2-1 必ず帰ってきて
日が昇るのと同時に、エリオット軍とシグルド軍は対峙した。
やはり援軍の存在を知らなかったエリオットたちの動揺は凄まじく、勝負はすぐに決した。太陽が空の頂点へと昇り切る前に兵士は全滅、主将のエリオットも呆気なくシグルドに討たれたという。
伝令によりもたらされたその訃報を、エリンはノディオン城で知らされた。軍師役のオイフェの進言により、彼女はラケシスの護衛として城内待機の要員とされたのだった。
謁見室にてラケシスは胸を撫で下ろす。近衛や侍女たちも吉報に、安堵の表情を浮かべていた。その傍で、エリンの心中だけが穏やかではなかった。
エリオット王子。
ハイラインを発つ前、エリンは彼を心底憎んだ。あんな男がラケシスの目に入ることすら許せない。彼がシグルド軍に破れてしまえばいい。今の今まで強く願っていた。
死の報せを聞いたとき、なぜだろう。胸の奥に、小さな棘が刺さったような痛みが残った。
エリオットは王族であることを鼻にかけた、傲慢な男だった。地位の低い者を虫けらのように扱い、気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こす。
幼い頃のエリンは、エリオットが本当に嫌いで嫌いで仕方なかった。声を聞くだけで吐き気がするほど。今だってそうだ。
いつも理不尽な言いがかりばかり。難癖だって何度も何度も。彼の足音が聞こえてくるだけでも憂鬱だったのに。
けれど今――死んだと伝えられた今になって、心がざわつく。「ざまあみろ」と笑えると思っていたのに、口は乾き、喉が詰まった。
完全に憎みきることはできなかった。なぜか、今はそう思ってしまう。
庇うほどに親密であったわけでもない。むしろ憎しみに近い嫌悪が彼の印象に占めている。
幼少期のエリオットにされた嫌がらせや暴言の数々をエリンは決して忘れてはいない。傷付けられた心の痛みは、簡単には消えないのだ。
――下賤の娘は、屋敷の奥に閉じこもってろ。
わざわざエリンの部屋に押し掛けてまで、そんな暴言を吐いてくるのだ。しかも彼の取り巻きを数人引き連れて。
フィリップの立場を思い、耐え忍んでいたあの頃。エリオットという存在そのものが、心の底から疎ましかった。
細身で小柄なくせに、いつも着飾った服を着てばかりいた。外見にそぐわないその格好を、エリンは似合わないと思っていたが――取り巻きたちのおべっかを、小さなエリオットは揚々と受け入れていた。
無敵の王子様が持つ吊り目は、まるでキツネみたいだと、こっそり思っていた。
しかし、過去には彼女に対して気まぐれのように気にかけてくれたこともあった。
あれは夏の始まりだったか。
エリンがラケシスの剣となろうと誓った日から、そうほどなくない日。緑葉が陽光に揺れる頃だった。
――女のくせに、剣に生涯を捧げる必要もないだろうに。
少年時代のエリオットは投げ捨てるようにそう言い放った。確か、エリンが治癒室で手当てを受けていたときのことだった。
何故か現れたエリオットが、事情を医師から聞いた直後に口にした台詞だった。
当時のエリンは、それを侮辱としか受け取れなかった。表情に出てしまったのだろう、エリオットは眉をひそめて言った。
――髪もそんなに短く切り落として、まるで子猿だな。全く似合わん。
またか、とエリンはため息を飲み込む。どうせ今日も嫌味を言いに来たのだろう。いつもは追従する貴族子息達を連れて現れるのに、今日は一人きりだったのがまだ救いだ。煩い声が少ない。
けれど、次に続いた言葉は意外だった。
――……今回は大事にはならなかったが、戦場だと腕を失う。最悪なら死ぬぞ。
――やめておけ。お前に何かあったら、フィリップが嘆くだろうが。
まさかの気遣い。
エリンは目を丸くした。頭でも打ったのだろうか? 本気でそう心配してしまったほどだった。
エリオットは一瞬だけエリンの視線をまともに受け止めたが、すぐに目をそらし、耳を赤くして早足で治癒室を出ていった。
――かつては、素直なお方であった。
いつだったか、エリオットを義父はそう評した。
義娘を疎む王子に苦々しい顔を向けつつも、同時に憐れな子だと言っていた。
――あの方は、ノディオン城のエルトシャン王子と事あるごとに比べられた。
――同じ年頃であるから、尚更だ。それがエリオット様を頑なにさせてしまったのだろう。
ノディオン王子エルトシャンの評判は良い意味で凄まじい。ハイラインどころかアグストリア全土に響いている。
黒騎士へズルの再来とまで謳われていた。
吟遊詩人は、こぞって彼を讃える歌を奏でる。
画家は、多くの絵の題材に彼を選んだ。
年若き乙女は、身分上下も関係無く誰もが彼に恋をした。
神に選ばれし寵児。
それを証明するように魔剣ミストルティンの継承者としての聖痕も現れている。彼こそがアグトリアの至高だと称賛する声は止まない。
それに比べるとエリオットは凡夫に過ぎなかった。
どれほどに彼が努力をしても、エルトシャンの才能の前では全て無価値に等しい。剣の腕どころか、立ち振る舞い、語る声ですら比較され、大勢に侮られた。
そのせいだろうか。エリンの知るエリオットは、常時怒鳴ってばかりいた。
常に怒り、驕り、当たり散らす。諌める者がいれば、罰を与える。次第に彼に忠言を与える者たちは消えて行った。残ったのは、彼の権力のおこぼれを狙う忠義無き者ばかり。
……ああ、そうだ。
あの後――幾分か年月が経った後、エリオットに問われたことがある。
季節は夏の盛りになっていたはずだ。鍛錬を終えて見上げた空はどこまでも青く、白山に似た雲がいくつも連なっていた。
眩しいばかりの日差しを避けるように潜り込んだ、窓のない回廊。光のない廊下は夜とは違った漆黒に染まっていた。
その闇から這い出るようにエリオットが一人現れ、エリンに問うた。
――……お前もエルトシャンがいいのか。
その意味が分からずにエリンは思わず、はい? と聞き返してしまった。それを返事としての肯定と受け取ったのか、エリオットはあからさま不機嫌になった。癇癪を起こすのかと身構えるエリンを残して、彼は何も言わずに去って行った。
もしかしたら、エリオットはエリンが己のために騎士になるのだと勘違いしていたのかもしれない。その後、どこからかエリンはノディオンの騎士を志しているという真実を知り、あのような問いかけを投げつけたのだろう。
何故、エルトシャンに繋がったのか、エリンには未だに分からないが。
ともあれ、エリオットは自己解釈をしたはずだ。忠臣の娘すら、獅子王に心を奪われたのだと。彼は、そう思い込んだ。
気位の高い彼にはよほど応えたのだろう。以来、エリンに対してますますぞんざいな態度を取るようになった。その結果、エリンはさらにエリオットを嫌厭した。
そのエリオットが、もういない。
嫌な男だった。顔を見るたびに、吐き気を催すほどに。
……それなのに。
同時に思ってしまう。哀れな男であったと。
死してなお、こんなにも憎いのに、悼む気持ちがエリンには芽生えていた。
だが、心の重さにはもうひとつ理由がある。
伝令によれば、ハイライン城へと続く街道にてフィリップ隊が防衛として陣取っているようだ。シグルド軍はエリオット隊を撃ち落とした勢いのまま、彼らの元へと向かっているらしい。
義父と敵対する。今、まさにその時が迫っているのだ。ラケシスの隣に立ち、覚悟を決めていたのだが、いざ現実となるとエリンの決意など脆く揺れた。
シグルド軍の面々は聖騎士の血を引く名家の者達が連なっており、腕の覚えも確かだ。
それはエリオット隊との早すぎる決着で実感した。
だからこそ、エリンは恐れる。歴戦の腕を持つ義父たちですら、彼らになすすべもなく討たれるのだろうと。
フィリップは降伏するまい。忠義を示すために最期まで剣を振るうだろう。すでに主家の子エリオットが討たれているのだから。
副隊長たちもきっと義父に続く。最期の最期まで抵抗を続けるだろう。彼らはそんな人たちだ。
無意識にエリンは左手首を飾る腕輪に触れる。縋るように腕輪を撫でても、鮮やかな煌めきを緑石が返すだけだ。
心は義父たちを案ずるが、それを口には出せない。きっとラケシスを困らせてしまう。ノディオンの人々もきっといい顔はしないだろう。シグルド軍が勝たなければ、ノディオンは陥落する。……かと言って、義父たちの敗北も祈れない。
憂いを胸中に押し込め、エリンは時の流れに身を委ねるしかできなかった。
そんなエリンの前に一人歩み寄る男がいた。エルトシャンにより、ラケシスを護衛するよう命じられた三つ子の騎士。
「エヴァさん……?」
彼の名を口にすると同時に、エリンの胸が痛んだ。
エヴァは目を細め、エリンを見つめている。彼が辛い時によく見せる癖だ。
エヴァは思い詰めたような顔つきのままで、静かにエリンに向かって口を開く。
「エリン。きみは、前線に行っておいで」
エリンは目を見開く。聞き間違いかと思い、耳を疑ったほどだ。返事も出来ない彼女の代わりにラケシスが怒る。
「何を言ってるの、エヴァ! エリンは私たちとノディオン城に待機してるよう、シグルド様に命じられたでしょう」
「その指示を受けたのは姫様のみです。我々やエリンにはシグルド様の直接の命令はなかった」
三騎士はエルトシャンの命令で、エリンは自ら望んでラケシスの護衛をしている。だから、ラケシスをノディオン城に留まるよう配置すれば自然と護衛の人間も彼女の傍で待機することになる。
「ですので、エリンがここを離れても、軍令違反とは解釈されないかと」
「でも、駄目よ! だって、前線は今……」
ラケシスはその先を言わなかった。言えなかったのだろう。エリンの義父フィリップとシグルドが交戦中である、と。ラケシスだけでなく、謁見の間に集う人々はエリンを気遣うようにエリオットの死にしか言及しない。
しかしエヴァは、だからこそだと言う。
「エリンはきっと後悔するばすです。フィリップ殿の勇姿を──最期を看取ることが出来なければ」
「そんな酷いことを! エヴァ、取り消しなさい。あなたの発言はエリンを悪戯に傷付けただけ。私は決して許さないわ」
エヴァは何も言い返さなかった。ただ目を伏せ、背筋を正したまま動かない。
その姿にエリンは僅かに既視感を覚えた。
それは、フィリップと副隊長の姿だった。眠れぬ夜、灯りに誘われて食堂へ向かった。普段は楽しそうに杯を交わす二人が、その夜は背を丸め、黙って酒を注いでいた。
そうだ、あの日は盗賊との戦闘があった。
義父の部隊の何人かが討ち死にした。二人の間に会話は無い。ただ、捧げるように静かに酒を酌み交わしていた。
それと同じ空気を、今のエヴァは纏っていた。過去に誰かを守れなかった後悔を抱え、それでも沈黙する──そういう顔をしていた。
エヴァを厳しく一瞥すると、ラケシスは迷いなくエリンの元へやってくる。そして、彼女の手を取る。
華奢で柔らかなラケシスの両手が、震えるエリンの右手を包み込む。
ラケシスの方が、エリンよりも背が高い。彼女がわずかに見下ろせば、自然と互いの視線が絡む。
「行ってはいけないわ、エリン。……お願いよ、私の傍にいてほしいの」
優しいお方だ。
自分の命令という名目で、エリンに罪悪感を抱かせないようにしてくれている。その慈悲にエリンの目元が潤む。
そして、知る。己の心中なぞ、とうに見抜かれていたのだと。
エヴァの兄弟は何も言わない。彼らは三つ子ゆえか、外見は似通っている。しかし、それぞれの性格に個性はあった。全てが同じになることはない。
それでも彼らは黙っていた。もしかしたら二人もエヴァのように、かつての後悔を思い出していたのかもしれない。
それは親族か、戦友か、守りたかった誰かなのか……。
棘のように残る記憶から、兄弟の発言を止めなかったのかも知れない。
この場に漂うのは、誰も言葉を発さぬ重苦しい沈黙と、時折響く衣擦れの音だけ。
窓の外からは、場違いなほどのどかな鳥のさえずりが聞こえた。
「……ありがとうございます、ラケシス様」
すんなりとエリンは声を発した。ラケシスの前ならば、喉を詰まらせることはない。それよりも、己の想いを声に乗せて伝えたいとエリンは思っている。
握られた手を、名残惜しむように離した。逃れるように自由になった手は騎士の礼の形を取る。
「ごめんなさい、必ず戻ります」
「……駄目よ」
「お許しください。義父に別れを告げたいのです」
言葉が口から出たと同時に視界が潤んだ。吐息を呑み込み、涙を抑え込む。
ラケシスの言う通り、自分はきっと傷付くだろう。悲しみに暮れるだろう。
それでも会いたいのだ。これが最後というのなら、その姿を見なければ、その声を聞かなければ、きっと後悔する。
手にはまだラケシスの温もりが残っている。それがエリンに勇気を与える。
ラケシスは辛さを堪えるように目を閉じた。長く細い睫毛がわずかに震えていた。湿った吐息を一つこぼすと、再び瞼を上げる。その透き通るような琥珀色の瞳は潤んでいた。しかし、口元を引き締めて表情を整えている。身に纏う姫鎧に相応しい様相を見せ、彼女はエリンに命じた。
「……必ず帰ってきて」
ラケシスの瞳は太陽のようだ。
その瞳に宿る意思の強さにエリンはずっと惹かれていた。どこまでもこの方に付いていこうと、そう思ってきた。昔も、今も。
「はい、必ず」
一礼し、エリンはラケシスに背を向ける。赤い絨毯の上に沿って扉へと向かう。その途中、侍女や近衛兵たちの顔が目に入った。皆、心配そうにエリンを見つめている。誰一人として彼女がラケシスを裏切ることはないと信じてくれているのだ。その信頼が、優しさがエリンには心強かった。
滑り落ちるように老馬に跨り、ノディオン城を発つ。老馬は前日の疲れなぞ見せまいとばかりに蹄を鳴らす。