8-1 あんたと俺の仲だろう?
ラケシスの態度が冷たくなったのは、きっと気のせいではない。
そのことにエリンが確信したのは、秋が深まりつつある日のことだった。
最初は、気のせいだと思った。
次の日は、ラケシスの体調が芳しくないのかと心配になった。
しかし、三日目以降も変わらなければ、さすがにエリンも焦り出す。
以前は連日呼びつけられたのに、今では全く声がかからない。護衛はベオウルフばかりに任される。身支度もエリンでなく、侍女を指名する。
エリンが自ら側仕えを願い出れば、ラケシスは彼女の顔も見ずに一言告げる。
――必要ないわ。
そして、顔を背けて会話を打ち切られる。あとは何を話しかけても、素っ気なく一言だけの返答をされてしまう。
心苦しいのはエリンだけでは無いのだろう。侍女たちも困惑したように顔を見合わせる。あのベオウルフですら、ラケシスを嗜めるほどだ。
エリンの味方をするベオウルフが面白くないのか、ラケシスはますます意固地になって口を閉ざす。
そうなると、もうエリンの居心地が悪くなる。数分ほどで、ラケシスの側から辞した。
ベオウルフは黙って見守る。何も言わず、ただエリンの後ろ姿を目で追い、静かに眉を寄せた。
彼が何も言ってくれないことを、エリンは安堵した。でないと、八つ当たりをしてしまいそうだったから。
必然的にエリンは空き時間が増える。アルヴァに厳しく言われた手前、鍛錬に力を注いだが手応えがない。二度三度と木剣を振るえば、ため息と共に動きが止まる。
ラケシスの怒りに心当たりはあった。
彼女の恋するベオウルフを、エリンは散々邪魔者扱いをしたのだ。優しいラケシスもついにエリンの横暴を許せなくなったに違いない。
それを悟ると、エリンはもう剣が振るえなくなった。
ラケシスだったら、エリンが何をしても許してくれる――そんな思い込みがあったのだと思い知らされる。優しさに付け込んで我儘を繰り返したのはエリンだ。呆れられても仕方がない。
ついに嫌われたのだと、そう思えばもうエリンは立つことすら出来なくなった。毎晩、寝台の中で一人震えて静かに泣いた。冷たい布団の中、かつて共にラケシスと共に眠った幼き日を思い返しながら……。
日中に涙を溢さなかったのは、シルヴィアが側にいてくれたからだ。
庭園での一件以来、二人は親密になった。
シルヴィアが新しい歌や踊りを教え、エリンは簡単な護身術を教える。時には意味のない話で盛り上がったり、城下町で食べ歩いたりもした。
揃いの髪飾りを買った時のシルヴィアは凄かった。慣れた手つきであっという間に可愛らしい髪型に仕立て上げてくれたのだ。エリンが短髪という不利ですら、シルヴィアの髪結いの障害にもならなかった。
一房だけ編み込んで、それを後頭部でまとめて髪飾りで抑える。それだけなのにエリンの印象がガラリと変わった。
「すごい……」
鏡に映る自分を眺めて、エリンは感嘆の息をこぼす。その後ろで、櫛を手にしてシルヴィアは得意げだ。
「あとは、お化粧するともっと可愛くなるよ。せっかくだからやってみる?」
普段のエリンだったら、絶対に断っていた。私なんか飾り付けても無駄だよと己を卑下していたはずだ。
「……うん、お願いしていい?」
唇から出てきたのは、了承の言葉。ほんのりと照れが混じっている。
しかしシルヴィアはそれを指摘することなく笑顔で返してくれた。
「もちろん!」
同性の友人とこのように過ごすのが新鮮で、エリンはこの時だけは暗い気持ちを忘れられた。
自分を飾り立てるなんて、本当に久しぶりだった。
可愛い服も、綺麗な装飾品も、全て騎士には不要である。だから、エリンは今まで見向きもしなかった。
それでも年頃の少女だ。鏡に映る己の可憐な姿に心が躍った。
うっすらと化粧を施し、流行りのワンピースを着て、シルヴィアと歩けば、行き交う人にエリンと気付かれることは少なかった。それがおかしくて、エリンはシルヴィアと頬寄せ合って笑い合った。
ただ唯一、ラケシスにエリンだと気付かれなかったのは悲しみを覚えた。
侍女を連れて回廊を歩くラケシスは、すれ違い様にこちらを一瞥し、眉をひそめて目を逸らしたのだ。きっと見知らぬ少女だと判断したのだろう。怪訝な表情を浮かべていた。
声をかけることも憚れて、エリンはその日は眠れなかった。悲しみに沈みつつも、ラケシスに気付かれなくて良かったのだと自分を慰める。
(ラケシス様の騎士を目指してるのに、浮かれてたら駄目だ……)
初心を忘れることなかれ。フィリップが騎士を志すエリンへ最初に教えてくれた言葉だ。
――エリン、お前が目指す道のりは険しい。心折れそうになる日もあるだろう。
心優しい義父は、幼いエリンを前にしてそう言った。
――そんな時は、誓った日を思い出しなさい。その時の心を失わなれけば、きっと……お前は誇り高い騎士になれる。
そうだ、浮かれては駄目だ。
グランベル軍がアグスティ城から立ち退く日は、あと少しで半年を切る。その時にエリンは正式にラケシスの騎士となるのだ。
令嬢のように着飾り、自尊心を満たしている場合じゃない。心を引き締めねば。
夜が明けて、エリンは鎧を身に纏う。鎧の色は鮮やかな水色――夏空の色。騎士を志すのだと、義父に宣言をしたあの日の空の色。
胸元で揺れる義父フィリップの形見リターンリングを両手で握りしめる。翡翠色の指輪は、まだまだエリンには大きい。だけど、いつかこの指輪に誇れる騎士となるのだ。
左手首を飾るのは、母ドナの形見の銀の腕輪。装飾された煌めく緑石が、母との思い出を甦らせてくれる。彼女は何よりもエリンの幸せを願っていた。
今は亡き両親たちへ誇るために、自分は強くならなければ――。
決意を胸に秘めて、細身の剣を腰に携えた。
憂鬱は晴れない。ラケシスに冷たくされるのは辛い。
それでも、エリンの全てはラケシスなのだ。
信頼を損なったのなら、その倍以上の誠意を見せねばならない。きっとまたいつか、ラケシスが微笑みかけてくれることを願って。
……そう思っていたのに。
いざ、現実を目の当たりにすればエリンは再び臆病に逆戻りだ。
朝食の前にラケシスへ挨拶に向かったのがいけなかった。
エリンは見習いではあるが、ラケシス付きの騎士だ。任務の確認をする必要がある。……ここ最近は全くと言っていいほどに意味が無かったのだが。
それでも、今日こそはとエリンは勇んでラケシスの部屋へ足を進めた。きっと彼女はエリンを迎え入れてくれる。許してもらえるかもしれない。あの麗しい笑顔を、また見せてほしかった――そんな願いはあっさりと踏み躙られる。
ラケシスの部屋へと繋がる回廊、そこでエリンの足は止まった。目を見開き、唇を震わせる。
王族たちが滞在する個室の前――そこに、ラケシスはベオウルフといた。
煌びやかな扉の前で、二人は和やかに話し合っている。ベオウルフはエリンから見て背を向けているが、ラケシスの顔はよく見えた。
久方ぶりに見る晴れやかな笑顔だった。
陽光を練り合わせて作られた瞳は恋を告げるように煌めき、頬は僅かに赤く染まっている。柔和に笑みの形を作る口元は、華奢な指で隠されている。
大輪の花のような、絢爛の笑顔。どんな名画よりも美しい、エリンが求めるラケシスの微笑み。
それが今、ベオウルフだけに向けられている。
うっとりと潤んだ彼女の目は、ベオウルフだけを見つめている。エリンに気付くことなく――。
ああ、違う。……違う違う違う!
あの笑顔はエリンだけのもの。
エリンに向けられるはずだったのに。
怒りがエリンの頭髪を逆撫でる。気付けば手は拳の形を取っていた。爪が強く強く、握りしめた皮膚へと食い込む。
ラケシスの笑い声が耳に届いた瞬間、エリンは駆け出していた。
楽しげな二人を背にして――逃げ出したのだ。
喜色を孕んだ笑い声に胸が締めつけられ、呼吸ができなくなった。逃げなければ、と無意識に足が動いた。
決意がなんだ。誇りがどうした。
ラケシスの笑顔を独占出来ないだけで、そんな志は露と消えた。
愚かなエリンは、ただ走る。周りもよく見ないで。だから、前方から歩いてくる人物に勢いよくぶつかった。
鼻頭を強打しなかったのは、その人がエリンを抱き支えてくれたからだ。でなければ、彼女は彼の纏う鮮やかな緑鎧によって顔を痛めていただろう。そして、その胸甲の色で我に帰った。
恐る恐ると顔を上げて、エリンは気まずく目を逸らした。彼女を支える男は、相変わらずの色香を漂わせる表情でこちらを見ていたからだ。
「朝から元気だな、エリン」
軽快な口振りだが、その中にどこかねっとりとした甘さが入り混じる。この声で名前を呼ばれると、エリンは居た堪れない気持ちに追い込まれてしまう。数日前までは平気だったのに。
目線を彷徨わせ、小声で謝罪する。
「すみません、アレクさん……」
「気にするな。むしろ俺のほうがお礼を言うべきだ。こんな可愛い子に抱きついてもらえるなんて、朝から気分がいい」
楽しげなアレクに対して、エリンはますます憂鬱に苛まれる。俯くエリンの頬を、あろうことかアレクは無遠慮に右手を添えた。
庭園での歌唱披露以来、アレクは以前にも増してエリンへ馴れ馴れしく接するようになっていた。その態度が怖くて、エリンは彼に目が見られないでいる。
身を震わすエリンが嬉しいのか、アレクの機嫌は良い。
「今日は、おめかししてないのか。俺はあっちのエリンが可愛くて好きだなぁ」
シルヴィアに着飾らされた日のことを言っているのだと、すぐにわかった。
少女らしい装いのエリンを気付いてくれた数少ない人物の一人がアレクだ。その場で彼は散々、可愛い可愛いと彼女を褒め称えた。
愛でるような言葉なのに、その奥にどこか不穏さを感じ取れてエリンはあまり嬉しくなかった。
褒められることに慣れていないエリンには、アレクがどれほど本気なのかもわからない。だから、どう返せばいいのかも分からず、今だって言葉に詰まっている。
男のあしらい方の知らぬエリンは、アレクの腕の中で、逃げることも拒むこともできずに、ただ硬直していた。
頬を撫でるアレクの指先は、そのままエリンの髪へと移ってゆく。しっかりと梳かれた小麦色の髪は、サラサラと彼の指にそって流れる。
「化粧もしててさ……あのカッコ、すごく俺好み」
また俺のために着飾ってくれないか、と囁かれれば、エリンは小さく悲鳴を上げた。
あれは決してアレクのために洒落込んだわけではないのに。彼はまるで自分のためのようにエリンが着飾ったとすら思い込んでそうだ。
己の自意識過剰であって欲しいとエリンは願う。アレクは揶揄っているだけなのだと、願いたい。
男の視線に熱が混じっていないことを信じたい。湿った吐息は、自分に向けられたわけではない。長い指先が耳を撫でるのも、ただの気まぐれだ。
それでも身体は強張り、エリンはアレクの腕の中で硬直してしまう。心臓が早鐘のように打ち、呼吸が浅くなる。
身を強張らせるエリンに触れたままで、アレクが提案した。
「朝食はまだか? なら、俺と一緒に城下へ行こう」
今の時間なら朝市が開いているはずだと彼は言う。
「俺が奢ってやるから……どうだ?」
声が低く柔らかく、どこか甘さも混じっている。その言葉に、エリンは思わず俯き、声を震わせて答える。
「……だ、大丈夫です。その、この間、昼食を奢ってもらいましたし」
シルヴィアと一緒にエリンが着飾った日もアレクは食事へと誘ってきたのだ。
戸惑うエリンを横に、シルヴィアはあっさりと了承した。
――せっかくだから、高くて美味しいもの食べたーい!
彼女の強かな発言も、アレクは笑って受け入れてくれた。彼に連れられて城下でそこそこ有名な食事処へと行き、ご馳走になった。
何故か道中でデューが合流してきた。盗賊の勘からか、美味しい話を嗅ぎつけたのかも知れない。アレクは見るからに嫌な顔をしていたが、結局は諦めた。
デューを含めて四人分の食事代――結構な金額をアレク一人が清算していた。
エリンが半分出すと申し出れば、アレクはあっさりと断った。
――俺が誘ったんだ。払わせてくれ。
そんな出来事があったのに、また奢られるのは正直申し訳ない。アレクを要注意人物と判断しつつも、エリンは罪悪感を彼に抱く。それのおかげで断る口実にもなった。
「だから……行かない、です」
「おいおい、遠慮するなよ。あんたと俺の仲だろう?」
どんな仲だ。
胸の内で呆れ気味なツッコミをエリンは飛ばす。