昼下がりの庭園から賑やかな歌声が聴こえる。
二人分の歌声。
一つは軽やかで自信に満ちた少女の声。シルヴィアのものだ。
一つは伸びやかで甘さの混じる少女の声。……エリンのものだ。
二つの声は重なり、響き合い、一つのメロディとなる。それに合わせるように、少女たちは手を繋いで舞う。
ダンスに似た動きだが、男女のものではない。はしゃぐように、戯れのように――自由に踊っている。
合間合間に手拍子が挟まれる。アレクとノイッシュだ。それにつられてから、歌声に聞き惚れて足を止めた者も合わせて手を鳴らす。
噴水の縁で座るのはエスリン。彼女はアルテナを抱き、歌声に合わせて体を揺らす。拍子を合わせるように、アルテナの背中を優しく撫でながら。
その横でフィンが佇んでいる。彼は後ろ手にして直立している。その目は、舞う少女たちを見つめている。遠目からだと、彼がどちらを注視しているかまでは分からない。
少女たちは舞う。
手を絡め、視線を合わせ、歌声を重ねて。
注目を集めるのを嫌がるはずのエリンが、朗らかに笑っている。楽しいという気持ちを全面に押し出した、彼女の心からの笑顔。
普段の張り詰めた表情はどこに行ったのか?
見知らぬ人を警戒し、心に踏み込まれることを恐れるあの子はどこに行ったのか?
「あの嬢ちゃん、ああいう風に笑えるんだな」
ベオウルフが感心したように言った。
揶揄うような口ぶりだが、どこか安堵しているように聞こえる。
「歌ってる姿はまるで別人だ。まったく、いつもああしてりゃあ可愛いのにな」
同意を求めるようにベオウルフが隣に立つラケシスへ声をかける。
彼は素直にエリンを褒めているのだろう。エリン本人が聞いたら、嫌味かと露骨に嫌いそうだが。
ラケシスは答えない。
ただ黙ってエリンを目で追う。琥珀色の瞳は冷たい光が宿っていた。しかし、凍てつくような視線はエリンには伝わらない。
エリンはシルヴィアと頬寄せ合って、澄んだ歌声を響かせる。幸せそうに、嬉しそうに――エリンはラケシスがいなくても――。
ラケシスは踵を返す。陽だまりに包まれた庭園から、薄暗い回廊へと足を薦める。コツコツとブーツを大きく鳴らして。……まるで歌声をかき消そうとするかのように。
「お、おい。姫さん?」
珍しくベオウルフは慌てたように表情を崩した。すぐさまに彼もラケシスの後を追う。
ラケシスは早足で回廊を突き進む。ベオウルフはその隣まで追いつくと、また尋ねた。
「声をかけなくていいのか? 嬢ちゃんを探してたんだろ」
そうだ。
ラケシスはエリンを探していた。
エリンが開拓村で軍令違反を行ったのは自分のせいだと、ラケシスはずっと自身を責めていた。
母を亡くし、国を裏切り、義父が討たれ――エリンの居場所はもう何処にもない。気丈に振る舞う彼女だが、きっと精神的に追い詰められていたのだろう。
シグルド軍に加入して以来、分かりやすいほどにエリンは不安定になっている。ベオウルフに八つ当たりし、ラケシスにすら反発をした。アルヴァが懸念していた通りだった。
――エリンを一度戦線から外すべきです。今の彼女は騎士としての働きは期待できません。
一度目の軍令違反の時に、アルヴァはそう言ってキュアンにエリンの謹慎処分を願った。しかし、ラケシスはそれを庇った。
エリンが違反したのは人助けを優先したから。それなのに処罰されるのは彼女が可哀想だと思ったから。
結果、謹慎処分は見逃されたがエリンはまた違反した。今度はラケシスの指示すら聞かずに。
エリンが駆け出した後で、ラケシスは後悔した。ベオウルフに出会って以来、自分は彼女を蔑ろにしていたのでは無いのかと思い至った。
だから、エリンの謹慎が明けてからラケシスは彼女を側に置くよう心がけた。
――あなたは私の騎士。私の大切なお友達なのよ。
そう願いを込めて。きっとエリンにもラケシスの想いは届くだろう。
また幼き日のような、愛らしい笑顔をラケシスにだけ見せてくれるはずだ。
なのに、エリンは裏切った。
――約束して。いつかエリンが歌えるようになったら、きっと一緒に歌いましょうね。
かつてラケシスはエリンと約束したのだ。そして、いつかそれが果たされる日をラケシスは夢見ていた。
お人形のような小さな女の子――ラケシスだけの可愛いエリン。
ハイラインでの冷遇のせいか、初対面のエリンは怯える表情ばかりを見せた。だが、ノディオンで共に過ごしているうちに笑顔を見せてくれるようになった。
ラケシスに懐いて、いつでもそばにいてくれる姿が愛らしくて堪らなかった。彼女の小さく柔らかな手を取ると、ラケシスは心の奥底から満たされる感覚に満たされる。
だから、欲した。ずっとそばにいてほしいと願った。
私の騎士になってという我儘にも、エリンは真剣に応じてくれた。
嬉しかった。早くエリンが私の騎士になる日が来ればいいのにと、ラケシスは毎日願うほどに。
ラケシスと親交をエリンが深めたおかげで、ハイラインからの使者役はエリンの義父フィリップが一任されることとなった。その随行としてエリンがやって来るたびにラケシスは彼女を心から歓迎した。
ラケシスの名を呼ぶ、エリンの甘い声が好きだった。
ラケシスを見つめる、エリンの黒曜石に似た色合いの瞳が好きだった。
日差しに透かされ、蜂蜜色に煌めくエリンの髪をいつまでも撫でていたいと願っていた。
いつからだろうか。
エリンの態度がよそよそしくなったのは。
いつからだろうか。
エリンがラケシスに対して笑顔を見せなくなったのは。
エリンが蜂蜜色の長い髪を切り落とした時、ラケシスは大層驚いた。男の子のようだと思わず口にしてしまうと、エリンは照れたように言った。
――私は未熟ですので、鍛錬の時に邪魔にならないように切りました。
その言葉を聞いて、ラケシスは己の我儘を後悔した。
貴族の子女にとって、長く美しい髪は自慢の一つだ。たとえ幼い子供であっても。
しかしエリンはラケシスのためにそれを捨てた。それがどんなに覚悟のいることか……。
エリンは私のために髪を切ったのだ。そう思うだけで、胸が震えた。罪悪感と――狂おしいほどの歓喜。
暗い喜びが芽生えたのは、その時が初めてだった。
エリンは、ドレスを着るのをやめた。――騎士として動きやすい服を着るようになった。
エリンは、髪を伸ばすのをやめた。――髪を伸ばすよりも早く騎士になりたいと言っていた。
エリンは、怯えるのをやめた。――ラケシスとまっすぐに目を合わせるためにと背筋を伸ばした。
エリンは、ラケシスのために変化していった。
そしてエリンはハイラインを捨てた。ラケシスのために。
フィリップとの死別に泣くエリンを抱きしめながら、ラケシスは心弾ませながら誓う。
――私がエリンの居場所になるわ。
エリンはラケシスのためだけに、全てを捨ててくれた。ならば、次はラケシスの番だ。
エリンが迷っても、その手を取って導くように。ずっとずっとそばにいてあげようと。
だってあの子は小さいのだ。ラケシスよりも小柄で、臆病だ。
たとえ騎士としての鍛錬を積んだとしても、まだまだエリンはか弱い。大きな悪意に襲われれば、また幼き頃のように怯えて泣き出してしまうだろう。
自分が守ってあげなければならない。
可愛いあの子を悲しませないために。
エリンが泣く時、彼女は悪いことをしてないのに謝罪する。自分のせいだと信じ込んで――ラケシスはそれが嫌だった。二度とそんな風に思わせたくなかった。
あの子の脆さを、繊細さを――私だけが真に理解しているのだと、ラケシスは疑いもしなかった。
だから、ベオウルフに剣の師事を願った。彼はエルトシャンの頼みもあるからか、それとも別の理由からか――あっさりとラケシスの願いを聞き届けてくれた。
ベオウルフの指導は容赦なかった。手元が緩めば、容赦なく剣を弾き飛ばされる。休息は認められたが、それでも何度も息が上がった。木剣を握る手が痛んでも、素振りを止めさせてくれなかった。
ノディオン城で、かつて兄が面倒見てくれた稽古が子供のお遊びのようなものだったとラケシスは思い知った。
エリンはこんな大変な思いをしていたのだと、ラケシスは実感する。そして、それを自分のために乗り越えてくれているのだと思い至り、また悦びに包まれた。
それなのにエリンはラケシスに稽古を止めるように訴えてきた。
――私なんかはどうでもいいんです! ラケシス様は私とは違うのですから!
エリンが吐いた言葉は、胸の奥を鋭く抉った。友達だと言ってあげた時、あんなにも嬉しそうに微笑んでくれたあの子が――今はもう、ラケシスを主君としか見ていない。
それを認めたくなくて、ラケシスは初めてエリンを拒絶した。
――違う……この子は私のエリンじゃない!
そんな叫びを全身に響かせた。
強い言葉で追い払った瞬間から、ラケシスの胸の奥に冷たい後悔がじわじわと広がっていった。
涙を堪えてその場から立ち去るエリンの後ろ姿を見て、ラケシスはようやく自分の愚かさに気づいた。
すぐにベオウルフに相談すれば、彼に嗜められた。
――そりゃ、姫さんが悪い。
エリンの言葉は最もだと、いつもの気怠げな調子で彼は言う。
――もしも姫さんに何かあったら、罰せられるのは嬢ちゃんの方だ。
納得出来なかった。だってエリンには何の咎も無いのに、理不尽過ぎる。
それが表情に出たのだろう、ベオウルフは肩をすくめる。
――姫さんが良くても、それが世の常ってやつだ。
――嬢ちゃんは騎士を目指してるんだろう? だったら上下関係もきっちりと叩き込まれてるはずだ。
エリンが頑なになったのは、ラケシスが望んだから。それに応じて、騎士として相応の振る舞いを身につけてくれたのだ。
線引きされるのは仕方のないことだと、ベオウルフは諭す。
寂しくないと言えば、嘘になる。
エリンは昔のようにラケシスに接してくれないということだ。あの時のような可憐な笑みを向けてくれる日がもう来ないかも知れない。
改めてラケシスは、幼き日の我儘を呪った。
騎士を望まなければ良かった。友人としてエリンをハイラインから引き取らせて貰えるようにと、ノディオン王である父に望めば良かった。
ただ、ラケシスはエリンの笑顔を一番近くで見たかったのだ。悩んで、悔やんで――やがて決意した。
昔のように戻れなくても、いい。
あの笑顔が見られなくても、構わない。
――私だけのエリンでいてくれれば、それでいい。
ラケシスの胸に、冷たい決意が沈殿していった。その醜い独占欲に気付かないふりをして、彼女はエリンを求めた。それが愛しい子の幸せなのだと信じて。
なのに。
なのに、エリンは裏切った。
ラケシスには見せなくなった笑顔を、あんな知り合ったばかりの踊り子に見せていた。いや、踊り子だけでない。
ラケシスよりも親交の浅い者たちにも、エリンは可憐な笑みを振りまいていたのだ。
注目されるのを嫌がっていたエリンが、大勢に囲まれて、ぎこちなくとも楽しげに踊っていた。
ラケシスがどんなに望んでも聴かせてくれなかった歌声を、空高く朗々と響かせていた。
ラケシスがいなくても、エリンは嬉しそうに笑っていたのだ!
許せない。
どうして。
裏切り者。
怒り、憎しみ、哀しみ――様々な感情がラケシスの中で湧き上がる。その全ては、重く濁った怒りにより生まれたものだ。
エリンの歌声に聴き惚れる聴衆が、エリンの笑顔に見惚れる男たちが、エリンと仲睦まじく手を取り合うあの踊り子が――何よりもラケシスを裏切ったエリンのことが許せなかった。
泣いて叫びたかった。
掴みかかってでも取り戻したかった。
――あの子は、私だけの『お友達』なのに!
回廊の窓から差し込む午後の光は、わずかに埃を帯びて淡く揺れていた。石の床に映る影は長く伸び、ラケシスの孤独を引き延ばすかのようだ。
回廊に響き渡るのはラケシスの靴音。それを追うようにベオウルフが問いかける。
「なぁ、姫さん。……本当に、嬢ちゃんに話しかけなくてよかったのか?」
試すような声音。彼は責めてはくれない。
ラケシスの感情を子供っぽいと鼻で笑ってはくれない。
突き放すようなその態度が、今は疎ましかった。
「……いいの」
唇から漏れたのは、冷たい声だった。
「私がいなくても、エリンは楽しんでるみたいだから」
そんなことは無いと言って欲しかった。エリンにはラケシスしかいないと、肯定して欲しかった。
だけど、ベオウルフは望む言葉をくれない。ただ一言「……そうか」とだけ返し、あとは黙ってラケシスの後ろを歩く。ベオウルフの返した声は、突き放すようでいて揺らぎを含んでいたことに、今のラケシスは気付かない。
誰にも理解されないのだと、ラケシスの目元が熱くなった。涙を流すのが悔しくて、前方を睨みつける。
遠ざかる庭園からは、まだ歌声が響いてくる。楽しげに戯れる声は、まだ戻れる距離にある。だけど、彼女は振り向かない。
息を詰め、光と影の中をひたすら歩き続けた。
歌声も笑い声も、後ろに残して――逃げるように。