を強張らせる。
ハイライン城からノディオン城へと出奔した時、エリンの名を聞く者たちが不思議そうな反応をしていた理由はこれだった。見知った公女と似たような名前に驚いていたのだ。後日それを知った時、エリンは驚きで背筋を伸ばしてしまった。
それ以来、エスリンの姿を見るたびに後ろめたい感覚に身が包まれている。今もそうだ。
緊張が震えとして伝わったのだろう、いまだにエリンの背に手を立てていたアレクが密やかに声をかけてきた。
「そう緊張しなくてもいい。俺がそばにいるから」
彼は優しくエリンを見下ろす。その視線は安心を与えるもののつもりなのだろう。エリンの緊張を解くための眼差し。しかし、逆効果だった。
耳元に吹きかけられるアレクの吐息に、ぞわりと背筋が震えたのだ。フィンの時と違う。あの時はもっと――。
「あ……」
思い出した瞬間に、またエリンの頬が赤らむ。あんなにも恥ずかしい思い出なのに、忘れられないでいる。併せて、背中から感じたフィンの体温まで思い出してしまった。連動するように鼓動が高くときめき始める。
俯いてしまったエリンを見て、エスリンは唇を尖らせる。彼女が抗議したのは、アレクに対してだった。
「ちょっと、アレク。あなた、相変わらず女の子誑かしてるの?」
「誑かすだなんて……エスリン様まで俺をそんな風に見るんですか」
「日頃の行いのせいだろ」
口を挟んできたノイッシュはそのままエスリンに告げ口を行う。
「ご覧の通りです。アレクの悪癖は治るどころか悪化しております」
「余計なことを言うな、ノイッシュ!」
先ほどまでの仕返しなのか、ノイッシュの声は冷たい。
騎士二人の言い争いもエリンの耳には遠い。だから、彼女は気付かない。
赤面するエリンを見つめるフィンが、ほんの少しだけ悔しさを滲み出した表情をしていることに。
フィンは誰とも会話に混じることなく、黙り込む。元々口数の少ない青年だ。誰もそれに違和感を覚えない。
だから、エスリンは背後に立つフィンの異変に気付かず、エリンへと話しかけた。
「あなたと親しくなりたいのは本当よ」
「……勿体無いお言葉です」
「ふふ、今夜からでもアルテナの子守唄をお願いしちゃおうかしら」
「なっ……だ、駄目ですよ、私なんかがそんな……」
とんでもない提案に、エリンは必死に遠慮した。
畏れ多いのもあるが、エリンはラケシスの騎士だ。乳母の真似事など出来るはずもない。
とはいえ、エスリンがこんな頼み事をしてくる事情もなんとなく察してしまう。
幼児のアルテナに、専属の乳母がいないのだ。それどころか世話役の侍女すらいない。
ラケシスの侍女も何人か従軍してるが、それでも人手が足りない。結局のところ、アルテナの世話をしているのは、ほとんどエスリン一人だった。とはいえ、彼女はそれを苦にしてるようではなさそうだが。
キュアン率いるレンスターの部隊はエスリンとフィンしかいない。侍女の一人も連れて来ていなかった。
国の後継者が妻と見習い騎士のみを連れて参戦するのは、珍しいを通り越して摩訶不思議だ。
レンスターは、隣国トラキアに対して警戒状態だ。そのために人員を割くことが難しいのだろう。――つまり、キュアンらもそう遠くない未来にレンスターへ帰国する可能性も高い。
シグルド達がアグスティに留まる期間は一年。それよりも早くに、エリンはフィンとお別れするかも知れない。
(……嫌だな)
フィンに嫌われたままでお別れなんてしたくなかった。
だとすれば、エスリンの提案は魅力的ではないだろうか?
フィンは常にキュアンやエスリンのそばにいる。アルテナの世話を手伝うという名目で、フィンと接する機会があれば仲直り出来るかもしれない。……そう考えて、エリンは自分の浅ましさに嫌悪した。
(エスリン様のご厚意を利用しようだなんて……最低だ)
恋をすると乙女は綺麗になると、過去に恋愛小説で読んだ覚えがある。だけど、エリンは逆に心が醜くなっている気がした。
こんな自分なら、フィンに顔を背けられても当然だと思った。
ため息を漏らすエリンの手を、シルヴィアがギュッと握った。
「駄目だよ! エリィは私と一緒に旅に出るんだから!」
「え?」
また突然何を言い出すのか。
そんな約束した覚えはないのに、まるで確定事項のようにシルヴィアは断言する。彼女の大きな瞳が困惑するエリンの表情を映す。
「エリィが歌って、私が踊るの! ね、そうやって二人で旅しよう!」
「シルヴィ……」
想像できなかった。
ラケシスから離れる自分の姿を。
敬愛する姫君を忘れ、友人と旅をして生きる。……それはもうエリンではない。だって、エリンはラケシスの騎士になるために今まで生きてきたのだ。
あの幼き誓いの日に、エリンは全てを捧げたのだ。ラケシスのためなら命が朽ち果てても悔いはないと。
シルヴィアも本気で言ってるようには感じられない。必死さは感じられたが、それは強要からくるものではない。
落ち込むエリンを励ますように――逃げ道を提示してくれているように思えた。
シルヴィアの真意を悟り、エリンは目元が熱くなる。自分なんかのために、助けてくれようとする友人の存在がエリンはとても嬉しかったのだ。
「可愛い女の子二人旅は心配だなぁ」
茶化すように口を挟むのはアレクだ。彼はまだエリンの背中に触れている。良い加減離れて欲しいものだ。
「心強い護衛が必要じゃないか?」
そう言って片目を閉じる姿は、まさに色男だ。しかし、その余裕がエリンはどことなく危険な気がしてならない。肉食獣を前にした獲物の気持ちになってしまう。
手のひらを返したかのようなアレクへの心象に、エリン自身が戸惑うくらいだ。彼の態度は決して変わってはいないはずなのに。
「平気よ、エリィが守ってくれるもの!」
澄まし顔でシルヴィアは言い切った。
「だから、男なんて必要ないの! ……みんな、嘘つきだもん」
最後に付け足された言葉は小さく、掠れていた。シルヴィアの本音が思わず溢れたかのように聞こえた。
「可愛いだなんて……そんな気もないクセに」
エリンは気付く。
シルヴィアは、まだ傷付いている。
レヴィンは決して彼女を弄んだつもりはないだろう。しかし、本気でない軽口をシルヴィアは真剣に受け止めてしまった。
……もしかしたら、本気の恋だったのかも知れない。
だから、フュリーの登場で裏切られたとシルヴィアは感じたのだ。エリンですら、レヴィンの目は清純な天馬騎士だけを見ていることに気付いた。当事者のシルヴィアはどれほど悔しかったことだろう。
そう思うエリンは、落ち込む友人の手を強く握り返していた。
「……シルヴィは可愛いよ」
「エリィ……?」
首を傾げるシルヴィアの目を、まっすぐにエリンは見つめる。嘘じゃないと、心からの言葉を伝えるために。